第二十六章:平穏の対価と、揺れる境界線
二十六章です
重い瞼をこじ開けたとき、視界に飛び込んできたのは、天窓から突き刺さるような真っ白な正午過ぎの陽光だった。
「……あ、が…………」
喉の奥から出たのは、人間らしい言葉ではなく、干からびた蛙のような湿った音だ。 本来なら昼食を終え、午後の修行に励んでいるべき時間だ。しかし、俺の頭を割るような鈍痛は、側頭部から後頭部へと脈打つたびに火花を散らしている。口の中は砂漠のように乾ききり、昨夜の「保身会議」の主役――安物の強い酒と、それ以上に質の悪い絶望が、胃の底で粘り強く居座って暴れていた。
未明まで続いた、オルダ様との命がけの「エルキアさん対策会議」。 あの時の、ロウソクの火が消えかかる中での緊迫感、「歩く災厄」からいかにして親友アルトを救い出すかという、悲壮なまでの決意……。 それらが今となっては、白昼夢だったのではないかと思えるほど、家の中は不気味なまでに静まり返っていた。
「……死ぬ。水、水をくれ……」
俺はソファから転げ落ちるようにして床に這いつくばった。節々が悲鳴を上げる。昨夜、恐怖のあまりソファの背もたれに体を押し付けすぎて、全身がバキバキだ。 ふと横を見ると、廊下の隅で師匠のオルダが、まるで道端に転がる粗大ゴミのように丸まって寝息を立てていた。
「……オルダ様、あんたはいいよな。こうして現実逃避できて」
俺は使い物にならない師匠を跨ぎ、井戸を目指してふらふらと廊下を歩き出した。
リビングを抜け、角を曲がったその瞬間。
俺の心臓は、文字通り跳ね上がった。
「あら……」
そこにいたのは、エルキアさんだった。
反射的に、昨夜の「あの顔」を思い出す。暗闇の中で、アルトを自室へ引きずって消えていった、あの捕食者の瞳。情欲と独占欲を煮詰めて抽出したような、およそ人間が浮かべるべきではないあの表情。
俺の全身の毛が逆立つ…!だが、真っ昼間の光の下に立つ彼女は――予想に反する反応を見せた。
「あら、ラッシュ君……。ようやく起きたのね。……もう、こんな時間まで寝ているなんて。そういうところは新しい師匠に似てはだめよ?」
彼女の声は、驚くほど柔らかかった。 それどころか、彼女は俺と目が合った瞬間に、頬を微かに――いや、林檎のように真っ赤に染め、視線を左右に泳がせているのだ。昨夜、家中の空気を凍りつかせ、精神を直接削り取るような「圧」を放っていた女と、同一人物だとは到底思えない。
「……あ、おはようございます、エルキアさん」
俺は辛うじて絞り出す。彼女の指先は、所在なげに自分のエプロンの裾を弄んでいた。その仕草は、まるで恋に悩む思春期の少女そのものだ。
「あの……その、ラッシュ君。昨日は……ありがとう。あなたのおかげで、助かったわ」
蚊の鳴くような、消え入りそうな声。
助かった?
何がだ。アルトという獲物を部屋に運び込むのを邪魔されなかったことがか? 彼女はそれだけを言い残すと、顔を伏せたまま小走りでキッチンへと去っていった。その後ろ姿には、初々しい気恥ずかしさと、どうしようもない高揚感が滲み出ている。
一人残された俺は、引き攣った顔でその背中を見送るしかなかった。
(……何があった……!? 何があったんだよ、あの部屋の中で!)
昨晩はあそこまで暴君じみた醜態をさらしておいて、なぜ今更、可憐な乙女みたいに恥じらっている?
あまりのギャップに、脳が処理を拒否する。 もしかして、もうアルトを精神操作魔法の類で完全に籠絡し終えたのか? だからこそ、心に余裕が生まれて「優しいお姉さん」を演じられているのか? 友よ、お前はもう、人間ではない別の何かにされてしまったのか……!?
不吉な予感を振り払い、まずはこの泥のような身体を洗浄すべく、俺は井戸へと辿り着いた。今は冬だが桶から溢れる冷水を頭から一気に被る。昼の陽光に照らされた水しぶきがキラキラと輝く。 冷たさが脳を突き刺し、ようやく思考が回り始める。 (とにかく、アルトの無事を確認しなきゃならない。もし、もし彼の目が虚ろになっていたり、語尾に『エルキア様最高』とか付くようになっていたら……) その時、背後から軽快な足音が聞こえてきた。
「あ、ラッシュ! 今頃起きたの? もう僕は日課の剣の稽古も、魔法の修行も終わっちゃったよ」
そこには、爽やかな汗を拭いながら、これ以上ないほど輝かしい笑顔を浮かべるアルトがいた。
俺は絶句した。
その瞳に濁りはない。精神を破壊された様子も、記憶を操作されたような違和感もない。むしろ、ここ最近で一番調子が良いのではないかと思えるほど、彼のオーラは澄み渡っている。 あまりに「普通」すぎる親友の姿に、俺は逆に戦慄した。
(よかった……友の精神はすこぶる健康だ。……いや、昨日の今日で健康すぎるだろ!? もしかして、魔法で記憶の一部だけをピンポイントで消されたのか?)
俺は恐る恐る、毒見をするような慎重さでカマをかけてみることにした。
「……なぁアルト。昨日は、どうだった? たまにはあーやって、エルキアさんと一緒に寝るのも…いいもんだろう?」
「そうだね!ぐっすり眠れて調子もいいよ!」
「へ、へぇ…そうなんだ。俺も母さんと一緒に寝ると感じるんだが、母さんっていい匂いがして安心するんだよな。」
ええい、毒を食らわば皿までだ!半ばやけくそになる。
「そうだね!いい匂いがしたよ。ずっと頭を撫でてくれたんだよね」
「…!」
アルトは、なんの衒いもなく言い放ちやがった!。
「最初はエルキアに連れていかれて無理やりって感じだったけど、冬だしすぐに布団の中も温まってよかったよ。でも、寝起きのよだれの後を見られるのはちょっと恥ずかしいんだよね。よだれが出ない方法知らない?」
アルトは少し照れくさそうに、けれど心底幸せそうに笑った。
こいつは、何も分かっていないのだ。
隣で寝ていた女性が、昨夜どれほどの執念でお前を「獲物」として見ていたのか。その腕の中に閉じ込められている間、自分がどれほど危機的な状況に置かれていたのか。
アルトにとって、それは単なる「温かい冬の夜」という思い出に過ぎない。
その無知こそが、化け物を最も増長させるエサになっているというのに。
「…そうか。よかったな、アルト。よだれはしょうがねーよ」
――やめよう、もう考えるのをやめた。
エルキアさんの狂気も、アルトの底なしの天然も、もはや自分の理解の範疇を超えている。この家の「普通」は、外の世界のそれとは根本的に構造が違うのだ。
アルトは俺の肩をポンと叩くと、さらに追い打ちをかけるような提案をしてきた。
「あ、そうだラッシュ。ソファだと風邪をひくし、体が痛くなるだろ? 旅に出るまでの間、僕のベッドを使っていいよ。僕はその間、エルキアの部屋で寝るし」
「…………は?」
俺の耳が腐ったのかと思った。あるいは、まだ二日酔いの幻聴を見ているのか。
「いや、アルト、お前、何を言ってるんだ? 自分のベッドを俺に貸して、お前はエルキアさんの部屋に……行くのか?」
「うん! だって昨日一緒に寝て、エルキアも『一人だと寂しくて眠れないの』って言ってたし。ラッシュも腰が痛そうだから、これが一番いい解決策だろ?」
親友からの、あまりに唐突で寛大な、そして残酷な自己犠牲。 俺がアルトのベッドを使えば使うほど、アルトはエルキアの寝室へと送り込まれることになる。つまり、俺が「快適な睡眠」という対価を受け取る代わりに、親友を魔女の生贄に捧げるという契約だ。
(断るべきだ。ここで首を縦に振れば、俺はエルキアの共犯者になる……!)
「……ありがとな、アルト。……使わせてもらうよ」
こうして、俺はしばらくの間、主が不在となったアルトのベッドを借りることになった。
もしかすると親友はこれから大事なものを失い、自我が欠落するんじゃないか…その不安は二日酔いの頭痛よりも重く俺にのしかかった。
その日の晩。
アルトが「ラッシュがベッドを使うから」と、当然のような顔をして枕を抱え、エルキアさんの部屋の扉を叩いた時のことだ。
「エルキア、入るよ。今日からよろしくね」
「な、ななな……何を言っているの、アルト!?」
部屋から聞こえてきたのは、歓喜の声ではなく、裏返った悲鳴に近い狼狽だった。 俺は思わず廊下の陰から様子を伺った。 扉の前に立つエルキアさんは、顔を真っ赤にし、両手を激しく振り回してパニックに陥っていた。
(昨日は……昨日はあんなに強引だったじゃないですか!それがなんでぶりっ子モードなんだ?相手はアルト、伝わるわけがない)と俺が心の中で突っ込む間もなく、彼女は本気で葛藤しているようだった。
「ダメよ、そんな……! 昨日は、その、私を困らせた罰だったのよ…っ。それを自分から来るなんて、そんな、はしたない……! 私が保護者として、そんな不純なことを許すとでも……!」
彼女の胸中では、今、凄まじい嵐が吹き荒れているに違いない。 『アルトと同じ布団で寝たい』という獣のような本能と、『アルトにとって清廉で正しい理想の保護者でありたい』というプライドが、正面衝突を起こしているのだ。 彼女の目は、獲物を前にした獣のようでもあり、同時に、初めての夜に怯える乙女のようでもあった。
「でも、ラッシュにベッドを貸したし、エルキアも寂しいって言ってたし……」
アルトが小首を傾げて、無防備な視線を投げかける。
「うっ……! そ、それは、言ったけれど……っ。でも、あぁ…私はどうすれば……。こんなの、計画にないわ……アルトの自発的な誘惑だなんて、私の心臓が持たない……!」
エルキアさんは頭を抱え、ぶつぶつと整合性をとるために高速で言い訳を編み出している。
結局、最後には「……仕方ないわね。あなたがそこまで言うなら、これもラッシュ君が転がり込むから…受け入れるしかないわ。ええ、これは不可抗力よ。私は悪くないわ」と、震える声で自分を納得させ、フラフラとした足取りでアルトを招き入れた。
その扉が閉まる間際、彼女が漏らした「……天国かしら」という本音が、俺の耳にははっきりと届いた。
おめでとう、エルキアさん。勝利の美酒ならぬ「勝利の添い寝」を堪能できてよかったね。
…だが!
親友としてわずかに残った良心(?)がそうさせる、壁を隔てた隣の部屋ーエルキアさんの寝室でアルトの生存確認のため、俺はコップを壁に当てて、耳をくっつける…。俺にできることはこのくらいだ。
楽しげな二人の話し声が、この家の異常性をさらに際立たせる。
「ねえアルト、次はどの本を読んであげましょうか?」
「エルキア、僕はもう子供じゃないよ」
「ふふ、私にとっては、いつまでも可愛いアルトだわ」
「今日は冷えるわね…あっ…アルトの足…とても温かいわ」
「わ、エルキア、手も冷たいよ、お皿洗い手伝うからね」
「ありがとう、本当に優しくて良い子ね」
楽しげな、あまりに楽しげな声。 それは、一見すれば仲睦まじい姉弟、あるいは恋人同士の語らいのようだ。だが、俺は知っている。その「平穏」を維持するために、どれほどの異常な執念が注がれているかを。
俺は懐から、数枚の羊皮紙を取り出した。 そこには、俺が書き溜めていた「アルト自立計画:第一段階」という題でびっしりと文字が並んでいた。 親から離れ、自らの足で歩き、一人の男として成長するためのロードマップ。
リビングに行き、俺はそれを暖炉へと投げ込んだ。作るのに時間はかかったが、紙は一瞬で炎に包まれ、灰に変わっていく。 自立計画は、「親友への親切心」という皮肉な形で、独占欲に完全に飲み込まれてしまった。
「これでいいんだ……。少なくとも、アルトは笑っている……」
自分にそう言い聞かせ、俺は再びアルトの布団にくるまり、深い闇の中へと意識を沈めた。 隣の部屋から聞こえるエルキアさんの、勝ち誇ったような、そしてどこか壊れたような忍び笑いを聞かなかったことにしながら。
こうして、俺たちの奇妙な共同生活は、決定的な変質を遂げた。 揺れていた境界線は、もはや修復不可能なほどに踏み越えられてしまったのだ。
二十六章読んでいただきありがとうございます。そろそろストックがなくなります。




