第十四章:月の蝕と世界の欺瞞
十四章です。
「クリスタルレコード」
それはかつて、失われた神話の時代に作られた世界の理を記録したとされる伝説の遺物である。古代の超技術をもってしても、滅びの運命に逆らえなかった。そんな文明が最後に後世に残そうとしたものとは何だったのか…。
昨日までのアルト達にとって、世界はもっと単純な場所だった。
己を鍛え、獲物を狩り、今日を生きる。明日のために田畑を耕し、種をまく。
しかし、この数日でその前提は音を立てて崩れ去っている。アルトとラッシュは、もはや言葉を失い、魂が抜けたような表情でその光景を見つめていた。
アンジュがアルト達の叫び声に驚き、天幕から慌てて出てきて時間差で驚くことになる。
「エルキアさん! 一つ、いえ、一生のお願いがあります!」
サーガイルが、王族としての矜持をかなぐり捨て、膝を折るようにして身を乗り出した。焚き火の光に照らされた彼の眼鏡の奥には、狂気にも似た知識への渇望が宿っている。
「嫌です」
食い気味に放たれた、氷のような拒絶。
「そこをなんとか! 報酬は思いのままで良い! 国庫を傾けても、あるいは私の地位を全て投げ打っても構わない! この石碑群の内容をすべて、その智識で解読してほしいのです! これは、失われた真実を求める人類の……歴史そのものの総意なんだ!」
エルキアの動きが、ふと止まった。 彼女がゆっくりと顔を上げると、その瞳には、周囲の気温を数度下げるような、薄ら寒い光が宿っていた。
「……アルブール王国の国土が蒸発し、民が灰となって地図から消えても、その『総意』とやらは変わらないのですか?」
その言葉に含まれた絶対的な破滅の予感に、サーガイルの喉が鳴る。
ダメだろ、その力の片鱗をダンジョンで見ただろ、と言わんばかりにラッシュが、文字通り泡を食って割り込んだ。
「サーガイル様、王国の民の総意を代弁させてもらいます……わがままは我慢してくだせぇ! 死んだら歴史もクソもありゃしねぇ!」
魔王に等しい聖女の逆鱗に触れれば、王国の歴史そのものが「過去形」になりかねない。
「わかってはいる…だがここまで命をかけてたどり着いたのだよ、未知の入り口に!それでエルキア殿に殺されるならそれも本懐!」
(人聞きが悪い。私が国を滅ぼすつもりでそんなこと言ったわけではないんですが…)
「はぁ……」 エルキアが深く、重いため息を吐く。それは、愚かな子供を諭す親のようでもあり、世界の浅ましさに絶望した神のようでもあった。
エルキアが傍らから無造作に拾い上げたのは、先ほどまで肉を焼いていたのとは別の、風化の激しい石碑の断片だった。
「……これは?」
サーガイルが割れ物を扱うように震える手でそれを受け取る。
「およそ700年ほど前のものですね。そこに記されているのは、直近に起きる『月の蝕』の発現時期です」
その言葉に、焚き火を囲む一同の空気が凍りついた。
「月の蝕」……。この世界に生きる人類で、その名を知らぬ者はいない。
それは数十年、あるいは百数十年の一度の周期で月が欠け、闇が地上を支配する不吉な予兆。ひとたび起これば、生きとし生けるものに甚大な災いをもたらす。天変地異が荒れ狂い、凶作による飢饉で影響は数年間にも及ぶ。魔物たちは血に飢え、街道は断たれ、人の営みは数十年分後退する。人類の歴史とは、次の災厄が来るまで必死に埋める作業の繰り返しと言っても過言ではない。
「……私の計算結果とも合致しており、この石碑の予想時期は正確です。3年と半年後に月の蝕が起こります」
3年半後…そう遠くない未来。成人となり、希望に満ちているはずのその頃に、世界は闇に包まれるという宣告。
エルキアは、まるで明日の天気を告げるような平坦な声で続けた。
「この石碑には記載されておりませんが……。私の見立てでは、この時期に発生する蝕は『ブラッディ・アイ(紅き眼)』で間違いありません」
「ブラッディ……アイ……っ!?」
サーガイルの顔から、完全に血の気が引いた。
ただの蝕ではない。月が血のように赤く染まる「ブラッディ・アイ」は、過去に一度だけ記録があり、魔物たちは理性を失って暴走し、人の街を蹂躙する。その時は一つの帝国が地図から消滅したとされる伝説的な大災厄だ。その魔物を鎮めるために人とエルフ、多種族が結束し、そして魔王とすら力を合わせたという。
エルキアは、そんな周囲の戦慄など意に介さず、冷ややかに告げた。
「今回の考古学調査の結果について……。サーガイル様、殿下が本当に持ち帰るべきは、古い言葉の断片ではなく、この『絶望の予定日』です。一日も早く人類に警鐘することが大事なのではなくて?ましてや、学会にクリスタルレコードの発見を発表すれば、その自己実現欲求を満たすために命を落とすことになります。どうして、誰に狙われるか。王族である貴方なら、既にご存じのはずでしょう?」
「あぁ、やつらの権力は絶大だ。父上が国と国民のためにどれほどの忸怩たる思いをしたか、僕は知っている。」
「殿下…」
アンジュが眉間にしわを寄せて険しい表情になる。彼女が守ってきた「国」の裏側にある、救いようのない腐敗。
「御心の内をお聞かせいただきありがとうございます。殿下の宿願はまた別の場所で…」
「う、うむ。」
ずっと黙って話を聞いていたアルトの中で、正体不明の違和感が爆発した。それは、ずっと信じていた「保護者」への不信感ではなく、あまりに巨大な秘密を一人で抱え込んでいる彼女への、やり場のない憤りだった。 彼は弾かれたように立ち上がり、震える声で叫んだ。
「ちょっと待ってよ、エルキア……! 月の蝕がいつ起こるのか、そんなに前から知っていたなら……なんでもっと早く、みんなに知らせないんだよ! エルキアなら、世界を救えるんじゃないのか!?」
「アルト、少し考えればわかることよ」
エルキアは視線すら向けず、話を続ける。
「私は正しいことを『知る』ことはできても、それを他者に『信じさせる』ことは難しいの。だから、サーガイル殿下の立場を利用しようとしている。この意味が、まだわからないかしら?」
「うん…でも!でも、さ…」
ラッシュは、親友の背中を見つめながら、絶望的なまでの認識の乖離を感じていた。
(違うんだ、アルト……。俺がずっと感じてた違和感の正体が、今わかった。アルトを教団から身を隠すためだけじゃなかった、一連のオルダ様とエルキアさんの動きは月の蝕の災厄からアルトとそれを取り巻く世界を守るためでもあったわけだ。もう何年も前から地道な準備をしてきたんだ…それなのに、その言葉はないぜ、アルト)
ラッシュの中で、いくつものバラバラだった情報が一本の線で繋がる。しかし、その真実に気づかぬアルトの姿が、今はひどく幼く、危ういものに見えた。
「…っ!」
アンジュはアルトを睨み、すっと立ち上がる。こみ上げる力を右手に込めたまま、アルトに近づいたその時だった。
「アンジュ!」
サーガイルの一喝が空気を切り裂く。
「殿下!?しかし…!?」
アンジュはサーガイルの制止に身体を硬直させる。
「…アルト君。君は、君の母上を『全能の神』だとでも思っているのかい?」
サーガイルはアルトの答えを待たずにそのまま語りだす。
「考えてもみたまえ。エルキア殿が一人で『蝕が来る』と叫んで、誰が信じる? 教団か? 学会か? ……いや、彼らは狂喜乱舞して彼女を捕らえるだろう。『災厄を予言して世界を脅かす魔女』として…ね。あるいは『災厄を引き起こす元凶』として、処分されるか」
アルトの息が止まる。
「この世界はね…悔しいけど残酷なんだ。正しいことを正しく行う者が、正しく評価される世界じゃない。…王族である僕も歯がゆい想いをしている。僕がなぜ、『泥にまみれてガラクタ集めをする変人王子』と呼ばれながら、歴史の真実を追い求めているのか――。」
「殿下!おやめください!」
アンジュの制止の叫びに、サーガイルは静寂を編むように人差し指を立てて口に寄せ、空いた方の掌が「待て」の形を象ってアンジュの燃え盛ろうとしている心を拘束する。
「この国が長く平和でいられるのには秘密があるんだよ。僕の父上…つまりは国王が教団から脅された結果、膝を屈して平和を…買ったんだよ。その代償は大きく、目先の国民の命と幸せを選んだ結果、この国を長く蝕む闇が溶け込んだ。その闇が少しずつ民を侵し始めても何もできない…泥水をすする思いだよ。しかし、真実は語れない。真実を語れば国が滅びるからだ。民が飢えるからだ。…力なき正義は、ただの『自害の種』でしかない」
焚き火の光が、サーガイルの眼鏡に反射して白く光る。
「だからこそ、僕は歴史の遺物に刻まれた真実によって、彼らの欺瞞を白日の下に晒したいと思っている。人が誰かの思惑に歪められることなく、本来の人らしく過ごしていけるためにね」
サーガイルは視線をアルトからエルキアへと移す。その瞳には、恐怖を通り越した「共感」が宿っていた。
「エルキア殿は、君を守るために『沈黙』という最大の武器を選んだんだよ。彼女が一人で、人類すべての無知と悪意を背負って、君が大人になるまでの時間を稼いでいたんだ。……それを『なんでもっと早く言わないのか』と責めるのは、あまりに酷だとは思わないかい?」
「……っ」
アルトは言葉を詰まらせる。サーガイルの言葉は、アンジュの拳よりも深く、鋭くアルトの未熟さを抉った。
「いいかい、アルト君。君の母親が今やろうとしているのは、僕という『王族の証明』を利用して、ようやく世界に真実を突きつけるという、極めて危うい綱渡りだ。彼女は今、君を、そして僕らを連れて、教団という巨大な怪物の喉元に飛び込もうとしているんだよ」
サーガイルは、自嘲気味に笑った。
「……君は、彼女の隣でその覚悟を支えるのか。それとも、いつまでも『何も知らされていなかった子供』として、彼女の足を引っ張り続けるのかい?」
沈黙が場を支配する。
エルキアは、サーガイルの饒舌な代弁を、否定も肯定もしないまま、ただ冷たく、透き通った瞳で夜の闇を見つめていた。その横顔は、確かにサーガイルの言う通り、世界中の孤独を一人で飲み込んでいるように見えた。
「…ごめんなさい!エルキア!僕が間違ってました!」
アルトはあふれる気持ちを抑えきれず、嗚咽混じりに叫んだ。全力でエルキアに謝ることしかできなかった。しかしそれは、叱られて泣く子供の姿ではなかった。自分の無力さを自覚し、それでも一歩前に進もうとする者の、痛切な産声だった。
「大丈夫よ、アルト。気持ちは十分に伝わっているわ」
エルキアはしゃくり上げるアルトの背中に掌をあて、寄せては返す波のようなリズムでゆっくりと撫で下ろした。
「ははは、そうだよ、間違えたら全力で謝って悔い改めればいい。そしてただひたすらに自分が信じる光に向かって走るんだ。大人たちや王族ができないそれは、守るべきものを多く持ちすぎた大人や王族にはできない、守るものを持たざる子供の特権だよ」
純粋な子供を羨ましくも感じながら、サーガイルの笑みがこぼれる。
「いや、守るものがある!守るんだ!エルキアを!そのために誰よりも強くなる!!」
(アルト殿…。貴方の強さの根源はそれだったのね。)
アンジュは唇を咬みながらポツリとつぶやく。
「…ったく、ダチの存在を忘れてねーか?自分一人で抱え込むんじゃねーぞ」
ゴロンと横になって、アルトに背を向けながら目を閉じてアルトに語りかけるラッシュ。
「……ん、わかってるよ。ありがとな、ラッシュ」
アルトは袖で乱暴に涙を拭い、鼻を鳴らした。その視線はもう、足元の地面ではなく、自分たちを飲み込もうとしている広大な闇へと向けられている。
エルキアは、相変わらず何も語らず、ただ静かに子供たちのやり取りを見守っていた。 その横顔は、冷たい月光を透かす氷細工のように静謐だ。サーガイルやアンジュの目には、彼女は世界中の孤独を一人で飲み込み、泰然と構える「孤高の観測者」に映っていただろう。
だが、その内側では、いまや決壊寸前のダムのような、狂おしいまでの歓喜が渦巻いていた。
(……あぁ、なんてこと……!)
平然と膝に置かれた彼女の指先が、呼吸を忘れるほどに震えていることに気づく者は誰もいない。 胸を満たしているのは、純然たる、圧倒的なまでにこみ上げてくる感情だ。 あんなに小さかった背中が、いつの間にか、自分を守ると誓うほどに大きくなっていた。その成長の結実が、保護者として傍に居続けた彼女は、現在『お母さんごっこ』で母親を演じている。この「お母さんごっこ」が、麻薬のように彼女の感情を増幅させ、至福の絶頂へと突き上げていた。この甘美な感覚が、少しずつ、しかし確実に彼女の「芯」を侵し始めていることに、彼女は気づいていない。
(あぁ、アルト……私の可愛いアルト。今の言葉、天上のどの旋律よりも、私の魂を震わせるわ……)
しかし、その圧倒的な感情の波間に、一瞬だけ、説明のつかない熱がよぎった。
それは、迷いのない強固な意志で「守護」を誓われたことに対する、言いようのない心の揺らぎ。 「保護者」という自認の裏側で、彼女自身も得体の知れない不慣れで小さな火花が、少年の放った純粋な言葉に触れて、ほんのわずかにはじけたのだ。
(……どうしたのかしら。鼓動が、いつまでも静まらない……)
彼女は深い呼吸を繰り返し、その説明のつかない微かな火照りを、『保護者』という巨大な海の中へと沈め、覆い隠した。
「冷えてきたわね。……今日はもう、休みましょう」
ようやく絞り出した声は、幸いにもいつもの静謐さを保っていた。 エルキアは立ち上がり、焚き火の爆ぜる音に紛れさせて、トク、トク、と暴れ続ける胸の鼓動をそっと掌で押さえる。
夜風が天幕を揺らし、パチリと爆ぜた火の粉が星空へと吸い込まれていく。 突きつけられた未来はあまりに重く、昏い。 けれど、焚き火を囲む五人の影は、先ほどよりも少しだけ濃く、力強く地面に刻まれていた。
十四章です。月食って年に約1〜2回あるみたいです。場所によって異なるから世界の災厄にするの無理がない!?とか言われそうですが…そこは、目をつぶってくださいませ…。




