第三十二章:古の灯火、石板の祝賀会
第三十二章
正暦3033年12月29日。
世界はこの日を境に、新たな流れへと足を踏み入れた。
その胎動の場所となったのが、アルブール王国の王宮メインホール『白亜の間』であった。
眩いばかりのシャンデリアが照らし出すのは、人が積み上げた富と権力、そして「平和」という名の危うい幻想に酔いしれていた者たちの姿。彼らは信じていた。己が編み上げた知恵と秩序こそが、この先の運命を飼い慣らせる唯一の希望であると。
しかし、この清らかな『白亜の間』に忍び寄っているのは、そんな甘美な希望ではない。
人の願いなど届かぬ場所に、摂理はただ、冷徹に横たわっていた。歪められた理が引き起こす「揺り戻し」は、静かに、だが確実に臨界点を超え、時代のすべてを呑み込む破壊的な巨大なうねりとなる…この場に列席している者を含め、世界はまだ、誰一人として気づいていない。
それは、人が神の創造した残酷な地獄に打ち勝ったと過信した瞬間に訪れる、最後にして最大の「揺り戻し」の序曲であった……。
王国の歴史に新たな1ページが刻まれる記念としてこの日、祝賀会が催された。七百年前の地層から発掘された伝説の石板。その公開と調査の成功を祝うため、近隣諸国の要人や高名な考古学者が一堂に会していた。
「……さすがに、空気が重いな」
ホールの端、目立たない位置でラッシュが小さく呟いた。正装に身を包んだ各国の貴族たちが、シャンパングラスを片手に、舞台中央に鎮座する布を被せられた「何か」を値踏みするように見つめている。
アルトはその隣で、肩に乗ったりっちゃんと共に、慣れない高い天井を見上げていた。エルキアは、周囲の視線を氷のような気品で跳ね除け、ただ静かにその時を待っている。
やがて、銀の鐘の音がホールに鳴り響いた。
壇上に上がったのは、解読チームのリーダーである老学者だった。
「皆さま、刮目してご覧ください。これこそが、失われた七百年前の叡智……古の石板でございます」
合図と共に布が取り払われる。そこにあったのは、長い年月を経てなお、不思議な鈍い輝きを放つ白い石板だった。表面には、現行の文字体系とは明らかに異なる、幾何学的な紋様が緻密に刻まれている。
「調査の結果、この石板は古代における『美術的、および文学的価値』の極致であることが判明いたしました。刻まれているのは、当時の民が神へと捧げた平和の詩。我々解読チームは、この失われた調べを現代に蘇らせるべく、現在も心血を注いでおります」
老学者の言葉に、会場からは惜しみない拍手と感嘆の声が上がった。
しかし、その拍手の渦の中で、オルダだけは冷めた瞳で石板を見つめていた。彼の耳には、昨夜玉藻に語った「有事への備え」という言葉がリフレインしている。この美しい「平和の詩」という解釈が、いかに用意周到に準備された「嘘」であるかを、彼は知っていた。
続いて、サーガイル王子が登壇した。
「この石板の発見は、我が国の文化的な誇りである。我々はこの美しき遺産を守り、後世に伝える義務がある」
王子の演説は、極めて洗練されていた。「これは美術品である」と強調することで、他国に軍事的な警戒心を持たせない巧みな演出。そして、彼は言葉を継いだ。
「また、今回の発掘にあたり、多大なる貢献をされた名もなき勇士たちが、今宵この場に参列している。彼らの献身なくして、この至宝が日の目を見ることはなかった。私は王国を代表し、彼らの労を称えたい」
王子の視線がアルトたちに向けられる。一瞬、会場の視線が集中したが、王子はそれ以上の深い追及を避けるように、巧みに話題を次の祝意へと移した。アルトたちが「特別な力を持つ者」であるという印象を与えず、あくまで「幸運な協力者」として扱う――それもまた、彼らを守るための王子の配慮だった。
祝賀会も佳境に入り、最後を締めくくるべく、国王が重々しく壇上に立った。 老いたとはいえ、その声には一国を統べる者特有の重圧が宿っていた。
「諸君。この石板が、七百年の眠りを経て今、この時代に現れたことには意味がある。これは単なる過去の遺物ではない。……来るべき闇を照らす『灯火』である。我々は、光の恩恵を享受するだけでなく、その陰に潜むものに対しても、目を背けてはならぬ」
そこまでは、王としての格式高い訓示に聞こえた。だが、続く言葉は、列席した諸国の要人たちの背筋に冷や水を浴びせるものだった。
「にも関わらず、人類は今なお、国境付近のわずかな水争いや結晶池の配分といった、矮小な利権のために争いを繰り返そうとしている。……忠告しておこう。我が国は平和を愛するが、これを乱す無知な介入に対しては、断固として『王国の剣』を振るう用意がある。我々がこの過酷な先へと歩むために、今、国民は一つに結束し、正しき力を世界に誇示せねばならぬ」
会場の空気が、凍りついたように静止した。
「平和の詩」の発見を祝う華やかな場にはあまりに不釣り合いな、事実上の宣戦布告に近い強硬な牽制。
近隣諸国の要人たちは顔を見合わせ、その瞳に明らかな動揺と警戒の色を浮かべた。ある者はグラスを握る指を白く震わせ、ある者は背後の随行員に目配せを送る。もはや「微かに眉を動かす」などという段階ではない。ホールの気温が数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの、剥き出しの「圧力」がそこにはあった。
「……あれは祝辞じゃない。ただの脅しですよ、師匠」
ラッシュが、乾いた喉を鳴らしながら小声でオルダに耳打ちする。
「あぁ。だが、それだけ王も『石板』の向こう側に迫る闇に焦っているということだ」
だが、国王はその真意をこれ以上語ることはなかった。重厚な沈黙がホールを支配する中、王は短く挨拶を終えると、ゆっくりと壇上を降りた。
こうして、祝賀会は公式な幕を閉じた。
しかし、会場に残されたのは祝祭の余韻ではない。他国への剥き出しの敵意と、自国民への強い鼓舞。それは、平穏という名の薄氷が砕け散る音だった。
華やかな喧騒が残るホールを後にし、一行は執事シュナイゼルの案内で、王宮のさらに奥深く――密談のための個室へと足を進めるのだった。
祝賀会の公式行事が終わり、華やかなホールには各国の要人たちの動揺と密かな囁きが充満していた。
「……行くぞ。ここからは『表』の祝典じゃない。本物の会合だ」
しかし、その歩みが静かな廊下で止められた。
「……そこな銀髪、止まりなさい」
冷徹な声と共に、廊下の影から数影が躍り出た。
エルフ枢密院の代理人と、その手足として暗躍するエルフの戦闘集団――『セレスティアル・サーバント』。その中心に立つのは、筆頭の一人、ヒョーバルであった。ヒョーバルは代理人に先に行くよう告げる。そして、代理人がいなくなったことを確認し、
彼は鋭い眼光をエルキアに向け、エルフ語で激しい言葉を叩きつける。
「『セレスティアル・サーバント』史上最強と謳われた貴女が、今は人種と共に、たかだか七百年前の遺跡の発掘手伝いとは……本当にお笑い種ですよ、エルキア!」
その言葉に、エルキアの表情から感情が消えた。アルトやラッシュには内容こそ理解できないが、廊下の気温が氷点下まで下がったかのような凄まじい殺気が立ち込める。
「貴女は何のためにこんなことをやっているのです!? 贖罪とでも言いたいのですか!? 我々は大いなる預言の元、この星を一日でも長く延命させるために断罪者という崇高な使命を持った集団。貴女はその首領だったはずです!」
ヒョーバルの咆哮に対し、エルキアはフッと鼻で笑った。その声には、かつての首領としての冷酷さと、現在の彼女が持つ静かな怒りが混じっていた。
「かつての「師」を呼び捨て?一日でも長く延命? 笑わせるわね。そのために罪なき人々を殺めることに何のためらいも持たない殺戮集団だと気づいたから、私は抜けたのよ」
「抜けた代償がこのザマですか! 枢密院はいずれ貴女を許さない。下等な人種に寄り添った末路に何があるかわかっているでしょう!?」
「下等な人種? ――いいえ。私はその人種に救われているのよ」
エルキアはそこで、ふっと力を抜いた。そして、聖母のような慈しみを宿した微笑みを浮かべると、自らの腹部を両手で優しく、大切そうに包み込んだ。
「そして、こうして……新しい命も授かったのよ……」
「な……なんですって……!?」
ヒョーバルの顔が、驚愕で土気色に変わった。
「そんな馬鹿な!? 枢密院の、我らの聖域であった貴女が、下俗な種との子を!? そんなことが、あってよいわけが……!!」
ヒョーバルは激しく狼狽し、その手に握られた剣先が震えた。彼にとって、最強の首領が「母」になったという事実は、物理的な敗北よりも遥かに致命的な精神的衝撃であった。
「……今日は、このまま引き下がります。だが、次に会う時は覚悟してください! その忌むべき……生命と共に!」
ヒョーバルは吐き捨てるように言い残すと、崩れるように影の中へと消えていった。
静寂が戻った廊下で、アルトがきょとんとして尋ねる。
「エルキア、今のエルフの人、何て言ってたの? 急に真っ青になって帰っちゃったけど……」
エルキアは優雅に、しかしどこか得意げな笑みを浮かべてアルトを見つめた。
「……いいのよ、アルト。ちょっと昔の知り合いに、『幸せだ』って自慢しただけだから」
(主様!さっきも言いましたが、それ!想像妊娠ですよ!世界規模の政治的問題に発展しかねない問題発言ですよ!?もし本当に赤子を宿しているならマナを感じるはずでしょ?)
(感じない…なんてことなの!!…あの時、確かに私のお腹を蹴る感触があったのに!)
肩の上で絶句するりっちゃん。この「勘違い」がさらなる嵐を呼ぶとは、この時のアルトはもちろん、エルキア本人すらも予想だにしていなかった。
第三十二章読んでいただきありがとうございます。




