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ンードラロギア  作者: ああああ


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第四十一章:献身の搾取、あるいは聖母の毒杯

四十一章です。

季節は盛夏を過ぎてもなお、屋敷の中には湿った熱が澱んでいた。

エネアウラは、自らの持つ薬草の知識を総動員していた。エルキアの虚ろな瞳に、かつての理知の光を灯したい。その一心で、精神を鎮め、混濁した意識を整える薬草を調合し、寝室には常に、神経を安らげる微かな香を焚き込めていた。


その甲斐あってか、エルキアに変化が現れ始める。

ある日の夕刻、台所で立ち働くエネアウラの背中を、エルキアがじっと見つめていた。そして、吸い寄せられるように隣に立ち、おずおずと包丁を手に取ったのだ。


「……こうしていた気がするの。誰かのために、何かを作っていた……」


野菜を刻む規則正しい音が、エルキアの記憶の澱を静かにかき混ぜる。

「そうよ、エルキア。思い出して」

エネアウラは微笑んだ。だが、その微笑みの裏側で、冷たい予感が心臓を撫でる。

エルキアが思い出し始めたのは、かつての「英雄」としての誇りではない。誰かを慈しみ、誰かのために食事を用意していた、あの「保護者」としての自分だった。



二ヶ月が経過し、オルダとの定期報告の場。

エネアウラは、エルキアが少しずつ「アルト」という存在の輪郭を思い出しつつあることを告げた。彼女の心が形を取り戻しつつある今、そろそろ外の世界の光に当てても良いのではないか。そう提案するエネアウラの声は、どこか震えていた。


だが、オルダの答えは氷のように冷淡だった。


「却下だ。エルキアを外に出すことはできん」


「……なぜですか? 彼女は確実に回復しています」


「一度壊れた精神が、どのきっかけで暴走するか分からん。あの夜の惨劇を忘れたか? 今の彼女が制御を失えば、手がつけられない災厄になる。……『月の蝕』を控え、彼女が戦力外となるのは痛手だが、やむを得ない。今はその家で、生かしておくだけで十分だ」


オルダの言葉は、指揮官としての冷徹な正義だった。

しかし、すでにエルキアと肌を重ね、彼女の震えを自分の体温で吸い取ってきたエネアウラにとって、その正論は耐え難い侮辱として響いた。


(生かしておくだけ……? 戦力として価値がないから、閉じ込めておけというの?)


エネアウラの脳内で、オルダの言葉が醜く歪んで増幅される。

誰もエルキアを見ていない。誰も、この壊れやすく美しい彼女の痛みを知ろうとしない。

彼女を「一人の女」として、その魂の欠片を拾い集めているのは、世界中で自分だけだという傲慢な自負が、どす黒い使命感へと変貌していく。


(……エルキア様を守れるのは、私だけ。あんな男たちに、彼女を返してなるものか)


帰り道、エネアウラの足取りは重く、視界は赤黒く濁っていた。

抑圧してきた劣等感と、彼女を独占したいという狂気が、夏の熱気に煽られて爆発の瞬間を待っていた。


屋敷に帰ると、鼻を突いたのは懐かしくも忌まわしい匂いだった。

エルキアが、台所でスープを煮込んでいた。

それはかつて、彼女がアルトのために何度も作り、その少年が最も気に入っていた家庭的なスープの匂い。


「エネアウラ、おかえりなさい。……思い出したの。私、あの子にこれを食べさせてあげなきゃ」


味見をしたエルキアの瞳に、激しい光が宿っていた。それは正気ではなく、強迫観念に近い輝きだ。

彼女は自分の腕を掻きむしりながら、必死に訴える。


「あの子が待っているわ。私がそばにいないと、あの子はまた独りになってしまう。エネアウラ、お願い。私をあの子のところへ行かせて。……無理なら、親友としてのお願いよ。私の代わりに、アルトを守ってあげて……!」


(……まだ、そんなことを言うの?)


せっかく塗りつぶしたはずの器から、またアルトという「汚れ」が溢れ出そうとしている。

エルキアを壊したのは、その「保護者」という役割そのものではなかったか。あの子のために自分を押し殺し、完璧を演じ続けたから、彼女はあんな無惨な姿になったのではないか。


「……いい加減にして」


エネアウラの声は、地を這うように低かった。

目の前で、再び自分を捨てて破滅へと向かおうとするエルキア。

自分だけが彼女を大切にし、自分だけが彼女のすべてを許してきたというのに、彼女はまだ、自分を壊した世界へ戻ろうとするのか。


「あの子があなたを壊したのよ、エルキア。あの子を守るために、あなたは自分を殺し続けた。……誰も、あなたを大切にしない。あの少年も、オルダ様も、この世界も! あなたを『一人の女』として、こんなに強く、正しく求めているのは私だけなのに……!」


エネアウラは一歩、また一歩と詰め寄る。エルキアの肩を掴む指先には、骨がきしむほどの力がこもっていた。

拒絶される恐怖。独占したいという狂気。そして、自分を差し置いて「あの子」を優先する親友への、どす黒い愛憎。


しかし、エネアウラは踏みとどまった。

ここで彼女を力ずくで押さえつければ、それはオルダの言う「監禁」と同じになってしまう。


(……いいえ、そうじゃない。あなたのその『与えたい』という献身も、慈しみも、すべて私が飲み干してあげればいいのね)


エネアウラは深く息を吐き、歪みかけた表情を、聖母のような穏やかな微笑みへと強制的に書き換えた。彼女はエルキアの頬を優しく撫で、その熱を吸い取るように囁く。


「……そうね。あの子はきっと待っているわ。いつか、あの子が立派になって、あなたを迎えに来る日が来る。それまでの間は、ここで力を蓄えましょう? ……ねえ、そのスープ。私がいただいてもいいかしら?」


「え……? エネアウラが?」


虚を突かれたように、エルキアの動きが止まる。


「ええ。あなたが誰かのために作りたいというその気持ち、まずは私に預けて。……私が、あなたのすべてを受け止めてあげるから」


差し出された木匙から、エネアウラはスープを口にした。

舌を焼くような熱さと、アルトへの愛情が溶け込んだ残酷なまでの甘み。それを喉の奥へと流し込み、エネアウラは確信した。


こうして、彼女が外部へ向けようとする感情のすべてを、自分が代わりに消費していけばいい。

「保護者」としての彼女の空腹を、自分が「受取人」となることで満たし続ける。そうすれば、彼女がこの箱庭の外を向く必要はなくなるのだ。


「……美味しいわ、エルキア。とても、温かい」


「よかった……。嬉しいわ、エネアウラにそう言ってもらえるなんて」


エルキアの表情から険が取れ、再びあの無垢で依存的な少女の顔に戻る。自分を見つめるその瞳を、エネアウラは陶酔の表情で見つめ返した。


「さあ、冷えないうちに全部飲んでしまうわ。それから、お約束通りお風呂にしましょうね」


エネアウラはエルキアの手を引き、薄暗い湯殿へと誘う。

立ち上る白濁した湯気が、二人を外界から完全に切り離していく。


狭い木製の湯桶の中で、二人の肌は逃れようもなく密着していた。

立ち上る白濁した湯気が、視界を白く塗り潰し、外の世界との境界線を曖昧にしていく。


エネアウラは、腕の中で小刻みに震えるエルキアの肩を抱き寄せた。

彼女の心はいま、思い出した「アルトへのスープ」と、その献身を向けるべき対象が不在であるという矛盾の間で、悲鳴を上げている。


「……ねえ、エルキア」


エネアウラは、わざと重苦しい溜息を吐き、自分の肩をさすってみせた。


「最近、あなたを支えてばかりいたせいかしら。肩が……石のように凝ってしまって、少し痛いの。調合で重い乳鉢を振るいすぎたのかもしれないわね」


その言葉に、エルキアの虚ろな瞳が微かに揺れた。

「あの子に何かしてあげなければ」という強迫観念で溢れかえっていた彼女の「器」に、新しい、そして目の前にある「役割」が提示されたのだ。


「エネアウラ、痛むの……? 私が、何かできることはないかしら」


「そうね……。あなたがその手で、私を癒してくれたら……少しは楽になれるかもしれないわ」


エルキアは、吸い寄せられるようにエネアウラの背後に回った。

かつて剣を握り、数多の魔を屠ったその指先が、おずおずとエネアウラの湿った肩に触れる。


「……こう、かしら?」


ぎこちなく、けれど懸命に力を込めるエルキア。

エネアウラは心地よさそうに目を細めた。


「ええ……上手よ、エルキア。ああ、そこ……。誰かに触れてもらうのが、こんなに気持ちいいなんて知らなかったわ」


エネアウラは、大袈裟なほどに悦びに浸る声を出す。

それはエルキアへの賞賛であると同時に、彼女の存在理由を「エネアウラを満足させること」へと固定するための甘い鎖だった。


エルキアの指先に力がこもる。

「誰かの役に立っている」という実感が、彼女の空っぽだった心を偽りの充足感で満たしていく。アルトのために注がれるはずだった献身が、エネアウラの肌を通じて、どす黒く、けれど甘美な快楽へと変換されて吸い取られていく。


「私……エネアウラを楽にしてあげられるのね。私でも、あなたの助けになれるのね……?」


「そうよ。あなたは私だけを見ていればいいの。……あの子のことなんて、もう考えなくていい。あなたが尽くすべき相手は、今、ここにいるでしょう?」


エネアウラは、背後で自分を必死にマッサージするエルキアの手を掴み、その指先にそっと唇を寄せた。


「嬉しいわ、エルキア。もっと……もっと私をあなたの色で染めて。あなたが私にしてくれることだけが、今の私の救いなの」


エルキアの瞳から、アルトを追う焦燥が消えていく。

代わりに宿ったのは、自分を必要としてくれる唯一の存在――エネアウラに対する、盲目的な悦びだった。


かつて戦場を駆けたエルフの矜持は、もはや湯気の中に溶けて消えていた。

今、この狭い桶の中にいるのは、友人の肩の凝りを解すことに存在意義のすべてを見出した、無垢で壊れた「愛玩動物」に過ぎない。


窓の外では、夏の終わりを告げる雨が、すべてを洗い流すように降り続いていた。

けれど、この密閉された空間には、雨の音も、あの日アルトを傷つけた記憶も届かない。


ただ、一滴ずつ、エネアウラという「毒」が、エルキアという「器」を塗り替えていく。

献身という名の搾取。

二人の時間は、静かに、けれど決定的に、逃れようのない飽和の極致へと向かっていた。


四十一章読んでいただきありがとうございます。

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