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ンードラロギア  作者: ああああ


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第十章『夕凪の食卓と見えない楔』

十章です。

アムヴィ湖の湖畔に這い出した一行を待っていたのは、網膜を焼くような強烈な西日だった。

閉鎖空間ダンジョンの、あのねっとりと肌にまとわりつく死の静寂、古びた石材が放つ湿った埃の匂いとは対照的な、生命力に溢れた——それでいて残酷なほどに鮮やかな——紅の世界。


湖畔にそびえ立つ巨石柱の群れは、夕陽を受けて凝固した血のような色に染まり、太古の神々が遺した墓標のように、湖面へと長く黒い影を伸ばしている。寄せ波が石柱の根元を洗う音だけが、世界の耳鳴りのように響いていた。


「……戻ったんだな。空の下に」


アルトは泥と粘液の混じった手で、眩しそうに目を細めた。 肺の奥まで吸い込んだ空気は、湖の水気と乾燥した草の匂いが混じり、生きている実感を強烈に呼び起こす。 しかし、その充足感の裏側には、どうしても拭い去れない「虚脱感」が澱のように沈んでいた。 結局、ダンジョンの中では一度も剣を抜く機会がなかったのだ。


期待と恐怖、そして「母に認められたい」という背伸びした願望が入り混じった初陣への緊張。それは、あの凄惨な「毒蛭騒動」という、戦いよりもよほど精神を削られるアクシデントの陰に隠れ、今はただ、ひどく間の抜けた肩透かし感だけが残っている。自分は、ただエルキアの背中を追って、泥の中を転がっていただけではないか。


「……なんだよアルト。不服そうなツラして。モンスターの一匹も出なくて退屈だったか?」

ラッシュが、鼻栓にしていた綿を捨てながら、自嘲気味に笑った。彼の軽口は、極限状態から生還した者特有の、空元気を含んだ響きがあった。


「うん……。あれだけ脅かされていた割には、拍子抜けっていうか。結局、僕がしたのは泥の中を這いずり回ったことだけだったから。自分が何のために剣を持ってきたのか、分からなくなっちゃって」


「馬鹿言うな。お前、本当の意味で分かってないな?」

ラッシュの目が、ふと笑い成分を削ぎ落とした、真剣な色を帯びる。彼は背後の、今しがた脱出してきた出口を指差した。


「あの石壁の向こうにはな、『リッチ』っていう化け物がいたんだよ。お前たちがいた部屋のすぐ裏側にな。でも、エルキアさんはアウトレンジからリッチを瞬殺した。討伐したことの勝利の余韻もなかったから、危うくこちらもその存在を忘れかけるほどに……な。……それ以上の『化け物』がこっち側にいたから、俺たちがこうして五体満足で太陽を拝めてるんだ」


ラッシュの視線の先では、エルキアがさきほどまで泥にまみれた空間にいたとは到底信じられないほど、汚れ一つない手つきで旅装を整えていた。彼女の銀髪は夕陽を弾き、まるでそれ自体が発光しているかのような神々しさを放っている。その所作の一つ一つが、あまりに優雅で、この荒涼とした遺跡には不釣り合いなほど完成されていた。


「リッチ……。それは、長い時を生きた魔術師が、死してなおその人格、知性、全能力を維持しようと超常的な力にすがった、アンデッドの王だ。ゾンビやスケルトンとは、存在の次元が根本から違う。一国を滅ぼす災厄そのものと言ってもいい。歴史書に名を残す大英雄たちが、数人がかりでようやく相打ちに持ち込めるような、そんな絶望の化身だ」

サーガイルが、アルトとラッシュの背後から震える手で泥を払いながら、知識を披露するように割り込んだ。


「魔法を際限なく放つ生ける屍……。私やラッシュ殿だけなら、まず勝てなかっただろう。エルキア殿は、文字通り我ら全員の命の恩人だ魔法を際限なく放つ、知性を持った生ける屍……。私やラッシュ殿だけなら、剣を抜く前に塵にされていただろう。エルキア殿は、文字通り我ら全員の命の恩人。人類の守護者と言っても過言ではない。ああ、これほどの力を持ちながら、なぜ世に名が知られていないのか……」

アンジュが、その言葉に戦慄するように肩を震わせる。彼女は騎士として、その「リッチ」という存在がどれほどの絶望を意味するかを、肌感覚で理解していた。そして、それを「作業」のように片付けた隣の女性の底知れなさに、言いようのない畏怖を感じていた。いや…それよりも最後に言いかけた自分の言葉にも気になる…その時だった。


「……そんな命の恩人を『化け物』呼ばわりするラッシュ君は、さぞかし野営の準備を頑張ってくれるのでしょうね?」

どこからともなく現れたエルキアの、鈴を転がすような、しかし心臓を掴むような声。


「ひいっ!?」

ラッシュは電気が走ったように直立不動になり、滝のような冷や汗を流した。エルキアの微笑みは完璧だったが、その瞳の奥には、不可侵の領域を土足で踏み荒らされた者への、静かな、しかし峻烈な警告が宿っている。


「大急ぎで薪を集めてくるのよ、いいわね? ……走って」


「はいっ! 喜んで!」

ラッシュは文字通り風のような速さで、茂みの奥へと消えていった。


「本当に、エルキアさんには感謝しても足りないくらいだよ。何といっても、我々は伝説の『クリスタルレコード』を手に入れたのだからねぇ!」

サーガイルは、懐の結晶の感触を確かめながら、ホクホクの頬を紅潮させている。


「興奮されているところ申し訳ありませんが、サーガイル様。落ち着いて聞いていただかなければならないお話があります」

エルキアの冷徹な一言が、王子の浮かれた空気を凍らせた。


「夕げの席で構いません。今はどうかこれ以上の騒ぎにならないよう、アンジュさんの側で大人しくしていただけますでしょうか」


「……あ、ああ。心得たよ」

王族であるはずのサーガイルが、エルキアの静かな「圧」に圧され、借りてきた猫のようにアンジュの隣へ縮こまった。


エルキアは満足げに頷くと、今度はアルトに向き直った。その瞳の温度が、一瞬で春の陽だまりのような、甘く、とろけるような情愛が溢れ出した。

「……ところで、アルト。お母さんはちょっとがっかりしています」


「えっ? ……ごめん、何か悪いことしたかな。僕、また何か失敗した?」

アルトは思わず身を縮めた。


「誰かさんが不用意にトラップさえ触らなければ、あなたが頑張って『リッチ』を討伐するところを見ることができたはずなのに。……私、あなたが頑張って敵を打ち倒す姿を、特等席で眺めるのをとっても楽しみにしていたのよ。運命とは皮肉なものね。さあ、夕げまでの時間は、剣の素振りや基礎訓練に励みなさい。今日の『実戦不足』を、その体で補うのよ」


「……リッチって、さっき王子が言ってたアンデッドの王でしょ? それを、僕が?」

アルトは、エルキアが突きつける期待値の高さに、絶望に近い眩暈を覚えた。魔法を禁じられ基礎の型すらおぼつかない今の自分に、伝説上の怪物を屠るイメージなど、逆立ちしても湧いてこない。


「大丈夫よ。お母さんがリッチの四肢を封じ、魔力を枯渇させ、魂の根幹を削り……適度に弱らせて……そうね、羽虫を潰す程度の手間で済むように調整してあげるから。あなたはただ、勇ましくとどめを刺すだけでいいの。お母さんは、あなたの『成果』が欲しいのよ」

微笑むエルキア。それはまるで、肉食獣が我が子に獲物の仕留め方を教える際に見せる、残酷なまでの「慈愛」だった。アンデッドの王を草食獣のように扱うその発言に、隣で聞いていたアンジュも思考が追いつかず、ただ呆然と立ち尽くす。


「さあ、行ってらっしゃい。アルト」

背中を押すその手のひらは温かいのに、逃げ出すことを許さない万力のような強さがあった。


「……はい」

アルトは、もはや逆らうことなど考えもせず、重い足取りで夕日に染まる湖畔へと向かった。彼にとって、リッチよりも、この優しすぎる母の期待に応えられないことの方が、よほど恐怖だったのかもしれない。


「アンジュさん。あなたは夕げの下ごしらえを手伝っていただけるかしら」

エルキアの視線が、残された騎士へと移る。その目は、獲物の鮮度を確かめるような鋭利さを秘めていた。


「……もう、身体の方は大丈夫なのかしら?」


「あ……っ、はい。先ほどは、その……失礼しました」

アンジュの顔が再び赤く染まる。


いつの間にか、この考古学調査隊の主導権は、依頼主である王子でも、護衛の騎士でもなく、一介の「母親」を自称する女に完全に移り変わっていた。


夕げのいい匂いがアルトの鼻に届く頃には、世界は深い夜の帳に包まれていた。

巨石柱の影が闇に溶け、アムヴィ湖の湖面が星々を映し出す静寂の中で、焚き火の火だけが爆ぜる音を立てていた。


「……おいしい!」

アルトの口から、配られた木の器から立ち上る湯気。その中には、黄金色に透き通ったスープと、じっくりと煮込まれた野生肉、そして数種類の香草が踊っている。 野営の食事としての期待値を遥かに超えたその繊細な味に、今日一日の泥にまみれた疲労が、体の中からじわじわと溶け出していくようだった。


「母さん、このスープ……家で食べるのと同じ味だよ。外でこんなに再現できるなんて、すごいね母さん、このスープ……家で食べるのと同じ味だよ。あんな過酷な旅の途中で、外でこんなに再現できるなんて、本当にすごいね。魔法……じゃなくて、本当に料理なんだよね?」


「あら、ありがとうアルト。嬉しいわ。あなたがきっと、慣れない旅で食欲を落とすと思って、隠し味のスパイスをこっそり準備してきたのよ。お母さん、あなたが美味しいって言ってくれるのが、何よりの報酬だわ」


「このスープは……素晴らしい! 控えめに言っても、王宮の宮廷料理長すら再現不可能だろう。いや、これはもはや芸術の域だ!」

サーガイルが、我慢できずに大袈裟に器を掲げて割って入った。彼の賞賛は、半分は本心であり、半分はエルキアへの恐怖からくる阿諛追従だった。

「隠し味はズバリ、親が子を想う無償の愛と見た。いや、それはまさに一杯のスープと同じだ。食すとあっという間だが、そこには幾度もの丹精が込められている。言葉にすれば一言だが、きっと筆舌に尽くせぬ深みがあるのだろう。この深みは、一朝一夕で身につくものではない……!」


「サーガイル様が言うと、さらに薄っぺらくなるんすよ」

口いっぱいに肉を頬張ったラッシュが茶化し、一座に笑いが起きる。張り詰めていた空気が、食事という原始的な儀式によって、わずかに和らぐ。


「そう……そうね。料理は、あまりやったことがなかったから。アルトのために、夢中になって……。本当に、それだけを考えて頑張ったわ。昔は、食べるということすら、私にとっては無意味なことだったのに」

エルキアが、揺れるスープの表面をじっと見らめながら、独り言のように呟いた。その瞳には、一瞬だけ、悠久の時を生きる彼女だけが知る、ひどく古くて暗い、孤独な回想のような光が宿っていた。 彼女が手に入れた「保護者」という役割。それは彼女にとって、数千年の退屈を埋めるための、最も新しく、そして最も執着すべきものであり、生きるための「楔」なのだ。


「いつもありがとう、エルキア」

アルトも同じく、この新しい家に住み始めた頃のエルキアの姿を思い出していた。 戸惑いながら包丁を握り、何度も指を切って、それを心配させまいと笑顔で食卓を整えてくれた彼女の、献身。


アルトは、ふと「お母さん」という呼び名を横に置き、一人の人間としての敬意を込めてそう呼んだ。本来なら、人前では「お母さん」と呼ぶように釘を刺されていたはずだが、今のアルトには、この完璧な食卓を用意した彼女の「努力」が、母親としての役割を超えたものに見えたのだ。


アルトは、ふと「お母さん」という呼び名を横に置き、一人の人間としての、あるいは一人の女性としての敬意を込めてそう呼んだ。 本来なら、人前では「お母さん」と呼ぶように、彼女から厳重に釘を刺されていたはずだ。だが今のアルトには、この完璧な食卓を用意した彼女の「努力」が、単なる母親としての義務を超えた、もっと切実な愛の証明に見えたのだ。


エルキアの動きが、一瞬だけ止まった。

ラッシュの背筋に、生物的な本能が告げる説明のつかない戦慄が走る。

(あ、今、こいつ『エルキア』って呼び捨てにしやがった……!? 殺される、今の呼び方はまずい!)


ラッシュは、エルキアが激昂し、この湖畔を更地にするのではないかと身構えた。 だが、エルキアが顔を上げたとき、その表情は聖女のような、あるいは狂信的な慈しみに満ちていた。


彼女にとって、アルトが自分をどう呼ぼうが、それは些細なことだった。「エルキア」と呼ばれれば、それは対等な伴侶のような響きを孕み、「お母さん」と呼ばれれば、支配すべき愛子としての響きになる。そのどちらであっても、アルトの口から発せられる言葉であれば、彼女の底なしの欲望は甘美に満たされるのだ。


ゆっくりと一呼吸した後、エルキアはしんみりとした空気を吹き飛ばすように、弾んだ声で言った。

「さあ、たくさん作りましたので、皆さんどんどんおかわりしてくださいね。……アルト、あなたの分もまだたくさんあるわ。冷えないうちに、全部食べてしまいなさい?」


「うん、いただくよ」

アルトは屈託なく笑い、再びスプーンを運ぶ。その様子を見つめるエルキアの瞳は、まるで完成された芸術品を眺めるコレクターのような、静謐で、狂おしいまでの熱を帯びていた。


焚き火の火が、二人の影を大きく石柱に映し出す。 その影は、まるで一つの巨大な怪物が、少年を飲み込もうとしているかのようにも見えた。 その親密で閉鎖的な空気は、外部の人間が声をかけることすら躊躇わせる。それは、愛という名の、決して壊れることのない「楔」によって打ち込まれた、完成された檻そのものだった。


十章です。ダンジョン探索は日帰りツアーなのかな?と思って書いています。ラッシュ君の意見も参考にするとダンジョン内で眠る…ちょっと真剣に考えると無いかなと思ってしまいました。

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