第五章:王子と聖母(?)の挨拶
ヤプールの村外れ。そこは本来、厳しい冬を前に、村人たちが薪を割り、黄金色の干し草を積み上げる、土の匂いに満ちた安息の地であるはずだった。しかしその日の風景は、王都から現れた「異物」によって、暴力的なまでに塗り潰されていた。
霜が降り始めた冷たい土を無慈悲に踏みしめるのは、農耕馬の鈍重な足音ではない。王都直轄軍の精鋭が駆る、漆黒の軍馬の鋭く規則正しい蹄の音だ。白と銀の刺繍が施された軍旗が、冬の乾いた風に激しく翻り、冷徹な陽光を反射する甲冑の擦れる音が、周囲の森に潜む小動物たちを一瞬で沈黙させた。
王族の威光。それは「外の世界」の重圧そのものとなり、物理的な熱量を持ってアルトたちの前に立ちはだかっていた。
その物々しい一団を迎え撃つべく、アルトの横に並んだエルキアの姿を見て、相棒のラッシュは喉の奥で「ヒッ」と引きつったような音を漏らした。
(……おいおい、冗談だろ。どこのエルフの国の王妃様が迷い込んできたんだよ。いつもの『パン粉まみれのお節介な保護者』はどこに埋めてきたんだ?)
いつもならパンの粉とスープの染みがついているはずの使い古された木綿のエプロンは消え、今や彼女は、オルダが地下倉庫の奥から引っ張り出してきた「禁じられた贅」を身に纏っている。月の光をそのまま紡いで織り上げたような、極細の銀糸で構成されたドレス。一歩歩くたびに微かな燐光を放つその布地は、彼女の冷徹なまでに整った美貌を際立たせ、見る者を本能的に平伏させるような神聖さ――あるいは「畏怖」すら漂わせている。
それはもはや、村娘という仮面を脱ぎ捨て、外界を圧倒し、跪かせるために召喚された「聖女」の武装そのものだった。
そんな、極限まで張り詰めた緊張感を、一瞬で「変人のペース」に引き込んだのは、豪華な装飾が施された馬車から降り立った青年の、あまりにも間の抜けた感嘆の声だった。
「……あー、君たちがギルド……ではなく、我が師オートン先生が手配してくれた現地のガイドかな? 」
「はい!この度ガイドと護衛を務めさせていただくラッシュです! こっちは相棒のアルト。この辺りの地形なら、俺たちの右に出る者はいませんよ!」
ラッシュが努めて快活に振る舞う横で、アルトは極力影を薄くしようとしていた。理由はただ一つ。背後に控える、気合の入りすぎた「母親」の存在だ。
その青年――サーガイル・フォン・アルブール。アルブール王国の王位継承序列三位の王子。歳は25歳。汚れ一つない上質な麻のシャツに、ほとんど使い込まれた形跡のない新品の革ベスト。王族の身分を隠すべく、あえて地味な旅装を選んだつもりなのだろうが、その指先の滑らかさ、背筋の優雅な伸び方、そして何より分厚い眼鏡の奥に宿る「守られて育った者」特有の無垢な好奇心が、隠しきれない育ちの良さを饒舌に物語っている。
彼は周囲を威圧する兵士たちなど視界に入っていないかのように、目を輝かせながら手帳を広げた。
「ふむ、若いが良い面構えだ。私はサーガイル。このアルブール王国の第三王子だが、ここではただの考古学徒だと思ってくれて構わない。敬語も、形式的な礼も不要だ。学問の探究の前では、王も平民もただの『観測者』に過ぎないからね」
王子は気さくに右手を差し出してきた。王族としての威厳よりも、未知の知見を求める探求者の軽やかさが勝っている。良くも悪くも、彼は「権力」ではなく「真理」を愛でるタイプであり、同時に「空気を読む」という概念を王都のどこかに置き忘れてきた人種であることは明白だった。
「……近衛騎士見習い、アンジュ・ド・ヴァランシィです。王子の身辺警護を任されています」
王子の隣に控える、まだ十代半ばに見えるか細い少女騎士が、一歩前へ踏み出した。 彼女が纏う白銀の全身鎧は、秋の柔らかな陽光を眩いほどに反射している。しかし、その鏡面のごとき表面には、森の枝に擦れた傷一つなく、可動部のオイルは今しがた注したばかりのように瑞々しく輝いている。
戦場の泥も、火薬の硝煙も、あるいは肉を断つ抵抗すらも知らないその鎧の輝きは、彼女の忠誠心がまだ誰の血にも汚されていない、残酷なまでの「未熟」であることを突きつけていた。
「不審な動き、あるいは殿下への不敬があれば、この剣にかけて容赦はしません。……特に、そこの大きな犬の方」
アンジュは、ラッシュを鋭い目付きで睨みつけた。
「……俺は犬じゃねえ、誇り高きワーウルフだ」
ラッシュが不満げに鼻を鳴らすが、彼女の視線は冷徹そのものだった。
「では、早速出発の準備を――」
サーガイルが旅の始まりを告げようとしたその時だった。
「お待ちください、サーガイル殿下」
澄み渡るような、しかし有無を言わせぬ絶対的な「圧」を持った声が響き、エルキアが静かに、だが確実な足取りで一歩前へ出た。銀糸のドレスが、空気の振動に合わせてシャラリと、まるで鈴を鳴らすような音を立てる。
「おや、そちらの美しいレディは? 彼女もガイドかな?」
サーガイルが興味深げに身を乗り出した。僕は心の中で(頼む、何も言わないでくれ……!)と絶叫したが、祈りが届くことはなかった。
エルキアは、王都の最高位貴族ですら見惚れるほどに優雅な、非の打ち所がないカーテシーを披露した。そして、慈愛に満ちた(しかし瞳の奥だけは絶対零度の)微笑みを浮かべた。
「初めまして、サーガイル様。私はアルトの母、エルキアと申します。本日は、大切なわが子を貴方様のような高潔な御方に預けるにあたり、一筆……いえ、一言ご挨拶に伺いました」
「……はあ。ご丁寧にどうも」
サーガイルが困惑の表情を浮かべる。背後の騎士アンジュも、不審者を見るような目で剣の柄に手をかけた。
「アルトは、見た目以上に繊細で、少々手のかかる子でございます。夜は冷えますので、お布団が蹴飛ばされていないか時折見てやってくださいませ。あ、それから、ニンジンが苦手ですが、細かく刻んでシチューに入れれば食べますわ。皮を剥くのも忘れないでくださいね。あと、あまり夜更かしをさせないでください。お肌に障りますし、成長期ですから。それから、もし変な悪い虫がつくようなら、お教えください。……私が直接、根絶やしにしますから」
「………………」
サーガイルの時が止まり、アンジュの眉間には、かつてないほど深いシワが刻まれる。
ラッシュは空を見上げ、必死に「自分は通りすがりのワーウルフです」という顔をしている。
何度も矯正した甲斐も無く、「エルキ・・・」と言いかける前にエルキアの鋭い視線を感じ、慌てて言い直す。
「か、母さん! もういいから! 王子、すみません、これはその……うちの地方の伝統的な儀式でして!」
僕は顔から火が出るほどの思いでエルキアの肩を押し、無理やりサーガイルから引き離そうとする。
「伝統的な……儀式? ほう! 実に興味深い。母性愛が土着の信仰と結びつき、独自の送別の典礼として昇華されているのか。家庭教育の在り方がそのまま学術的な観察対象になるとは……ヤプール村の民俗学、実に奥が深い!」
意外にも、サーガイルは手帳を取り出して猛烈な勢いで筆を走らせ始めた。この王子の「変人」っぷりだけが、この場の崩壊を辛うじて繋ぎ止めていた。
「では王子、アルトをよろしくお願いいたします。あ、万が一、この子が何か『いけないこと』……そう、例えば『魔法』を使おうとする素振りを見せたら、遠慮なく、厳しく叱ってくださいませ。……私が後で、たっぷりとお仕置きをしますので」
最後の一言だけ、エルキアの瞳に氷のような魔力が宿ったのを、僕は見逃さない。それは「魔法を使ったらどうなるか分かっているわね?」という、僕への直接的な脅迫だった。
「あ、ああ。わかった。お母上、君の愛は十分に伝わったよ。アルト君、君の健康と食事、そして『魔法禁止』については、僕が責任を持って管理しよう」
サーガイルが、妙に納得した顔で頷く。
(……騎士だったら、自ら命を絶つ状況だな…)
僕は地面に突っ伏したい衝動を抑え、隣でプルプルと肩を震わせて笑いを堪えているラッシュの脇腹を、思い切り肘で小突く。
「……ところで、お母上。もしよろしければ、貴女もご一緒しませんか? 旅や考古学調査は人が多いほど楽しいものですし、何より、その独特な民俗学的知見について詳しく聞き及ばねばならない。私は、君という存在に非常に興味があるんだ」
サーガイルが、最悪にして最高に無邪気な提案を口にした。
「はい! ぜひ! すぐに支度をして参りますわ!」 エルキアの返答は、光の速さだった。 彼女は疾風のような速さで村へ戻ったかと思うと、一瞬で旅装(といっても、妙に仕立ての良い、それでいて動きやすい冒険者風の服)に着替え、最小限かつ完璧なパッキングの荷物を背負って戻ってきた。
(えええええぇぇぇ!!)
アルトとラッシュの声にならない絶叫が冬の空に木霊する。 本来、『母』を村に残して「翼」を広げるはずだった自由な旅は、開始数分で『母同伴』という、ある意味どんな魔王の迷宮よりも難易度の高い、そして胃に悪いミッションへと変貌を遂げた。
(これからしばらく「母親のフリ」を続けないといけないなんて…)
アルトは遠い目をして、ヤプールの村の入り口を振り返った。そこにはオルダが呆れた顔で手を振っており、足元では村の猫たちが、まるで「頑張れよ、生贄」とでも言うように欠伸をしていた。
こうして、伝説の(恥ずかしい)挨拶を終え、アルトたちの調査旅行は始まったのである。
エルキアは「同行者(助手)」としてパーティに加わり、アンジュの厳しい視線を浴びながらも、あらあら、可愛い騎士様ね。お肌が荒れているわよ?」と涼しい顔で受け流しながら、軽やかに歩を進める。
目指すは、教団の聖域にも近いという謎の古石碑群。
僕の平穏な「庭園」の外側には、歴史に埋もれた真実の欠片が転がっていることなど想像もしていなかった。
五章を読んでいただきありがとうございます。実は、ここでやらかしています。ミドルネームです。勢いでそのままですが、その内直すかもしれません。




