第二十章:王子歓待祭
二十章です。
ヤプールの北集落は、かつてない熱狂に包まれていた。
広場の中央には、天を衝くような巨大なかがり火が爆ぜ、オレンジ色の火の粉が夜空の星々と競い合うように舞い上がっている。オルダが惜しげもなく開放した蔵からは、数十年ものの銘酒が次々と運び出され、その芳醇な香りは夜の冷気と混ざり合い、村人たちの理性を心地よく溶かしていった。
「村長、急な滞在であったにも関わらず、これほど見事な準備を整えるとは。感服した」
上座に設えられた席で、サーガイル王子は黄金色に輝くエールを湛えた杯を傾けながら、傍らに控える村長へ向けて穏やかに語りかけた。
「それ以上に驚いたのは、この村のインフラだ。下水管理の徹底、共同水場の衛生、そして民の顔色の良さ……。辺境の集落でありながら、王都の貴族街すら凌駕する志を感じる。民を思う貴殿の統治に、心から敬意を表そう」
王子の嘘偽りない労いに、村長は膝を震わせ、今にも泣き崩れんばかりに頭を下げた。
「も、勿体なきお言葉にございます……! ですが、これは私一人の功績ではございません。全ては、あちらにおわすオルダ殿による多大なる『投資』……そして、我ら愚鈍な民を導いてくださった叡智のおかげでございます……!」
村長は溢れる涙を拭いもせず、王子の高潔な人柄と、陰ながら村を支え続けたオルダという男の器に改めて心酔していた。その様子を、オルダは「よせやい」と言わんばかりにひらひらと手を振って、酒を煽っている。
一方、広場の喧騒の中心にはアルトがいた。 同年代の村の若者たちに囲まれ、彼はかつてないほど顔を輝かせていた。
「……それでさ、王子殿下を守りながら、ダンジョンみたいな暗い通路で…壁がドーンって!」
「すげえ! さすがオルダさんの息子だ!」
「アルト、お前いつの間にそんな冒険者になってたんだよ!」
意気揚々と武勇伝を語るアルトを、エルキアは少し離れた場所から微笑ましく見守っていた。アルトが村のコミュニティに溶け込み、誇らしげに笑っている。その事実に彼女は深い安堵を覚えていた。
その輪の端で、アンジュは村の女性たちの熱烈な歓迎という名の「尋問」に晒されていた。
「アンジュ様、王都の騎士団には、やはり美しい殿方が多いのですか?」
「アンジュ様、王都では今、どんなドレスが流行っているのですか?」
「その綺麗な髪、どうやってお手入れを……?」
「素敵な恋人はいるのですか!?」
アンジュは背筋を伸ばし、騎士としての礼節を保とうと努めていたが、その頬は微かに強張っていた。彼女にとって、戦場での死線よりも、この無邪気な善意の波の方がよほど対処しがたい。
「……あれ? ラッシュがいないな…」
アルトがふと、取り囲む村人たちの隙間から周囲を見渡すとラッシュの姿が見当たらない。
「アンジュ、ちょっとごめん! 抜け出そう」
「えっ、あ、アルト殿……!お待ちください!」
アルトはアンジュの手を引いて、二人は喧騒を縫うようにして広場を脱出した。アンジュは執拗な歓迎から逃れられた安堵と、アルトに手を引かれている現状への戸惑いが混ざった複雑な表情で彼の背を追う。
村の若者は走り去っていく二人の背中に、酒の勢いで理性をかなぐり捨てた村の若者たちから、容赦のない「祝福」という名の冷やかしが飛んだ。
「お!アルト頑張れよ!」
「アルト君、実はひそかに狙っていたのにー!王都の美人に持ってかれちゃうなんて!」
「おい大変だ!アルトが騎士様を拐ったぞ!駆け落ちだ、駆け落ちだー!」
広場全体を揺らすような爆笑と、口笛の嵐。
「な、ななな……ッ!?」 アンジュの頬は焚き火以上に真っ赤に染まった。「駆け落ち」という破廉恥な響きに、騎士としての規律と、少女としての動揺が激しく衝突する。
(か、駆け落ち!? そんな馬鹿なことがあっていいはずがない!でも、この迷いのない足取り、私を離さない手の強さは、もしや……!)
アンジュの胸の鼓動が、祭りの太鼓よりも激しく打ち鳴らされる。彼女は耳まで赤くしながら、意を決して震える声で問いかけた。
「ははは!みんな酒が入るといつもあんな感じなんです。気にしなくていいですよ!」
「気にせずになどいられるものですか! というより……アルト殿!」
アンジュは強引に足を止め、アルトの手をギュッと握りしめ返して、彼の顔を覗き込んだ。
「……何なのですか、この状況は! 私を急に連れ出し、一体どこへ行こうというのですか。……あなたの、その……し、真意を、聞きに来たいです!」
聞かぬまま流されるほどの覚悟は持ち合わせていない。アンジュの瞳は、期待と不安、そして羞恥が入り混じり、潤んでいるようにも見えた。
「ああ、ごめん。……ラッシュがいないんだ」
「……ふぇっ!?」
思いもしない答えに、表情筋が制御不能となり顔面が崩壊する。
「さっきからずっと探してるんだけど、どこにもいない。こういう時に一番盛り上がるやつなのに……心配なんだ。アンジュさん、ラッシュを捜すのに協力してください」
「…………。」
アンジュは、数秒の間、呆然と固まった。 心臓の鼓動が急激に平熱へと戻っていく。いや、むしろ冷めていく。顔の筋肉は虚脱したかと思うと、今度は別の意味でヒクヒクと引き攣った。
(…あー、そういうこと。はいはい、そういうことですか。ラッシュ殿の捜索協力でしたか…)
「わかりました!さっさと心当たりの場所を教えてください。手分けして捜しますよ!」
「ありがとうございます。アンジュさん!」
(あれ…なんか怒ってる?宴の席にいたかったのかなぁ…悪いことしちゃったな)
アンジュは深く、深い溜息をついた。
(やはり、この男は。無自覚に周囲を巻き込み、翻弄する『無自覚台風男』だわ……!)
無邪気に笑い、再び走り出すアルト。その背中を追いながら、アンジュは(絶対にいつか、その天然な鼻柱をへし折ってやる……)と、固く心に誓うのだった。
集落の端、静まり返った塾の屋根の上に、月光を浴びて座り込む影があった。
「……やっぱりここか」
アルトが軽やかに屋根に飛び乗る。アンジュもまた、アルトの手を借りて重い革靴で音を立てずに隣へ降り立った。
「どうしたんだよ、ラッシュ。主役の一人がこんなところで。おじさんもおばさんも、お前を探してたぞ」
ラッシュは膝を抱えたまま、視線を遠い村のかがり火の光に向けたまま動かない。その横顔は、祭りの喧騒を拒絶するような、深い静寂に満ちていた。
「……アルト、アンジュさん。俺さ、さっき母さんから聞いたんだ」
ラッシュの声は、夜風にさらわれて消えてしまいそうなほど細かった。
「……母さん、妊娠したんだってさ。新しい命が、この村に宿ったんだ」
「えっ! 本当か!? おめでとう、ラッシュ! 兄貴になるんだな!」
アルトは自分のことのように拳を握り、歓喜した。アンジュもまた、その端正な顔立ちを和らげ、静かに頷く。
「……それは、何物にも代えがたい慶事ね。命の継承は、この国の礎だわ。おめでとう、ラッシュ」
だが、二人の祝福は、ラッシュに届く前に凍りついた。
「……慶事、か。ああ、そうだろうな。父さんも母さんも、幸せそうな顔をしてた」
ラッシュは、自分の灰色の毛皮に覆われた腕を、自嘲気味に見つめた。
「でもさ、俺はワーウルフなんだ。父さんも母さんも人間で、俺は『代わり』だったんだよ。子供が授からないと諦めていた二人が、雪の中に捨てられていた俺を拾ってくれた。それは感謝してる。死ぬまで返せない恩だと思ってる。……でも、血の繋がった『本当の子』が生まれるなら、俺という『異物』は、幸福な家庭にとっての邪魔になるんじゃないか?」
「何言ってんだよ!」
アルトが詰め寄る。
「お前は、あのおじさんとおばさんの息子だろ! ずっと一緒に育ってきたじゃないか!」
「アルト、お前はいいよな……」
ラッシュが、初めてアルトに鋭い視線を向けた。
「お前はオルダ様と、エルキアさんが保護者として育てられ、愛されて……この村の誰もが、お前がここにいることを疑わない。でも俺は? 俺がここにいる理由は、『子供が欲しかった夫婦の温情』だけだったんだ。その前提が崩れた今、俺がこの村に居座り続けるのは……ただの厚かましい居候じゃないのか?」
似たような境遇でありながら、決定的な違いがあると指摘するラッシュ。
「……。」
返す言葉が見つからないアルト。
「それは違うわ、ラッシュ」
アンジュが冷徹なまでの、だが真摯なトーンで割って入った。
「あなたの言動は、拾って育ててくれた両親への冒涜よ。血脈だけが家族の定義ではないわ。王都の貴族であっても、養子を継承者とし、実子以上に厳しく、そして深く愛する家門はいくらでもある。あなたが自分を『異物』と呼ぶのは、彼らのこれまでの年月を否定することと同じよ」
「アンジュさんには、わからねぇよ……!」
ラッシュの声が震える。
「あんたは『王都の近衛騎士』という、確固たる居場所がある! 規律や忠誠という、揺るがない柱がある!でも俺は一人の村人だ、何もない! この毛皮を剥げば、俺には何が残るんだ!? 血も繋がらない、種族も違う……そんな俺が、新しい赤ん坊の隣で、平然と『兄です』なんて言えると思うのか!?」
「言えばいいじゃない! それがあなたの義務よ!」
アンジュの言葉は、正論という名の刃となってラッシュを射抜く。
「居場所とは、他者から与えられる施しではなく、自らの足で立ち、守り抜くことで獲得するものだわ。あなたがその家族を愛しているなら、引くのではなく、より一層強く、その家を支える柱になりなさい。それが『選ばれた者』としての責任よ」
「選ばれた……? 俺は、選ばれたんじゃない。拾われたんだよ」
ラッシュの瞳から、光が消えていく。
「ありがとよ…。二人の気持ちはありがたい。でもこれは俺自身が納得できる答えを出さなきゃならねぇ」
アルトの「無垢な肯定」も、アンジュの「高潔な正論」も、今のラッシュには毒にしかならなかった。彼が求めていたのは、この胸を掻きむしるような疎外感への共感であり、解決策の提示ではなかったからだ。
「……だったら、うちに来いよ、ラッシュ」
アルトが、縋るように言った。
「オルダもエルキアも、お前を拒まない。修行だって、一緒にやればいい。お前が俺の兄弟になればいいんだ!」
その瞬間、ラッシュの脳裏に、オルダのあの底知れぬ瞳と、エルキアの静謐なる圧迫感がよぎった。
(……お前の家? ああ、お前は本当に優しいよ、アルト。でもな、あの家は『怪物』の巣窟だ、魔窟なんだよ。お前という光があるから成り立っている、異常な空間なんだ。そこに俺のような『迷い子』が転がり込んでみろ…俺の寿命は月単位でゴリゴリ削れるんだよ!あの魔窟に平然と居座れるのは、もう死んで魂だけになってる『りっちゃん』くらいなもんなんだ!)
「……悪い。少し、一人にしてくれ」
ラッシュは二人から目を逸らし、屋根の反対側へと背を向けた。
「考えさせてくれ。……アンジュさんの言うことも、アルトの言うことも……正しいんだろうな。でも、今はそれを飲み込めるほど、俺の胃袋は丈夫じゃないんだ」
「ラッシュ……」
アルトが手を伸ばしかけたが、アンジュがその制服の袖を静かに引いた。
「……行きましょう、アルト殿。これ以上は、彼自身が乗り越えるべき壁です。他人が無理に引きずり出しても、心は壊れるだけだわ」
二人が屋根を降りる音を聞きながら、ラッシュは深く、重いため息をついた。
その視線は、もはや祝祭の火を見てはいなかった。
(……結局、誰も分かっちゃくれない。アルトも、アンジュも……。このままじゃ、俺はいつか、あの二人を憎んでしまう。……あの人なら。あの『怪物』なら、この泥沼のような俺の心を、どう料理するんだろうか……)
集落を見下ろす屋敷のバルコニー。 そこには、宴の喧騒から隔絶された静寂があった。二人の「怪物」が静かに対峙していた。
「オルダ殿。単刀直入に問おう。貴殿がこの村に施しているのは、単なる投資の域を越えている。慈善活動というわけでもあるまい……貴殿は何者だ?」
サーガイルの鋭い眼光がオルダを射抜く。
「この村のインフラ、防衛設備、高度な教育制度、そして何より私を招待した際の手際の良さ。王家への忠誠心……とまでは言わぬが、少なくとも反意がないことはわかる。このもてなしと、さりげなく出された食器の数々からも、貴殿が私に隠し事をするつもりがないと察しがつく」
オルダは、食えない商人の顔で肩をすくめた。
「私は守りたいもののために一度全てを失いましてね。今はただの息子が可愛くて仕方のない親馬鹿な商人ですよ。」
オルダは懐から空の小さな小瓶を取り出し、月にかざした。
「…こちらも単刀直入に商売の話をしましょう…そういえば、こんな変わった商品がありまして。『国を蝕む蛆虫』に特効のある殺虫薬なのですが、需要がないのかちっとも売れねぇ。どうでしょう、王子。お一ついかがです?」
サーガイルの指が、グラスを握る力を強めた。
彼が真に憂いているのは、税を貪る地方貴族だけではない。王家に対し「神の代弁者」を自称し、救済という美名の下で国政を操り、民を洗脳しようとする巨大な教団の勢力。
「……その蛆虫は、聖なる法衣を纏い、光の裏で牙を研いでいる。たとえ祈りの声にかき消されようとも、その薬は届くのか?」
「ええ。光だろうが闇だろうが、国を蝕み、民の生き血をすする虫に変わりはありませんからな。……王子、そろそろ本格的な商談と参りましょうか」
オルダの瞳に宿った深淵の光を見て、サーガイルは確信した。この男は味方としてこれ以上なく頼もしく、そして敵にすれば一瞬で国が灰になる。
「代価は惜しまない。……その『殺虫薬』、詳しく聞かせてもらおう」
「ありがとうございます、殿下。」
二人は静かに酒杯を重ねた。王国の闇を掃討し、新たな時代を切り拓くための、奇妙で強力な協力関係が、ヤプールの片隅で産声を上げた瞬間だった。
二十章読んでいただきありがとうございます。




