第三十六章:再会
三十六章です。第二部がスタートしました。
正暦3034年7月 アルブール国王暗殺計画を阻止したあの日からおよそ半年という月日が流れていた。アルブール王国とイーグロ公国の関係緩和のため、外交特使として赴くことになったサーガイル。その護衛として同行したアルトたちは、公国で予想だにしない巨大な陰謀と事件に巻き込まれたのだった。
アルトの体躯は目に見えて逞しくなり、その眼差しには過酷な旅を生き抜いた戦士の鋭さが宿り始めていた。
道中、彼らがどのような予想外の事件に巻き込まれ、いかにして死線を潜り抜けてきたのか――その激闘と成長の記録については、また別の機会、別の物語として語られることになるだろう。
今はただ、数多の困難を乗り越え、ようやく王都へと帰還した一行に、束の間の平穏が訪れていた。
『…だが、忘れてはならない。あの危機的な盤上を一気にひっくり返したリリアーノ嬢の活躍を…そして忘れてはならない。星になった王子様のことを…』
「おい、吟遊詩人っぽく語って勝手に私を殺さないでくれないか?この通りピンピンしてるぞ」
「あの時のりっちゃん殿の機転があの逆転劇は生んだのはまぎれもない事実!さすが不死の王です!」
「はっはっは!我を崇めよ!」
アルトはアンジュ達の楽しそうな語らいを背に、大通りの街の様子に視線を移す。半年前の冬の景色とは一変し、街は色鮮やかな夏祭りの装いに包まれている。だが、その華やかさとは裏腹に、アルトの心には晴れない霧が立ち込めていた。
「おい、アルト! ぼうっとしてんじゃねーよ。早く行くぞ!」
背後から声をかけてきたのは、準備万端のラッシュだった。
イーグロ公国への道中、幾度も死線を越えたはずの親友は、今や戦士としての精悍さよりも、一人の「恋い焦がれる青年」としての顔を隠しきれていない。王都に戻れば、あのルリに会える。その一心で、彼はこの数ヶ月の過酷な任務を乗り越えてきたのだ。
「わかってるよ、ラッシュ。……でも、そんなに急がなくても、ルリさんは逃げないよ?」
「うっせぇ! 一分一秒でも早く、ルリちゃんに俺の成長を見せてやるんだよ!」
鼻息を荒くするラッシュを見送りながら、アルトは自分の手のひらを見つめた。
半年。
イーグロ公国での一件で、修行だけではなく幾度の実戦経験を経て、身体も引き締まり、声も低くなった。自分では、もう立派に「成人」としての階段を登っているつもりだった。
だが――。
「アルト、寝癖がついているわよ。……もう、いつまで経っても子どもなんだから」
振り返ると、そこにはエルキアがいた。
瑞々しい白磁の肌に、透き通るような白銀の髪。半年前と少しも変わらぬ美貌を湛えた彼女は、ごく自然な動作でアルトの髪に手を伸ばし、優しく整え始める。
(……まただ)
エルキアの指先から伝わる温もりは心地よい。けれど、その眼差しに宿っているのは、幼い子供を慈しむような、あまりにも純粋な「保護欲」だった。
「……自分でもできるよ、エルキア」
「あら、そう? でも、私の前ではいつまでも可愛いアルトでいてくれていいのよ」
彼女はいたずらっぽく微笑むと、満足げに手を引いた。
エルキアにとって、アルトはまだ、あの炎の中で震えていた小さな少年のまま止まっているのだ。どれだけ剣を振るい、どれだけ魔力を制御し、どれだけ他国で功績を上げようとも、彼女が張った「保護」という名の透明な壁を突き破ることができない。いつになればエルキアを守れる男になれるのか…その誓いが、重い圧となってアルトにのしかかる。
「そうだ、アルト。今日は私、エネアウラに会いに行ってくるわ。半年前に、ほんの少ししか話せなかったもの。ちょっと遅くなるかもしれないけど……お留守番よろしくね。ラッシュ君と酒場に行ってはダメよ?」
エルキアの顔が、期待に明るく輝く。それはアルトの前で見せる「師」や「母」の顔ではなく、一人の女性としての素顔だった。
「……そっか。行ってきなよ、エルキア」
(僕はもう成人だからお酒も飲んでいいのに…)
アルトは無理に作った笑顔で答えた。しかし、エルキアが楽しげに身支度を整える音を聞きながら、アルトは胸の奥で、また別の…自分でも正体のわからない「焦燥」が、冷たい水滴のように滴り落ちるのを感じていた。
エルキアはエネアウラから受け取っていた地図を頼りに辿り着いたのは、王都の喧騒が嘘のように遠のいた、石畳の小道に佇むこぢんまりとした家だった。
エルキアは胸元に手を当て、トクトクと刻まれる鼓動を落ち着かせるように深く息を吐く。この数年、彼女の心は常に「アルトの守護者」であり「魔力の監視者」であることに占められていた。かつての友人と会うというだけで、少女のように浮き足立っている自分がおかしくもあり、同時にどこか救われるような心地がしていた。
木製の扉を、躊躇いがちに、けれど確かにノックする。
「はい、どちら様ですか?」
室内から響いたその声に、エルキアの頬が自然と緩んだ。記憶の中にあるものより少しだけ落ち着いた、けれど鈴を転がすような透明感はあの頃のままだ。
「私よ。エルキアです」
一瞬の静寂の後、バタバタと慌ただしい足音が近づき、鍵が跳ね上がる鋭い音がした。勢いよく開いた扉の向こうには、かつてティアズ国で共に暮らしていた旧友、エネアウラの姿があった。
「エルキア様! 本当に……本当にお久しぶりです!」
「エネアウラ! ああ、もう、本当に久しぶりね!」
弾けるような笑顔と共に、二人は自然と両手を掲げ、パチンと小気味よい音を立ててハイタッチを交わした。再会の喜びを分かち合う。
「もう、その『様』はやめてって言ったでしょ。私たちはもう、あんな血生臭い場所にいるわけじゃないんだから。今はただの友達よ」
エルキアが少し拗ねたように眉を下げると、エネアウラは「あ、いけない」といたずらっぽく舌を出した。
「ごめんなさい。つい癖で……。さあ、立ち話もなんですし、中へどうぞ!」
案内された室内は、温かなハーブの香りに満ちていた。窓辺には丁寧に手入れされた鉢植えが並び、エネアウラがこの王都で穏やかな時を刻んできたことが伺える。
「全然変わっていないわね、エネアウラ。あの日、ティアズの国境で別れた時のままみたい」
エルキアがしみじみと呟くと、エネアウラは棚から茶葉を取り出しながらクスクスと笑った。
「お世辞が上手になりましたね。亜人種の中でも人狐は長寿ですけど、エルフ様にそう言ってもらえるなんて光栄だわ。……そうだ、自慢のハーブティーがあるんです。淹れてもいいかしら?」
「ええ、喜んでいただくわ。この前は立ち話にもならなかったから、今日はゆっくり話しましょう」
蒸気と共に立ち上る香りを楽しみながら、会話は自然と積もる思い出話へ、そして近況へと移っていく。ヤプールの北集落での隠居生活、オルダの相変わらずな強欲ぶり……。そして話題は、エルキアの生活の中心である「アルト」のことになった。
「……それでね、あの偏屈なオルダ様が突然『メイドは雇うな、お前が料理を作れ』なんて言い出したのよ。私、剣の振り方は知っていても、包丁の握り方なんて忘れかけていたのに!」
エルキアは困ったように、けれどどこか楽しげに肩をすくめた。
「ほら、言ったでしょう? あの時、私の話を聞いて料理を教わっておけばよかったって。どこで何が役に立つかわからないんだから」
エネアウラは勝ち誇ったようにティーカップを掲げ、優しく目を細めた。
「……でも、あんなに『自分は誰かを愛する資格がない』なんて言っていた貴女が、一人の少年のために慣れない包丁を握っているなんて。なんだか、少し安心したわ」
友の言葉に、エルキアは一瞬言葉を詰まらせ、手元のカップを見つめた。
「……そうね。あの子のためなら、死神と呼ばれた過去だって、ただの家事の合間に忘れてしまえる。そんな気がするの」
「ふふ、なら決まりね! せっかく再会できたんだもの。よかったら、今晩の夕食を一緒に作りましょう? 私のレシピを特別に伝授してしんぜよう……なんてね。これさえ覚えれば、マンネリ化した食卓に辟易しているアルト君も喜んでくれること間違いなしよ」
エネアウラが茶目っ気たっぷりにウインクすると、エルキアは顔を赤らめ、負けじと胸を張った。
「あら、言うわね。私の料理だって、最近はようやく食べられるレベルにはなったのよ? ぜひ、私の腕前も評価してみてちょうだい」
「それは楽しみだわ。お手並み拝見ね、エルキア」
戦火の中にいた頃には想像もできなかった、穏やかで騒がしいキッチンでの時間が始まろうとしていた。
一方その頃。
王都の北側に位置する広大な練兵場。夕刻の陽光が砂埃を赤く染める中、三つの影が激しく交錯していた。
「はぁ、はぁ……っ! ……ラッシュ、今日、は……いつもより、気合入ってる、ね」
アルトはその場に膝をつき、肩を大きく上下させて飢えた獣のように空気を求めた。全身が熱を持ち、肺が焼けるようだ。隣で同じように荒い息を吐く親友、ラッシュを見やる。
「ハッ、ハッ……! あぁん? そんな……ことねーよ。いつもの、事だって……っ!」
強気な言葉とは裏腹に、ラッシュの尻尾はピンと張り詰め、その瞳は目の前に立つ少女、ルリの動きを一心に見つめていた。その様子は、いつもの「稽古」というより、何かを証明しようとする「戦い」に近い。
「あはは! よーしラッシュ君、そこまで言うなら模擬戦といこうよ。もし私から一本取れたら、とっておきの『ご褒美』をあげちゃう」
ルリがいたずらっぽく木剣を構え直すと、ラッシュの瞳に火が灯った。
「はい! ……行きますッ!」
ラッシュが弾かれたように地を蹴る。鋭い打ち合いの音が響くが、ルリは柳に風とばかりにその剛力を受け流し、ラッシュのバランスを軽々と崩していく。その技量の差は、傍目に見ているアルトにも絶望的なほど鮮明に伝わってきた。
「ラッシュ、力みすぎだよ! もっと肩の力を抜かないと!」
「う、うるせぇ! 言われなくともわかってるよ……うりゃあああ!」
転んでも、泥を噛んでも、ラッシュは立ち上がった。その執念は、次第にルリの余裕を削り取っていく。日は傾き、影が長く伸びる頃、ついにその瞬間が訪れた。疲労で足がもつれたルリの一瞬の隙を突き、ラッシュの放った渾身の一撃が、彼女の木剣を弾き飛ばしたのだ。
「そこまで!!」
アルトが叫ぶように声を上げた。
「……やったなラッシュ! ついにルリさんから一本取ったじゃないか!」
「はぁ、はぁ、はぁ……。……どう、だ……。まいったか……」
膝をつき、肩で息をするラッシュの元へ、ルリがゆっくりと歩み寄る。彼女の表情には負けた悔しさよりも、年下の少年の成長を愛おしむような色が浮かんでいた。
「んー……負けちゃった。それじゃあ、約束通り『ご褒美』をあげちゃうね。……んっ」
ルリは呆然と見上げるラッシュの頬を両手で包み込むと、そのまま吸い寄せられるように顔を近づけ、彼の唇に己のそれを重ねた。
「……っ!!?」
アルトの目の前で、ラッシュの全身が雷に打たれたように硬直した。耳は限界まで逆立ち、太い尻尾はまるで誰かに引っ張られているかのように垂直に跳ね上がっている。
数秒の沈黙の後、唇が離れた。
「ん……。どうだった?」
「さ……サイコー、です……」
ラッシュは顔面を沸騰したヤカンのように真っ赤に染め、そのまま後ろ向きにバタリと卒倒した。
「え!? 今の何!? なんでラッシュは倒れちゃったの!?魔法!?」
慌てて駆け寄るアルトに、ルリは可笑しそうに声をあげて笑った。
「あはは! アルト君、君はラッシュ君以上にウブなんだね。これはすごい魔法よ…『キス』っていうのよ」
「キス……?」
「そう。愛の強さによって、もっと深く……舌を絡ませたりもするわ」
「それで……愛が、伝わるの?」
アルトは信じられないものを見るような目で聞き返した。魔法の理論よりも、はるかに理解し難い未知の概念だった。
「そうよ。言葉を尽くすよりもずっと強く。心の距離が、ぐっと近くなるの。あぁ、でも誰彼構わずしてはいけないわ…。そうね、お互いの心臓がドキドキする場合だけ使っても良い魔法なの…さあ、日も暮れてきたわね。夢心地のラッシュ君を起こして、帰りましょ」
その夜、宿に戻ったアルトは、部屋の隅で浮き足立った様子で明日の準備をしているエルキアの背中を見つめていた。
昼間の「キス」という言葉が、頭の片隅で反発するように響いている。愛が深まれば、距離が近くなる。自分とエルキアの距離は、今、どこにあるのだろう。
「ねぇ、エルキア。明日の魔法の修行なんだけど……」
勇気を出して声をかけたが、エルキアは鏡に向かったまま、振り返ることなく答えた。
「ごめんなさい、アルト。明日も私、エネアウラさんの家に行くことになったの。……修行はまた今度でいいかしら?」
その声は、かつてないほど弾んでいた。家に帰ったらエネアウラに教えてもらった色んな料理をアルトにたくさん食べてもらいたい…そんな気持ちが優先したのだった。
「……わかったよ」
アルトは短く答え、ベッドに潜り込んだ。
エルキアの鼻歌が聞こえる。彼女が自分の知らない誰かとの再会を喜び、自分の知らない笑顔を浮かべている。
いつも自分を子供扱いし、守るべき対象としてしか見てくれないエルキア。
(僕だって、もう成人なのに……)
ほんの少しの、けれど決定的な気持ちのすれ違い。
自分の成長を見てほしい青年と、さらに尽くしたい保護者。
二人の間に生じた小さな溝が、王都の闇に紛れて、取り返しのつかない深淵へと広がり始めていることに、まだ誰も気づいていなかった。
三十六章読んでいただきありがとうございます。ルリちゃんが教えてくれた魔法…やばい予感しかしないですね…。




