第六章:騎士の矜持、実戦の理合
六章です。
街道が途切れて久しく、進む馬車の車輪が乾いた音を立てて砂利を噛む。
ヤプールの村を離れ、風景が穏やかな農村から荒々しい岩場へと変わる頃、一行の空気は「親子のご挨拶」という名の喜劇が残した奇妙な熱を冷まし、実戦的な緊張感へと移り変わっていた。
この辺りは「嘆きの岩地」と呼ばれる、手つかずの未開の地だ。モンスターの影が岩陰に潜み、風が吹くたびに遠吠えのような音が響く。そんな過酷な環境下で、一行の先頭にいたのは、生真面目の権化のような少女騎士、アンジュだった。
彼女は愛馬の背に揺られながらも、背筋を一分の隙もなく伸ばし、その手はいかなる事態にも対応できるよう常に柄に近い位置にある。彼女の纏う銀の甲冑が、午後の強い日差しを跳ね返し、近寄りがたい威厳を放っていた。
「……納得がいきません」
アンジュが氷のような声を上げた。彼女の視線は、御者台の横で所在なげに座る僕を、物理的な圧力をもって射抜いている。
「サーガイル殿下。改めて申し上げます。この者らのガイドとしての腕、そして辺境で生き抜くための野生の勘は認めましょう。地脈を読み、魔物のナワバリを避ける嗅覚は、確かに正規の騎士団にはない、泥臭くも有用なものです。ですが――」
彼女は一度言葉を切り、アルトを指し示した。その指先には、微塵の迷いもなかった。
「この少年に『護衛』を任せるのは、近衛騎士団に身を置く者として、断じて承服しかねます。ましてや、魔法の使用を禁じられているなど言語道断。殿下、護衛とは盾であり、剣です。魔法という最大の手札を封じられた、しかも戦場を知らぬ子供に、どうやって貴方様の尊い命を守れと言うのですか?」
「まあまあ、アンジュ。そうカリカリしないでくれ。眉間に皺が寄ると、せっかくの美しい顔が台無しだよ。」
サーガイルは馬車の中で、埃を被った古い文献――羊皮紙が茶色く変色し、今にも崩れそうな代物――を捲りながら、のん気な声を出す。その瞳は、眼前の不穏な空気よりも、紙面に記された古代文字の解読に夢中なようだった。
「殿下、お世辞は結構です! 私は大真面目に騎士としての責任を説いているのです」
「わかっているよ。だが、彼らには彼らの、独特な……そう、複雑で深遠な『家庭の事情』があるんだよ。それは、ときに王国の法よりも重いものなんだ」
「事情で命が守れるなら、騎士はいりません! 私たちの職務は、不確実な『事情』を排除し、確実な『安全』を提供することです」
アンジュは馬を寄せ、アルトの目の前でぴたりと止まった。
「それに、あえてはっきり言わせていただきます」
彼女の瞳に、疑念の炎が灯る。
「この者は純粋な人種。しかし、母と名乗るあの女性は、どう見ても高位のエルフだ。耳の形、透き通るような肌の質感、そして何より内包する魔力の波長が違いすぎる。生物学的に、どう考えても血の繋がりはありません! 殿下を欺き、不確かな身分で随行するなど、不敬極まりない行為です!」
正論だった。ぐうの音も出ない正論が、秋の乾いた空気に響き渡る。
アルトは冷や汗を流しながら、隣のエルキアを盗み見た。彼女の表情は、一見すると穏やかな「慈愛の母」そのものだったが、その内側では凄まじい精神的葛藤が吹き荒れていた。
重苦しい沈黙が、荒野を支配する。風の音さえも、彼女の威圧感に気圧されて止まったかのようだった。 エルキアが、どこまでも重々しく、それでいて、見る者が本能的に逃げ出したくなるほどにこやかな笑顔を浮かべて口を開いた。
「お……夫の、愛する夫の連れ子なんです……!」
その声は、絞り出すような震えを帯びていた。感動に震えているのではない。あまりの屈辱と、存在しない夫を作り上げる虚無感、そして「母親」というロールプレイを完璧に遂行しようとする精神の軋みが、彼女の喉を締め上げていたのだ。
不意に、鉄錆のような匂いが、微かに漂った。 「敵襲か!?」 敏い感覚を持つラッシュが鼻を動かし、愛用の剣の柄に手をかける。だが、その匂いの元は、岩陰に潜む魔物ではなかった。
爪が食い込むほど握りしめられたエルキアの白皙の拳。そして、真っ白な歯で噛み締められた唇から漏れた、一筋の鮮血。
不意に漂った血の匂いに、ラッシュが敵襲を警戒して身構えた。だが、その匂いの元は――爪が食い込むほど握りしめられた拳と、つきたくもない嘘を突き通そうとして口角から一筋の血を流すエルキアだった。
(……凄まじい執念だ!)
ラッシュは背筋に走る戦慄を抑えられなかった。
(「完璧な母親」を演じるという自己暗示のために、エルフとしての数千年の矜持をドブに捨て、血を流すほどの拒絶反応に耐えながら「愛する夫」という言葉を捻り出しやがった。アンジュ、頼むからこれ以上追求するな。このエルフ、このままだとマジで精神が崩壊して憤死するぞ!)
しかし、生真面目すぎて「嘘」という概念に疎いアンジュには、その血の意味が理解できなかった。アンジュは手綱を引き、僕の目の前で馬を止めた。
「アルトと言ったな。……その腰の剣は飾りか? 私が貴殿を『護衛』として認めるに値するか、ここで証明してもらおう。馬車を降りて構えろ」
アンジュは鮮やかに馬を降り、路傍の平地に立った。彼女が足を踏み出すたびに、金属鎧がガチャリと音を立て、それが処刑人の足音のようにアルトの鼓膜に響く。
「私が貴殿を『護衛』として認めるに値するか、ここで証明してもらおう。抜きなさい。騎士の礼節をもって、私が相手をしてやる」
「ちょ、ちょっと待ってください! 僕はただのガイドのつもりで……それに、アンジュさんは正規の騎士団の方でしょう? 僕みたいな、田舎の山を走り回ってるだけの素人とやり合うなんて、それこそ騎士の誇りに傷がつくんじゃ――」
アルトが慌てて手を振るが、アンジュの瞳に冗談の色はない。彼女はゆっくりと腰の長剣を抜き放った。その刃は、まるで鏡のように磨き上げられ、アルトの困惑した顔を冷酷に映し出している。
「抜かぬなら、その鈍ごと叩き伏せるまでだ。構えろ」
凛とした空気が、道端の草を震わせる。アンジュの全身から発せられる闘気が、物理的な熱量となって周囲に伝わっていく。
「……アルト、やりなさい」
背後から、エルキアの静かな、けれど有無を言わせぬ声が響いた。彼女はいつの間にか馬車の影に立ち、ハンカチで口元の血を優雅に拭いながら、慈愛に満ちた(しかし目は一ミリも笑っていない)笑顔で息子を見つめている。
「これは良い機会だわ。あなたが魔法に頼らず、どれだけ自分の身体を律せるようになったか……お母さんに、その成長を『証明』してちょうだい? もし……もし不甲斐ない姿を見せたら、今夜は、そう……『愛の徹底再教育』の時間を作りましょうね?」」
(……お母さんって言うの、まだやめないんだ。しかも、失敗したら地獄が待ってるって確定演出が出てる……!)
アルトは一瞬天を仰いで、神がもしいるのなら自分をこの場から消し去ってほしいと願った。だが、現実から逃れる道はない。彼は覚悟を決め、オルダから譲り受けた剣を抜いた。それは装飾を一切排し、ただ「斬る」ことと「守る」ことに特化した、実戦のための一振り。使い込まれた重みが、アルトの掌に「生き残れ」という命令を伝えてくる。
「……行きます」
アルトが踏み込んだ。その第一歩は、魔法を使わぬ者としては異常なほどに速く、静かだった。
魔法を禁じられた彼の身体は、しかし、数年間に及ぶエルキアの過酷なシゴキと、オルダの「殺しの技術」によって、常人の域を遥かに超えた反応速度を身につけていた。
キンッ! と鋭い金属音が響く。
アンジュの放った鋭い一閃を、アルトは最小限の動きで受け流し、その懐へと滑り込む。
アンジュの放った一撃は、まさに教科書通り。一切の無駄がなく、最短距離を、光のような速さで駆け抜ける正々堂々としたものだった。それをアルトは、最小限の首の動きで受け流す。剣が触れ合う瞬間に、あえて力を抜き、アンジュの剣の重みを前方へといなした。
「……!? 速い……!」
アンジュの瞳に驚愕が走る。彼女の剣は「騎士道」に基づいた、正しく、美しく、力強い型だ。太陽の加護を信じ、己の正義を疑わぬ者が放つ、重戦車のような一撃一撃。対してアルトの動きは、型など存在しない。ただ「死なないため」に、そして「相手を最短で無力化するため」だけに最適化された、泥臭いまでの合理性。重力すらも味方につけるような、流動的な動き。
アンジュが二の太刀を繰り出す。上段からの猛撃。大気を切り裂く風切り音が、アルトの頬を掠める。 アルトはそれを真っ向から受けず、半身でかわしながら、彼女の死角――脇の下を潜り抜けるようにして、懐へと滑り込んだ。
その瞬間、アルトの全身に熱が宿る。
(マナが――)
一瞬、あの日と同じ「深淵」が脳裏をかすめた。魔法剣士として無意識に練り上げた力が集まりかけた、その刹那。
「アルト?」
エルキアの、鈴を転がすような、けれど心臓を凍らせるほど冷徹な声が聞こえた。
「っ……!」
アルトは強引に練りかけた魔力を霧散させた。制御を失ったエネルギーが体内で逆流し、内臓を直接叩かれたような激痛が走る。だが、彼は止まらない。ここで魔法を使えば、アンジュを殺してしまうか、あるいはエルキアによって「教育」という名の終焉を迎えさせられる。
魔力を使えないのなら、物理的な衝撃で終わらせる。 彼は剣を空中で反転させ、刃ではなく「柄頭」を、アンジュの籠手の継ぎ目――神経が集まる一点へと正確に叩き込んだ。
カラン――。
乾いた音を立てて、アンジュの愛用する長剣が砂利の上に落ち、跳ねる。 静寂が、荒野を支配した。
アンジュは自分の痺れた右手を呆然と見つめ、それから目の前で肩を上下させ、嫌な汗を流しながら立つ少年を見据えた。彼女の額にも、一筋の汗が流れている。
「……魔法は、使っていないようだな」
「……約束、ですから」
アルトは震える手で剣を鞘に収めた。内側から溢れ出そうになった「力」を、エルキアの威圧感という「絶対的な恐怖」で無理やり抑え込んだ代償は大きく、全身の筋肉が断線したかのように震えていた。
「失礼した。貴殿の技、確かに見届けた」
アンジュは深く、長く息を吐き、自らの剣を拾い上げた。その表情には、先ほどまでの侮蔑も疑念もない。代わりに宿っていたのは、武人としての深い敬意だった。
「魔法を使わず、純粋な身体能力と練り上げられた理合だけで、この私から得物を落とすとは……。アルト殿。貴殿は一体、どのような過酷な地獄を潜り抜けてきたのだ? その動き、ただの修練では辿り着けぬ域だ」
アンジュの真っ直ぐすぎる問いに、アルトは答える言葉を持たなかった。 隣でラッシュが「地獄なら、あそこの『美しきお母さま』が、毎日朝昼晩の三食フルコースで用意してくれてるぜ。俺なら三日で発狂するね」と、死んだ魚のような目で小声で茶化している。
サーガイルが馬車から飛び出してきて、感極まったように拍手を送った。彼は僕の体調やアンジュの敗北を気にする様子もなく、ただ純粋な「見学」を終えた観客のような顔をしている。
「素晴らしい! 見事だ! 歴史に残すべき演武だよ、これは! アンジュ、君の剣もまさに騎士団の伝統を感じさせる力強さだったが、アルト君のあの脱力……あれは、古代の文献に記された『水月の理』に通じるものがあるね。実に、実に学術的好奇心を刺激される!」
「……殿下。今の私の不覚、なんと申し上げてよいか……」
項垂れていたアンジュの肩が、不意に静止した。そして、溜め込まれた感情が時限爆弾のように弾ける。
「……いいえ。言い訳は無用。相手の力量も図れず、慢心し、挙句に近衛騎士(見習い)の名に泥を塗った。この失態、万死に値します。もはや、生きて殿下にお仕えする顔がありません!」
「え?」
「さあ、アルト殿! 私の介錯を! 騎士道とは死ぬことと見つけたり! ここで果てることこそ、我が誇りを守り、我が家系の汚名を雪ぐ唯一の道です! さあ、一思いに!」
「ええええええーーーーー!? なんでそうなるんですか!?」
目の前で、跪き、潔くうなじを差し出す少女騎士。その瞳は澄み渡り、まるで神の御許へ行くことを確信しているかのようだ。アルトは猛烈な既視感に襲われた。
(……やっぱり騎士様は、本当に自ら命を絶とうとするのか!?)
つい先刻、母さんの暴走に突っ伏して「死にたい」と願った自分の姿が脳裏をよぎる。まさか、比喩ではなく本気で「死」を口にする手合いが実在するとは。
僕はブンブンと両手を振り、全力でその『事実』を拒絶した。
「待って、待ってくださいアンジュさん! 命を落とすほどのことじゃないですから! ほら、これは伝統的な……その、稽古の一環です!」
「……騎士道は死ぬことと見つけたり!」
「それ、絶対口癖にしたらダメなやつです!」
一向に引かないアンジュを必死に宥める僕を、サーガイルは満足げな拍手で締めくくった。
「素晴らしい! 身体能力による空間把握、そして一切の虚飾を廃した実戦剣術……! 素晴らしいよ、アルト君。それにアンジュ、気にするな。君の潔い死生観も、いい具合にこれから始まる壮大な調査の『前奏曲』になってくれた。」
(……前奏曲、だと? 下手すりゃの痣の一つや二つできるようなやり取りを、ただの導入部だと思ったのか、聞きしに勝る変人っぷりだな)
ラッシュは相手が王子でなければ、迷わずそう口走っていただろう。
項垂れるアンジュを、軽く手で制しながらもサーガイルは止まらない。
「アンジュ。君とアルト君の決闘を見ることができて、アルト君の護衛としての信頼性も証明された。これで、後顧の憂いも無く調査ができるというものだよ……『考古(後顧)』学なだけにね」
「…………」
その瞬間、吹き抜ける風の音がやけに大きく聞こえた。 今しがたまで命懸けの決闘を繰り広げていたアルトとアンジュ、そして吐血しながら母親を演じきったエルキア、さらに呆れ果てたラッシュの視線が、一斉に王子へと注がれる。
「……殿下。今のご冗談、石碑の前では口にしないよう切に願います。古代の英霊が眠る地が、寒さで凍りつきかねません」
アンジュが冷めた声を出し、剣を鞘に収めた。ラッシュに至っては「考古学者のジョークってのは、遺跡よりも風化してやがるな」と耳を掻いている。
「おや、厳しいな。では行こうか。歴史の真実が、僕たちを待っている」
王子の無邪気な号令で、一行は再び動き出した。
アンジュは、先ほどまでの敵意を「武人としての敬意」に塗り替え、アルトの隣を歩き始める。
だが、アルトの視線は、ずっと自分の右手に落ちていた。
あの一瞬、自分は確かに無自覚に魔力を高めようとしていた。
エルキアだけが、それを知っていた。
彼女は馬車の影からしなやかに歩み寄り、アルトの隣に並んだ。そして、誰にも見えない角度で、そっとその震える手を握りしめた。
「……よく耐えましたね、アルト」
その声は、もはや「母親の演技」ではなく、かつて生命の泉で、死にゆく彼を救い上げた時と同じ、静かで温かな響きを持っていた。
「ええ。よくできました。ご褒美に、今夜のキャンプ飯は奮発してあげましょう。……その代わり、これからも『魔法』だけは、私との約束を忘れないで。それは、あなたを守るための……そして、世界を壊さないための鎖なのですから」
彼女の瞳の奥に宿る、深い、深い祈りのような色。 アルトはそれを「過保護すぎる愛」だと信じ、エルキアはそれを「か細い封印」だと自覚していた。
六章読んでいただきありがとうございます。まだまだストックありますのでお付き合いいただけますと幸いです。




