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ンードラロギア  作者: ああああ


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第三十七章:羅刹の初餐

第三十七章です。

翌朝。


アルトは浮き足立った様子で部屋を出ていくエルキアの後ろ姿を見送った。昨日から続く彼女の「上機嫌」の理由は、自分との修行ではなく、旧友との再会にある。その事実が、静かな棘となって胸の奥をチクリと刺した。


一人残されたアルトは、何かを振り切るようにオルダたちの部屋へと向かった。


「……オルダは?」


「商談だよ。王都の商会を相手に、商談で忙しいみたいなんだ。各国との軍事的な緊張が高まってるだろ?色んな物の物価が上がってるから、皆で協力して少しでも民の負担を抑えようって。商売人と言うよりも、施政者って考えだよな〜」


部屋にいたのは、鏡の前で熱心に髪を整えているラッシュだった。その尻尾は、意識せずとも左右に激しく振られ、隠しきれない歓喜を物語っている。


「ラッシュ、今日もルリさんに会いにいくの?」


「おう! 今日は王都の穴場スポットを案内してくれるって約束したんだ」


昨日、ルリに唇を奪われ、真っ赤な顔で卒倒した男とは思えない切り替えの早さだ。アルトは昨日の光景を思い出し、少しだけ言い淀みながら尋ねる。


「……昨日の『キス』ってやつ、そんなに嬉しかったの?」


「っ!? な、ななな何を藪から棒に……!」


ラッシュは持っていた櫛を落としそうなほど激しく動揺したが、すぐに顔をニヤけさせた。


「……ああ。ぶっちゃけ、最高だったぜ。頭の中が真っ白になって、世界が回るような……あんな感覚、普段は絶対に味わえねーな」


「すごいな……。出会ってそんなに経っていないのに、そんなに仲良くなれるんだ」


アルトの呟きには、純粋な驚嘆と、自分には届かない領域への羨望が混じっていた。


(なにっ!?今の話は真実か!?)

部屋の隅で古びた書物を捲っていたリリアーノが、飛び上がる勢いで立ち上がった。


「キスだと!? 我だって、この1900年……一度たりとも経験したことがないというのに! あんな若造のワーウルフに先を越されるとは…」


「ふ、ふーん……。ラッシュは、キスされるとそんなに喜ぶんだね」


アルトの視線が、じっとラッシュの唇に注がれる。昨日ルリが言っていた「心の距離がぐっと近くなる」という言葉が、今のアルトには呪文のように響いていた。


「……おい、アルト。その目はなんだ。ゾワッとするからやめろ…」


ラッシュは本能的な危機感を察知し、一歩後ずさる。


「いいか、念のために言っておくが、俺は野郎にキスされる趣味はねーからな! それじゃあ、俺は行ってくるぜ!」

逃げるように部屋を飛び出していくラッシュ。


静まり返った室内で、アルトはゆっくりと視線をリリアーノに向けた。

「……りっちゃん」


「な、なんだ。アルト、そんなに真剣な顔をして」


アルトはおもむろに歩み寄り、りっちゃんを拒む隙も与えずぎゅっと抱きしめた。


「うおっ!? な、何を……!?」


「りっちゃんは、女の子だよね。……なら、キスしても大丈夫だよね?」


「……っ!!」


りっちゃんは言葉を失った。


1900年という悠久の時を生き、あらゆる魔術の深淵を覗こうとした彼女だが、この状況を打破する呪文など一つも持ち合わせていなかった。


これまでは書物の情報としてしか知らなかった「キス」。経験することなく朽ち果てるはずだったその感覚を、今、アルトと交わす……。


(……それも、アリ、なのでは……?)


「アルトよ、我は覚悟を決めたぞ。さあ、来るが良い! このリリアーノ、全てを預け……!」


彼女が目を閉じ、運命を受け入れようとしたが…。


(やっぱり…ダメ!!!)


アルトは不意に腕の力を緩め、怪訝そうに首を傾げた。


「……あ、ごめん、りっちゃん。心臓、ドキドキしてないね。……キスしちゃダメだよね」


アルトはルリの言葉――「心臓がドキドキする場合だけ使って良い魔法」――を忠実に守り、あっさりとリリアーノを解放した。


「……はぁっ!!? あっぶねぇぇぇ!!」


解放された途端、リリアーノは膝をついて叫んだ。


(心臓があったら、間違いなく最後までいっていた…キスの味を知るために無限地獄に落ちるところだった!いやでも…キスしたことを『絶対に秘密』と口封じできれば…よし、これだ)


「?……りっちゃん、魔法の修行、一緒に付き合ってくれる?」


呆然とするリリアーノを見つめ、アルトはどこか寂しげな瞳で問いかけた。


りっちゃんは乱れた呼吸(実際には呼吸の必要はないのだが)を整え、アルトの瞳の奥に潜む『置いてけぼりの孤独』を感じ取った。


エルキアへの執着、大人になりたいという焦り、そして自分だけが「子供」という檻に閉じ込められているような疎外感。


「……ふん、仕方ないな。我をここまで動揺させた罰だ。みっちりと、それこそ根を上げるまで付き合ってやろうではないか」


「ありがとう、りっちゃん」


りっちゃんは、どう声をかけて良いか分からなかった。ただ、アルトが魔法の修行を求めたのは、強くなりたいからだけではない。そうすることでしか、今の自分を肯定できないからだということに、彼女だけは気づいていた。


一方その頃…。


エネアウラのキッチンの隅で、エルキアは小鍋から立ち上がる湯気に瞳を輝かせた。

「……うん、これなら!! これならアルトに喜んでもらえるわ! ありがとう、エネアウラ」

エルキアは、まるで聖域を掃き清める巫女のような手つきで、料理の盛り付けを整える。その瞳には、親友と語らう余裕などない。ただ、アルトという「自分の写し鏡」を満足させ、不純物のない幸せを継続させることだけに全神経が注がれていた。


その痛々しいまでの執着、そして今にも折れそうな背中に、エネアウラは胸が締め付けられる。


「ねぇ…エルキア。私、あなたの力になりたいの」


「え……? 今こうして、新しいレシピを教えてもらって……力になってもらっているじゃない」

エルキアは顔を上げずに答える。だが、その声は上擦っていた。


「そういうことじゃないわ。聞かせてほしい、支えさせて欲しいの……。あなたの、本当の心の声を」


その優しい問いかけが、エルキアの喉元までせり上がっていた熱い澱を逆流させた。堪えていたものが溢れ出し、彼女は握りしめていたお玉をガランと床に落とす。


「……弱音なんて吐けるわけないじゃない……っ!!」


「吐いたら……認めたら、そこで全部終わっちゃうのよ! 私はあの子の『光』でなきゃいけない。あの子を育てるなんて、最初から私のような人殺しには無理なことだった……! それを今日まで、自分の過去を塗り潰すように、死に物狂いでやってきたのよ!!」


完璧だった聖母の仮面が、派手な音を立てて砕け散る。

彼女が守りたかったのはアルトの人生ではない。アルトという無垢な存在を飼いならすことで、「私はもう、あの血塗られた過去の女ではない」と自分自身を騙し続けたかったのだ。


エネアウラは、冷徹なまでの静寂を持って、親友に最後の一撃を見舞った。


「……話す気がないなら、彼を『男』として受け入れる覚悟を決めなさい」


「!!」

エルキアが息を呑み、後ずさる。


「わかるわ。あなたが彼を愛して、愛しているからこそ、それを汚せないと苦しんでいることくらい。でもね、中途半端に『お母さん』を演じ続けるから、彼を歪ませ、あなた自身も壊れるのよ。今日、彼に本当のあなたを――その手が染まった過去の業を話しなさい。それで彼が逃げ出すなら、それまでの縁だったってことよ」


「できる訳がないわ……!!」

エルキアの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。


「あの子に軽蔑されるくらいなら、私は……いっそ、あの子の記憶のなかで綺麗なまま死にたい……!」


エルキアは震える手で荷物をひったくるように掴む。もはや、これ以上ここにいては、自分の醜い核をすべて暴かれてしまう。

エネアウラはそんな彼女の絶望的な背中に、最後の「楔」を打ち込んだ。


「でも、それをしなきゃいけない日が必ずくるわ。…あなたがこのまま死んだら、死をもかけて守りたかった彼の全てが死ぬことになる…もし、自分一人ではどうしても抱えきれなくなった時は、私を頼ってほしい。私だけは、あなたの味方でいてあげるから。……いつでも待ってるからね」


「…ごめんなさい、今日はもう帰るわ…」


震える声でそれだけを告げ、エルキアは逃げるように扉を開けた。

外はもう夜の帳が下り、街を包み込む湿った空気が、彼女にまとわりつくように撫でる。


行く当てもなく、放心状態で魔導灯の列をさまようエルキア。

頭の中では、エネアウラの「受け入れる覚悟」という言葉と、自分の「血塗られた過去の光景」が泥のように混ざり合い、激しい眩暈となって襲いかかる。


魔導灯の淡いオレンジ色の光が、地面に長く伸びる彼女の影を照らし出す。その影すらも、今の彼女には自分を追いかけてくる過去の亡霊のように見えていた。


どれくらいの時が経っただろうか。石畳に伸びる街灯の列を魔導灯の淡いオレンジ色の光の列を、ただの人形のように彷徨い歩いていたエルキアの意識を、鋭い叫びが引き戻した。


「エルキア!」


心臓が跳ね上がる。聞き慣れた、けれど今は聞きたくない、愛おしすぎるその声。

(いや……やめて……来ないで……!)


駆け寄るアルトの足音が、死刑宣告の足音のように響く。

「遅いから心配したんだよ、宿へ帰ろう」


無垢な、純粋すぎるその瞳。今のエルキアには、それが自分を裁く鏡のように見えて仕方がなかった。エネアウラに「欺瞞」を暴かれ、自分の「汚れ」を自覚した今、アルトの優しさは猛毒でしかない。


(もう…無理…無理なの…これ以上は…)

溜め込めず溢れ出そうとする気持ちが抑えられない!


「やめて!もう無理なの!!」


「え!?なにを言ってるの…!?」


「離れ離れになりましょう!」

叫びは、夜の喧騒を切り裂いて空虚に響いた。アルトの顔が、驚愕と、それ以上の熱を孕んで歪む。


「いやだ!一緒にいたいんだ!ずっと一緒だとエルキアも望んでいたじゃないか」

エルキアが見たものは7年かけて丹念に作り上げた「透明な少年」の姿ではなかった。そこにいたのは、自分の愛に飢え、狂おしいほどの独占欲でこちらを飲み込もうとする「一人の男」だった。


「いや……私が壊れちゃうの……! あんな、あんな血塗られた場所に、あなたまで引きずり込みたくないのよ……!」


「!?守る力は無いけど…僕にできることがあればなんでもするよ!」


「もうやめて…なにも話さないで…」


(だめだ、僕の全てをエルキアに刻み込まなければ…!)


アルトの焦燥が限界を超えた。彼はエルキアの細い両肩を乱暴に掴み、逃げ道を塞ぐようにその華奢な体を抱きすくめる。

その瞬間、エルキアの中でかろうじて形を保っていた防壁が、ボロボロと粉砕された崩壊していった。


「ん……!?」


唇に押し当てられた、暴力的なまでの熱。

アルトの心臓の鼓動が、服を透かしてエルキアの胸に激しく、狂おしく打ち付けられる。

(いけない……これは、親子でも、守護者でもない……!)


拒絶しなければならない。突き放さなければならない。

そう思考が警鐘を鳴らす一方で、エルキアは気づいてしまった。


アルトの猛烈な鼓動に呼応するように、自分自身の胸の奥からも、かつてないほどに激しく、浅ましくのたうち回る鼓動が聞こえてくることに。


ドクン、ドクンと、耳の奥まで支配するその音は、もはや「慈愛」などではない。800年という長い歳月をかけて凍らせてきたはずの彼女の血が、アルトの熱に触れて、どろりと沸き立っている。


(……ああ、私の心臓が、あの子の音に応えている……!?)


それは、エルキアが最も恐れていた「汚れ」の証明だった。アルトを純粋なままに留めておきたかったはずの自分が、誰よりも先に、あの子を「一人の男」として渇望し始めている。自分の中の「女」が、アルトの暴力的な情愛を心地よいとさえ感じ始めている。


その己の裏切りに対する嫌悪と、制御不能な本能への恐怖が、彼女を狂わせた。


だが、アルトの情動は止まらない。彼はエルキアの困惑を飲み干すように、さらに深く、執拗に重なってくる。強引にこじ開けられた唇の隙間から、彼自身の「生」そのもののような熱い舌が、エルキアの静止した時間を蹂躙するように滑り込んでくる。


(……ダメっ!! これ以上は、本当に戻れなくなる……っ!!)


自らの内側から溢れ出す淫らな鼓動を無理やり黙らせるように、エルキアは喉の奥で悲鳴を上げ、絡みついてくるアルトの舌を、するどい歯で深く、無慈悲に噛み切ろうとする。


「痛……っ!!」


口腔内に、ドロリとした生暖かい鉄の味が広がる。鮮血が唇から溢れ、二人の顎を伝い落ちる。激痛に顔を歪めながらも、アルトは離れようとしない。むしろ、その痛みが「繋がり」であるかのように、縋り付く力は強まった。


お互いの口内が、アルトの鮮血で満たされていく。血の味の混じった、最悪の口づけ。


「……なんで……」


アルトが血に濡れた唇を震わせ、絶望の声を漏らす。その瞳には、自分が捧げた命がけの愛を拒絶された、引き裂かれるような悲しみがあった。


エルキアは、まだ激しく波打つ自らの心臓を片手で抑え込み、あえて自分自身を呪うような、冷酷な怒りの仮面を被った。

「もう……顔を見たくもない……!」


その言葉で突き放し、彼女は走り去った。残されたのは、自分の「初めての情欲」を、愛する人の血で染め、そして自分自身もまた「獣」であったという消えない烙印だけだった。


…エルキアは街をさまよいながら、口腔内に広がったアルトの血液を逃げ場のないまま、ごくりと飲み込んだ。…その瞬間、これまでの自分を作り続けた理性は完全に崩壊させた。


食道を通り、胃の腑へと落ちていくアルトの痛み。アルトの熱。そして、彼を「男」に変えてしまった自分自身の、悍ましいまでの執着。


この7年で丹念に積み上げてきた「聖母」としての理性。そのすべてが、たった一口の鮮血によって、内側から黒く塗り潰されていく。


(ああ……あの子が、私の中に……)


胃の奥から、言葉にできないほど淫靡でどろりとした熱が、全身の血管へと逆流し始めた。


それは「慈愛」などという綺麗な言葉では到底括れない。もっと根源的で、もっと飢えた、「愛する者を食らい、自分の一部として同化させたい」という、化け物のような捕食の本能だった。


エルキアは、自分自身の内側に棲んでいたその「化け物」の正体に気づき、戦慄する。


あの子を清らかなままにしておきたかった?

あの子を汚れから守りたかった?

……嘘だ。


本当は、あの子のすべてを奪い、自分の血肉に変えてしまいたかったのではないか。アルトの純潔を汚し、彼が流す涙も、痛みも、その命の欠片である血液さえも、自分だけが独占して飲み干したかったのではないか。


噛み切るほどではない、けれど明確な拒絶を込めて噛んだあの瞬間、エルキアが感じたのは「拒絶」だけではなかった。

アルトの苦悶の声に、そして口腔内に溢れた熱い液体に、絶頂に近い悦楽を感じてしまった「雌」としての自分がいたのだ。


(もう、どこにも行けない……私は、あの子を壊した……そして、私も壊れている……!)


水滴がエルキアの肩を叩いたかと思うと、すべての音を掻き消すくらいの暴力的な雨となった。

理性の防壁が跡形もなく溶け去った跡地で、その化け物は満足げに喉を鳴らしている。エルキアは、自分の内側から聞こえる「もっと欲しい」という悍ましい咆哮を打ち消そうと、自らの肩を抱き、泥にまみれた石畳を這うように歩き出した。


「……っ、ああ、あああああ……っ!!」


髪を振り乱し、雨水を飲み込みながら、彼女は叫ぶ。

もはや、高潔なエルフの面影はない。愛する者の血を啜り、その背徳感に身をよじる、狂った女の姿がそこにあった。


意識が朦朧とする中で、彼女の脳裏に最後に浮かんだのは、別れ際にエネアウラがくれた、呪いのように甘い救いの言葉だった。


『……いつでも待ってるから』


その言葉は、もはや「友情」の響きではなく、全てを失った獲物を誘う深淵の入り口のように聞こえた。けれど、今のエルキアには、その深淵に身を投じる以外の術は残されていなかった。



第三十七章読んでいただきありがとうございます。第一部ラストの「親子の愛」とは違うこの展開も、プロローグの内容からすると、入れざるを得ませんでした。エルキアが歪めてきたものの「揺り戻し」がここで起こったのです。

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