第十三章:クリスタルレコードの証明
十三章です。
アンジュが泣き疲れ、その細い肩を震わせながら天幕へと運ばれてから、一時間が経過した。
キャンプ地を包む森の空気は、夜が深まるにつれて密度を増し、湿った冷気が肌を刺す。ラッシュが無言で薪を焚べると、爆ぜる火の粉が闇に吸い込まれていった。
アルトは、いまだ落ち着かない様子で、何もできずに火を見つめていた。近衛騎士として普段は凛としているアンジュが、あれほどまでに感情を露わにし、自分でも制御しきれないほどの激情に身を任せた。その事実に、胸の奥がざわついている。
そこへ、アンジュを寝かしつけたエルキアが戻ってくる。彼女の足音は、湿った腐葉土を踏む音さえさせないほど静謐で、まるで夜の精霊が実体化したかのようだった。
「……アンジュさんは落ち着きました。少しすれば、また戻ってくるそうです」
「いやぁ、アンジュにあんな一面があったとはね。近衛騎士の間でも悲恋の歌劇に夢中になる者はいるが……エルキアさん!それはそれとして、私にはどうしても、今この瞬間に解決せねばならぬ渇きがある!」
場を切り替えるように、サーガイルが身を乗り出した。
「懐のクリスタル・レコードについてだけでも。これに何が記されているのか、古の知恵に通じる貴女ならば……その端緒だけでも掴めるのではないか?…人類が数千年にわたって追い求めてきた『真理の欠片』が封じられているはずなのだ!…」
エルキアは静かに溜息をつき、その冷徹なまでに澄んだ視線をサーガイルの手元へと落とした。彼の手には、月光を吸い込んで鈍く光る、クリスタルが握られていた。
「はぁ……。何度も申し上げますが、それは私にもわかりません」
アルトはエルキアのそっけない態度を見て、(ああ、まただ)と思った。教団について質問した時と同じ、踏み込ませない拒絶の気配だ。
「サーガイル様、このクリスタルレコードはいつ頃に作られたとお考えですか?」
エルキアの問いは、試験官のような冷ややかさを帯びていた。サーガイルは喉を鳴らし、自身の知識の貯蔵庫から、もっとも洗練された言葉を引き出す。
「……三千年前だと確信している。大陸全土を揺るがした未曾有の大地殻変動。それによって、当時もっとも栄華を極めた『西の海洋王国』が、一夜にして海の底へと消滅したという言い伝えがある。その王国では、光を石に閉じ込める技術があったとされるが、王国の沈没と共にその製法も含めて全てが灰燼に帰した。……これが現在、考古学会においてもっとも有力、かつ盤石な説だ。異論の余地はないはずだ」
サーガイルの言葉には、考古学にこれまで捧げてきた自負が込められていた。だが、エルキアは憐れむような、それでいてどこか冷酷な微笑を浮かべた。
「なるほど……。知識とは、時に盲目をもたらす毒になりますね。それでは今から、その説を完璧に否定できる『実証実験』を行いましょう。……サーガイル様、このレコード以外に、比較対象となるクリスタルの宝石をお持ちですか?」
「あぁ、これならどうだ? 私のコレクションの中でも最高級、一点の曇りもない極上品だ」
手渡されたのは、大人の握りこぶしほどもある、見事な原石をカットしたクリスタルだった。焚き火の光を乱反射させ、その周囲だけが昼間のような輝きを放っている。
「結構です。サーガイル様、その宝石を『授業料』としていただいてもよろしいでしょうか? 二度と元の形には戻りませんが」
「あ、ああ。構わんよ。真理の欠片に触れる代償としては、安いものだ」
サーガイルが頷いた瞬間、それまで無言で成り行きを見守っていたラッシュが、財宝の山を見るようなギラついた目で叫び出した。
「これは……!?正気か!? それ、ただのクリスタルじゃねえぞ!ものすごい値打ちもんだろ」
「特注品のクリスタルだよ。 ほら、文字の上に置けば大きく見える。職人が一生かけて磨き上げ、透明度の高い自慢の逸品だ」
ラッシュの叫びを、エルキアは風のように聞き流した。彼女はそのクリスタルを手に取ると、まるで道端に転がっている河原の石でも扱うように、ひょいひょいと宙に放り投げ、軽薄に弄んだ。
「はい、アルト。この硬いクリスタルは、この世界の常識では、どうやってこの形に加工されるのかしら?」
「……同じ硬度を持つクリスタルで削ったり、クリスタルの砂粒で磨いたりするんだよね? 何ヶ月も何年もかけて。それ以外の方法は誰にもできないはずだよ」
アルトの常識的な回答に、ラッシュも、そしてサーガイルも深く頷く。石を削るのは苦行であり、芸術であり、そして時間の集積である。それがこの世界の理だ。
しかし、エルキアは静かに、そして残酷に首を振った。
「……残念。不正解です。お母さんは、そんな面倒なことはしません」
エルキアが、指先に微かな、陽炎のような揺らぎを込めた。
「お母さんなこうやって加工します」
次の瞬間。
音も、衝撃も、光すらもなかった。
ただ、物理法則がその場所だけ書き換えられたかのように、エルキアの手の中であっという間に「輪切り」にされた。まるで熟した果実を鋭利なナイフでスライスするように、硬質な結晶が紙のような薄さで何枚も重なり、地面へと滑り落ちた。
「「「えええええええーーーーー!!!」」」
一同の絶叫が静まり返った夜空に吸い込まれていった。
サーガイルの宝物であったクリスタルは、エルキアの手の中であっという間に輪切りにされ、恐ろしいほど薄くスライスされて断面は鏡のように滑らかで、月光の下で虹色の干渉縞を描いている。
サーガイルは、膝をつき、バラバラになった愛石の破片を拾い上げた。その手は、先ほどとは違う意味で激しく震えている。
「……バカな。あり得ん。あり得てたまるか。魔法は、破壊のエネルギーか、精々がエネルギーを物理的、化学的に転用する程度のもの。……物質の『結合』そのものを無視して、これほどまでの精密な切断を行うなど、それはもはや神の業ではないか……」
「まさにそれです。『物質の結合』を切断しています。魔力をコントロールすれば神でなくてもできます」
「我々の常識のなんと浅はかなことよ、最高の職人を集めて技術の粋を我が手にしたと誇っていた自分が愚かだった」
サーガイルの瞳からは、先ほどまでの熱情が急速に失われ、まるで死んだ魚のような、空虚な光だけが漂っていた。
「曲面も作れますわよ。……そうですね、この破片を使って、サーガイル様の眼に合わせた『眼鏡のレンズ』を作って差し上げましょうか」
「クリスタルの眼鏡か、世界が変わって見えるだろうな……ははは」
サーガイルは力なく笑い、地面に座り込んだ。 一方、ラッシュは目の前の財宝を一瞬で「破壊」したエルキアの思い切りの良さと、その背後に透けて見える圧倒的な力の差に、もはや言葉を失っていた。ツッコミを入れることすら、命を削る行為に思えたからだ。
「話がズレましたね、クリスタルの加工はこの通り、魔力でなんとでもなります。それは見ての通りです」
(なんとでもならねーよ!)というツッコミを返す気力も無いアルトたち。
スッと、クリスタルレコードを手に取り、焚き火の光にかざし、アルトたちに近づける。
「ここからが本題です。よく見なさい、クリスタルレコードの表面とそこに刻印された文字を。……何か、違和感を覚えませんか?」
アルトはエルキアに促されるまま、その結晶を凝視した。
「あ……! ほんとだ。これ、文字が表面に彫られてるんじゃなくて……石の『中』に浮いてる!?」
「その通りです」
エルキアの言葉に、サーガイルが弾かれたように顔を上げた。死んだ魚のような目に、再び学究の火が灯る。ただし、それは先ほどのような傲慢な火ではなく、未知の深淵を前にした恐怖の火だ。
「この加工は至難の業です。複数の方向から魔力を発し、その交点だけがクリスタルを削るように精密に制御しなければなりません。お母さんも点くらいは作れますが…これほど複雑で、かつ規則的な数万もの文字を、一寸の狂いもなく彫ることは不可能です。……いいえ、人間に可能な業ではありません」
そこには、肉眼では捉えきれないほど微細な、しかし確実に意思を持った「記号」の羅列が、クリスタルの深層に埋め込まれていた。
「つまり、これは手作業ではなく、何か想像を絶するほど巨大で精密な『演算機械』のようなもので彫られたものと考えられます。そして、貴方方が誇る『三千年前』の歴史はおろか、有史のあらゆる記録に、そのような文明の痕跡はありません」
「……待て。では、貴女はこれがいつの時代のものだと言うのだ!?」
サーガイルの問いに、エルキアは夜の闇を指差した。
「少なくとも、六千年以上前。あるいは、一万年以上……。魔王の侵攻によって、人類が一度その歴史を断絶させられた『以前』。神話ですら語ることを忘れた、かつての黄金時代の遺物です」
「六千年以上前……神話クラスの遺物じゃないか!!」
サーガイルの叫びは、もはや悲鳴に近かった。
「これを解読するのは……。我が人生の残り全て、いや、我国が全て投げ打ってでも、それだけの価値がある……! 聖典に記された『神々の時代』、その真実が、今この掌にあるというのか!」
彼の震えは止まらない。 魔王の侵攻。人類の半数以上が死に絶え、文明の九割が焼失したという大きな災厄。その直前まで、人類の発展は目覚ましい隆盛を迎えていたという。海を渡り、空を飛び、天土の全ても掌握せんとした誇り高き先祖たち。 だが、その文明はあまりにも呆気なく崩壊した。
このクリスタルレコードはそんな神話の時代から、気の遠くなるような年月を沈黙の中で過ごし、時を刻んできたのだった。
「お母さん…これには、何が書いてあると思う?」
アルトの問いに、エルキアは少しだけ悲しげな目を向けた。
「…ある文明が滅びゆく間際、最後に遺した絶望に近い『遺言』の波動を感じます。…少なくともアンジュさんの琴線に触れたような恋の詩ではないわ…アルト。貴方は、知りたいですか? 全てを知り、神の如き力を得た後に待っている、底なしの絶望を」
アルトは返事ができなかった。
その言葉の真意を理解できる者は、そこには誰もいなかった。 ただ、夜風が一段と冷たくなり、焚き火が最後の一際強い輝きを放って、静かに灰へと変わっていった。
十三章読んでいただきありがとうございます。6000年前に魔王に世界が蹂躙されて人口は10分の1になったという世界設定を入れています。エルフ族の支援で人種は復興していきました。




