第九章:閉鎖空間の受難(後編)
九章です。お気づきかもしれませんが、前書きに何を書いてよいのか、わかっていません。
迷宮のような閉鎖空間の深部、空気が湿り気を帯び、重苦しく肌にまとわりつく。その静寂を、耳を裂くような轟音と、腹の底を揺さぶる衝撃が打ち砕いた。 一瞬の出来事だった。アルトの視界が火花と土煙で白く染まり、直後、逃げ場のない圧迫感が彼を襲った。
「ぐっ……!?」
前方に、突如として巨大な石の塊が現れた。いや、それは「現れた」のではない。天井の隠された機構から、数トンの重量を持つ太古の岩盤が、侵入者を分断するために文字通り「叩き落とされた」のだ。 石の壁が、冷たく湿った空気を断ち切った。それは生者と死者、あるいは仲間と仲間を分かつ、無慈悲な境界線だった。
「アルト! 無事なの!?」
エルキアの叫び声が、石壁の向こう側から、厚い岩肌を透過して微かに響いてくる。その声には、普段の冷静な魔導師としての余裕は微塵もなかった。
「無事だよ! アンジュさんも! そっちは怪我していない?」
アルトは隣で激しく咳き込むアンジュの肩を支えながら無事を確認しながら必死に声を返した。埃が舞い、松明の火が揺れる。視界が極端に狭まった閉鎖空間の中で、アルトの心臓は早鐘を打っていた。
壁の向こう側、エルキアはラッシュ、サーガイルもよろよろと立ち上がるが無事であることを確認する。
「……ああ、なんとか生きてるぜ。だが、このザマは何だ。完全に閉じ込められちまったぞ」
ラッシュは剣の柄で岩を叩くが、返ってくるのは重苦しい、絶望的なほどに鈍い音だけだった。
アンジュがふらつく足取りで立ち上がり、白銀の籠手に包まれた両手を石壁に当てた。
石の壁を動かそうとするが、びくともしない。
「ラッシュ殿! こちらは大丈夫です! ですが……重すぎて上がりません!」
アルトもアンジュに加わり、指先が石の冷たさに痺れるのも構わず、壁の僅かな隙間に指を掛けた。しかし、渾身の力を込めても、壁は微動だにしない。完全に隔離されたのだ。
「……アルト、少し時間がかかるかもしれません。落ち着きなさい」
壁の向こうで、エルキアの声が再び響いた。今度は、自分自身に言い聞かせるような、冷徹なまでの冷静さを取り戻していた。
「構造上、このトラップは対になって配置されているはずよ。そちら側の先に解除装置があるかもしれない。気を付けて別の道を進み、何か仕掛けがないか調べてみて。無理に壁を壊そうとすれば、天井全体が崩落する危険があるわ」
「しかしエルキアさん、こちらの先に解除装置があるかもしれない。この先を調べませんか?」
ラッシュはサーガイルに肩を貸しながら歩を進めようとするが、エルキアがそれを制止する。
「待ちなさい、ラッシュ君。そのまま私の後ろでサーガイル様を守りなさい」
エルキアが集中し、魔力を増幅させていく。その増幅に呼応するように、暗がりの先で大きな魔力のうねりが魔法に変わってエルキアを襲った。
「リッチね……今のラッシュ君には相性が悪いわ」
エルキアはまるで流麗な舞をするように、次々襲い掛かる魔法を中和し、無力化していく。
「リッチ!? 魔法を使う恐ろしい伝説のアンデッド!? あわわわ……!!」
サーガイルは、もはや王子としての威厳など微塵も残さず、壁に張り付いて自分の豪華なマントを頭から被った。
「ラッシュ君! 頼むから守ってくれよ! 私を絶対に死なせるなよ! まだ私は……私は何も成し遂げていないのだ!」
「わかってますよ、殿下! リッチなん化け物は想定外だぞ…クソッ!」
ラッシュは身構え、ガーダーでサーガイルを守る。
「アルト! まずい状況になった! 早くトラップを解除してくれ!」
ラッシュが壁の向こうに対して叫ぶが、返事がない。
「おい、アルト!」
二人が壁の向こう側に耳を向けた、その時だった。
『アルト殿……何を……っあ!』
『待って、こんなところで……やめて、恥ずかしいですっ!』
アンジュの悲鳴に近い制止の声。二人は眉間にしわを寄せて視線を合わせる。
「……おい。今の声、なんだ?」
ラッシュが引きつった顔でさらに壁に耳を寄せる。
「『やめて』だの『恥ずかしい』だの……アルトの野郎、この極限状態で、アンジュさんと一体何を……何をやってやがるんだあぁぁ!?」
「おおーっ!」
それまでマントに隠れていたサーガイルが、急に目を輝かせて立ち上がった。
「若さゆえの暴走! 素晴らしい、これぞ冒険の醍醐味だ! 閉鎖空間、生死の境、そして若き男女! 吊り橋効果というやつか!? アルト君、君は将来、大物になるぞ!」
「感心してる場合か、この不謹慎王子! アルト、てめえ! そういうのは順序というものがあってだなぁ! アンジュさんは真面目なんだぞ! 無理やりだったら俺が承知しねえぞ!」
「おい、アルト! 返事しろ! 今何をしてるんだ! 手はどこにある! 服はどうなってる!
二人が壁の向こうの光景を想像しようとした、その時。背後で、凄まじい衝撃が走った。
「……どきなさい。二人とも」
エルキアだった。暗がりに不気味に瞳が光り、吐き出す吐息からも静かな殺気が渦巻いている。彼女が右手をかざすと、絶対不落のはずの石壁が、バターを切るように一瞬で焼き切られた。
一方、壁の向こうでの出来事――
「トラップの解除装置ってどういうものなんだろう……? 怪しいものを片っ端から触ると、また壁が崩れたりするんじゃないのか? アンジュさん、そっちはどうですか?」
アルトは黙々と装置を探していた。
「はい、調べてみます……。ですが、ここは随分と空気の循環が悪いですね」 アンジュもまた、重いフルプレートの鎧を鳴らしながら、壁の継ぎ目や床の亀裂を丹念に調べていた。
「あ! この石と石の間に、出っ張りのようなものがあります!」
アンジュが歓喜の声を上げ、壁の上方へ白銀の手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
アルトの視界の端に、天井の暗い亀裂から「どろり」とした影が落ちるのが映った。
「――っ!?」
それは、迷宮の汚濁したマナを吸い込んで異常発達した、『毒蛭』だった。親指ほどの太さがあり、触手のような口元をうごめかせている。それが、無防備に腕を上げたアンジュの、鎧の隙間から覗く白い首筋を正確に狙って落下した。
「アンジュさん、動かないで!」
アルトの叫びに、アンジュがびくんと短い悲鳴を上げる。蛭は瞬時に彼女の柔らかな肌に吸い付いた。
「ごめん、アンジュさん! 今すぐ取るから!」
アルトは慌ててアンジュの元へ駆け寄り、その首筋に指をかけた。蛭は既に肌に深く食い込み、アンジュのマナと鮮血を吸い上げて赤黒く膨張している。アルトが強引に引き剥がした時、アンジュの噛まれた痕からは、既に毒素による紫色の斑点が急速に広がっていた。
(まずい、この色は……神経毒だ!直接毒を吸い出さないと命に関わる!)
焦燥がアルトの思考を塗りつぶした。彼はパニックでよろめくアンジュの腰を支え、バランスを崩した彼女をそのまま床に押し倒す形になった。
「アルト殿……何を……っあ!」
突然の馬乗りの状態、そして目の前に迫るアルトの必死な顔。アンジュの脳内は、毒の回る速度よりも早く混乱に支配された。
「じっとしていてくれ!」
アルトは必死だった。彼女のフルプレートの襟元、継ぎ目の革ベルトを力任せに外そうとする。
「待って、こんなところで……やめて、恥ずかしいですっ!」
彼女の貞操観念に訴えかけるような悲鳴が響く。しかし、アルトには彼女を「辱める」意図など欠片もなかった。ただ、一刻も早く露出面積を広げ、毒を処理しなければならないという義務感だけがあった。
「動いちゃだめだ!」
アルトは、羞恥心で身を捩るアンジュの両肩を地面に縫い付け、彼女の抵抗を封じた。そして、露出した白い首筋に顔を寄せた。迷いなく唇を押し当て、猛毒を含んだ血液を直接吸い出す。
「……っ!!」 アンジュの全身が硬直した。耳元で聞こえる、アルトの荒い吐息。首筋に触れる、温かくも激しい唇の感触。彼女にとって、それは暴力の恐怖よりも、もっと根源的な「何か」を揺さぶる体験だった。
アルトは一度、毒血を床にペッと吐き出し、再度、深部まで入り込んだ毒を求めて顔を寄せた。 その時だった。
「……ふぁ?」
闘気のような魔力を纏い、仁王立ちするエルキアのシルエットがそこにはあった。
アルトは、馬乗りの状態でアンジュの首筋に顔を埋めたまま固まった。アルトの脳内で、全ての思考回路が焼き切れた。 自分の下には、鎧がはだけ、涙目で顔を真っ赤にしたアンジュ。冷静にこの光景を俯瞰してみる。すると、堰き止められていた濁流が一気に流れ落ちるように焦りがこみ上げてきた。エルキアに見られたことへの絶望。顔面は一気に沸騰したように赤くなった。
「母さん、これは違うんだ! 毒が、彼女の毒を吸い出そうと……!」
「わかっているわ、アルト。……でも、不十分な処置は毒が回るだけよ。どきなさい」
言葉に温度はない。エルキアは乱れた服装のアンジュを一瞥し、その首筋に魔力を込めた右手を添えた。
「じっとしていなさい?」
羽毛のようにやさしく、じんわりと首筋が温められていく。
「エルキア殿? え……?」
混乱するアンジュに、エルキアは淡々と状況を説明した。
「毒蛭が首筋に落ちたのよ。アルトが急いで毒を吸い出した。乱暴だったようでごめんなさい。あの子なりに必死だったのよ。でももう安心よ、こうやって温めれば完全に無毒化できるわ。……火傷しないように調整してあげるから」
「あ、ありがとうございます……」
そこへ野次馬の二人が駆け寄ってくる。
「アンジュさん、大丈夫か!? アルト! おまえはなぁ!?」
「アルト君! 僕は君の理解者だよ!」
サーガイルが親指を立ててウィンクした。
「あ、、はい、大丈夫……です。アルト殿が、毒蛭に噛まれた私を急いで手当してくれたのです……。」
たどたどしいアンジュの説明、落胆と安堵が入り混じる野次馬の二人。
「そして、馬乗りになって鎧を外して、毒を吸い出……あっ――!」
状況を反芻し、アルトを見つめた瞬間、アンジュの耳の先まで一気に紅潮する。
ピクッ!
エルキアの表情が一瞬変わった。
「あら……アンジュさん、まだ毒が身体の中にあるようね。それとも別の毒かしら……? 大変だわ、もう少し『熱く』しましょうか」
微笑んだエルキアの顔がアンジュの視界を塞ぐ。
「……っ! 熱っ! 熱いです、エルキア殿!? ちょっと、加減が――!顔が近――!?」
明らかに私情が混じった魔力のブースト。アンジュの悲鳴がダンジョンに木霊した。アルトはただ、壁の隅で小さくなってその光景を見守るしかなかった。
そんな狂騒劇の最中だった。 一人、騒ぎから離れて周囲を見渡していたサーガイルの目に、あるものが飛び込んできた。サーガイルの目にエルキアの魔力の光に反射するガラスのような石板が飛び込むと、お供の近衛騎士をほったらかしで、ふらふらとその場所へ歩み寄った。 彼は跪き、震える手でその石板を抱え上げる。
現世のどの言語にも属さない幾何学的な紋様が、蛍のように明滅しながら刻まれていた。触れると、指先から膨大な「情報」が直接脳内に流れ込んでくるような感覚がある。
「……あった。これだ。これこそが……『クリスタルレコード』!」
その「知の遺産」だけが、冷徹に一行を見下ろしていた。
閉鎖空間での受難は、こうして予期せぬ形でその目的へと到達した。 しかし、アルトとアンジュ、そしてエルキアの間に生まれた「新たな因縁」は、この歴史的発見よりも遥かに厄介で、長く尾を引く熱を持ち始めていた。
「アルト。……帰ったら、じっくりと『反省会』をしましょうね?」 エルキアの、背筋も凍るような優しい声が、レコードの輝きよりも眩しくアルトを照らしていた。
(……助けてくれ、ラッシュ)
アルトの心の叫びは、迷宮の深い闇に吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。
九章読んでいただきありがとうございます。
年齢設定ですが、この時点でアルト、ラッシュ、アンジュは15歳です。どこかに書いてありそうで書いていないかもしてません。ごめんなさい。




