第三十八章:銀灰の残滓
三十八章です。
窓の外では、夏の重苦しい湿気を孕んだ豪雨が、叩きつけるような音を立てていた。
屋根や石畳を打つ雨音は、どこか獣の咆哮に似ている。私は一人、明かりを落としたリビングで、沈滞した空気の中に座り込んでいた。
数時間前、親友であるエルキアに投げつけた言葉が、呪いのように私の耳の奥で反芻される。
「真実を話しなさい、エルキア」
それは彼女を救うための救命綱のつもりだった。だが、完璧すぎる彼女の仮面を剥ぎ取りたいという、私の心の底に澱のように溜まっていた、無意識の残酷さではなかったか。
その時だった。
激しい雨音の隙間に、異質な音が混じった。
……ト、トト。
それは、控えめというよりは、もはや生命力が尽きかけた者の、最後の、微かな、爪先で扉をなぞるようなノックだった。
私は弾かれたように立ち上がり、玄関へと向かった。重い扉を開けた瞬間、熱を帯びた雨の匂いと共に、信じがたい光景が目に飛び込んできた。
「……ッ、エルキア……?」
そこにいたのは、銀色の亡霊だった。
猛烈な雨に打たれ、全身から水が滴っている。かつて神々に祝福を受けていているかのような、塵一つ寄せ付けなかったはずの白銀の髪は、雨水に乱され、無惨に頬や首筋に張り付いていた。
その姿は、かつての高潔なエルフの英雄でも、少年アルトを慈しむ賢明な保護者でもない。
ただ一点。
彼女の虚ろな瞳が、暗闇の中で濁った光を反射している。その視線は私を捉えているようでいて、実は数万光年の彼方にある地獄を見つめているかのようだった。
「……さぁ、中に入って。外はひどい雨よ」
私は努めて冷静に、平静を装った声を絞り出した。ここで私が取り乱せば、糸の切れた人形のような彼女は、そのままこの夜の闇に溶けて消えてしまうと直感したからだ。
エルキアは何も答えない。ただ、促されるままに部屋へと足を踏み入れた。
一歩進むごとに、彼女の足元には泥の混じった雨水の水溜まりができる。
(……血?)
彼女の白い衣に滲む、不自然な赤黒い斑点。それは彼女自身のものか、あるいは。私はあえて追求せず、震える手で乾いたタオルと清潔な着替えを用意した。
「これに着替えて。私はあちらにいるから」
背を向け、部屋を出る。扉を閉めた瞬間、私は壁に縋り付いた。
(……なんてことをしてしまったの、私は…)
彼女の聖域を土足で荒らすような真似をしなければ…『真実に向き合え』と、その仮面を剥ぎ取れと背中を押したのは、他ならぬ私なのだ。私の傲慢な正義感が、あんなにも誇り高かった彼女を、言葉を失うほどの「何か」に変えてしまった。
夏の湿気が、首筋に嫌にまとわりつく。
別室で立ち尽くす私の脳裏には、十年前の彼女が鮮明に浮かんでいた。
戦火の中で、数多の兵を率い、凛として剣を振るっていたエルキア。そのマナは太陽のように眩しく、彼女が通り過ぎるだけで空気は浄化されるとさえ言われていた。私にとって、彼女は単なる友人ではなく、到達できない「美」の化身であり、憧れのすべてだった。
その偶像が、今、ボロ布のように成り果てて、私のリビングに立ち尽くしている。
私は激しい自己嫌悪と後悔に、臓腑を抉られるような痛みを感じながら、しばらくして再び彼女の元へと戻った。
「エルキア、入るわよ」
そっと声をかけ、扉を開ける。
そこで私を待っていたのは、さらに凄惨なまでに「無」となった彼女の姿だった。
彼女は、私が渡したはずの清潔な着替えには目もくれず、ただ、その場ですべての衣を脱ぎ捨てていた。
ずぶ濡れの衣服は、床に無造作に、黒い肉塊のように転がっている。
そして、エルキアは——。
この世で最も美しい、月光を宿したようなその肢体を、一切隠すこともなく晒していた。
「……エルキア」
私は息を呑んだ。
彼女は、私が入ってきたことに気づいているはずなのに、身を隠そうとする素振りさえ見せない。かつての彼女が持っていたはずの、エルフとしての矜持、女性としての慎み。それらすべてが、雨に流されて消えてしまったかのようだった。
「エルキア、これを着て。風邪を引いてしまうわ」
着替えを差し出すが、彼女はただ、ゆっくりと、消え入りそうな動作で首を横に振った。
その目は、依然として虚空を彷徨っている。
(着る資格がない……とでも言うの?)
彼女の沈黙が、言葉よりも雄弁に絶望を語っていた。
罪を犯した獣は、清らかな布を纏うべきではない。この醜悪な本能に突き動かされた肉体こそが、自分の真の姿なのだと。そんな自虐的な叫びが、無言の空気を通じて私の胸に突き刺さる。
見かねた私は、手にしたタオルを広げ、彼女に近づいた。
彼女の肌に触れた瞬間、指先が凍りつきそうなほどの冷たさを感じた。
「大変…!すぐに湯を沸かすわね」
このままでは、彼女が彼女という形を保てなくなる。本能的な恐怖が私を突き動かした。
この家には、文明的な風呂などない。しかし、私は『玉藻』として毎日、客の前に出るために身を清めることを己に課していた。そのために愛用している、大人一人がゆったりと浸かれるほどの大きな木製の湯桶。私は魔法を制御し、適温になった湯をその桶へと満たしていく。空気を媒介に熱を練り上げ、水瓶の水を一気に沸点へと導くこの魔法は、エルキアに教えてもらったものだった。
私は膝をつき、彼女の足元に付いた泥を拭っていった。そして湯桶へと導く。
「失礼するわね……」
湯桶から汲んだ温かな湯を、手酌で彼女の髪や肩に流して雨水をすすぐ。
私は背後から、彼女の濡れた銀髪をタオルで包み込んだ。
かつては絹よりも滑らかで、触れることさえ躊躇われるほど神聖だったその髪。今は、絡まり、絶望に塗れ、重く垂れ下がっている。
私は丁寧に、髪を拭いていく。
水滴が滴るたびに、彼女の肩が小さく震える。
私は湯桶から彼女を促し、湿り気を帯びた空気の中で、広げたバスタオルをその白磁の肢体へと添えた。
ここからは、彼女の肌に残る「名残」をすべて吸い上げるための、静謐な儀式だ。
まずは、その華奢な肩からだ。
柔らかなタオルの布越しに、彼女の骨格の繊細さを掌で確かめるように押さえていく。鎖骨の窪みに溜まった一筋の雫が、布に吸い込まれて消える。夏の夜の熱を孕んだ湯気が、彼女の肌をほんのりと桜色に染め上げていた。かつての名残などどこにもない。指先に伝わるのは、あまりに無防備で、頼りなげな女の質感だけだ。
続いて、私は彼女の背中へとタオルを滑らせた。
背脊の美しい溝に沿って、ゆっくりと、慈しむように。十年前、戦場で多くの命を救い、希望の象徴として背負ってきたその背中。しかし今、私の目の前にあるのは、過酷な戦場を駆け抜けていたとは思えないほど、傷一つない、瑞々しい曲線の連なりだった。水滴を拭い去るたびに、露わになるその肌の滑らかさは、女である私ですら触れることすら躊躇われるほど、犯しがたい神秘を湛えている。
私は、息をすることさえ忘れていた。
彼女の正面に回り込み、タオルをその胸元へと運ぶ。
露わになった双丘の、柔らかな膨らみ。呼吸に合わせて微かに上下するその頂から、こぼれ落ちそうになる水滴を、私は指先でタオルを押し当てるようにして吸い取っていく。
(……なんて、柔らかなの)
家事はおろか、重い剣を握っていたことさえ疑わしくなるほど、その四肢はやわらかく、隠しようのない肉の主張を孕んでいる。
腹部をなぞれば、そこには一点の曇りもない滑らかな平原が広がり、下腹部の曲線へと吸い込まれていく。拭えば拭うほど、彼女の肌は私の指の熱を吸い、芳醇な女の香りを立ち昇らせた。
「エルキア……」
私は、自分の喉が渇いていることに気づいた。
腕を取り、手首から指先の一本一本まで、水気を丁寧に拭い去る。その指は細く、白く、ただ一人の男——アルトを慈しむためにのみ存在しているかのように見える。
そして、その豊かな太腿。
重心を預けられたその肢体は、極上の悦楽を知り、あるいは与えるために設えられたような精巧な肉の塊として、私の目の前にある。膝の裏、そして足の甲まで、私は跪き、一滴の湿り気も残さぬよう、その官能的な造形をなぞり続けた。
だが、これほどまでに生々しく、金の果実のような肢体を晒しながら、彼女の瞳には依然として魂の拍動が感じられない。
自らの美しさにも、晒されている醜態にも無頓着なまま、彼女はただ、熱を帯びた空気の中で、精巧な人形のようにそこに「存在」していた。
拭い去るたびに、彼女の肌は白く輝きを増していくが、その奥にある「エルキア」という心は、どこまでも深い闇の底へと沈み続けている。
私は最後に、そのすらりとした爪先を包み込み、最後の水滴を吸い取った。
立ち上がり、彼女の顔を覗き込む。
「……全部、綺麗になったわよ」
その囁きは、自分自身を繋ぎ止めるための呪文のようでもあった。
「……大丈夫。大丈夫よ、エルキア」
その言葉は、彼女に届いているのだろうか。
拭っても、拭っても、彼女の瞳に光が戻ることはない。
私の憧れた「完璧な女神」は、もうどこにもいない。目の前にいるのは、ただ一人の、あまりに深く傷つき、壊れてしまった、名もなき女だった。
エネアウラに導かれるまま、エルキアは魂の抜けた操り人形のように重い足取りで、寝室の静寂へと沈んでいった。
ベッドのシーツに身を沈めても、彼女の震えは止まらない。湯の熱で肌は赤みを帯びているというのに、その内側からは、魂を凍てつかせるような虚無の冷気が絶え間なく溢れ出していた。カタカタと、奥歯が鳴る音が、夏の夜の静寂に残酷に響く。
私は、その音を聴きながら闇の中で立ち尽くしていた。
この震えは、もはや雨の冷たさによるものではない。逃れようのない自己嫌悪の振動だ。
(……独りには、させない。このままでは彼女は消えてしまう)
私は固く決意し、指先を衣類の襟元にかけた。
夏の夜気を孕んだ絹の衣を、一枚、また一枚と床へ滑らせる。一切の装飾を脱ぎ捨て、裸身となった私は、迷うことなく彼女の待つシーツの中へと潜り込んだ。
これは、美しき友情などという生温いものではない。彼女を温めるためには、私の体温のすべてを、私の存在そのものを、彼女の絶望を受け止めるための「器」として捧げるしかないのだ。死にゆく者の隣で、自らの熱を分け与えるような、ある種の「心中」に近い儀式だった。
布団の中で、私の肌が彼女の背中に触れた瞬間、エルキアの体がビクリと大きく跳ねた。
それは、男の象徴であるアルトに触れられた記憶や、その時に疼いてしまった本能への拒絶反応だったのかもしれない。彼女は弾かれたように身を強まらせ、浅い呼吸を繰り返す。
「大丈夫……。大丈夫よ、エルキア」
私は逃げようとする彼女の細い腰をしっかりと抱き寄せ、正面からその震える肢体を包み込んだ。
肌と肌が密着し、互いの心音が重なり合う。私の胸を彼女の胸に押し当て、私自身の心臓の鼓動が、彼女の冷え切った皮膚へと伝播していく。
「私はあなたを裁かない。あなたが抱えた過去も、その手に染み付いた『鉄の味』も、全部……私が一緒に背負ってあげる。だから、もう独りで震えないで」
私の囁きは、暗闇に溶ける懺悔であり、祈りでもあった。
彼女がアルトという少年に向けていた、歪で、それでいてあまりに純粋だった執着。それを暴き、結果として彼女を破綻させたのは私だ。ならば、壊れてしまった彼女を繋ぎ止める「盾」になるのも、私であるべきだ。
「私は知っているわ、エルキア。あなたが隠してきた醜さも、あの子に向けた浅ましい情欲も、その気高さの裏側にあった絶望も。全部……全部、私が見ていてあげる」
私はさらに力を込め、彼女のうなじに顔を埋めた。
彼女の銀髪から香る湿った匂いが、私の肺を満たす。それは、かつて憧れた「女神」の香りではなく、ただ必死に生きようとする「一人の女」の、ひどく脆い匂いだった。
「私の半分をあなたにあげる。私の温もりも、私の命も。だから、あなたはもう、独りで壊れなくていいのよ」
その瞬間だった。
私の鎖骨のあたりに、熱い雫が落ちた。
一つ、また一つ。
枯れ果てたと思っていた彼女の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……あ……、う、あ……」
声にならない、獣のような咽び泣き。
彼女は、行き場を失った子供のように私の胸に顔を埋め、私の肩を濡らしながら声を殺して泣き始めた。その涙は、彼女を縛り付けていた「完璧な女神」という呪縛が溶け出した証のようでもあった。
涙が私たちの境界線を曖昧にし、湿った肌同士が吸い付くように密着していく。エルキアはやがて、吸い寄せられるように私の体温を求め、その腕の中に深く沈んでいった。
窓の外では、夏の嵐がさらに激しさを増し、すべてを飲み込もうとしていた。
屋根を叩く容赦のない雨音は、この世界の残酷さを表すように鳴り止まない。
けれど、この漆黒に塗り潰された部屋の中だけは、二人の女が分け合う、微かな体温だけが確かな真実だった。
二人は身を寄せ合って、この夜を越える……。
三十八章読んでいただきありがとうございます。前章で夏にも関わらず「冬の冷たい雨」とか誤字が入っておりすみませんでした。第一部から半年の期間を後付けで追加しており、本章の下書きを訂正せぬままに、投稿しておりました。
エルキアとエネアウラ、今後どうなってしまうのでしょうか。ご感想、メッセージをお待ちしております。




