第二章:ヤプールの陽だまりと、空っぽの神
第二章です。アルト少年の視点で書いてみました。
荒野の砂塵に巻かれ、終わりのない旅を続けてきた僕たちの前に、その巨大な質量が姿を現した。
アルブール王国の衛星都市、ヤプール。天を突くような石造りの城壁は、外敵を拒む牙であると同時に、内側の繁栄を閉じ込める檻のようにも見えた。
だが、僕たちが目指したのは、その鉄火場のような喧騒の中心ではなかった。
城壁の影が長く伸びる都市の外縁部。緩やかな丘陵に沿って広がる緑豊かな「ヤプールの北集落」。
そこは、都市の恩恵に預かりながらも、どこか忘れ去られたような穏やかな空気が流れる場所だった。
「着いたぞ。今日からここがお前たちの城だ」
オルダが指さしたのは、村長の屋敷の次に立派な、石造りと木材が調和した邸宅だった。かつて王都の豪商が避暑のために建てたという別荘は、長い間主を失っていたようだが、その佇まいには気品が残っていた。
到着するやいなや、オルダは「村長に挨拶してくる。酒の準備もな!」と、旅の疲れも見せずに風のように去っていった。
残された僕とエルキアは、手分けして家の中に風を通した。 エルキアの手際は、まるで魔法のようだった。彼女が指を鳴らせば埃が舞い上がり、風を起こす。手際よくまたたく間に生活の道具が本来あるべき場所へと収められていく。水拭き、荷解き、寝床の準備。夕闇が迫る頃には、冷え切っていた廃屋は、確かな「人の住処」へと変貌を遂げていた。
その夜、小さなランプの灯の下で、つつましい引っ越し祝いの席が設けられた。 パチパチと爆ぜる暖炉の音。エルキアが不慣れな手つきで淹れてくれたハーブティーの香り。 「新しい家……」 その言葉を口にした瞬間、それまで張り詰めていた僕の心の糸が、ふっと緩んだ。あの日、すべてを失った僕にとって、壁があり、屋根があり、そして見知った顔が隣にいるという事実は、涙が出るほどに温かい救いだった。
翌朝、オルダに連れられて村を歩くと、僕は奇妙な光景を目にすることになった。 行き交う村人たちが、皆一様に足を止め、オルダに対してまるで見上げるような敬意――いや、崇拝に近い眼差しを向けているのだ。
「オルダ様、お戻りでしたか!」
「この前の農具、素晴らしい切れ味です。おかげで腰の痛みが消えましたよ」
かつてこの村は、都市から見捨てられた貧しい「吹き溜まり」だったという。それをたった1か月で激変させたのが、オルダだという。
彼の商会がいち商会として到底持ち得ないほどの莫大な私財を投じ、荒れ果てた農地を買い取り、最新式の農耕器具を無償で貸し出した。さらには、都市部でしか見られない上下水道の整備まで着手を始めており、村の衛生環境は劇的に改善されつつある。
「勘違いしないでくれよ。俺は自分が住む村に先行投資をしてるだけだ」 オルダは照れ隠しのように鼻を鳴らすが、彼がこの村を「豊かな衛星都市の一部」へと押し上げた功労者であることは疑いようもなかった。
「これからは塾も開く。王都から高名な教師も呼んだ。ガキどもには泥をいじる指で、文字を書かせろ。知恵こそが、都市の連中に食われないための唯一の武器だ」
当初、貴重な労働力を奪われると反対していた親たちも、効率化された農作業のおかげで時間に余裕が生まれた今、期待に満ちた顔でオルダの言葉に頷いていた。
僕はこの時、オルダがただの荒くれ者ではないことを悟った。彼は、力ではなく「構造」で人を救おうとしていた。
そんな変化の兆しを見せる村の中で、僕は一人の少年と出会った。 名はラッシュ。亜人種であるワーウルフの血を引く彼は、尖った耳と鋭い眼光を隠そうともせず、常に周囲を威嚇するようなオーラを纏っていた。
「……なんだよ、おぼっちゃま。王都の匂いがするぜ」
それが、僕たちが出会って最初に交わした言葉だった。裕福な養父母を持ち(実際には保護者だけど)、上質な服を着た僕は、彼にとって鼻持ちならない特権階級の象徴に映ったのだろう。けれど、僕は彼の孤独そうな横顔に、どこか自分と似た「寄る辺なさ」を感じ、正直に「仲良くなりたい」と思った。
オルダは各地を点々とする行商人であり、定住することがない。
ある日、村長が「せめて収穫祭までは居てほしい」とオルダに泣きついた。オルダは本来、各地を飛び回る行商人であり、一箇所に留まることを嫌う。だが、この時ばかりは観念したように肩をすくめ、僕たちは村最大の行事に参加することになった。
にぎやかな前夜祭の宴席。広場では焚き火を囲んで大人たちが安酒に酔いしれ、笑い声を上げている。喧騒に馴染めず独りで退屈していた僕の背後に、ラッシュがふらりと現れた。
「おい、暇なら『ご神体』を見に行かないか?」
意外な誘いだった。エルキアは僕たちの様子を遠くから見守り、僕たちが「友達」になる第一歩を踏み出せるよう、黙って微笑んで送り出してくれた。
村の外れにある古い祠。 「ご神体」という神聖な響きに、僕は伝説の武器や輝く宝石のようなものを期待していた。道中、ラッシュは吐き捨てるように村の言い伝えを語った。
「月の神様に感謝して、麦を供え、祈る。ただの儀式さ」
「神様は麦を食べるの?他の食べ物はあげなくていいの?」
僕の無垢な問いに、ラッシュは足を止め、鼻で笑った。
「馬鹿だな。神様が麦なんて食うわけねえだろ。だから祈るだけでいいんだ。俺は、腹が減って死にそうだった年も、腹いっぱい食えた今年も、同じように祈ったが……何も変わらなかった。でもな、オルダ様が来てからは収穫が倍になる。だから俺は、目に見えねえ『月の神様』なんて信じちゃいない」
辿り着いた祠の中。扉を開けた先にあったのは、ただの木箱だった。 中には、去年の残りと思われる数粒の干からびた麦が転がっているだけで、そこには神の気配も、神秘の力も感じられない。文字通り「空っぽ」だった。
「神様は何を食べて生きているの?」
僕の問いに、ラッシュは「知るもんか」と鼻で笑った。けれど、その疑問は僕の胸に妙な棘となって刺さった。神様が麦を食べないのなら、一体何がこの世界を動かしているのだろう。
新しい家での生活は、穏やかに過ぎていった。 エルキアは、食事や洗濯、掃除といった「日常」のすべてを一手に引き受けてくれた。驚いたことに、高貴な身の上を思わせる彼女は、それまで料理を一度もしたことがなかったらしい。
「アルト、今日こそは上手くいったはずよ」
差し出されたスープの具材は少し芯が残り、パンの端は黒く焦げていた。彼女は頑張り屋さんで、僕のために王都の料理本を片手に四苦八苦してくれていた。
「……美味しいよ、エルキア」
僕がそう言って笑うと、彼女は心底安心したように、少女のような純粋な笑顔を見せた。その笑顔が見たくて、僕は少しくらい硬い肉でも喜んで口に運んだ。それが僕にできる、精一杯の「恩返し」だったから。
しかし、ひとたび訓練の時間になれば、彼女は優しさを脱ぎ捨て、厳格な「師」へと変貌した。 「腰が高いわ! 敵はあなたの成長を待ってはくれない!」 木剣が空を切り、僕の体に鋭い衝撃が走る。彼女の指導は、騎士団の訓練をも凌ぐほどに熾烈を極めた。
昼間はラッシュと塾にも通うようになる。オートン先生という王都から来た老教師は、エルキアと知り合いらしく、時折二人で深刻な顔をして話し込んでいた。
正直、塾の内容は退屈だった。ラッシュも理解力が良くて、いつも一緒にいるのはラッシュだった。僕たちは塾の中でも、少し浮いた存在になっていた。
エルキアの教えは、塾よりもずっと面白く、難解だった。けれど、宗教や教団の話になると、彼女は急に口を閉ざす。
『月の神様って何?』と聞いても、『さあ、それはわからないわ』と、いつも話は短く終わってしまう。
オルダが旅から帰ってくると、読みもしない高価な書物を山のように買ってきた。
僕はこっそりオルダの書斎に忍び込み、その知識を貪った。
いつか、書物の中にあった「寒そうな格好をした女性が並ぶ本」についてエルキアに尋ねたことがあった。
彼女は何も答えなかったが、その晩、オルダの頭と顔がたんこぶと青あざだらけになり、珍しくお酒も飲まずに大人しくしていたのは、今思い出しても不思議な光景だった。
やがて、剣の稽古にオルダも稽古に付き合ってくれるが、オルダの剣技はエルキアのそれとは一味違う。一切の無駄がなく、最短距離で急所を貫く「殺しの技術」だった。「お前は誰かを守る剣を磨け」と、オルダは笑って僕をあしらった。
そんなある日、塾の上級生が「俺、ついに教団の『洗礼』を受けたんだ。これで僕も、月の神様のご加護を授かれる」と自慢げに話していたのを聞き、エルキアの表情が一瞬、凍りついた。
「……明日から、魔法について教えるわ」
ラッシュは魔法の適性がなかったため、修行はエルキアと二人きりになった。
「マナとは、魂を燃料とした霊体エネルギーの火花。それを、魔力に変えて意志という型に流し込むのが魔法よ」
僕には強すぎるマナがあるらしい。けれど、それをコントロールするのが、何より難しく、何より過酷だった。
ある晩、珍しくオルダに頭を撫でられた。
「よく頑張っているな、アルト。お前は何のために強くなりたい?」
僕は、ラッシュが語っていた夢を思い出した。
「ラッシュは、育ての両親に恩返ししたいって。だから、僕もそうなりたい。立派になって、いつまでもエルキアのお世話をしたいんだ。恩返し、したいから」
エルキアは優しく、どこか悲しげな笑顔を浮かべて、僕を強く抱きしめてくれた。
「……ありがとう、アルト。……嬉しいわ」
エルキアの細い肩が、微かに震えていた。
こんなかけがえのない毎日が、いつまでも、いつまでも続くと信じていた。 空っぽのご神体のことも、月の神様の正体も、そして自分が抱えた「マナ」という名の薪が、どれほど残酷な揺り戻しを呼ぶのかも、まだ何も知らなかった。
ヤプールの空は、どこまでも澄み渡り、黄金色の陽だまりが、僕たちの「家」を優しく包み込んでいた。
第二章読んでいただきありがとうございます。ストックはまだありますので、続けてお付き合いいただけますと幸いです。




