第四十章:飽和していく肌温
四十章です。
家の中では、奇妙なほどに穏やかな時間が流れていた。
エルキアは少しずつ、言葉を交わすようになっている。しかし、その意識の輪郭は、この四方の壁の内側から一歩も外へ出ようとはしなかった。扉の向こうに広がる世界など、最初から存在しなかったかのように、彼女の記憶からは外界の色彩が欠落している。
朝、眩しい光の中で、エネアウラは鏡に向かって髪を整えながら、隣に座るエルキアにわざとらしく溜息をついて見せた。
「生まれ変わるなら、エルフに生まれたいわ。少しの水と光だけで生きていけるなんて、ずるいわよ。いつまでも時を止めたように美しいままだなんて……私たち亜人種は、美しさを保つのも一苦労なんだから」
恨めしそうなエネアウラの視線に、エルキアは力なく、けれど穏やかな微笑を浮かべる。その瞳にはまだ深い霧が立ち込めているが、隣にいるエネアウラの存在だけが、彼女を現世に繋ぎ止める細い糸となっていた。
「私は、エネアウラのその金色の髪が羨ましいわ。陽の光をそのまま編み込んだみたいで……。それに、胸だって私より豊かなんですもの。ないものねだりね、お互いに」
「あら、それはエルフの基準が厳しすぎるだけよ」
他愛のない会話。かつての親友としての距離感が戻ってきたかのような錯覚。
だが、その平穏の裏側で、二人は毎夜、肌を重ねて体温を分け合っていた。冷え切ったエルキアの心を温めるために、エネアウラは自らの身を焼き尽くさんばかりに抱きしめ、エルキアはその熱を貪るように、縋り付いて眠る。それは再生への歩みというよりは、二人で底なしの沼に沈んでいくような、甘美で危うい共依存だった。
「……それじゃあ、少し食べ物を買ってくるから。お留守番、よろしくね」
「はーい。大人しく待っているわ。……帰ってきたら、また一緒にお風呂に入りましょうね」
見送るエルキアの、少女のように無垢な笑顔。エネアウラは胸を締め付けられるような思いで手を振り返し、そっと扉を閉めて施錠した。カチリ、という金属音が、彼女を「ただの女」から「現実を生きる亜人」へと引き戻す。
身を翻し、エネアウラは待ち合わせ場所へと急いだ。
指定されたのは、人通りの少ない裏通りの一角。そこに立つオルダの背中には、彼もまたこの三日間、眠れぬ夜を過ごしたであろう疲労が滲んでいた。
「お待たせいたしまして申し訳ございません、オルダ様」
「いや、急に呼び出してすまない。面倒をかけているな……。エルキアの様子はどうだ?」
エネアウラは、嵐の夜に見た「亡霊」のような彼女の姿から、今朝の穏やかな、けれどどこか空虚な会話までを、言葉を選びながら伝えた。対するオルダもまた、アルトの現状を語り始める。二つのパズルの破片が合わさるたびに、あの夜、あの雨の中で何が起きたのか、その無惨な全容が浮かび上がってくる。
「……申し訳ございません。私が彼女を焚きつけてしまったばかりに、アルト君にあれほど酷な思いを……」
「それを頼んだのは俺だ、エネアウラ。お前が責める必要はない。むしろ、お前がいてくれて助かった。アルトの方は心配いらん。舌も噛み切られたわけではないからな……。『母親の蒸発』と『大失恋』、二つのショックで塞ぎ込んではいるが、周りが支えている。あいつの傷は、時が癒やすだろう」
オルダはそこで言葉を切り、鋭い眼差しをエネアウラに向けた。
「問題は……エルキアだ。あいつを支えられるのは、今、お前しかいない。聞く限りでは、人格そのものが壊れ、別の『器』へと逃げ込んだようだな」
「はい……。今のこの、閉じられた関係をいつまで続ければ良いのか…彼女が、かつての凛とした自分を取り戻せる日が来るのか、私にはわかりません……」
重苦しい沈黙が二人を包む。オルダは深く溜息をつき、残酷な真実を口にした。
「エネアウラ……こぼれた水は、もう元には戻らないんだ。あの高潔なエルキアは、あの夜に死んだ」
「……っ」
「これからは、その空になった『器』をお前が満たしていくしかない。彼女という存在を、お前という水で塗り替えていくんだ」
(私が……エルキア様を……満たす!?)
その言葉の重みに、エネアウラは眩暈を感じた。憧れ、崇拝し、足元に跪くことしかできなかったあの「完璧な女神」を、自分が一から作り直し、依存させ、飼い殺すような真似ができるだろうか。
「……はい」
絞り出すような返事。オルダは彼女の肩を軽く叩き、支援を約束して去っていった。
別れた後、エネアウラは機械的な足取りで食料を買い込んだ。
買い物袋の重みが、オルダから託された責任の重さと重なる。
(無理よ……。私なんかに、エルキア様を『満たす』なんて、そんな大層なことできるわけがない……!)
自分はただ、彼女を失いたくなくて、その熱に触れていたいだけの、卑小な亜人に過ぎない。
それなのに、現実は彼女をかつての「英雄」に戻すことを諦め、エネアウラの所有物として生き永らえさせる道を示している。
(……今は、考えるのはやめよう。ただ、彼女に向き合うことだけを……)
首を振り、エネアウラは家路を急いだ。
あの閉じられた、熱い湿り気を帯びた箱庭へ。
そこには、自分がいなければ息をすることさえ忘れてしまう、美しく壊れた人形が待っている。
「ただいま、エルキア」
鍵を開け、一歩足を踏み入れた瞬間に押し寄せるのは、外の夏の乾いた空気とは断絶された、あの濃密な「家の匂い」だった。石鹸の香りと、わずかな汗の熱、そして二人きりの時間が醸成した閉鎖的な静寂。
「おかえりなさい、エネアウラ。寂しかったわ」
玄関まで迎えに出たエルキアは、まるで主に忠実な愛玩動物のように、迷いなく私の胸に顔を寄せた。その動作には、かつて軍を率いた英雄の気高さなど微塵もない。私がいなければ、世界は消滅してしまうと信じ込んでいる幼子の危うさだけがある。
「ごめんなさい、少し手間取ってしまって。さあ、約束通りお風呂にしましょうか」
私は彼女の細い肩に手を添え、脱衣所へと促す。彼女の歩幅は驚くほど小さく、私がいなければ、自分の足元すら見失ってしまいそうな危うさだった。
大きな木製の湯桶には、魔法で沸かした適温の湯が満たされていた。何もできなかったエルキアが自ら魔法で準備していたのだ。
立ち上る白濁した湯気が、視界を白く塗り潰していく。服を脱ぎ捨て、私たちは静かにその温もりの中へと身を沈めた。
狭い桶の中で、私の肌とエルキアの肌が、逃れようもなく触れ合う。
しかし、そこにあるのは熱情ではない。死にゆく者に自らの体温を移し、命の灯を繋ぎ止めるような、必死で無機質な作業だ。
「ねえ、エネアウラ……。私、こうしていると、自分が誰だったか忘れそうになるの。……思い出そうとすると、頭の奥で雨の音がして、何も見えなくなる」
エルキアが私の肩に額を預け、掠れた声で呟いた。
彼女の銀髪が濡れて私の鎖骨にまとわりつく。かつての彼女なら、こんなに無防備に他人に体重を預けることなど、決してなかったはずだ。
「忘れてもいいのよ、今は。無理に思い出して、またあの夜の寒さに戻る必要なんてないわ」
私は彼女の背中に布を当て、ゆっくりとなぞる。
オルダの言葉が、私の心臓を冷たく叩いた。
『その器をお前が満たすしかない』
(私が、この空っぽになった英雄の残骸を、私という水で満たしていく……)
それは、彼女を「生かす」ための唯一の手段であると同時に、彼女から「自立」を奪う行為でもあった。彼女がかつての凛とした美しさを取り戻せば、彼女は私の元を去り、またアルトや過去に向き合わねばならなくなる。ならば、このまま何も思い出さず、私の腕の中で震えている方が、彼女にとっては幸せなのではないか。
そんな歪んだ確信が、私の胸の内で黒い毒のように広がっていく。
「エネアウラ……あなたがいなくなったら、私はどうすればいいの? 私、もう、一人では立ち上がり方もわからないみたい」
エルキアの指が、私の腕を強く、痛いほどに掴んだ。
それは愛情などという柔らかなものではなく、溺れる者が浮木に食らいつくような、凄惨なまでの「依存」だった。
「どこへも行かないわ。この家で、ずっと私があなたを見ていてあげる。……外の世界のことなんて、もう考えなくていいの」
「……ええ。わかったわ……。そうね……」
彼女は力なく頷き、私の胸元に顔を埋めた。
彼女の吐息が私の肌を温めるたびに、私は自分の存在意義を確認する。
完璧だった彼女を壊したのは私で、その破片を拾い集めて繋ぎ合わせているのも、私だ。
窓の外では、世界は残酷なほど正常に動いている。
けれど、この密閉された湯気の中に、世界も、未来も、存在しない。
ただ、冷え切った魂を私の熱で包み込み、形を保たせているだけの、静かな、けれど逃れようのない監禁の時間が流れていた。
四十章読んでいただきありがとうございます。外界とのつながりが減ったことと、境界線が溶けていくことで、エネアウラが臨界を迎える瞬間がすぐそこまできています。(次章、本当はマルチエンディングの一つだったのですが、正史ルートに組み込んでみたいと思います。)




