第二十一章:すれ違う道
二十一章です。
屋敷の庭園。
アルトとアンジュは井戸の縁に並んで座り、揺れる月影を眺めていた。
思い詰め、塞ぎ込んだラッシュの姿が尾を引いており、二人の間に流れる空気は夜霧のように重い。アンジュは努めて静かな声で話題を振った。
「……ここがアルト殿が生まれ育った場所なのですね」
アンジュの何気ない問いかけに、アルトは一瞬視線を落とし、言葉を選んだ。
「……いえ、8歳くらいまでは別の場所にいたんです。生まれたのはたぶん大きなお城がある街です。……すみません、その頃の記憶がほとんどなくて。アルトって名前も、オルダにつけてもらったんです」
「え? どういうことですか……? 記憶喪失だったと? 名前の記憶すらないのに、なぜお城があったとわかるのです?」
アンジュが驚きに目を丸くする。アルトの瞳には、夜の闇よりも深い、燃えるような色が宿った。
「……目の前が、火の海だったんです。巨大なお城が、真っ赤に燃え落ちていく光景だけは、今もはっきりと脳裏に焼き付いています。僕の本当の両親はそこで亡くなったと聞いています。……あの日、僕を地獄から救い出したのが、オルダとエルキアだったんです」
アンジュは息を呑んだ。7年前、大きな城がある街で起きた大火災——彼女の脳裏に、今は亡き隣国「ティアズ」の悲劇がよぎる。
「……っ、そんな過酷な運命を背負われていたのですね」
「だから、謝らなきゃいけないことがあります。この調査に同行する条件として、エルキアのことを『お母さん』と呼ぶように決められていたんです。……騙すような真似をして、すみませんでした」
「でも、オルダ殿とエルキア殿は夫婦なのですよね……?」
「え? 違いますよ。村のみんなもたぶん勘違いしてますけど」
アルトの告白を聞き、アンジュの中でいくつものパズルのピースが音を立てて繋がっていく。
(……なるほど。あの異常なまでの『お母さん』呼びは、私のような女性をアルト殿から遠ざけるための方便。あるいは、保護者としての歪んだ独占欲の表れだったということ……?)
安堵したのも束の間、アンジュの背筋に奇妙な悪寒が走る。
(でも、これほどまでに執着し、偽りの親子を演じさせる意図は何……? あの夜、不意に見えたエルキア殿の、あの消えてしまいそうな『切なさ』と『はかなさ』……あれは一体……)
安堵と同時に、底知れない「魔窟」の深淵に触れたような奇妙な悪寒が走る。だが、気まずい沈黙を破るように、アルトが視線を泳がせながら口を開いた。
「ええと……その、つまり、ですね。本当の両親はいないけれど、今の僕は……その、不幸じゃないっていうか。特に今回の旅でも、ええ、その……」
「……その?」
アンジュが首をかしげると、アルトは顔を真っ赤にして勢いよく続けた。
「……すっ、すごく、よかったです! 色んなことがわかったし…アンジュさんに会えたことも嬉しいです…何より、その、僕は、貴女のことを……アンジュさんのことを、絶対に忘れませんから!」
「……っ!」
不意打ちの言葉に、アンジュの心臓が跳ねる。
だが、反射的に高鳴った鼓動を、彼女は理性の手で必死に抑え込んだ。
(待て……騙されるなアンジュ! この男はあの『無自覚台風男』よ! 今のこの熱烈なセリフも、彼にとっては『戦友への最大級の賛辞』程度の意味しかないはず。まともに受け取れば、またあの醜態を晒すことになるわ……!)
「……毒蛭での一件は、忘れてほしいですけれど」
あの時の密着した体温、首筋を吸われたこと。思い出すだけで胸が苦しくなり、アンジュは顔を伏せた。
「あ! ああ! あれは……そうですね、忘れましょう! 今すぐ消去です!」
照れ隠しの答えに、アルトは案の定、期待通りの反応を見せた。
(やはり……。私に会えて嬉しいのも、絶対に忘れないのも、この男にとっては純粋な友愛なのね。ああ、もう……!)
残念なような、けれどどこか救われたような。アンジュの口元に自然と苦笑がこぼれる。そんな彼女に、慌てふためくアルトはポケットから小さな包みを取り出した。
「あ、そうだ。これ……を差し上げます。」
(何…?…ええい!騙されるか!!真意を問うのよ、アンジュ)
「…なぜこれを私に?」
「この地方に伝わる銀のネックレスで、破邪や毒除けのご利益があるそうなんです。アンジュさん、危険なこともあるかなと思ったので」
(……ほらね。やっぱり、ただの『護身用具』としての贈り物。嘘でも『僕のことを忘れてほしくないからだ』なんて、この朴念仁が言うはずなかったわ)
「それは、かたじけない。…ありがたく、いただきます…」
アンジュは包みを受け取ったが、そのまま引くつもりはなかった。少しだけ、この無自覚な男を困らせてやりたいという、小さな意地が湧いたのだ。
「次に殿下と旅をする時につけてください。役に立つと思います」
(へ?この包みのまま持ち帰れってこと?非常識だなぁ…)
「……あの、アルト殿が今つけてくれるのではないのですか……?」
「あ……はい。僕が……つけても、いいですか?」
(また、肌が触れて叫び声とかださないかな…)
「……はい、喜んで」
(照れ隠しだったのか、それとも本当に気が回らなかったのか。しょうがないやつ……。でも、この震えだけは、信じてもいいのかしら)
アルトの手がアンジュの首元に伸び、銀細工のネックレスをかけた。至近距離で触れ合う二人の吐息。アルトの指先がかすかに震え、アンジュの頬は夜の冷気の中でも隠しきれないほど紅潮していた。
「これからも、サーガイル様をお守りするお役目、頑張ってください。会えて……本当によかったです」
アルトの言葉は、どこまでも澄んでいた。下心も、駆け引きもない。ただ純粋に、一人の友として、彼女のこれからの無事を祈る聖者のような響き。それが分かってしまうからこそ、アンジュの胸の奥はキュッとしぼんだ。
「明日でお別れですね。アルト殿、私も……貴方に会えてよかったです。」
アンジュは努めて穏やかに、騎士としての端正な微笑を返した。しかし、内心では嵐が吹き荒れている。(ああ、もう。どうしてこの人は、こんな時にまで『良い友人』でいられるの?)という、もどかしさと寂しさが入り混じった溜息を、彼女は喉元で必死に飲み込んだ。
「月の蝕まで、お互い研鑽を欠かさず頑張りましょう。」
どこまでも生真面目な修行の約束。 ああ、やはり。アンジュは自分に言い聞かせるように、そっと心の鎧の帯を締め直した。この男は、自分があれほど赤面して「真意」を問うたことなど、とうに忘れている。それどころか、自分が今、どんな顔をして彼の隣に座っているのかさえ気づいていないのだ。
(期待した私が馬鹿だったわ……。この無自覚台風を相手に、まともな情緒を求めるなんて、風を掴もうとするようなものね)
だからこそ、彼女は決めたのだ。このまま「物分かりの良い友人」として引き下がるのは、女のプライドが許さない。ほんの少しだけ毒を盛り、彼を困らせ、自分の影を彼の記憶に刻みつけてやりたい。
「次に会う時は…ユキシロハナをください」
「え?ユキシロハナ?どんな花かな?」
アルトの間の抜けた問いかけに盛大にずっこける。
エルキア殿には、あんなに嬉しそうに贈っていたじゃない!という嫉妬にも似た苛立ちが、彼女を大胆にさせる。
「……さあ? 自分で調べてください。今夜私を翻弄したペナルティですわ」
突き放すような物言いだが、その瞳には悪戯っぽい光が宿っていた。
(……待って。私、今、何を言ったの?)
脳裏に浮かんだのは、アルトを「息子」として独占し、偽りの親子を演じさせていたあのエルキアの、静謐でいて狂気的な微笑だった。
(欲しいものを、手段を選ばず、相手の事情も無視して自分に縛り付けようとする……。今の私、同じ『歪み』をアルト殿にぶつけていない!? イヤだ……私、彼に対してエルキアさんになってる……!?)
「……あ、それじゃ、殿下のところに戻らなければ!」
「えっ、あ、ちょっ、アンジュさん!?」
困惑するアルト。その動揺すらも「愛おしい」と感じてしまう自分にさらに焦り、アンジュはようやく、逃げ出すように立ち上がった。胸の奥に澱んでいた寂しさは、今や「自分自身の影」への恐怖に塗り替えられ、支離滅裂な感情が彼女を突き動かす。
高鳴る鼓動――それは恋心か、それとも自分の中の「魔窟」の芽生えへの警鐘か。アンジュはアルトに背を向け、一目散に駆け出していった。
そんな若者たちの、一見すれば初々しい――その実、片や「友情」の嵐、片や「情念の魔窟」が吹き荒れるやり取りを、頭上のバルコニーから二人の男が静かに、しかし熱心に鑑賞していた。
「いやぁ、若いって良いですねぇ! あの初々しさ、エール三杯は軽くイケる!」
アンジュの「エルキア化」に怯える乙女心などお構いなしに、上機嫌にジョッキを空にするのはサーガイル王子だ。
「……ケッ。うちの倅のあのアホ面、見ましたか殿下? ネックレス一本かけるのに、あんなに指をプルプル震わせやがって。甘酸っぱいを通り越して、こっちの胸が焼けますよ」 オルダもまた、口角をこれ以上ないほど吊り上げながら、秘蔵の銘酒を喉に流し込む。
「ふむ、アンジュも案外チョロいものだな。城では鉄面皮を貫いているあの娘が、あんな『今にも泣き出しそうな恋する乙女』の顔をするとは……。しかしオルダ殿、あれは脈ありどころの騒ぎではないぞ。あのネックレス、彼女は生涯外さないだろうな」 サーガイルは、獲物を値踏みするような楽しげな手つきでグラスを回した。
「全くだ。こりゃあ案外、次の『月の蝕』が来る前に、可愛い孫の顔が見れるかもしれねぇ。しかし、爪が甘い。大人しくリリースしてしまった、最近のガキは積極性が足りん!どうせならあのまま馬小屋にでも押し込んで、外から鍵をかけてやりゃあよかった」
「ははは!明日の朝、私が直々に「昨晩はお楽しみでしたね。」と声をかけたくなるシチュエーションだ。いや、待てよ。アルト殿がアンジュと結ばれるならば、彼は王家の親衛隊か貴族入り…いや、私の最恐の右腕として囲い込めるわけか。よし決めた、今から直属親衛隊の特等席を空けておこう」
「いいねぇ。そうなると、孫の代までの資産運用計画と、王都進出の利権争奪シミュレーションを書き直さなきゃならねぇ。月の蝕なんてなんぼのもんじゃーい!」
「よし!この新たな素晴らしい商談についてもまとまることを祈念して、もう一杯いこうじゃないか!」
「ククク!!」「ガハハハ!」
闇夜に響く、悪党そのものの笑い声。 若者たちが命がけで悩み、友愛に震えているその一方で、大人たちは彼らの未来を「最高に美味い酒の肴」にしながら、さらに泥沼の利権と縁談の計画を練り上げるのであった。
一人残されたアルトは、自分の掌を見つめ、意識を集中させた。
すると、かすかに大気が震え、指先から透明な波紋が広がった。
「魔法……。僕の中に、こんな力があるなんて。昨日までの僕とは、見える景色が少し違うみたいだ」
未知の力に酔いしれるアルト。だが、その背後から音もなく「紫の影」が寄り添った。
「アルト。……まだ起きていたの」
「……!!あ、エルキア」
心臓がビクッと跳ねたアルトは、照れ隠しに、アンジュにお守りを贈ったことを無邪気に話した。それが、目の前の「保護者」にとってどれほど残酷な響きを持つかも知らずに。
エルキアの瞳に宿ったのは、月光すら吸い込むような、空虚で凍てつく光だった。
「そう……あの子に、お守りを。アルトにとって、代わりのきかない特別な『お友達』になったのね……」
「お友達」という言葉に込められた、不自然なほど冷徹な強調。
アルトは喉の奥が詰まるような違和感を覚えたが、それを彼女の「親心」ゆえの寂しさだと解釈し、気まずさを紛らわすように、親友ラッシュの門出について相談を持ちかけた。
「……そう、ラッシュ君が家を出るのね。寂しくなるわね」
エルキアの声は、あくまで慈愛に満ちた、穏やかな「親心」のそれだった。
しかし、アルトの背中に回された彼女の手は、アルトに悟られぬよう、自分の手のひらに深く爪を食い込ませていた。 慈しむようにアルトを抱きしめながら、彼女自身の掌からは、抑えきれない激情によってじわりと血が滲み出している。アルトの温もりを感じるほどに、彼女は自分を傷つけることで、彼を傷つけたいという衝動を必死に押し殺していた。
「今日はもう寝なさい。明日からは、本格的な修行が始まるわよ。……逃げ場のない、死に物狂いの修行がね」
その声は甘く、けれど逃走を許さない鎖のような響きを帯びていた。
「……うん。おやすみなさい、エルキア」
アルトは、別れ際に優しく抱き寄せられた瞬間の、どこか縋るような温もりに安堵し、心地よい疲れと共に自室へと戻っていった。
一人残された静寂の庭で、エルキアは血の滲んだ自分の掌をじっと見つめた。
そこには、先ほどまで触れていたアルトの体温と、彼から漂う「外の世界」――アンジュの残り香が微かに混じっている。
「ラッシュ君がそうであったように……アルトもいつか、私の手から離れる時がくるのかしら」
彼女の呟きは、夜風にさらわれて消えてしまいそうに儚い。
「私はその時、保護者として貴方の背中を押してあげられるのかしら。……それとも、二度と飛べないように、その翼を私が毟り取ってしまうのかしら……」
ふふ、とエルキアが微笑む。
厚い雲が月を完全に覆い隠し、彼女の瞳からは光が消え去った。
二十一章読んでいただきありがとうございます。




