第十一章:鉄の乙女
十一章です。近衛騎士のアンジュ視点です。今までの流れからすると、幕間でもよかったのではとも思います。
西日に焼かれ、どろりと紅く染まった巨石柱の群れ。それが視界に入った瞬間、私の喉の奥から乾いた笑いが漏れそうになった。古代の英雄を祀るための聖域だというその場所は、今の私には、騎士としての私の死を弔うための、巨大な墓標の列にしか見えなかった。
閉鎖空間という名の、生者と死者が逆転した地獄。そこから五体満足で生還したというのに、私の心には達成感など微塵も、欠片も存在しなかった。ただ、鉛を流し込まれたような重い疲労と、拭い去ることのできない「屈辱」の泥が、全身を重く引きずっている。
(私は、騎士として……失格だ)
一歩踏み出すごとに、銀色の脛当てがカチリと音を立てる。その音さえも、今の私には嘲笑に聞こえた。 首筋に残る、あの熱い、焼けるような感触。 アルト殿に「馬乗り」で組み伏せられた、あの数分間。 私の人生において、これほどまで無防備に、剥き出しの急所を他者に晒したことがあっただろうか。 代々続く騎士の家系に生まれ、幼少より「鉄の乙女」と称されるほどに自分を律してきた。剣は私の魂であり、鎧は私の皮膚だった。だが、あの暗い小部屋で、アルト殿はそのすべてを力ずくで剥ぎ取ったのだ。
抵抗しようとした。だが、彼の腕の力、膝の重み、そして何より私を射抜いたあの瞳の「熱」に、私の身体は金縛りにあったように動かなくなった。 組み伏せられた私の視界には、激しく波打つ彼の胸元と、獣のような野性を孕んだ双眸しかなかった。 あられもない声。 自分でも信じられないような、甘く、それでいて絶望に満ちた熱い吐息が、私の唇から漏れた。 それは助けを求める騎士の叫びなどではなく、ただ一人の無力な女が、圧倒的な「雄」の力に屈した瞬間の、敗北の証明だった。
(……思い出してはいけない。あれは、不可抗力だったのだ。彼は私を救おうとして……)
必死に自分に言い聞かせる。だが、思考がそこに至るたび、私の項は、まるで今も彼の唇が触れているかのように熱く疼く。 それだけではない。その後に続いた、エルキア殿による「治療」。魔法には解毒魔法や治癒魔法というおとぎ話に出てくる便利な魔法は無い。温度で毒を無毒化する。でも彼女が言う通り、今の私は別の毒が全身をめぐっているような気がしてならない。
前を歩くアルト殿の背中が、陽炎のように揺れている。 以前よりもずっと大きく、広く、そして触れることの叶わない「異界の住人」のように遠い。
「……なんだよアルト。不服そうなツラして」
ラッシュ殿が、いつもの軽い、軽薄とも取れる調子でアルト殿の肩を叩く。 その光景は、地獄の淵を覗いてきたばかりの者たちとは思えないほど、穏やかで日常的だった。 アルト殿は、あの出来事をどう思っているのだろう。 私を組み伏せ、その肌に直接触れ、震える声を上げさせたことを。 必死だったのはわかる。だが、あれほどまで強引に、あんな……。 私の意識は、再び首筋の熱へと引き戻される。顔が沸騰しそうに熱くなり、視界が滲む。
だが、私の混乱をさらに深い絶望へ突き落としたのは、ラッシュ殿の言葉だった。
「……アウトレンジからの瞬殺だった。討伐したことの勝利の余韻もなかったから、危うくこちらもその存在を忘れかけるほどに……な」
リッチ。アンデッドの王。一国を滅ぼし、歴史を地図から消し去りかねない、魔導の極致に至った死の化身。 騎士団の精鋭数部隊を投入し、全滅を覚悟してなお封印できるかどうかの天災を、エルキア殿は「瞬殺」したというのか。まるで羽虫を払うかのように片手間で。
私は、無意識に腰の剣の柄を、砕けんばかりに握りしめた。 指先が真っ白になり、爪が掌に食い込んで血が滲む。だが、その痛みさえも、彼女への畏怖を打ち消すには至らなかった。 到底、勝てない。 剣の腕、魔導の深淵、戦場での度胸……そのどれをとっても、私は彼女の足元に広がる影にすら及ばない。 それどころか、女性としての底知れなさ、人を惹きつけ、瞬時に屈服させる「格」の違い。 エルキア殿という底知れぬ深淵の前に、私はただの「無力な娘」として、無様に、赤裸々に暴かれたのだ。
(ああ……あの方のようになれたなら)
ふと、そんな想いが脳裏をよぎった。
もし私があれほどまでに完璧で、最強で、すべてを支配する力を持っていたら。
この弱さも、羞恥も、迷いも、すべて焼き切ってしまえるのではないか。
エルキア殿のような「完成された存在」になれたなら、どれほど素晴らしい人生が待っているだろう。彼女の背中を見つめ、その高みへと至る自分を夢想する。
「そんな命の恩人を『化け物』呼ばわりするラッシュ君は、さぞかし野営の準備を頑張ってくれるのでしょうね?」
背後から響いた、鈴を転がすような、それでいて首筋に冷たい剃刀を当てられたかのような声。 振り返ると、そこには夕闇を背負い、神々しいまでの美しさを湛えたエルキア殿が立っていた。 その柔和な、だが一切の反論を許さない微笑みを見た瞬間、私の背筋に冷たい氷柱が突き刺さった。
ラッシュ殿が、まるで実力以上の魔物に出会った小動物のように、風のような速さで薪拾いへ走り去っていく。その後ろ姿を見送り、私は隣に立つサーガイル殿下を見た。常に泰然自若としているはずの殿下が、今は「借りてきた猫」のように縮こまり、私の陰に隠れるようにして沈黙している。 この場の空気、流れる時間、そして全員の生殺与奪の権。 そのすべては、完全に彼女の手の中にあった。
「アンジュさん。あなたは夕げの下ごしらえを手伝っていただけるかしら」
呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
「……もう、身体の方は大丈夫なのかしら?」
悪意のない、どこまでも慈愛に満ちた、聖母のような声。 だが、その翡翠の瞳は、私の皮膚を透過し、内臓の奥に隠した醜い感情のすべて、アルト殿への思慕も、彼女への嫉妬も、そのすべてを見透かしているように感じられた。
「あ……っ、はい。先ほどは、その……失礼しました」
私は、自分でも驚くほどか細く、震える声で答えるのが精一杯だった。 先ほどまで抱いていた「彼女のようになりたい」という憧憬が、恐怖という名の重石に押し潰されていく。
夕げの支度が始まる。
巨石柱の陰に焚き火が熾され、赤黒い炎が周囲の石肌を不気味に照らし出す。 私は命じられるままに食材を刻んだが、隣で動くエルキア殿の所作に、ただ見惚れ、戦慄するしかなかった。 彼女の指先一つ、ナイフのひと振りには、一分の無駄も、一分の迷いもない。 それは料理というよりも、何か崇高な、あるいは極めて危険な魔導の儀式を執り行っているかのようだった。
ふと、彼女が顔を上げた。 その視線の先には、少し離れた場所で、一人黙々と素振りを続けるアルト殿の姿があった。 「シュッ」と、剣が風を切る鋭い音。彼もまた、自分の中の「何か」を振り払おうとしているようだった。
エルキア殿が彼に向ける眼差し。 それは、私が知っている、あるいは物語で読んだことのある「親子の愛」とは、何かが決定的に違っていた。 愛している。それは疑いようのない事実だ。 熱を帯び、とろけるような、甘く濃密で、蜂蜜のようにドロリとした愛。 だが、その愛は……どこか、美しく磨き上げられた「檻」のようだった。
逃げ出すことなど、最初から許されていない。 自分以外の色彩に染まること、自分以外の誰かに心を動かされること。 それらを一切認めず、ただ自分という完璧な存在だけを栄養として育つように仕向ける、閉ざされた愛。 その完璧すぎる献身。一片の汚れもない無償の奉仕という名の「絶対支配」。 私の脳裏に、キイキイと耳障りなノイズが走る。
「……アンジュさん、手が止まっているわよ?考え事をしていると指が危ないわ」
「あっ……申し訳ありません」
慌てて包丁を動かす。 彼女は、まるでアルトという名の苗木を、自分という完璧な温室の中で永遠に愛で続けようとする庭師のようだった。 その温室の外に出ることは、彼にとっての「劣化」であり「死」を意味する。彼女はそう信じて疑わず、そしてそれを実現させるだけの、神にも等しい力を持っていた。
やがて焚き火を囲んでの食事が始まった。
「……おいしい!」
アルト殿が上げた歓喜の声に、私の胸がチクリと痛んだ。
供されたスープを一口啜り、私はさらに絶望する。
美味しい。文句のつけようがない。野営で出す料理の次元を越えている。素材の旨みが完璧に引き出され、五臓六腑に染み渡るような、魂を安らげる味。
(……勝ち目がない。何一つとして)
一体、何に対しての勝敗を気にしているのか、自分でもわからなかった。 だが、エルキア殿が「アルトのために」と語る時、その頬は微かに上気し、少女のような純真さと、魔王のような独占欲が同居していた。
そして、アルト殿が彼女を「お母さん」ではなく「エルキア」と呼んだ瞬間。
その時、エルキア殿から放たれた、形容しがたい「揺らぎ」を私は見逃さなかった。
狂喜か、征服感か、それとも深い陶酔か。
一瞬だけ動きを止めた彼女の影が、焚き火の光で石柱に大きく、禍々しく伸びる。
それをアルト殿だけが気づかず、無邪気に笑っている。
その光景は、あまりに完成された「世界」だった。
――その瞬間だった。
まただ。私の視界に、ノイズのような「何か」が走った。激しい眩暈。焚き火の爆ぜる音が遠のき、周囲の風景が、まるで古い絵画が剥がれ落ちるように崩れていく。
(……え?)
憧憬の絶頂で、心の中にサブリミナルのように浮かび上がったのは、場違いなほどの**「せつなさ」だった。
続いて、胸を締め付けるような「かなしみ」。そして、あまりにも脆く消えてしまいそうな「はかなさ」**。
色彩を失ったモノクロの残像が、意識の奥底で明滅する。そこには、今ここで微笑んでいるエルキア殿とは正反対の「何か」があった
意味がわからない。
完璧で、最強で、すべてを手にしているはずの彼女をイメージして、なぜこんな感情が湧き上がるのか。
憐れみ? まさか。そんな不遜なことがあっていいはずがない。私ごときが、世界で最も強大で、最も美しい女性に対して、敗北者である私が憐れみを抱くなど、あってはならない不遜だ。神を憐れむ信徒がどこにいるというのか。
だが、無意識が掴み取ったその「影」は、執拗に私の胸にこびりつく。
まるで、エルキア殿という美しい彫像の中身が、空っぽの虚無であると告げているかのように。
あるいは、彼女が積み上げた最強という名の石塔が、たった一つの愛という呪縛の上に危うく立っているだけだと言わんばかりに。
私の中に渦巻くのは、命を救われたことへの感謝ではない。
アルト殿という少年が、あの美しい「檻」の中に囚われ続けていることへの、正体不明の焦燥だった。
「アンジュさん、あなたも冷えないうちに召し上がれ」
差し出されたスープの熱気が、私の顔を打つ。
「……いただきます」
熱い。喉を焼くような熱さが、今の私にはちょうどよかった。
このモヤモヤとした感情を焼き切ってくれるような気がしたからだ。
私は、アルト殿が檻から出ようとしないのか、それとも檻の中にいることすら気づいていないのか、それを確かめる術を持たなかった。
ただ、私の中に芽生えたこの奇妙な情動だけが、消えない「別の毒」となって、じわじわと胸の奥を侵し始めていた。
私はスープを飲み干し、ただ静かに、赤く燃える焚き火を見つめ続けた。 巨石柱の影が、夜の帳と共に、さらに深く、暗く、私たちを飲み込んでいく。
(いつか……いつか、彼に伝えなければならない)
何を? それすらわからなかった。 だが、あの首筋に残る熱量だけが、この完璧な「嘘」のような世界の中で、唯一の真実であるように思えてならなかったのだ。
十一読んでいただきありがとうございます。実はアンジュのセリフ考えるのが一番苦手です。特に殿下に対する言葉遣いが…。普通なら不敬罪です。まぁサーガイル王子はゆるそうなので、ご愛嬌と思ってご覧ください。




