中島・深井編
覗きこむ携帯式の双眼鏡越しに見るのは、ふたりの男である。
ふたりとも二十代、正確にいうのなら片方――華奢と表現するのが最も適切そうな黒髪の男が二十代後半、その傍らにいる黒髪の男よりも頭ひとつ以上背の高い茶髪の男が二十代前半だった。親しげに笑い合いながら石畳の並木道を歩いている。
ふたりの関係を推察するのに、おそらく彼らの脇を過ぎて行く通行人を呼び止めて聞いたなら、気の知れた仲のいい親友同士だと大抵の人間が答えるのではないだろうか。実際、双眼鏡から彼らを眺めている中島キヨイ(なかじまきよい)にも、彼らの楽しげな姿はそんなふうにしか映らない。
ガリ、と咥内で飴玉の砕ける音がした。粉々になったそれを飲み込んで、苦くもないのに顔をしかめる。
ふたりが仲のいい親友同士である、という可能性はなくもない。
ふたりはここからさほど距離が離れていない築二十年のマンションの一室で一緒に暮らしている。茶髪の男、深井浩二はマンションから自転車で二十分程度の場所にある大学の学生であるから朝の八時頃になると家を出る。黒髪の男、椎名智一は以前は高校の教師をしていたが今は主婦の真似事のようなことをしている。深井浩二を見送ってから、多分一般的に主婦が一日の大半を費やしてしているのだろう家事をこなして一日を過ごしていた。フリーターと表するような、アルバイトに精を出している様子はなく、かといってニートのように家に引きこもっているわけでもない。椎名智一という人間は一体なにをしているのか、と訊ねられれば中島はまず、「母親のようなことを」と答えるしかない。
男が男を、母親のように世話をする。というのが、気色悪いというつもりは中島にはさらさらなかったけれど、深井浩二と椎名智一に関してだけ言うのなら、見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。
不意にジャンバーのポケットに押し込んでいた携帯電話が鳴り響く。双眼鏡から目を離さないまま手をポケットの中に突っ込んで、通話ボタンを押してから耳にあてた。
「はい?」
『あ。所長?』と向こう側から聞こえてきたのは、若い女性の声である。狭い雑居ビルの三階に構えた中島探偵事務所でお茶汲みと事務をしてくれている、今井奈々(いまいなな)の普段よりも幾分慌てているらしい声音に中島は首を捻った。双眼鏡の向こうでは男達ふたりが笑い合いながら、冗談でもいっているのかとても楽しげに並木道を先へと歩いていく。そっちには主婦業に専念している椎名智一がよく出かける大型ショッピングモールがあり、中のシアターでは一週間前からあるアクション映画のロードショーがはじまっているのを中島は知っていた。やたら製作の早い監督がなぜか四年間音信不通になった後で発表した映画と言う触れ込みで、続き物の前作が公開されたのは中島がちょうど高校三年生の春だった。五月晴れの、鬱陶しくなるぐらい綺麗な青空の日だった。
双眼鏡から目を離して、目蓋を閉じる。開けてから、「どうした、奈々さん。何かあった?」と訊ねる。
彼らがその映画を見に行くのは推測できた。ずっと同じ姿勢で居続けたために強張っている首をゴキゴキと鳴らす。
『昨日急にこれなくなったお客さんが今日急にいらしたんです。昨日の報告を聞きたいからって、』と、電話口で奈々が応える。若干声が小さくか細くなったのはおそらく、仕切りで囲っているだけの応接スペースに続いている事務所の電話からかけているのだろう。
「えっと、久谷さん?」そんな一度に何十件も依頼を抱えられるような大きな事務所ではないが、念のために確認する。
『はい。……どうしましょう?』困惑しながら聞き返してくる言葉は暗に、このまま所長である中島の帰りを待っていてもいいか、それとも帰ってこないと依頼人を説得すべきかと二者択一で訊ねてきていた。
返事をする前にもう一度双眼鏡を目の高さに持ち上げて、遠くのふたりの背中を見る。思った通りにまっすぐ歩いていく様子を確認してから、口を開いた。「分かった。今から帰るから、そう久谷さんに言っておいて頂戴。まあ向こうもいきなり来たんだし、少しぐらい待たされるのは考えてると思うけど」今こうして双眼鏡を覗き込んでいること自体、久谷の依頼を果たしているということなのだから、そのあたりの事情は汲んでもらえるはずだろう。
『分かりました。じゃあ早く帰ってきてくださいね』
「了解」応えて通話を切る。
双眼鏡を折りたたんでジャンバーのポケットに入れた。小さく息をつくと、さっきまであまり気にならなかった周囲の喧騒がざわざわと耳に入り込んでくる。いまどき全然流行らなさそうなデパートの屋上遊園地は今日に限ってヒーローショーが催されているせいか親子連れで賑わっていた。その中でたったひとり、屋上の金網フェンスに手をひっかけながら携帯式の双眼鏡を覗き込んでいた中島が浮いていないほうがおかしくて、露骨とまではいかないにしてもちらりちらりと視線が顔の表面をかすっていくのを感じた。これでいかにも、変質者、というか、ちょっと眉をひそめたくなるようないでたちならば即座に警察に通報される――、探偵家業としては世知辛い世の中である。
中島はそっと視線を動かした。掠めては過ぎていくばかりの遠慮がちな眼差しの群れの中で唯一、要領悪くこっちを眺めたままの目に気づいてそちらを見る。塗装のはげた馬や馬車がゆるゆると楽しげなメロディとともに廻っているメリーゴーランドの脇のベンチから視線を投げてくる若い女性と目があった。育児に追われながらも充実した生活を送っている、といったふうな格好の彼女に上辺だけ綺麗な笑みを浮かべて会釈をすると、視線は即座にさっと離れていく。若干不審そうにしかめられていた表情が、瞬間にゆるんで赤らいだのを中島は見逃さなかった。
中学生の頃から異性にはもてるほうだった。
だから、人が意外と外見で騙されてしまうのはよく知っている。最近じゃなにか凶悪事件が起こって平凡そうな犯人の顔写真が報道の電波に乗るたびに、「こんな普通そうな人がどうして」と驚く奈々を見る回数も増えたけれど、中島の容貌にしたって同じ事だった。人の往来が激しい場所で双眼鏡をいじっていればまず、人は不信感を抱く。ストーカーや変質者、といった単語を連想する。けれどそれが少し見栄えのいい人間だったりすると、少しだけ考えを改める。改めなくても、警察にまでは通報する必要はないか、と思うようになる。探偵業をやっていれば一度や二度、不審者として警察にご厄介になるのはよくある話だそうで、けれど中島にはそういう事態に陥った経験が一度もなかった。
故意に浮かべていた笑みをひっぺり剥がして、中島は金網のフェンスに絡めていた指をほどく。
■
屋上遊園地のあるデパートからバイクを走らせること三十分程度の距離に、いかにも寂れた駅がある。各駅電車しか止まらないような、夏になると構内の待合室の天井にある錆付いた扇風機が今にも断末魔の悲鳴をあげて爆発してしまいそうな音を立てて動いている、蛍光灯が切れてもすぐに取り替えようとしないような、そんな駅である。若者がみんな出て行ってしまいたくなる田舎町、を具現化したような駅の小さなロータリーを過ぎてからしばらく歩くと、色褪せたトタン屋根を敷いたアーケード街ならぬシャッター通りがあり、中島がバイクを止めたのは、駅と同等に寂れたその通りの一番端にある茶色い煉瓦の雑居ビルだった。三階に、中島探偵事務所がある。
「ただいま」返事と一緒に扉を開けると、「所長。お客さんが」と書類の整理をしていたらしい今井奈々がちらりと目を奥の衝立で仕切られたスペースに目をやった。
頷いてから、「俺にも熱いお茶頂戴」と言って仕切りのほうへ歩く。ヘルメットを道すがら事務机の上に放り出し、ついでに置かれているファイルを手にとった。想像するまでもなく、中島が帰ってきてすぐに依頼人と話が出来るよう、奈々が予め用意してくれたものだろう。中に必要な書類が入っているかひとまずぱらぱらと確認してから、応接スペースに顔を出した。
「久谷さん、大変お待たせしました」人好きのする営業用の笑みを浮かべる。
男、と表現するよりは、青年、と幼さを残した単語のほうが似合いそうな彼は、現れた中島にソファから腰を浮かせた。整った容貌に素人目から見ても値段の張りそうな上等な背広を見栄えよく着こなしている久谷も、あきらかに一線を引いた笑みを浮かべて首を横に振る。他人行儀、なのは当然のこととして、他人が自分の笑みを見たらどう思うのか緻密に考え抜いての穏やかな微笑、という感じである。とかく中島がどうの、というよりは職業病に近いものとして無意識にやっているのだろう。
「昨日はすいませんでした」と、久谷は言う。耳障りのいい低い声音で謝罪しながら眉をひそめた。「急にどうしても職場の先輩の送別会に出る事になってしまって――。今日も、本当ならまず電話なりなんなりをすべきだったんでしょうが」
「お仕事のほう、大変みたいですね」そっと盆を手にやってきた奈々が差し出した湯呑みの茶で喉を潤して中島は首を傾げた。「今日もこれから仕事で?」言ってちらりとあげる視線で見た時計の針は、午後の三時を少し過ぎている。椎名智一と深井浩二が見ているだろう映画も序盤を過ぎるあたりだろうか。
「ええ」と、久谷は頷いた。自分の格好をしげしげと眺めるように目を落としてから、中島を見る。「直接向かおうと思いまして。こんな格好ですいません」すこしばかり申し訳なさそうな顔をした。
彼のいでたちに見ている人間を特別不愉快にさせるものは何もない。ただとても人の目をひくのは確かなことで、同時にこんな田舎町では人の注意を引くこと自体があまりいい意味を持たないことがあるのを自覚しての謝罪なのだろう。彼がホストとして働いている隣県の繁華街では、彼の容貌も格好もきっと眩いほどに輝いて見え、そのきらびやかさをそのまま受け入れられる土台もあるのだろうけれど、ネオンといえば年季の入ったパチンコ屋の照明ぐらいなこの田舎では、理解しろ、と思うほうが間違っている雰囲気がある。男が女に媚を売って肉体労働するのでも会社で働くでもなく、金を得るとは何様だ、と露骨に不快そうにする老人層が多いのだから仕方ない話かもしれないが。
「いいえ。俺は職業差別はしませんから。探偵っていうのも結構胡散臭い職業ですしね」中島は手の中のファイルをめくった。これまでに久谷と相談したことや、その上で実施してきたことの詳細がプリントアウトされている。
――椎名智一という人物を探してほしい。というのが、久谷雅臣からの依頼であった。
与えられた情報は、名前、容姿、以前は久谷雅臣が卒業した高校で教師をやっていたこと、住所、の四つ。途中で椎名智一の同僚だったという軽薄そうな教師に、「あのふたり実は付き合ってたんだよな。 それで久谷が学校でいろいろと問題を起こすから椎名が責任を感じて学校を辞めちまったってわけで」と教えられて、話を聞いてみたらいいと紹介されたのは椎名智一が教師を辞める直前までクラス担任をしていた学級の女子生徒だった。野原加奈子というその女子生徒は自分が椎名に好きだと告白したせいで彼がいなくなってしまったのではないか、と酷く気にしている様子で、自分なりに調べたことをすべて中島に教えてくれた。当時、野原加奈子は同級生の久谷雅臣から執拗に交際を迫られていたらしく、その仲裁をしていたのが椎名智一であるらしい。――表向きには、野原が思いを寄せている相手が椎名であると知った久谷雅臣が、教師と生徒の恋愛を教育委員会なりに密告すると脅して椎名を学校から追い出した、というのがもっともらしく信じられている説のようだった。
もちろん、嘘だ。事実だとすれば久谷が椎名を探す理由はない。
けれどだとしたら、愛している相手がすでにいる久谷が何故、野原加奈子に告白したのかは解せなかった。おおっぴらに、彼らの学校の卒業名簿を開いて適当に電話をかけた先々で聞いたほどに、久谷雅臣という卒業生のプレイボーイぶりには、ひとりの人間を本気で愛している真摯さがとても足りていなかった。
でも、久谷雅臣は椎名智一を探している。
調査を重ね、報告する回数を重ねるたびに、理由は分からないけれど、と付け加えながらも伝わってくるものまでは否定できないと思えてきた。探している気持ちは真摯なもので、想っているのも確かな事だ。過去に何があったとしても、今の想いに軽薄じみたものはないだろう。
「椎名さんはやっぱり、あのマンションで寝泊りしているようですね」
ならば、椎名智一のほうが愛想をつかしていなくなったのか。推測をたてることは可能だったが、だからといって受けた依頼をこっちから白紙にする気持ちは毛頭なかった。少なくとも最初の頃は他人の色恋沙汰に下手に関わるべきじゃなく、事務的に作業をこなすことを徹底していたし、よくある依頼のひとつとして、終わった後もすぐに綺麗さっぱり忘れられるはずの事案だった。「一週間張りこんでみましたが、他に家がある様子もありませんでした」
「男と一緒、なんですよね?」訊ねられたことは、以前の報告で中島があげたことだった。「その、どういう人物かは分かったんですか?」遠慮がちな言い方での質問は、まるで自分にまったく自信のない人間が露出度の高い服を着てみようかどうか悩んでいるような、この服を着て自分は見劣りしないだろうかと気に病むような口調に近い。どうすれば自分が見栄えよく見えるか、格好よく女性を魅了できるのかとしたたかに弁えているふうに見えるホスト然としたその格好に眉をひそめる表情は、気にかかるぐらい似合わなかった。
目を落として、ファイルのページをめくる。内容を確認する、ふりをする。「名前は、深井浩二。二十歳の大学生です。現役合格したみたいですね、……後は取り立てて付け加えるようなことはありませんが」ない、というよりも自分が言いたくないだけなのだとは自覚していたが、ぱたん、と音を立ててファイルを一度閉じた。「遠目から見る限りでは、仲のいい友人同士、という感じに見えたけど」
「ふたりの関係については、調べてくれなかったんですか?」久谷の言い方は、そのあたりの事実を突き止めたいと思い悩んでいるようにも、逆に先送りにしておきたいと躊躇しているようでもあった。正反対の位置にあるふたつの気持ちをほとんど必然的に中島も持ち合わせていたので、久谷の双眸が落ち着きなく移ろうを眺めてから、ゆっくりと口を開いた。
「もし、恋人同士だったらどうするつもりですか?」
あぁこれは、自分にも質問しなければいけない問題だったかもしれない。
「それは」久谷が一回大きく目蓋を動かした、きょとんとした仕草をすると年よりも幼く見える。「先生を諦められるかって、ことですか?」
「久谷さんに限ってはあり得ないことだとは思うんですが、」ファイルを膝の上において、その上で両手の指を寄り合わせた。特に何の意味もない所作なのは単に、中島自身の言いたい事を頭の中で組み立てるまでの時間稼ぎのようなものだったからだ。「諦める諦めないの話以前に、許せるか許せないかって事だと思います」
久谷が顔をしかめた。はっきりと中島の言いたい事が分からない、という顔だった。
組んでいた指先を解いて、「怒らないで聞いてくださいね」念のために前置きを入れてから話す。「久谷さんは椎名さんのことが忘れられなくて探偵に依頼してまで彼の居場所を探そうとしている。でも、椎名さんのほうは別の男と同居を始めている。もちろん、同性なんだから親友である可能性もあるでしょう。でももし違っていて、椎名さんの心が貴方のほうに向いていないのだとしたら貴方は、」
「――仕方ないんだと思います」中島の言葉を途中で手折るようにして、久谷は答えた。険しくさせていた顔に浮かべられた笑みは、分かりやすい降参の形をしている。「俺はあの人に酷いことをしてきたから。愛想をつかされてしまったのなら、どうしようもありません。俺のせいなんだから」
「久谷さんは大人ですね」嫌味のつもりはない。けれど言っている自分が嫌味のように聞こえたのだとすると、抱いている気持ちの半分は僻みみたいなものだったのだろう。
久谷は首を横に振る。僻みを自覚して多少なりともうんざりした気持ちになっている中島に、言う。「今までの俺が子供過ぎたんです。先生に俺の傍に帰ってきてほしいなら、もうちょっとぐらいちゃんとした大人になってないとつりあわないから」
「分かりました」言ってから、なにを理解したんだ俺は、と内心で突っ込む。こっちも覚悟を決めました、という意味ならば、思っている以上に久谷の言葉に感化された自分がここにいることになるのだが、生憎にもそれをはっきりと思い知るほどの心境の変化を見つけることは出来なかった。乗りかかった船だから、と気楽に気負っている感覚もなければ、ここまで来て目の前の真実から目をそむけるのは卑怯だ、と覚悟を決めたわけでもない。ファイルの表紙を手のひらで撫でる。「調べてみます。分かり次第携帯のほうに連絡を入れますよ」
久谷は立ち上がる。すらり、とまっすぐに伸びたいでたちはこれから花でも咲かす若木のように初々しく凛として見えた。そういえば似ているのかもしれない、と中島もソファから腰を浮かせながら思う。顔立ちが、というわけではなくて雰囲気みたいなものが、深井浩二に。
「よろしくお願いします、中島さん」と久谷は言う。
「はい」と返事をして応接スペースから出て行く久谷の後を見送る。――本当に似ているのだとして、それで椎名智一が深井浩二を選んだのだとすれば、久谷の思いが彼に伝わることはあるのだろうか、とふと考えた。伝わればいいな、と他人事の気楽な好奇心と同情がない交ぜになった気持ちで思っていないのだけ、はっきりと自覚する。滲み出る苦味で唇の端に笑みを作った、久谷を玄関の外の階段まで見送ってきたらしい奈々が事務所に戻ってくるとすぐにこっちを見て首を傾げる。
「どうしたんですか、所長。変な顔をして」
ちゃんとした一般的な微笑みになっていないことは分かっていたので質問にさっさと笑みを消して、中島は首を横に振った。「なんでもない」とだけ答える。
■
――二年前の春のことだ。桜は散り終わり、そろそろと鮮やかな緑の葉が生い茂り始めている。あと数週間もすれば長い梅雨の季節がはじまるのだろうけれど、まだその憂鬱さを一片も浮かべていない抜けるような五月晴れの空が広がっていた。
けれど空がいくら晴れ渡っていようがいい天気だろうが、その下にいる人間全員が同じように気分晴れやかに生活しているとは限らない。むしろあまりに違いすぎる気持ちを抱えていると雲ひとつない空を睨みあげたくなる気持ちも出てきたりする。少なくとも当時、高校三年生であった中島キヨイは心底青空が鬱陶しかったので、後ろからかけられた呼び声にも空へ向ける眼差しのままの口調で切り返していた。
「なんだよ、俺に用?」いって立ち止まり、窓から目を離して振り返る。両手で抱えるように持っているクラス全員分のノートが、それだけの動作で崩れそうになった。
「いや、お前がノートひとりで持っていったって聞いたから、手伝ってやろうと思って」崩れかけるノートの上半分、それよりも少し多めにとって、同級生の深井浩二は言った。「案外重たいんだな。で、それをひとりで職員室に運ぼうなんてキヨイ君、格好いいじゃない」感心しているのか茶化しているのか、おそらくはかぎりなく後者のほうだろう。
軽くなったノートの山に感謝のひとつぐらい言おうと思ったのを相殺する程度には浩二の言う事は無神経だった。事情を知らない人間だからこそ遠慮なしにやってしまうこと、と、割り切れる話でもあったけれど、ありがとうと言おうとして開いた口をそのまま無言でへの字にする。露骨に不機嫌な顔をして、階段のあるほうへ歩き出した。職員室は一階にあるから、当然三年生の教室がある三階からは一番遠い場所になる。
「お、おい。待てって」置いていくなよ、と追いかけてくる足音はキヨイが階段を下り始めたところで、ぴたりと横についた。半分でも十分重たいノートの束を抱えて走って追いついてくるのだから相変わらずの筋肉馬鹿だ、と頭の中で苛立ち紛れに罵る。
踊り場まで降りたところで二階から階段を上がってきているらしい数人の女子生徒たちの楽しげな笑い声が途端、ボリュームを最小限落としたように聞こえなくなったのでそっちに眼をやると、「ふ、深井君、先生の手伝いしてるの?」先頭にいた髪の毛の短い女子生徒が少し上擦った声を出しながら顔を赤らめているのが見えた。見覚えがあるのは同じクラスだからだ。
階段の途中で立ち止まる彼女らに、自然とこっちも踊り場で足を止めた。
「どっちかといえば、キヨイの手伝いだな。これは」返事をする浩二のほうはいたって普通に、無頓着だとキヨイが率直な感想を抱くほどにあっさりとした口調だった。「ほら、女子のほうの学級委員長ってあんまり仕事しないだろ? だからひとりで頑張ってるキヨイ君を手伝おうと思ってだね」
「手伝ってほしいと頼んだ覚えはない」きっぱりと断言して歩き出す。彼女たちの脇を通って二階に下りるとちょうど、「じゃあ。俺もこれを届けないといけないから」「うん。気をつけてね、深井君」まるで恋人同士のような会話が頭上から聞こえてきた。続いて近づいてくる足音に立ち止まって振り返る、このまま無言でつかつかと職員室に行くものとでも思っていたらしい浩二は、キヨイの唐突な挙動に目を丸くして同じように階段の途中で立ち止まった。女子生徒達が階段を上っていく音がする、いま声を出したら聞こえるだろうかと心配とも意地悪ともつかない気持ちで思いながら、キヨイは口を開いた。
「せっかく話かけられたのに、このままスルーかよ」意地悪、ではなくて意固地になっているんだと、声の調子で分かる。
キヨイは目を丸くした。「スルーって、これを職員室に持ってかないといけないだろう?」
「これは」目で浩二が持ってくれている分のノートを見遣る。またこの分を上に積んで階段を下りて廊下を歩くのを想像するのは、あんまり気分のいいものではない。けれど黙々と好意に甘えて職員室にまで行くのも同じぐらいに不愉快だった。手伝ってもらうのは当たり前、と親友特権で開き直れないからこその居心地の悪さで、おずおずと口を開く。「学級委員長になった俺が先生に頼まれたことで、お前には関係ないことなんだし。あの、最初にお前に声をかけてきた子、もっとお前と話がしたかったと思うんだけど」
三年生になってすぐの学級会のくじびきで見事に学級委員長を引き当ててしまったキヨイの不幸は第一に、女子の学級委員長が非情に不真面目であるということだった。
高校には出席日数さえ足りてれば問題ない、といういわゆる知的不良タイプとでもいうべきか。頭がよすぎてるから高校を舐めてかかっている、と捉えるべきか。とかく学校に来る事はあっても、学級委員長の本分を全うする気はさらさらないと無言実行で断言しているといっても過言ではない彼女に、「いや。それでも決まったことなんだから」と丁寧に諭すぐらいなら、まあ多少の文句は言ってもいわれた仕事はきちんとしてくれるもうひとりの学級委員長に頼むほうが早い、とほぼすべての教師が結論を出していた。一点集中よろしく、あれやこれやと頼まれればさすがにキヨイもすべてを放り投げたくなる時もある。――そんな時は大抵、背中を丸めたキヨイの不穏な気配を察して手伝いを申し出てくれるのが浩二であり、もう一人の親友である設楽学なのだが、設楽には厳格な優先順位というものがあって、キヨイへのフォローは常に二番目だった。
様々な用事や出来事の中で常に二番目の優先順位を維持しているならそれはそれでいい親友である。別に文句を言うつもりはない、ありがたいとちゃんと思っている。むしろ、親友という立ち位置はそういうものだろう。優先はされるけど、もっとも大事な何かには道を譲るのが節度ある親友関係というものだ。
――だから、なんといえばいいのか、浩二がここにいてキヨイが運ばなければいけないノートを抱えていることが、とてもとても気に入らない。
「別に話すことはなかったぞ」浩二が首を傾げた。「向こうだって用事があるんだったら俺を引き止めるだろう?」
「そういう、引き止めるとか引き止めないとかの話じゃなくて」本当に分からないで言ってるの? と、聞き返したくなる。女心を弄ぶなんて色男なんだからさ、とでも揶揄を含ませて笑ってやれば一階の職員室に行くまでの暇つぶしの種ぐらいにはなってくれそうだったけれど、声の苛立ちのほうは鬱陶しいほどに素直だった。「どうでもいいような無駄話をしたいってこともあるだろう?」引き止めるほども理由もないけれど、一緒に過ごしていたい時間のようなものもあるだろう? と半ば諭すような気持ちで言う。
浩二はますます首を傾げていく。なにが言いたいのか見当もつかない、という顔をする。彼の中では、キヨイから受け取ったクラスメイト全員分のノートの半分を職員室に持っていくことのほうが重要であるらしい。
「とりあえず、こいつを早く職員室に届けないか?」話の切り上げを告げて、浩二は肩を竦めた。「結構重いだろ。これ」言って歩き出す。
階段を下りながら、キヨイはいった。「助けてくれることには感謝するけど、お前、俺のことを優先させすぎじゃないか?」言いたい事はようするにそういうことだ、と自分の言葉に納得する。
「優先させるも何も、親友が困ってたら手を貸すのが当たり前なんじゃないのか?」
「設楽はそうしない」ノートを集めて職員室に持っていくときに教室にいた友人は設楽だけだった。自分の筋力と持久力を考えて助けを求めたキヨイに、にこやかに晴れ晴れとした笑顔を浮かべて断言した彼の言葉を思い出す。口真似をしてみた。「「あ、悪いんだけど今日は昼ごはんをセイラと一緒に食べることになってるから、キヨイの手伝いをしてる暇なんてないんだよねぇ」」文面だけを辿れば正直に嫌味だとも感じ取れる、恋人なんていない親友に鼻を鳴らしてほくそ笑むような言葉のニュアンスだった。一方で親友の口調を真似て言ってみれば、そんな単純明快な悪意さえ入り込む余地がないほどの惚気であるのがよく分かる。
設楽には恋人がいる。浩二にもいたが、今はいない。設楽がなによりも優先させるのは同級生であり、同じ学校に通いたいがためだけに偏差値のランクを下げてまで入学した幼馴染の少女だった。こいつらは結婚できる年齢に達したその瞬間に役所に駆け込んで婚姻届を提出するに違いない、と、特に理由もないまま納得してしまうほどに仲睦まじい――率直に言えば、目のやり場に心底困るカップルでもある。親友が重たいノートの山を目の前にどう攻略しようか悩んでいたところで、手伝いの申し出はもちろんのこと、励ましからはじまって応援の言葉や助言に至るまで、何か言ってくることもないまま、今年は別のクラスになってしまった愛しい恋人の教室へ行ってしまう。設楽とはそういう人間で、何より人を猛烈に愛している具体例みたいなようなものでもあって、他人を本気で好きになるというのはこういうことをしはじめることなんだろう、とキヨイは諦観じみた気持ちで思うのだ。
「設楽は特別だ。あんな恋愛はそうそうできるもんじゃない」浩二は笑って首を横に振る。ただひたすらひとりの人を優先し続ける、それが本当の恋だというんなら世の中、本当の恋をしている人間なんてほとんどいやしないだろう。かといって、それが出来ない恋愛が全部嘘っぱちだと言うつもりもない。「俺には無理だったな。あの子、結構好きだったんだろうけど。設楽みたいになんでもかんでも優先させるなんて絶対に無理だ」
「お前だって頑張ってたほうじゃないか」慰める意味合いはまったくなかった。皮肉な言い方になるだろう事は口を開く前からなんとなく予感していた事だったので、いやに刺々しくなった物言いに何か察して浩二が怪訝そうに向けてきた細めた目に、キヨイは笑う。鼻を鳴らして意地悪く、笑ってみる。「誕生日プレゼントとか、クリスマスとか。普通にいい感じのカップルだと思ってたけど」どこにでもありふれた、若気の至りのような両者だった。相手をきちんと見据えて恋愛している、というよりは、恋に恋して楽しんでいるふうではあったけれど、それなりに幸せそうに見えたのは確かだった。
気恥ずかしそうに苦笑いして、浩二は言う。「でも振られただろう、俺」
「友達より私を優先させてほしいって言ってた彼女に「無理だから」って断ったらそりゃ、気まずくもなるよな」横目で見遣る浩二の顔にあった苦笑いが滲むように消えて次第に驚きの色に変わる。言葉にして訊ねられるまでもなく、どうしてその話を知ってるんだとばかりに向けられる眼差しに、キヨイは返事をした。誤魔化せないかな、なんて今更だと笑うしかない逡巡に降参の笑みを浮かべる。「噂話で聞いた。そりゃ浩二は大抵、俺が困ってたら手を貸してくれてたから全然気にしちゃいなかったけど」
昔から耳ざといほうだったから、影で人が噂するどうでもいい僻みや愚痴みたいなものを聞く機会は多いほうだった。
でも、浩二が交際していた女子生徒と別れて、しかもその理由が友人である自分なのだと知った時は正直に、人の噂ばかりを聞いてしまう自分の性格を恨んだものだ。聞いてしまったものは仕方ない、そう思いつつも、聞かなければよかったと後悔もした。「私を一番大事にして、中島君よりも優先してよ」恋人としては至極まっとうな主張になるのだろう言い分を口にする彼女に、浩二があっさりと首を振る光景を想像したこともある。案外淡白に、本当に好きあっているのかと疑りたくなるあっけなさで、「無理だな。親友を大事にするのは当たり前だろ」と言っては、キヨイの想像の中で親友は元彼女に呆れられるわけだが、実際似たような事があったのだろうと推察するのはたやすかった。
浩二が大きく目を瞬いた。怪訝げに曇っていた表情が途端に、合点がいったふうに晴れやかになる。「もしかして、俺が別れたのを自分のせいだとか思ってるのか?」
「自惚れるな」端的にこれ以上ないぐらいに鋭利に言い捨てる。と同時に、眉をひそめてしまったのは、キヨイ自身にも半分跳ね返って突き刺さってくる言葉だと自覚していたからだった。痛みを堪えるふうに表情を険しくさせて、言い捨てた続きを口にする。「――馬鹿だろ、って思っているんだよ。設楽みたいにすればよかったんだ、俺が用事を頼んできても設楽みたいに断ればよかったんだ。なのに断らず引き受けて、結局、付き合ってる女の子と別れるって、馬鹿だろ。お前」自分のせいだ、と項垂れるつもりはない。申し訳なさそうにする義理もなかった。ただ、自分の胸に突き刺さる言葉がもうひとつ、増えてしまった予感があった。
「だから、設楽みたいにするのは絶対に無理だって。あんなの、それこそ運命の相手だとでも思ってなきゃ無理だから」浩二は言った。
「じゃあ、お前の運命の相手って俺なのか?」違うだろ、と内心で思う。もっと優先させるべきものはあるんじゃないの。続けようとした解釈は半端に口の中でとどまった。
追い越し、先に階段を下りきって振り返った浩二が顎を上向けて、数段まだ下りる階段を残しているキヨイを見上げる。言いたいことを見定めでもしようとしているような、透かし見るように目を細めていた。親友の言った事を笑い飛ばしでもして、冗談だろ、とでも言えばいいものを、眼差しはひどく真剣そのものであって、キヨイ自身が「さっきのは冗談だから」と、ごまかす間も与えてくれそうにはない。
精々注がれる眼差しをなんでもないことみたいに無視してキヨイも階段を下りる。「運命の相手って普通は、異性のことを指すと思うんだけどな」自分の隣に立ったキヨイに浩二は言って、肩を竦めた。「キヨイは運命の相手っていうよりは親友だし」
「言葉の綾だよ、さっきのは」設楽にとっての一番の優先順位であるセイラが運命の相手だというのなら、なんだかんだでキヨイを優先する浩二にとっての運命の相手は俺か。という意味であって、別にキヨイ自身が浩二の運命の相手だと断言したつもりはない。勘違いされても、そういう意図で言ったつもりは毛頭ないので、言い切った。「男同士で運命の相手がどうのなんて、気持ち悪いじゃないか」
「そりゃあ俺、女の子好きだし」もっともらしく浩二は頷く。
「自分だけまっとうな言い方するなよ。俺だって、女の子のほうが好きだ」まるでお前は男のほうが好きなんだろ、と見捨てられた気持ちになって反論する。
いかにも意外そうな顔を浩二はして、首を傾げた。絶対に間違っていないと確信していた問題の答えが見当違いであったのに面食らった表情をする――、よくよく見れば人をからかうためだけに作ったお面のような表情で質問してきた。「でもお前、女の子と付き合ったことなんて一度もないだろ? 結構モテる癖に」
「モテるとかモテないとか、お前に言われたくない」顔立ちもよく身長も高く、さりげなく細かいことにまで目が行く深井浩二は中々いい物件である。と、少なくともクラスメイトの女子達からは評価されている。何よりポイントが高いのは、細かい部分にまでよく気づいてもいちいちそれを口に出しておおっぴらに指摘しない点らしい。イコールで、キヨイの評価が彼よりも低いのは、同じように細かい部分に気づくまではいいもの、つい口に出してしまうところだ。さっき、浩二に話しかけてきた女子生徒が浩二のことを好きだというのをキヨイは知っている。目ざとく勘付いていて確信もある、けれどだからといってそれを暗に浩二に告げるのはいいのかどうか、という素朴な問題だ。
外面がいい自覚はあった。昔から、一目惚れです、と告白されることはよくあった。小学校と中学校の頃は大抵学年の違う相手から告白されて、高校に行きはじめてからはそこに他校の生徒が混ざるようになった。――どちらにしても、キヨイの内面をよく知らないままにのぼせ上がって告げられる愛の告白であり、ちゃんとお付き合いをはじめたところですぐに理想と現実のギャップに耐え切れなくなって別れてしまう予感があった。人間とは、そういうものだ、とキヨイは思っている。
はじめて会った人間に、「貴方のことが好きです」と言われるのは正直に、寒気も覚えるおぞましさがあった。あけっぴろげになにを言い出すんだ、と白ける気持ちも伴う。
「でも、親友だったら一番優先しちゃいけないって言うんならキヨイ、お前、俺の恋人にでもなってみるか?」
「――、は?」一瞬言葉を聞き逃した、キヨイはそう思った。考え事をしていたのは確かで、意識がそれている間に浩二が何かを言ったのだと咄嗟に思ったのだ。
視線をあらためて浩二にやる。「悪い。もう一度、言ってくれない?」俺はどうやら大事な前振りを聞きそびれてしまったみたいだ、と思う一方で、聞いてさっきと一語一句変わらない言葉が返ってきたらどうしよう、と幾分冷静な部分が戸惑ってもいた。つと注がれていた親友の眼差しに、似たような困惑を見つけてしまってキヨイは目を瞬く。そのうちに浩二は目をそらして、どこを見るでもない落ち着かない眼で口を開いた。
「運命の相手って言葉は、お前に使うのは間違ってるような気がする」この言葉は、鬱陶しいぐらいに幸せな設楽とセイラに捧げられるべきものである。と、浩二は神妙に頷く。同じ気持ちなのでキヨイも頭を打った。この先なにがあっても互いに手を振り解くことだけはないだろ相手を知っている、それこそ運命共同体のごとく一緒に続けると確信を持っていえるのは、あの親友と幼馴染のカップルぐらいである。あのふたりが別れてしまうならきっと、この世界に本当の愛は存在しないのだ。「で、俺はお前のことを親友だって思ってるけど。お前のことを一番に優先させるっていうか、困ってるお前と困ってるほかの人間、どっちを助けるかって言われたら、やっぱりお前のほうを助けると思うんだ。設楽が困ってても後回しにするだろうし、前の彼女の時も、」途中でぶつりと切れる。言いよどんだのではなくて思い出しているのだろう、と、それたままの横顔をキヨイは眺めた。
――中島君って深井君の、親友、なんだよね?
きっと浩二自身は知らないだろう、以前に、彼女と交わした言葉をキヨイは脳裏で反芻する。親友、という言葉をまるで命綱のように握り締めて問いかけてきた彼女は暗に、恋人という立場は親友という立場よりもとても重たくて尊いもののはずだから、といいたかったようだった。私は貴方よりも深井君にとって大切な存在なんだよね? と質問されているのと変わりなく、キヨイが頷いたのは、自分もそう思っていたというよりは彼女が肯定してほしそうな潤んだ目で、今にも泣き出しそうな表情をしていたからだった。浩二が何を一番大事にしているかなんて知るわけもない、なのに親友の恋人である彼女を慰めるためだけの意味でキヨイは頷いていた。
「キヨイが親友だから一番優先しちゃいけないっていうんなら、お前が俺の恋人になれば一番いい事なんじゃないかと思う」
「それはなんていうか、――理屈?」電車に乗るためには切符を買わなければいけません。そんな、ならば命題のような問題の解き方で恋人にならないかといわれても、困る。一番優先されるべきは恋人である、確かに言い出したのはキヨイのほうだったけれど、だったら親友の看板の上に恋人になりましたと張り紙を貼っておけ、と指示されて、はい。分かりました、と頷くのはちょっと違うと思った。脈絡といえばいいのか、気持ちの問題か、他愛なく済ませられる事務的な処理でないのは確かだ。
親友の看板に満足しているから? 自問して、キヨイは首を横に振る。いや、そういう道筋のはっきりとした分かりやすい問題ではなくて。
「恋人って言うのはようするに、」いいさして、声が上擦っているのに気づいた。両手が空いているならふざけ半分に浩二の胸元でも叩いて笑い飛ばしてやれただろうに、重たいノートで塞がれている両手の自由と一緒に、選ぼうと脳内でひっくり返した知っている限りの言葉も途端に、数が減ってしまったような錯覚を覚えた。冗談にオチをつけて締めくくれるだけの軽々しい語彙を瞬時に選択できなかったのは、言葉を続けてすぐに分かる。火照っていく顔と同じで、だんだん浩二へ、真っ直ぐに向けられなくなっていく。
恥ずかしがっている。羞恥心は、この会話から一番程遠い場所にあるはずの気持ちだ。手元にあって当然なのはむしろ、諦観と嫌悪感であるはずで、なのにそれらは広げてみた心の中の手の内にはかけらも存在していなかったりする。
一度小さく呼吸して、「ようするに、だよ」とさっきの言葉を繰り返してから言った。「お前は俺と、腕を組んだりキスしたり、したいわけか?」
恋人になったらすること、で、想像するのはこのふたつだけではなかったけれど、他の部分の込み入ったところまで指摘するのはどうにも出来なくて、キヨイは無難なものだけをまとめて質問した。腕を組んだりキスしたりするのだって、自分と浩二がやる、と頭の中で思い描こうとすれば途端に目の前が真っ白になるような錯覚を感じてしまっている。ここから先の、恋人、というよりはもはや婚約者とか夫婦同士でするだろう事まで考えれようとするのは、中々勇気のいることだった。設楽とセイラはやったんだろうか、と気持ちをそらせるにも恥ずかしくて顔が赤らむ。
「別に恋人同士になったからって、腕を組んだりキスしなきゃいけないっていう話でもないだろ? あ、でも、映画は一緒に見に行きたいかもな。今さちょうど、好きな監督の映画やってるんだよ。物凄く制作期間の短い監督でさ、出来のよさとか悪さの落差も物凄いんだけど、今回は前編後編の前編だけでさ。見に行かない?」
「まあ、映画はいいんだけどな」
はぐらかされたような気分になったので、改めて浩二を見る。
「なんで、恋人とかいうんだよ?」聞いてから、その答えはすでに貰っていることを思い出した。一番優先するんだから恋人にならないか? と、言われたのであって、恋人になるって事は人前で楽しそうにいちゃついたりとかご飯を一緒に食べたりとか、――そういうことを俺と一緒にしたいって事なのか? とキヨイは訊ねて、否定された。あっさりと首を横に振られたので、じゃあ一体どういう意味だと浩二を睨み据えている。
「俺は、呼び方が変わってもお前との関係が変わるとか思ってないから」鋭いキヨイの眼差しに浩二は肩を竦めた。「ただ、お前がいちいち自分を優先されるたびに気難しそうな顔したりするんだったら、いっそ、設楽やセイラみたいな関係になるほうが楽だろうなぁ、と思った」
「楽とかそういうんで、そんなことを言い出すのか。お前は」頭痛がしてきそうな思いである。両手が空いているならこめかみを押さえて唸っているところだろう。
――でも、浩二の言いたいことは大体理解できたような気がする。浩二がこんなことを言い出している理由が他ならない自分であることぐらいは、自惚れではなくても自覚すべきことだった。
恋人という存在は尊いもの。キヨイが思っている基準に、ただ浩二が合わせようとしてくれているだけなのだ。親友は恋人よりは優先されない、なのにどうしてお前は彼女よりも俺のことを優先したんだ? と問うてくるキヨイに、だったらお前を一番優先できる立ち位置に持ってくれば問題は解決するんだろう? と浩二は言う。だったら世間一般で言われるところの、恋人同士がするようなこと全部を浩二は俺に求めてるんだろうか、と、怪訝そうに浩二に尋ねてみても、首を横に振られる始末なのは当然だった。浩二の言い分は簡単だ。親友であるキヨイ以上に、今優先すべきものはない。それをおかしいというのなら、お前の心の中で一番優先されるべき存在としてお前を、俺の心の中に据えてみよう。それならお前は、俺に文句は言わないんだろう?
パズルがはまる。その音は、ふと落としてしまったため息の音と重なっている。
「親友のままでいい」むしろ、今のままでいさせてくれ、とキヨイは頼むべきだったのかもしれない。
浩二の言っていることはとても優しそうに聞こえて実のところ、ボタンの掛け間違いのようだとも思った。価値観を綺麗にキヨイに合わせて揃えなおして見せたところで、そもそも浩二の中にあった価値観は浩二にとっては正しいもののはずだから、一番上のボタンを一番下のボタン穴に通した不恰好な服で外に出歩くような――そんな風な、おかしな事になるんじゃないかと、率直に感じたのだ。着心地も悪ければ見栄えも悪い、なにもかも違和感がある。ずっとそのままでいられるはずもない。だからきっといつか、浩二は一番上のボタンは一番上のボタン穴に通すべきなのだと気づくだろうし、理解するだろう。分かった時に外される一番下のボタン穴には、最初からそこにはまるべき一番下のボタンが通される。恋人と親友、今はまるで言葉遊びのようでも、はめるべきボタン穴を無理やり変えてしまってはいけないような気がした。
浩二が親友だというものが、キヨイにとっての恋人に当てはまるのだとしても。キヨイが思いもしないところで、浩二にとって恋人に当てはまるボタン穴があるのかもしれない。その穴に通すしかない形の気持ちを浩二が誰かに抱いた時には最悪、親友というものにさえキヨイは戻れないかもしれない。
キヨイは目蓋を伏せる。「くどくど言って悪かったよ。お前の恋人になれる気はしないから、俺」降参と話題の終了を宣言する。
「いい案だと思ったんだけどな」笑う浩二の表情は冗談にしたがっているように見えてどこか残念そうに感じられた。――いや、感じたのではなくて、そう思いたかったのではないか、と内心で彼のいつもと少しだけ違う笑みを眺めて、ぼんやりと思う。同性で語る恋人話に気持ち悪さがちっとも先に立たない、不毛であるはずのこの会話にピリオドを打ちたかったのは、これから先にきっとあるだろう泥沼に片足を突っ込みたくなかったからじゃないか。弁えなければいけない、そんな気がして、キヨイは口を開く。
――開こうとした時、頭上のスピーカーが鳴った。
■
陳腐な学校のチャイムはそのまま、事務机の上の電話機から流れる電子的なメロディに変わっていた。目を開けて瞬いて、さっきのは夢だったのかと自覚して、ソファから立ち上がる。受話器をとって耳にあてるよりも前に、『久し振り、キヨイ。仕事の調子はどうだい?』と声がよこされた。電話番号を掛け間違うのはもちろんのこと、たとえば奈々が代わりに出たとしても恥ずかしいぐらいの、電話越しにいる相手が中島であると断定している言い方である。――この時間に奈々が事務所にいることはまずないから、そういうことを知っていての開口一番なのは違いなかった。で、事務所のどうでもいいような内部事情を心得ていて、なおかつ、歌うような口調で話しかけてくる人物にキヨイは心当たりがひとりしかいなかった。
机におさまっていた椅子を引っ張り出して腰を落とす。「設楽か、久し振りって程でもないと思うんだけど。メール読んでくれたのか?」言いながら、窓の外を見る。
外はすっかり日が沈んでいた。机のほうへ視線を投げると電話機のすぐ近くに置いているメモ帳に、見慣れた奈々の筆跡で、「熟睡しているみたいなので起こさずに帰ります。戸締りはきちんとしましたから安心してください」と綴られていた。設楽からの連絡があったとは続いていないし、メールを送信した携帯電話の着信履歴や未読のメールにもそれらしきものはないので、居眠りをする前に送信した設楽へのメールの返事がこの電話であるのは、間違いなさそうだった。
おそらく夫婦ふたりで経営している喫茶店が込み合っていたのだろう、『悪いね。連絡が遅くなって』設楽は申し訳なさげな口調で言う。『メールで返すのもどうかと思う内容だったし、たまにはちゃんと君の声を聞いておきたいって思ったら、店が空いてる時間になっちゃってさ』
「そんな複雑な用件じゃなかっただろう?」思い返すメールの内容はいたってシンプルだった。最近、深井浩二と連絡を取ったかどうか、と、彼と同居している椎名智一と深井の関係についてのふたつだけ。中島は首を捻る、「それとも、複雑な話になるようなことなのか?」
『まあ、そう身構えないで』嘶く馬の興奮を抑えようとでもするような、なだめる口調である。『メールで返すのは味気ないな、と思っただけだから。僕のほうにも一応、用事があったしね』
「なんだ? 用事って」
『とりあえず僕のほうは後に回すよ、そんな緊急性のある話でもないしね』
他愛のないことだから後に回しても問題はない。というよりは設楽の言い方は、楽しみは後にとっておかないとね、と会話を楽しむふうなものだった。今にも笑い出しそうな雰囲気で楽しげに言いながら、『最近、浩二に会ったのは一週間ぐらい前だよ。大学の帰りに店に寄ってくれて色々話をしたんだけど、彼が気に入ってるあの映画監督の映画が公開されるだとか、君は見に行くんだろうかとか。キヨイは相変わらず、浩二とは全然連絡を取ってないみたいだね?』最後の部分だけ、少し怪訝な色になる。
「別に用事もないからな。それに、連絡はとってなくても顔を合わせるぐらいのことならいくらでもある」応えてから電話越しに設楽の苦笑いを聞くまでの間で十分に、公然と嘘をついたのだと気づきはした。用事がないなんていうのがその場凌ぎにもならない嘘だというのは、そもそも設楽にメールを出している時点で分かりきっている事だ。直接本人に聞けばいいところをわざと遠回りをしているのだから、不出来な嘘に設楽が思わず笑い出すのも無理はなかった。
ひとしきり、笑ってから設楽は息をついたようだった。受話器がノイズを拾う。『まあ、用事がないっていうんなら別にそれはいいんだけどね。僕としてはまた三人で映画なりなんなり見に行きたいとか思うわけだけど、君たちの問題は君たちが解決すべきことだし。僕自身としても、セイラと何か問題が起こった時に、親友とはいえ君達に横槍を入れられるのは好きじゃないから、お互い様だよね。仕方ないよね』納得のいかない事を理解できるよう、理屈でこねくり回して型にはめ込むかのような言い方だった。本当はどうにかしたい、と心底思っているのだろうけれど、仕方ないで強引に締めくくって終わらせている。親友という武器を片手に図々しく踏み込んでもこれるだろうに、一歩退いたままで遠く目だけをこっちに向けているような設楽の諦観に、中島は謝った。
「悪いな」何通りもある解釈を全部設楽に押し付けるつもりで、話題を変える。「で、椎名智一って知ってるか?」
短く間が空いてから、『それって多分、浩二の従兄の名前じゃないかな』少し迷うように設楽が答えた。
「従兄?」と、聞き返す。『そう、きっとね』多分、のところを、きっと、に変えて設楽は頷いたようだった。電話越しで見えるはずもないけれど、さっきの迷う素振りで言った答えの時よりは断定的な言い方になっている。また数秒、黙り込んでから、『ほら、ちょうど高一ぐらいの頃だったかな。浩二の両親が地方に短期出張するとかで、その間は親戚の家から通うとかっていってた時期があったでしょ。結構遠くなっちゃうから車で送り迎えしてもらうって、その親戚さんの名字が確か、椎名、だったよ』
滅多に振り返らない高校時代の記憶を思い返してみれば設楽の指摘するような、まるでどこぞの金持ちの坊ちゃん待遇で深井が登校していた時期は確かにあった。同時に当時、中島が怪訝な気持ちで眺めていたのは、その車の運転席に座っている小柄な青年だった。免許証を持っているのだから少なくとも中島達よりは年上であるはずだが、深井を見送る様子や振り返って手を振られるたびに応じて緩む笑みがどうしても、自分より年上に見えなかったのを覚えている。
あれは椎名智一だったのだろうか。言われてみれば、似ていなくもなかった。
『まあ、本人に聞くのが一番早いんだろうけど』それが出来ないと分かった上での提案なのは、返事をするよりも先に電話越しで落ちるため息で理解した。仕方ないね、と肩を竦めるようでもある。『高校に行ってみたらどうだい? 僕らが世話になった先生ならそのあたりの事情を知ってると思うんだけど』
「設楽が代わりにあいつから聞き出してくれる、っていう選択肢はないんだな」意趣返しのつもりだった。設楽は軽やかに笑う、気持ちがいいぐらいに中島の揶揄もどきな冗談を聞き流して、『高三の時の先生なら、今年年賀状が来てね。まだあの学校で働いてるらしいから、暇な時にでも会いに行ったらいいよ。あの人ならいろいろと都合してくれそうだし』
「――そうだな」けれど、従兄だと判明することがイコールで久谷の依頼を果たしたことにならないのは、電話越しに頭を打っても中島は弁えていた。続柄ではなくて、ふたりの掘り下げた関係をちゃんと知りたいのだ。従兄であるから仲がいい、とかそんな模範的な解答ではなくて。
『さて、次は僕の話をしてもいいかな?』設楽は話題を切り替える。『折り入って、探偵を本職にする君のアドバイスがほしい話なんだけどね』
「探偵の?」中島は怪訝に聞き返した。探偵、という職業は市民権を得ているようで実はまだ大体ひやかしの対象である職業だ。興信所とでも言い方を改めれば少しはまっとうそうに聞こえるかもしれないが、探偵事務所、と銘打つと途端に現実味が薄れたフィクションもどきになってしまう。小説や漫画の中の生き物で現実に存在するのは胡散臭い。設楽の質問だからそんなにとんちんかんな部類のものだとは思わないけれど、訝しむのと同時に警戒心も沸いてしまうのは今までの経験上の苦味のせいだ。
世間一般的に大体、空想の産物として構成されていても探偵業は、現実の客商売である。――妄想と想像と現実をごっちゃにした一般市民がお客様なのだから、「思ってたのと違う」と顔をしかめられようが、「お前の頭の中にだけある探偵像が現実にあってたまるか」と吐き捨てるわけにもいかない。身構えながらも笑顔で、相手からは見えない背中に回した手で拳を作りながら根気よく、話を進めるのが常套だった。
「あれか? 浮気調査とか」言いながら、設楽とセイラに限ってこれはない。と思い直す。
『誰が浮気するんだよ。僕達は今でもラブラブだよ、君達とは違ってね』穏やかに冗談として締めくくっているようで、最後の一言は完全に辛辣な置き土産である。『そうじゃなくてね。君、探偵やってるんだからそれなりに危ないことも手馴れてるでしょ? ひとつご教授してほしいんだけど、あんまり相手を傷つけないで無力化できる方法って具体的にはどんなのがあるのかな?』
「俺はそんなに危険なことばかりやってないぞ」心外だとばかりに声の調子だけを強めた。本当はなんとも思ってない、聞いているのが設楽なのだからその程度の事は分かるだろう。
早い話が、露骨に命の危険がありそうな依頼が舞い込むほど事務所は潤ってもいなければ人脈もない。つまりはその手の依頼を抱えていそうな筋に顔も効かなければ、信頼もない。この日本という国はまだまだ警察組織への信頼が厚いので、か弱き一般市民が困り果てた時に駆け込む場所が探偵事務所であるはずもなく――、結局、警察でも相手にしてくれない、もしくは警察に頼んでも意味のなさそうな事を中心にして、中島の探偵業は細々と続いている。
「ようするに護身術みたいなものだろう? 空手道場にでも通ったらどうだ?」
『そういう手間のかかる奴じゃなくて、今すぐ出来る初心者コースがいいんだけどな』まるで最初から中島が提案するのが当たり前で、しかも何通りものプランがあるような言い方だ。納得のいかないプランを薦められた客みたいに設楽は声を不機嫌に尖らせる。『簡単に決められる関節技とかないのかな? あんまり抵抗されると大変だから、一瞬で沈められる奴が希望なんだけど』
「悪い。話の筋が全然見えない」中島は素直に降参する。いうほど物騒な話ではないのだろう、とは分かっているつもりなのだが、設楽の口調はますます凄みを帯びてくるようであるから怖い。
『話の筋は別に見えなくたっていいんだよ。君なりにお勧めな方法を教えてくれたら』
「何する気だ、設楽」ホームセンターで不気味に沈んだ顔の男が包丁の売り場に立ち尽くしていても、ここまで不安な気持ちにはならないはずだ。
設楽は笑った。中島の不安を跳ね飛ばす、ようなものというよりは、むしろ疑いをますます濃くさせていくような忍び笑いだった。疑ってください怪しんでください、とばかりに喉を鳴らしてから、『内緒。でも、危ないことじゃないよ。だって、あんまり相手を傷つけちゃいけないって言ったでしょ? 悪意はないんだ、とりあえず。自己防衛なんだよ』
「これほど胡散臭い自己防衛って言葉は、はじめて聞いたな」
『じゃあさ、キヨイなら、出会い頭に催涙スプレーを吹きかけられるのと一撃必殺で殴られて気絶するの、どっちがいい?』声に意地悪げな笑いのリズムを残したまま、設楽は歌うように質問した。
「どっちも嫌だ」その前に過剰防衛にはならないのか、と聞きたくなる。
きっぱり断言すると、設楽はため息をついた。『どっちか選んでよ、でないと困るんだけど。――僕としては催涙スプレーのほうがまだいいと思うんだよ、なんだかんだで涙腺刺激して泣くだけでしょ? 殴られて痛い思いするよりは絶対にいいと思うんだよね。他にはスタンガンとかも考えてるんだけど、どう?』
ファミレスでメニューを選ぶ時だって、こんなにも気楽に話を振ってはこないような気がする。
中島はこめかみを掻いた。口を噤んでいる間にでも設楽が噴出すように笑ってくれるのを、「ごめん。やっぱり嘘、いまのなし」笑い泣きでもして上擦った声で宣言してくれるのを、多少期待はしたのだけれど、設楽が丁寧によこしてくれたのは、長い長い間とその後の、『選んでよ、キヨイ』ほぼ命令口調に違いない言葉だった。
「どう? って聞かれても、俺が選ばなくちゃいけないのか?」訊ねてから思わず、中島は顔をしかめた。選ぶ、という設楽が望んでくる行為と、設楽のいうことの具体さに遅ればせながらひとつだけ、想像することがあった。気づかなければいけないこと、だったのかもしれない。「お前。俺が何か選んだだら、誰かにそれをするって事はないよな?」
誰に、で連想するものはいくつかある。たとえば、催涙スプレーとスタンガンのふたつで繋がるのは、両方ともチカン撃退グッズとしてネット通販で売られているから変質者ではないか、という事だった。
ただ被害者がセイラでないのは確実だろう、とも同時に思う。愛する妻がそんな目にあったなら設楽がわざわざ対処法を中島に選ばさせたりするはずがないからだ。自制心が利かないのを理解して第三者にゆだねる、と考えるのも無理だろう。自制心をすっ飛ばして感情が振り切れるギリギリの場所で、設楽は相手に復讐しようとするだろうから。もちろん、たとえチカン行為が未遂であったとしても、だ。
だらりと垂れさげた手に持った血だらけの金属バットが地面と擦れて、耳障りに乾いた音を立てている。思い描くにも怖気で鳥肌が立ちそうなそれが、セイラを傷つけるのはもちろんのこと傷つけようと考えた人間にさえ下される、設楽の鉄槌のイメージである。
ひとりの人間をそこまで真剣に愛せるということが正直に、中島は羨ましくも馬鹿馬鹿しくも思えた。真剣に愛していて、それなのに裏切られるかもしれないと一片の不安を感じることさえないような設楽が素直に、中島は妬ましくも哀れにも思えた。――金属バットを握れないのが限界か、頭の中に描いたばかりのイメージの人物を他の誰にも差し替えられそうになくて、苦く笑ってみる。
『実は僕も相談されただけだから実際にやるかどうかまでは知らないけど。やっぱりさ、実行することを前提にしてこの場合、考えたほうがいいよね?』
知らないといいつつも、設楽の中では完璧に「実行する」方向で考えがまとまっているのだろう。というよりも、設楽に相談したらしい人物がもう、実力行使しかないと腹をくくっているというべきか。
だとすれば自動的に、答えは選びようもなくひとつしかなくなる。
「催涙スプレーでいいんじゃないか」と、中島は答えた。とりあえず、体中の水分全部が涙になって抜け出ていく事はないだろうし、他のふたつよりは手元が狂っても多少は安全なのではないか、と思えたからだ。使用されるかもしれないどこぞの誰かにしてみれば悲劇の度合いが少し低くなった程度のことなのだろうけれど、殴られて気絶、とか、スタンガンで感電、よりはましだろう。「誰がお前にそんな相談を持ちかけたかは知らないけど、催涙スプレーが一番安全そうだ」
『念のために聞くけど、もし君が「これから襲われる道具を選べ」って言われても、同じものを選ぶ?』
「そんな物騒な質問をされるような生き方をまず変えてみようと思う」被害者候補の人間にするには無体な質問で、それを投げかけてきても違和感のない人間とはどういう種類のものだろうかと想像した。「でも、スタンガンでやられて跡が残るよりはましだろうし。殴られて気絶、なんて、気を失ってる間に何されるか分からなくて不安じゃないか。催涙スプレーが一番いい」自分なりの根拠を並べて返事をする。
『まぁ、そうだね』という設楽の声は、どの選択肢を選んでも君が決めたことなんだし、と半分以上投げやりになっているような調子だった。聞きよう次第では、君が選んだことなんだから君自身が責任を取ってよね、と無責任な気楽さで肩を軽く叩かれたような気分でもある。暗に込められている意味に眉をひそめて中島は、思えば、誰かにそれをするのだろうかと想像した時点で見当がつきそうなことを遅れがちに質問した。
「まさか、俺が対象じゃないだろうな?」
『さっきも言ったでしょ? 僕も相談されただけだからね、誰にしかけるかまでははっきりとは聞かなかったんだよ』嘘をついている様子はなかった。『君がストーカーじみたことをやってるんなら話は別だけど、キヨイって粘っこい恋愛は好きだけど相手に過度に執着するのはあんまり得意なほうじゃないでしょ。だから多分、違うと思うよ』
反論の余地はいくつかあるが、全部に異議を唱えるのは疲れそうだった。項垂れるように前かがみになって、「なんだよ、その多分って」確信がもてないから憶測のようなものになる、のは理解していたが、だとすればどうして確信がないのかと問いただす。そんな物騒な質問をお前にしてきた相手を教えろ、と言葉尻に含ませて凄んでみた。――声の調子を低く押し殺すようにしたぐらいで考えをあっけなく追従させてくるほど設楽は気の小さい男ではなかったから、おそらくは最初から切り出す心積もりだったのだろう。そう察するのが容易い設楽の返事がしばらくして、電話越しから聞こえてくる。
『浩二だよ』淡々と、なんでもないふうな口調で親友は応えた。
■
片道の電車賃二百十円分の成果だと思うにはあっけなく、別に電話でもよかったんじゃないかと頭の隅で嘆息混じりに思ってしまう。三年生の頃の担任から得た情報の価値はともかくとして、どうして今更そんな話を聞いてくるのかと不思議がる様子もないまま長々と話を続けるのは情報漏えいになったりはしないのだろうか、と半ば他人事ではあったけれど気のいい元担任教師の未来が心配になった。卒業生がわざわざ学校に自分を訊ねに来てくれただけでも心底嬉しいといわんばかりの歓迎ぶりは、出された珈琲と誰かの旅行土産らしき北海道名産の長細いクッキーから、下心があって来たのをこっちが申しわけなく思うぐらいにひしひしと伝わってくる。
「椎名? ――あぁ、確かに深井の親戚の人の名字だな。それ」思い出す間こそあれ、担任の言葉によどみはなかった。「あいつの両親が短期出張で留守になる間、さすがにひとりで家に残していくわけにもいかないって話になって、学校と協議してその椎名さんの家から通う事になったんだ。一番近い親戚の家といっても遠いから椎名さんのところの息子さんが毎日送り迎えをしてくれていたわけなんだが、そういえば、あの息子さんの名前はなんていったかなぁ?」喉元まで出掛かっているのをどうにかひっぱりあげようとするみたいに顔をしかめる。
いつも事務所で飲んでいるものより随分と黒ずんでいる珈琲を眉をひそめて飲みながら、中島はカップの縁越しにますます険しくなっていく担任の顔を眺めた。思い出せそうにない、という顔をしている。このまま何もいわなければ終いには考えること自体を放棄されてしまいそうな予感があったので、さりげなく口を挟む事にした。
「智一?」でなければここに来た理由はなくなるな、と思う。苦い珈琲を飲んでクッキーを食べて、久し振りに恩師を喋っただけの一日で終わる。
果たしてひっそりと指摘された言葉に、彼は考えあぐねてとうとう深刻になりかけていた顔で驚いてみせた。けれど目をきょとんとさせるのはつかの間で、すぐさま破顔して大きく頭を動かし頷く。
「なんだ知っているんじゃないか。そうだよな、中島は深井と仲がよかったから知ってて当然だよな」ならどうして当然のことをわざわざ聞いてくるのか、とまでは考えが及ばなかったらしい。
訊ねられても答えられる話ではなかったので、「まあ、そうですね」曖昧さだけで返事をしてさっさと話題を変えた。「設楽とはまだ交流があるって聞いたんですけど、俺には年賀状とかくれないですよね。先生」
「年賀状ほしかったのか?」嬉しそうに聞いてくる様子は、珈琲やクッキーと同じだ。自分がまだ必要とされている事に感激するふうな感じだった。
水を差すのも悪い、と思うと言葉は段々と輪郭をなくしていく。「どうして設楽なのかな、っと思って」教師と生徒、それもごく普通の関係であったのはいうまでもない。問題児ほど可愛い、という理屈で話の筋を通すならむしろ、設楽ではなく深井や自分との交流のほうがあるべきではないか、とも思える。卒業式から逆算して二ヶ月、肌寒い冬の最中に起こした出来事には当事者ばかりではなくこの教師も結構骨を折って気遣ってくれていたのは知っていた、そしてその甲斐もなく卒業して、今に至る。
珈琲を飲み干して元担任の机の上に置く。「――まあ、深井と設楽とお前はいつも一緒にいたからな」歯切れの悪い言い方に顔を上げると、教師は苦笑いして肩を竦めた。「お前らの近況を聞くには設楽が一番いいと思ったわけだ。いまだに設楽からお前らが仲直りしたっていう話を聞かないって事はだ、まだ喧嘩を続けてるのか?」
「さすがに二年間もぶっ通しで喧嘩できるほど俺は、気の長い男じゃないです」実際はくすぶっている怒りや諦観を処理できずにいるうちにどうしようもない距離が出来てしまっていた、ただそれだけの事なのだろう。他愛ない無駄話が出来なくなる距離、親友ではなくて同級生と表現するにふさわしい距離、縮められずに卒業すると他の今ではろくに名前も顔も思い出せない同級生たちと深井は同じ存在になった。連絡を取る必要はない、思い出す必要もない。ただ高校生活を一緒に過ごした同級生の部類に入るだけの、誰の記憶のなかにもあるだろう無名のひとりになっただけだ。
もちろん、それが態のいい言い訳であり、逃げであったのはもう分かっている。久谷雅臣という外因から端を発していま現在、忘れかけていたはずの思い出はなにもかも、すっかり中島の心の中で再構成されてしまっている。無名のひとりとして扱っていた同級生の皮を剥いてしまえばあっけなく、深井浩二はやはり深井浩二でしかないのだと思い知らされるほかない。
「ご馳走様でした。俺帰ります」立ち上がって別れの挨拶を言うと、「ある野球選手が言ってたんだけどな」いかにも格言の前置きに相応しい神妙な口調で教師は言った。
改めて目を向けると、彼はひとつ、頷いてみせる。ほとんど空のコップを机において、膝の上で両手を組む。「どうしても許せない事っていうのはあるんだそうだ。で、その許せない事が起こってしまった直後っていうのは自分の気持ちの中にも余裕なんてないから駄目なんだと。でも、時間がたてば自然と余裕が出てくる。いろんな事が見えるようになってくる。少しは相手の事を考えられるようになる。そんな時にな、許せなかった奴に会えば不思議と和解できるものらしい。絶対に無理だって思っていても、内心じゃきっかけを探している事もあるんだ」
「先生は、俺と深井の仲を取り持ちたいんですか?」そういう話の流れのように思えたけれど、彼の一笑は他愛なく中島の想像を吹き飛ばした。
神妙な顔を途端ゆるませて、教師は首を横に振る。ひらりひらりと手を振った。「悪いがねぇ、俺は今抱えてる生徒のことで頭がいっぱいなわけだ。遊びに来てくれるのは嬉しいし歓迎もするが、仲直りさせてほしいとかそういう手の込んだ事をする暇はない。いい年なんだから自分達で会って謝るぐらいの事は、いつでも出来るだろ?」
いつでも出来る、とは限らない。少なくとも中島は双眼鏡越しに何度も深井を眺めたけれど、会いたい、とは思わなかった。会ったところでどうなる、と自問する事もなかった。――はずだ、と内心で付け加えてしまうのは多分、弱気だからかもしれないが、行動に起こそうとしていないのだけは確かな事だった。いつでも出来るだろう? と簡単に質問してくる教師の言葉そのものな他愛さを、中島は持ち合わせてはいなかった。いつでも出来るから今はやらない、という主導権を握っている上での選択肢でも無論、ない。
だから苦笑いする。はぐらかす心積もりで口元を緩めて、「いい年って、あの頃から二歳しか年とってないんですけどね」二年という月日では元担任が言うようなところまで気持ちは変化してくれない。暗にそう告げてから、頭を小さく下げた。
改めてする二度目の別れの挨拶に「気をつけて帰れよ」という教師の言葉が説得を諦めた人間の投げやりなそれに聞こえたのはようするに、説得されてみたかったんじゃないかな、と手遅れに近いのろさで思う。それは、「じゃあ先生が車で送ってくださいよ、駅まで」「俺はこれから会議があるから無理だ」とどうでもいい軽口を笑顔と一緒に交わした後で職員室の扉を後ろ手に閉めた直後に、タイミングを外した直感としてひらめいたので、思わず一番最初にやりきれない嘆息をついてしまった。
他の誰かのせいにして会いに行く事ぐらいなら、――今の自分にも出来るのではないか?
わざと目をそらしたのか、本当に気づけないでいたのか。落としているため息は駄目出しに近く、今の中島自身は、自分が担任から深井に会ってみろとでも頼み込まれるのを少しぐらいは期待していたのだと認めている。だからといって、教師と顔を合わせながら話をしてきた時にも願っていたのか、と推測して結論付けるのは無理だった。会う理由を他人事にして顔を合わせれば、二年前の不愉快な物別れの続きをやるはめになっても自尊心だけは傷つかないだろう。「別に、俺自身がお前に会いたかったわけじゃない。○○に会ったらどうだって、勧められただけだから」魔法の言葉を、手に入れたのも同然だった。
欲しかったんだろうか。ゆっくりと足を踏み出しながら考える。――自分が傷つかないでいい言葉を、無責任にでも教師が言ってくれるのを願っていたのだろうか。だとすればやはり、期待はしていたことになる。
学校の正門を出て徒歩で駅を目指す。運動場や体育館の確保となるとどうしても駅から遠ざかった不便な場所に学校を建てざるおえないのか、学校から駅まではゆうに二十分の距離があった。駅の駐輪所に自転車を置いて利便を図っていた生徒もいたが、たいがい駅を使用する生徒は徒歩で学校に向かっていた。当時と同じ道順で駅に向かい、事務所近くにある駅よりは多少小奇麗な駅の外観をしみじみと眺める。二年前はもう少し古びた感じだった、ちょうど卒業する時期に改装工事がはじまってつい最近終わったらしい。切符を買って改札口をくぐる。
外観同様に綺麗に舗装されたホームにいる人間はまばらだった。
平日の昼過ぎに、急行電車の通過点になっているような駅で電車を待っている人間というのは暇人を具現化したような感じがある。そうでなければ中島のように、せわしなく動いている世の中の循環に一役買うこともなく、はずれでのんびりと佇んでいるような人間だろうか。もしくは循環から弾き飛ばされて二度と中に飛び込む気力もない人間かも、と考えたところで物悲しくなってきてやめた。傍目から見れば自分もかぎりなくその、気力をなくして昼間の駅のホームに突っ立っている人間のひとりに見えるはずだ。
中島はなんとなしに目を彼らに向ける。人間観察、といえば聞こえはいいほうだろうけれど、全然自分とは関係のない、そこでばったり同じ空間を共有する事になった人達を眺めるのが中島は好きだった。世知辛い世の中なのでしげしげと眺めているうちに不審な目を向けられる事もあるけれど、そのときは毎度よろしく人好きする笑顔で乗り切れる。――ホームには、片手で数えられる程度の人間しかいなかった。すでに循環から拍手をもって送り出されて数年はたっていそうな老夫婦が、斜め横の壁際に設置された木製のベンチに腰を下ろしている。いかにも無口そうな老人が、傍らにちょこんと座っている老婆の話をただただ頷いて聞いているようだった。今から電車に乗って家に帰るのか、それとも出かけるのか、と推測すれば、出かけるほうなのだろうと結論が出る。こころなしか口を引き結んでいる老人のほうも楽しげに見えるので、孫にでも会いに行くのかもしれない。
彼らよりも少し奥、ベンチに座らずに中島同様佇んだままの男へ目をやった。
まず、野球帽のような紺色の帽子が眼に入り、そこから少しだけ茶色の髪の毛がのぞいていた。身長は目算で中島よりも頭ひとつ程度の高さ、おそらくは久谷雅臣と同じぐらいだろう。同じ、という想像は同時に、似たような職業についている人間かもしれない、と憶測を中島の思考に提供してくる。綺麗に整った顔立ちからも思ったのだが何より、平日の昼間に、さして込み合うでもないひなびた駅のホームに佇んでいる悲哀、みたいなものを男はまったく背負っていなかった。不景気で仕事にあぶれてしまった人間が、今まで全然来た事もなかった時間帯に駅で立ち尽くしながら、「どうしてこんな事になったんだ」と自問自答している様子では決してない。むしろ、そんな感じでくたびれてやつれてしまっている人間の丸まった背中を見遣り、鼻で笑って見下すような軽薄さのほうが、彼には似合っているようだった。狡猾に物事を捉えている、冷静なイメージはおそらく当てはまっているだろう――、男の切れ長い目が物静かに動いた。顔は真正面に向けられたまま、目だけを横合いに中島のほうへ向けてくる。
目が合う。ほぼ自動的に唇の端に浮かびかけた中島の笑みを遮ったのは、彼の目だった。
不快げな色は、焦茶色の眼差しからは受け取れない。顔も知らない第三者に無遠慮に眺められれば誰だってまず、不可解そうに目を細めるものだけれど、男が向けてきた眼差しは淡々として色がなく、ただ気になったからそっちを見てみた、とばかりのものだった。日頃から第三者から眼差しを注がれる機会が多く、それを不快げに跳ねつけるよりはお手軽にあしらう事に長けている、ともとれる。――男の目の中に、取り繕うような優しげな色でもあったなら中島は、彼が芸能人かモデルか、そんなものだろうと連想していただろう。眉をひそめたのは単純に、優しさのない男の目の中にあるものが、酷く冷たいもののように感じたからだった。
人ではなく、モノを眺めるような目。直感的に中島はそう思った。言い換えるなら、不快感さえ向けるのは面倒くさいほどに眺めるものをなんとも思っていない眼差し、だろうか。
アナウンスが頭上で鳴る。スピーカーから、高校時代にずっと聞いていたものよりはひび割れしていない流暢な声が流れる。『一番線に電車が到着します。危険ですので白線の後ろまで下がってお待ちください、この電車は――……』アナウンスが告げる電車の行き先は、中島が乗る電車ではなかった。いまどき交互にのぼりとくだりを走らせている駅も少ないだろうな、と思いながら白線よりも少し後ろまで下がった。左手方向から線路が軋みだすような、列車が近づいてくる音が小さく、次第に大きく聞こえてくる。やがて電車の正面がおぼろげに見えてきたかと思うと、二両編成の短い列車は徐々に速度を落としながらホームへ滑り込んでくる。停車し、空気の抜ける音と一緒に扉が開く。アナウンスがまた頭上で鳴った、聞き慣れた駅名を間延びした声が連呼している。
降りてくる客はひとり、ふたり、で、乗り込む客は、さっきの男よりも奥にあるベンチに座っていた男ひとりだった。立ち上がり、一番後ろの扉から列車に乗車する。乗らない意思表示で後ろに下がっていた中島の目には、斜め後ろからの姿だけが、かろうじて視界にかすった。
それだけで反射的に理解できたのは、中島の目ざとさとここ最近ずっと彼のことを観察していたからだろう。華奢な体格とやわらかそうな黒髪に、「あ」と声をあげた時には駆け出していた。電車が発車する、車掌が鳴らす笛が甲高く耳を射る。
靴底で強く、車内の床を踏みつける。後ろで電車の扉が開く時同様の暢気な音を立てて閉まる。少し遅れて床が僅かに揺れると、のっそりとした速度で電車が動き出した。窓の外の小奇麗なホームが、中島が乗ろうとしていた電車とは正反対の方向へゆっくりと次第に早く後ろへ流れ出していく。息を小さくついてから顔を上げると、斜め向こうの座席に座ってきょとんと目を丸くしている親子連れと目が合った。二両編成の前の車両にはこの親子しか乗っていない、扉が閉まる間際にいきなり飛び込んできた男にどんなリアクションをすればいいのか、と途方にくれてるような顔だった。苦笑いで誤魔化して、後ろの車両へ繋がっている扉のほうへ歩き出す。扉の窓から見る限り、二両目も閑散としていた。ざっと窓から確認できる視野だけを見回すと、乗っているのは、さっき中島に無謀な駆け込み乗車をさせるきっかけとなった男――椎名智一と、後はこの一両目に乗っている親子連れに似た家族らしき子どもと両親が乗っているぐらいだった。
二両目に行くのをやめて傍の座席に腰を下ろしたのは、行けば絶対に彼らの目を集める事になるだろうと想像できたからだった。今までの尾行や調査で椎名智一に顔を覚えられるような失態を犯したつもりはないけれど、今後何がどう災いしてくるかは分からないから下手に目立つ事はしないでおこうと、ひとまず二両目を確認できる場所を確保する。ちらりと横合いに目を向けて、硝子越しに彼を見た。座席に腰掛けてぼんやりと視線を前に放り投げている、浮かれている様子でもなければ沈んでいるようでもなかった。考え事をしている、というのが一番しっくりとくる様子ではあったけれど、遠目に窺える表情は何の感情もない無表情に近い。はっきりと思っている事を表情にそのまま出すタイプの人間でないのは調査して把握している事だったけれど、と、中島は首を傾げた。今見ている顔はどちらかと言えば、考える事を無理に押し留めている、というほうが正しいような気がする。
電車はゆっくりと速度を落とす。各駅停車は、小刻みに停車しては発車して、一駅、二駅と過ぎていく。
その間に、一両目の親子連れは電車を下りた。続けて二両目の家族連れも下車する。電車はどんどん駅で停車しては扉を開けるが、誰も乗り込まず誰も降りなかった。椎名智一は一体どこで降りるのだろう、ちらりと彼を一瞥してから扉の真横に張り出されている路面地図に目をやって、中島は考えた。今まで椎名智一が電車を使って遠出した事は一度もない、けれど彼は久し振りに乗っていると思われる電車内でそわそわした様子は見せていない。落ち着いてじっとしている。過去に行き慣れた場所へ行こうとしている、だから行き方をちゃんと心得ている。と推察するのだけれど、ならこの先の駅に彼と関わりのあるものや場所はあっただろうか。
思い当たる事がひとつだけあった。この電車の終着駅は県外になっている、そこから乗り換えて地下鉄を三駅ほど行けば、久谷が働いているホストクラブがある繁華街に出る。ポケットにねじりこんでいた携帯電話を引っ張り出して時間表示を見れば、今の時間帯なら久谷は家から職場へ出勤している最中だろう。会おうと思えば十分可能である。
――久谷に会いにでも行くつもりなんだろうか。思ったけれど、それはきっとないな、とも冷静な部分が断じていた。久谷は中島に調査を依頼するまでに自分が思いつく限りの方法と手段で椎名智一を探してみた、と言っていた。椎名智一の両親や縁者、むろん関わりがある人間全員に連絡を取って、何か情報か連絡があれば教えてほしいと頼み込んだそうだ。けれど一向に音沙汰がなかったのに痺れを切らして、プロの手を借りる事にした。久谷が働いている場所の住所をどうやって椎名智一は手に入れたのか、久谷が最初に布いた情報網にひっかからずに本人に勘付かれないまま入手するのは難しいような気がする。それこそプロの腕の見せ所なのだろうが、彼が同業者らしき人間と接触したのを見た事は一度もない。
椎名智一が立ち上がったのは六駅目のことだった。終着駅手前である。
彼の後を追いかけて電車を降りた中島の後ろで、とうとう乗客をゼロにした列車がそれでも重たげな速度でゆっくりとホームを出て行く。最初に買った切符では足りない料金を精算機で払っている中島の横を、携帯電話を見る椎名智一がゆっくりとした足取りで通り過ぎていった。メールでも読んでいるのか、視線がゆっくりと携帯電話のディスプレイの上で動いている。先に改札口を出た彼をまた追いかけた。この駅の近くに何かあっただろうか、と地理にはあまり詳しくない頭を叱責させながら考える。駅を出てみると考えが、何かあっただろうか? と疑問符を挟むのをやめて、何もなさそうなのにどうしてここで降りたのか? と変化していくのを自覚した、見回した先にあった申し訳程度の小さなロータリーにはいかにも暇を持て余しているふうなタクシーが一台止まっている。自然と眉間にしわが寄った、あれに乗られたら追いかけられないな、と思う。
椎名智一の行き先は徒歩でいける距離なのか、彼は携帯電話を眺めたまま町のほうへ歩き出していた。時々分かれ道で立ち止まっては周囲をきょろきょろと見回して歩き出す、その一連の動作を何度も繰り返しているのを遠目で眺めているうちに、中島のほうはといえばちょっとした違和感に顔をしかめていた。違和感、というのは少し違うかもしれない。知っている場所に佇んでいるようで実は全然違う場所のような、もしくはそれとは正反対の、知らないと思っている場所だけれど実際は見知った場所のような、そんな感覚に囚われていたのだ。
駅前ロータリーの閑散な印象をそのまま引きずっていて、町はとかくひっそりとしていた。中島が事務所を構える商店街のひなびた印象と大差ない、ほとんど同じ、といっても過言はないだろう。だから見覚えがあるのと感じるのだろうか、と、思いながらもしっくりこない頭を捻っていると、前方で椎名智一がまた立ち止まった。分かれ道だからではなく、立ち並ぶひなびた商店街にはありがちなシャッター通りのうちの店舗のひとつを眺め、小さく顎を引いて入っていく。
その時、電車に乗り込んだときから今までずっと前だけを見据えていたように思える彼の目が、ふと揺らいだ、ような気がした。宙をそわりと泳いで動き、中島の顔を掠めて消える。建物の中に入ると同時に、視線も消えた。無意味に視線がかすったわけでもない。
気づかれた? と考えるのは自尊心そのもので、大半は、気づかれて当然だ、と揶揄めいた気持ちで自分を見透かして中島はそろりと、椎名智一が入っていた建物の前まで来て立ち止まった。両手をズボンのポケットに突っ込んで顎を持ち上げ、建物を見上げる。くすんだ煉瓦作りの壁に色褪せた瓦の色、持ち主がきれいにする事を放棄してしまったような、廃墟、の言葉が何よりふさわしい様相の建物だった。民家ではないらしく、入り口のひさしの上に錆び付いた看板のようなものが取り付けられている。元はどんな色だったのか、想像したくても無理だと諦めるしかないぐらいに原型を失ってしまっていた。かろうじて、錆付いた背景よりは文字の部分だけ輪郭を侵食されないでいたので読む事が出来る。ゆっくりと口を開く。「……、フ、カイ、映画、館?」
言い終わってすぐ、ざわつく様な気持ちに中島は首を傾げた。思い出せそうで思い出せない、もどかしい気持ち悪さに眉をひそめる。
しばらく考えあぐねるように赤茶と焦げ茶の錆だらけな看板を、答えは錆の下にあるんだとでも言うように眺めてから、首が痛くなってきたのでやめた。首の骨を鈍く鳴らしてから顎を引いて、視線を戻すついでに椎名智一が入っていった建物の入り口を見遣った。入り口はまさしく四角く開かれたような口で、下へと階段が伸びている。入り口の中に陽射しがさす時間帯なら、奥のほうまで見通せたのかもしれないけれど、今は五段程度までが見えるぐらいで先は穴に溜まっている暗闇に隠れて見えなかった。
ひなびた駅の周囲で、どうみても潰れてしまっている地下の映画館。――さっきの違和感に似た感覚を掘り起こす。見慣れたものと見慣れないものが混ざり合うと、異様に際立って見えるものだ。ここに訪れた事があるような気がした、その頃はまだ潰れてはいなかったはずで、もしくは閉館寸前の、他に客が全然いないちっぽけな教室ぐらいの大きさしかない劇場でかび臭い椅子に座ってうっすらと黄ばんだ色のスクリーンを眺めていた。最後まで、たどたどしく浮き上がってくる、水面の気泡のような記憶を眺めているうちに、ふと気づけば、「ような気がする」と付け加えるのをやめていた。そんな気がする、と思わなくてもよくなっていた。目を瞬いてから見開き、中島はまた顔を持ち上げる。顎を出して、視線を上向けて看板を仰ぐ。
「あの、ここに何の御用ですか?」と、遠慮がちなのにふてぶてしく聞こえる声がこの時に、背中に投げかけれた。これは私の所有物なんですけど、とでもこっそり誇示するような言い方だった。
仰いでいた視線を戻して、振り返った。向き合ってから挨拶しようと開きかけていた唇はそのまま、どの類の挨拶も口に出せずにぽかんと半開きの形で硬直してしまう事になった。目を丸くする。
突きつけられていたのは、いわゆるスプレー缶の噴射口だった。まっすぐに中島の顔の高さに持ち上げられ、目の前にあった。これは一体なんだ? 頭の中で当然に沸いた疑問が血の中を巡りだすよりも先に、おそらくは逃げようと理性が赤色点灯を閃かせるよりも早く、体は動いた。理性よりも自己防衛本能じみた反射神経が中島の体の主導権を一時的に占拠する。噴射口の上部に添えられていた指先に力がこもる様を、見た。吹きかけられる、と思うのと同時に、膝を折る。しゃがみこむ。
白っぽい気体が噴射口から飛び出した。圧縮されていたスプレー缶の中身が我先にと外へ飛び出す、押し出される音の間に、「ちょ! お前、避けるなっ!」狼狽しきった男の声が理不尽極まりない批難を捲くし立てていた。追い立て次の行動をとるよりも先に思わず、といった感じで叫んでいるそれは、ちっぽけすぎる小物とも善良すぎる一般市民の言い分にも聞こえた。これで終わりだとフルスイングしてみれば見事に空振ってアウトを取られ、慌てふためいているような、ゲームの続きを失念しているような。喧嘩慣れどころか揉め事にも慣れていない、やり返される事をまったく念頭に入れていないとしか思えない、ものだった。男の声は完全に、自分の身の程を明かしていた――なので、策士とは縁遠い男の叫びが耳から思案する脳にまで届いた瞬間、中島は決めた。即決だった。低い体勢のまま男の両膝に飛び掛る、両腕で抱え込むようにして体重を前のめりにかける。
男の靴裏が地面から離れる。あっけなく、男の体が傾くのを手ごたえで感じた。
間の抜けた悲鳴は、「うわ」とか「おお」とかに似ていたが、ちゃんとした母音と子音を繋いだものではなさそうで、はっきりとは聞き取れなかった。男がしりもちをつく、振動が両腕で抱えた膝から伝わってきた。後ろのほうで何か軽い金属片のようなものが落下して小さく跳ねる、そんな音が聞こえた。跳ねた後で転がって次第に遠ざかっていく、カラカラカラ、と軽やかに音が小さくなる。男の膝を抱えたまま眼球だけを動かして彼の手を見ると想像通りに空っぽだったので、すぐに遠くのほうへと転がって行くそれが男の持っていたスプレー缶であるのは見なくても見当がついた。
足を掴まれ押し倒されて体勢を崩している今だって、いや中島が男の両膝を抑えている今だからこそ、スプレーを噴射すれば避けようがない。逆転できるチャンスである。だから男の持っていたスプレー缶の武器としての重要度はとても高いはずで、なのに倒れこんだ衝撃か慌てふためいて手が滑ったか、どちらにしろあっさりとスプレー缶を手の届かない場所に放り出してしまうのだから、彼がドをつけたほうがいい素人であるのは間違いなそうだった。振り返った矢先に突きつけられた噴射口を見た時はこんなに拍子抜けで終わるとは思わなかったけれど、と、中島は嘆息ひとつ落として男の両膝に絡めていた腕を解いた。すくりと立ち上がり、アスファルトに触れたズボンをはたきながら、つとめてゆっくりと口を開いた。
「俺に何か恨みでもあるわけ? 正直な話、いきなり他人に襲われるような事をした覚えはないんだけど」探偵をやっていてもそうそう、いつも危ない事をしているわけじゃない。恨まれることもあるだろうが、問答無用でスプレーを吹きかけられるほどの怨恨というのはどんな具合のものなんだろう。頭の中でそれに見合うと思う諍いや争いの記憶を漁ってみたけれど、いまいち納得できる懸案はなかった。眉をひそめ、「――それともここの映画館の関係者か?」もしかして泥棒や空き巣の類と勘違いされたんだろうか、と純粋に恨まれているほうがよさそうな可能性を憮然と口にする。
ちらりとも視線をやっていないので、倒れこんだままの男がどんな表情をしているのかは分からなかった。返事もないのでこのまま言葉を続ける。
「先に言っとくが、俺は空き巣でもなければ物取りでもないから。ここに入ろうとしていたのは先に入っていった人の事が気になったからであって――、」
「キヨイ、か?」唖然とした声はどんな多弁よりも確実に、中島の弁論を遮った。
唐突に名前を呼ばれれば大抵面食らう。目を見開いて相手にどうして自分の名前を知っているのかと問い詰めたくなるものなのだろうが、その行動に体が移るよりも先にその男の声は中島の記憶から一人の人物を浮かび上がらせていた。忘れようと努め、なのにも関わらずここ最近は思い出してばかりの同級生の、聞き覚えのあるものよりは幾分低いものの馴染みはある声に、中島はいきなり名指しされる驚きよりもはっきりとした狼狽で慌てて顔を持ち上げる。しりもちをついたまま、目を見開いて口を間抜けにぽかんと開いて、――おそらくは今、自分も似たような顔をしているに違いないと中島が自覚する表情で、見上げてくる。
地下へと続いていた階段のほうからこの時、ゆっくりと上ってくる足音が聞こえた。
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階段を下りると木製の扉があり開けるとまず、深井は照明をつけた。まだ電気は通っているのか、というのが中島の素直な感想だった。
地下は手狭なロビー、といったところで、右手にカウンターらしきものがあった。店じまいをしたのはいつのことなのか、人が最近行き交ったような痕跡はない。ますます、どうしてこんなところに椎名智一が――というよりも、椎名と深井の従兄弟同士が来ているのか、と首を傾げたくなる有様で、カウンターにも、ロビーを半分ほど占拠する形で置かれているソファらしきものにも埃が分厚く積もった白い布が被せられている。半ば放置されているのはジュースの自動販売機ぐらいなものだが、中に陳列されているジュース缶のレトロさを通り越した安物ぶりのせいかまったく動く気のしないガラクタ感しかなかった。場所が場所でなく、普通に道端に置かれていてもどうにも小銭を入れる気分にはなれそうにない。
ぐるりと周囲を見回して、最後に椎名と深井の姿を捉えて視線を止める。見据えて、中島は肩を竦めた。
「で? こんなところに、貴方達はどんな用事があったんですか?」
「お前のほうこそ、兄貴をつけてきて何の用事だったんだよ?」と、深井が聞き返す。
中島は小さく息をついて、まず一枚目の手札を切る事にした。どのみちここまで来て顔を合わせてしまったからには、ただの通りすがりだと言い切るのも虫のよすぎる話だとは分かっているし、手の内を明かしたほうがさっさと済ませられる要件だろう。「俺はこういうものでして、」ジャンバーのポケットから皮製の名刺入れを取り出し、一枚引き抜いて差し出した。名刺、というのは突き詰めていえば何の信用度もない自称○○みたいなものに過ぎない、と中島は思っているのだが、世の中案外、名刺を手渡されてしまうとそこに書かれている文字を事実として信用してしまう人間は多い。
果たしてこの従兄弟達はどうなのか、と彼らを観察する。名刺を受け取ったのは椎名で、ゆっくりと目を動かして名刺の文字をなぞってから一瞥だけ中島に視線を放り投げ、また名刺に戻してから深井のほうへ手渡した。深井はさっと目を通しただけで眉をひそめ、「探偵?」といかにも胡散臭そうな口調で呟く。顔を上げて中島を見据えると、持ち上げた手の人差し指と中指の間で名刺をひらひらと泳がせた。「お前、探偵なんてやってたのか」
「とある人からの依頼で椎名智一さんの周辺調査をしていました」深井の言葉を無視する意味合いで視線を椎名に向けて、中島は言葉を続けた。視界には入ってないものの、なんとなく気配で深井が機嫌悪そうにさっきよりも顔をゆがめているのが分かる。昔のまま、感じ取れている事にどうしてか居た堪れないような嫌な気分になったのが自然と、次の言葉の皮肉に繋がるのに中島は気づいた。「――で? こんなところに、貴方達はどんな用事があったんですか? 俺にはどうにも、はめられたような気がするんですけどね」意地悪く言葉を選んで首を傾げる。
空間の気配、とでもいうのだろうか。
長年、空気の出入りが乏しかったのは間違いない。喋るたびに空気に漂っている埃を飲み込んでいるようないがらっぽさが喉元にへばりついてくる。映画館としての寿命を全うしたのは以前の事で、かといって他の何かに生まれ変わろうとした形跡もなければ、誰かが愛着を持って保全していた様子もない。ただ忘れ去れた結果の放置、と捉えるのが中島の中では最も妥当な線だった。そうしてそんな空間にやってきたこの従兄弟達の意図はなにも複雑なものではなく単純に、ここが放置された空間であるから、と想像していた。
だからこその深井の行動だ。――スプレー缶、というのが、かなり、ひっかかるところではあるのだけれど。
「すいませんでした」と、椎名が言った。遠目で、時々は間近で観察していた物憂いげな表情を僅かに曇らせる。「実は、全然違う人間を想像していたので。あまり人のいる場所じゃなくて、人の目が絶対にない場所で話をするべきだと思って、浩二にいい場所がないか相談したんです」
「兄貴が謝る事じゃない。こいつを襲ったのは俺なんだからな」ふてくされるような、ともとれる言い方をして深井は首を横に振った。自分に非があることを先に身内から相手に謝られて所在をなくし憮然とするのに似た、遣り切れない表情をする。中島を見遣り、短くため息を落としてから口を開いた。「兄貴から、兄貴の後をつけてるかもしれない知り合いの人相っていうのを教えてもらっていたから。でも全然つけてる奴が違ってたからこりゃ、下手に地下でふたりっきりにさせたら危ないと思ってさ。だから、催涙スプレーで撃退しようとしたんだけど」
返り討ちにあったわけか。と冷静に指摘すれば手痛い一撃になるのは分かっていたけれど、嫌味を言うよりもまず、中島は顔をしかめて深井に聞き返していた。
「なんで、催涙スプレーだったんだ?」ひっかかる、ではなくすでに、答えはちゃんとした形として捕まえられるのだが、念のための質問だった。
「一番人を無闇に傷つけない方法だ、って言われたんだよ」
「誰に?」深井の言葉の端に噛み付くような速度で問い返してから、中島はこめかみを押さえて唸った。首を横に振って、「いや。やっぱいい。想像できるから」うめくように言う。
間違いなく言ったのは設楽で、それに助言したのは自分だろう。巡り巡ってあの電話の時に、漠然と根拠もなく自分の身に降りかかって来そうな予感がしていたのは見当違いではなかったのか、ある意味凄い直感だったんだなと他人事のように感心してみる。でもきっと設楽のほうは、わからない、とか色々と言っていたけれど全部口先の事だったのだろう。でなければあんなに、中島自身の基準で催涙スプレーは容認できるか、みたいなことを訊ねてくるはずもないので、きっとあの男の頭の中では、親友ふたりが取っ組み合いの乱闘をするところまでちゃんとシュミレーションされていたに違いない。お前の中ではどっちが勝っていたんだ、と今度会ったときには是非とも笑顔で訊ねてみたくなってきた。
でも、ストーカーと探偵の仕事をごっちゃにされた事にまず、プライドを見せるべきだろうか?
「あの、怪我とか大丈夫ですか?」おずおずと椎名が訊ねてくる。しりもちをついた従弟に遠くに転がったスプレー缶、そしてその前に佇んでいる中島、の勝敗がはっきりとした後の光景しか見ていない彼としては、自分の周囲で起こっている事で人が怪我をしていないかどうか気がかりだったのだろう。口調は遠慮がちながらも、ずっと聞きたくてたまらなかった、と言いたげなものだった。
ひらりと手を振ってみせる。「ご心配なく」皮肉でも嫌味でもなく本心からだった。「これでも喧嘩は強いほうですから」
「俺の完敗だったから、兄貴が心配するような事はなんもないさ」気遣う口調で深井は椎名に苦笑いを見せた。それは心配性な兄を慰める弟の姿、のようなものだった。だから眺めていた中島は自分が臍を噛むような苦い気持ちに陥っている事に思わず顔をしかめる。胸の中に充満し始めていたもやもやとした思いからではなく、その感情を含めて今、胸の底を踏み抜こうとばかりに重たさを増していく全部の気持ちに不快感を覚えて、口を開いた。
「もう話は終わりましたか? ようするに、ここまで貴方達が来たのは俺を別の誰かと勘違いしたからなんですよね。だったら俺はもう帰らせてもらってもいいですよね」事務的に冷静に話を進めようと思っている矢先から出てくる声も随分と刺々しい。――理由が分かっているからなおの事、認めたくなくて目をそむける。「俺から貴方達にお話できる事はありませんし」
「待てよ、キヨイ」従兄に向けていた苦笑いを顔の底に沈ませて、深井は中島に向き直った。真摯な顔を怪訝そうにしかめる。「兄貴の調査を依頼したのは誰なんだ?」
「守秘義務って言葉、お前知ってるか?」今までわざとその話に触れてこないのだと思っていたが、単に言いそびれていただけなのだと気づいて、中島は呆れるふうに息をついた。「依頼人が誰かなんて簡単に赤の他人に話せるはずがないだろう。自分たちで想像してみたほうがきっと早いぞ」彼らは自分達で思い至った人物が依頼人であるのかどうかをはっきりさせる根拠は持っていないだろうが、根拠なんて必要のないレベルで直感的に確信をもてるはずだ、とも中島は思っていた。久谷雅臣という人物が依頼人であるのだから、あれやこれやと理屈や証拠を並べ立てて推理していく手順はおそらく、椎名の中では手っ取り早く省かれる事だろう。
いや、彼らはすでに分かっているはずなのだ。でなければこんなところに、来るはずもない。
「教えてはくれないんですか?」ひっそりと、椎名が問うてくる。会わせてはくれないんですか? 全然ニュアンスの違う言葉を、聞いたような気がした。
「俺の依頼は別に、貴方達を会わせる事じゃありませんから」冷たい言葉を言ったとは思わない。けれど言い切って口を噤むとどうしてか、馬鹿馬鹿しいぐらいの自己嫌悪が自分の中にあるのを知ってしまう。手当たり次第に八つ当たりして我に返ってから、恥ずかしさや遣り切れなさで蹲ってしまいたくなるような、そんな気持ちに口調はつい投げやりな形になった。「会いたくなれば彼のほうから、貴方に会いに行くでしょう。それぐらいの情報は今回の依頼で彼に渡るはずですから」
「そうですか」とても短い言葉には、様々な意味が込められているようだった。会いに来てほしい、とも、会いになんてこなくてもいい、とも聞こえた。どっちが彼の本心なのだろうと推察する気分ではなかったので、小さく会釈する。さっさとこの場から出て行こうとだけ決めた。「じゃあ俺はこれで」
「キヨイ、ちょっと待て」二度目の制止は一度目のそれよりは気安かった。教室で同級生を呼び止めるようなそれに近く、だから無視を決め込んで中島は地上へ続く階段に足をかけた。そのままあがって通りに出て、駅のほうへ歩き出す。「キヨイ!」と三度目、今度ははっきりとした怒声だったので立ち止まって振り返る。ほとんど車の通りのない赤い歩行者信号機の前で、見返ると深井が顔をしかめて近づいてくる。「お前、このままさっさと帰るつもりなのか?」他にやる事があるだろう、とも受け取れる言い方をしてくる。
「帰るもなにも」他にどんなことをすればいいのだ、と首を傾げて、数歩の距離を残して足を止めた深井を見遣る。手が届きそうで届かない距離だな、とぼんやり思った。前に足を一歩でも踏み出さないと、どちらも胸倉は簡単に掴めないだろう。そうして、胸倉をつかんで引き寄せようと思った時には相手にも勘ぐられて、ひょいっと後ろへ仰け反られる。「お前、椎名さんをひとりにしていいのか。あんな場所で」
「あんな場所いうなよ。あれでも俺のお気に入りなんだから」深井は不機嫌そうな顔を作っていってから後ろを振り向いた。深井の肩越しに遠く、地下への入り口をぽっかりと開けた建物が見える。「お前も一度来た事あっただろう? 映画見にさ」
「そうだっけ?」とぼけてみる。素直に認めるのは色々と癪だ。
この映画館で見た映画監督の前編がとても面白かった事とか、続編もまた一緒に見に行こうとあの埃まみれのロビーで約束した事だとか。――この間、その続編と深井浩二が椎名智一と一緒に見に行くのを双眼鏡で眺めていたとか全部、思い出すのも話題に上らせるのも嫌だった。
「それに兄貴をつけまわしていたのがお前だって分かったんだし。もう安全だろ?」と、深井は言う。安全でないはずがない、と断言しているふうでもある。
「どうだろうな」返事は別に嫌味のつもりではなかった。心底、本心から思っての返事だった。
つけていた。つけまわしていた。ようするに、椎名智一は絶えず自分の周囲を観察している目に気づいていた、という事になる。――近くで眺めていた事も、声をあげればはっきりと聞き取れる距離で歩いていた事もそれは何度かあるけれど、椎名智一の行動範囲がはっきりと地図上で描けるぐらいになってきた一週間後ぐらいからは、つとめて双眼鏡での観察に終始していた。双眼鏡で眺める事も視線の一つではあると言い切ろうと思えばできるだろうが、果たして、椎名智一の言っていた「つけていた」人物は本当に自分の事なのだろうか、と中島は疑問を抱いている。そうそう素人に看破されてしまうようなちゃちな尾行をしていたつもりはない、となけなしも自負もある。
かといって、ここ最近で中島の周辺に関して何度も同じ人物を見かけたのか。と考えれば、思い出せる人物はひとりもいないのだけれど。ただ、周囲の人ごみに溶け込んでしまえるような人物なら見逃していた可能性もなくはない。
怪訝そうな顔をする深井に中島は向き直った。「安心してもし違っていたら一番大変なのはお前の兄貴だ。まだ気を抜かないほうがいい」
「お前以外に、兄貴をつけまわしてる奴がいるって?」
「はっきりとは断言できないが、そういう可能性もあるってこと」椎名智一の外見が人の目を惹きやすいのは確かな話で、尾行中何度か彼とすれ違った通行人がわざわざ立ち止まって振り返るのを見た事がある。彼ははっきりとした煌びやかさとは無縁だ、でもただ華やかである事だけが人の目を奪う理由ではないのだろう。「気をつけてやれよ。お前、あの人の従弟なんだろ?」
「そういうのも調べたのか?」意外そうに深井が目を丸くする。
「依頼人がお前達の関係を気にしてたから」答えて、そうしてから、中島は深井を見遣った。返した言葉が依頼人の正体を結論付けるための根拠になる、と言い終わり様に気づいたので果たして深井は勘付いただろうかと観察がてらに眺めてみる。それとも椎名智一は、従弟の彼には自分の過去の恋話などしてはいないだろうか。とある優秀な受験生と家庭教師、受験生が志望校に合格してからは生徒とその学校の教師――どっちにしてもわざと報われない方向へ進もうとしているふうにも映る、自虐的な、角度を変えれば滑稽な恋話を、あえて話さなければならない理由は思いつかなかったけれど。
きょとんと目を丸くしてこっちを眺めていた深井はしばらくして、機嫌を損ねたように顔をしかめた。ふてくされているともとれるへの字に曲げた唇を動かして質問してくる。「キヨイのほうは、俺が兄貴と一緒にいるのは何度も見てるんだろう? 気になったりしなかったのか?」
「気になっていてほしそうな言い方だな、それ」自然とこもった揶揄は逃げ道だった、面と向かって言えるはずもなく思うのも腹立たしい事を腕いっぱいに抱えて逃げる。「仲のいい親友同士だと思ってたよ。他に何がある?」
実際は久谷から教えられていた情報から様々な事を想像していたけれど、言ってどうなるんだと内心で苦く笑う。深井に呆れられるだけだろう、あるいは意外に思われるか。どっちにしても高校を卒業してから二年間、それなりに同級生として浅く普通に関わってきたのだから、ここで変に関係を拗れさせたくはなかった。
たまにクラスメイトが主催する飲み会に参加して、当たり障りのないことを話して笑って。無視してもいない意識してもいない、微妙な線引きの上を綱渡りする。ごく普通の、同じ時間を同じ教室で過ごしたうちのひとりとしての認識を向ける、向け続ける――それが一番いいことだと思っている。関わるな、関わらないから。なんてはっきりと拒絶はしない、拒絶する事も裏を返せば普通に受け止められない証拠だと知っているから、何にも興味のないふりをとして、笑ってみせる。
普通に、他愛なく、どうでもいいことのように笑む。
「じゃあな、深井」
言ってからまた、高校時代と同じように名前を呼べなかった事に気づいて内心で苦笑いする。
■
客層は三十代から四十代、若さだけを武器にして無茶な恋愛をしとおせそうな二十代を仕事に捧げた末に得た地位に見合う男を見つけられなかった女性。かといって二十代の特権のような恋ができるかと言えばそうでもなく、諦めているのかと思えばそこまで潔くもない。恋愛ごっこの相手も金で買ってしまおうと考える彼女達が想像する仮想の恋人としては、久谷雅臣はおそらく理想の男に近いのだろう。容姿もよければ、仕草もいい。ホストクラブでナンバーワンを張るだけの事はある、と、彼が勤める店の入り口で携帯電話をいじりながら中島は思った。
終着駅手前の駅から電車に乗り、終着駅で地下鉄に乗り換えて数駅。まだ夕間暮れの名残を残した空に星は早く、繁華街はけばけばしい原色のネオンが灯り始めている。
ひなびた駅に電車が停車するまでの待ち時間に久谷に連絡をいれると、「そこまで来ているなら店の近くで話を聞きますのでこっちにまで来てくれますか」と言われて、ここまできた。店は後一時間ほどで開店するらしく、さっきから従業員らしきバーテンダー姿の青年達が店の前を掃いたり、ゴミ袋を外に出したり、とせわしなく立ち動いていた。年齢からすれば久谷と大差なさそうなのだが、店から出てきた彼に慌てて従業員たちが頭を下げるところを見ると、同年代に近くても久谷は特別のようだった。ホストと従業員、という立場の違い以前に頭を深く下げる彼らからは久谷に対する憧れみたいなものがはっきりと伝わってくる。
「ちょっと出かけてくるから、オーナーによろしく。開店するまでには戻るって言っといて」
久谷が言うと、頭をさげているひとりがおずおずと顔をあげた。困ったように眉根を寄せる。「でもそろそろオーナー来ちゃいますよ、ばれたら怒られるんじゃ。藤田さんのこともありますし、」
「藤田さんはもうここをやめるんだから関係ないだろ? 送別会にもちゃんと出たよ、俺は。それにお前たちは俺の言ったことをそのまま言えばいいよ。怒られるのは俺だし、心配しなくていいから」言うと久谷はこれ以上話は聞かないと宣言するみたいにくるりと踵を翻して歩き出した。「さて、こっちですよ。中島さん」繁華街の入り口のほうにあった喫茶店へと向かっていく。
喫茶店は繁盛しているのかいないのか微妙な客入りで、ウエイトレスが席に案内するよりも先に久谷はさっさと一番奥の席に座った。入り口からはぐるりと見回しても途中の観葉植物に遮られて見えず、通りに面した大きな窓からも死角になっている場所だ、あえてそこに座った久谷にウエイトレスは入り口に立ち尽くしたまま一瞬嫌そうな顔をしたものの、すぐにお冷を持ってきた。そんな彼女にメニューを見ずに、「珈琲ふたつ」と半ば追い出すような素っ気無さで注文してから、久谷は中島を見遣る。
これから自分はこの人と大事な話があるんだ、と言わんばかりの態度である。
ウエイトレスが中島の横を通り過ぎて厨房のほうへいなくなるのを視線で追いかけてから、「どうでしたか?」質問は簡潔に向けられた。ウエイトレスの仕事を全部横取りした上で素っ気無い注文をした態度と同じ、とにかく中島の報告以外は全部短く切り取られた簡潔なものでいいと断言するような口調だった。
「結論からお話します。椎名智一さんと深井浩二さんは従兄弟同士のようです、仲はいいみたいですが久谷さんが心配していたような関係ではないでしょう」
「先生は従弟の家で寝泊りしてるって事ですか?」
「以前深井浩二さんのほうのご両親の仕事の関係で椎名智一さんの家に預けられてきた時期があるそうですから、ふたりにしてみれば兄弟の家に厄介になっているような感覚なのかもしれませんね」現に深井は椎名の事を、兄貴、と呼んでいた。
しばらくの間久谷は黙り込んだ。中島が今話したことをゆっくりと咀嚼して飲み込むような間だった。
ウエイトレスが物静かな所作で珈琲と伝票をテーブルの上においていく。さっきの素っ気無さと今の沈黙に長居は無用とばかりにそそくさと立ち去った、「先生は今、誰とも付き合ってはいないって事ですか」ぽつりと久谷が呟く。
「そういう気配は確かに、ありませんでしたね」いるとすれば深井なのだろうが、あのふたりの様子は恋人同士の甘い感じではなかったから間違いないだろう。「椎名さんはほとんど遠出をしない生活を送っていますし、生活範囲も狭いですから、もし新しい恋人のような存在があれば今回の調査で分かると思いますし」
「そうですね、」頷きながらも言葉にどこか釈然のいかないものがある、中島はふと久谷を見ながら思った。
調査結果に久谷が危惧するようなところは何もない。高校時代に音信不通になった恋人を探していた久谷にとって、椎名智一に新しい恋人がいないのは吉報だったろう。ひとまずは会いにいってもいいのだと許可を貰ったようなものに違いない、――新しい恋人が出来ていたなら諦めるしかない、と言っていた彼にしてみれば。
自身を観察するように向けてくる中島の眼差しに気づいて、久谷は苦笑いした。翳る表情に取り繕った華やかさで微笑んだ。「ありがとうございます。おかげで少しは吹っ切れたと思います」
「そうですか?」その割りに暗い顔をしていますよ、とはさすがに言えない。代わりに目を細めて久谷を見る。「なら、いいんですけど」
「先生に会いに行こうって考えたら少し、ちょっと、頭の中で戸惑ってしまって」苦笑いをそっと唇の両端で深める。じわり、と自嘲げな色が苦い気持ちの中に混じる。「俺ね、先生が目の前からいなくなったのは要するに自分がまだ子どもだからだと思ってたんです。自分ひとりもまともに養えないくせに偉そうに好きだとか色々言って、大人の先生を困らせた。だからとりあえず高校を卒業したら働いて、人ひとり養えるぐらいにならないといけないって思ってたんです。まあ、高卒で人一人を養える給料なんて、ホストぐらいしかありませんでしたけど」
「今の久谷さんなら、人一人と言わずに二人だって養えるでしょ」ホストの相場は分からないけれど、彼を慕う従業員や店の様子を眺めていると確信が持てた。
「養おうと思えば。でも、先生は俺に養ってほしかったんじゃないのかな、ってちょっと今更のように思って」中島を見ているようで、見ていない瞳だった。とても遠くのものを眺めているみたいに細められていたけれど、彼が瞳の中で捉えようとしているものはここにないのだろう、やがてひっそりと目蓋が落ちた。「こんな事、せっかく調査をしてくれた中島さんに話す事でもないと思うんですけど。結局は俺って、女の子っていうか女性っていうか――彼女たちをおだてたりして金を稼いでて、それって、先生が見限った昔の俺と何がどう違うんだろうなって思うと、急に会うのが怖くなってきたりして」
「椎名さんを探さないほうがよかった、っていう事ですか?」
「いや、そういうことじゃないんです」久谷は首を振る。中島への気兼ねではなく、探す事は絶対にしなければならないことだったのだと自負するような強い口調だった。そうして長く深いため息を落として、久谷は手元の珈琲カップを両手でくるみこむ。子どもがするようなその仕草は、髪の毛を整え仕立てのいい背広を着た男には不似合いだった。「今思ってみると、どうして先生を養う為に始めた仕事がホストだったのかなって。もっと他の、ちゃんとした堅実な仕事のほうが絶対に先生が喜ぶって分かってるのに、実入りのほうを大事にしてしまって」
「椎名さんは、仕事を差別するような人ではないでしょ」慰めではなく本心からだった。数週間観察し続けての結論、と言ってもいい。
久谷は首を横に振った。「先生はきっと嫌がる。あの人は自分のためって言う口実でも誰かが傷ついたりするのを嫌がる人だから、ホストと客の付き合いなんて結局は遊びなんだからって説明しても絶対、聞いてくれないような気がする。――また昔とおんなじことをしてるのかって言われるかもな。今度こそあの人に愛想をつかされるのかな」
彼の話を聞いている人間は中島しかいない。けれど久谷の言葉は中島へと向けられたものではないようだった、かといってここにはいない椎名智一への思いというものでもなくて、ぽつりぽつりと落ちてくる涙の形をしていると中島は思った。久谷はおそらくおおっぴらに涙を流す事はないだろう、呟いて落ちてくる言葉から全部中島は目をそらさなければならない気がした。男の悔し涙にも似ている言葉をしげしげと聞き入るのは、同じ男として、してはいけないことのように感じられたからだった。
もしくは一緒に、泣き喚いてしまおうか。
「自分のために精一杯になっている人を見て、その人が好きなら人間っていうのは心底嫌いにはなれないものですよ。それが自己嫌悪に繋がってしまってもね」
目を向けてくる久谷に中島は肩を竦めた。手付かずだった珈琲を一口飲んでから続ける。「俺の話で申し訳ないんですが、ずっと親友だと思っていた奴がいたんです。一緒に遊びに行ったり飯を喰ったりするのが楽しくて仕方なくて、こんな奴に人生のうちでめぐり合えるなんて相当運がいいって思えるような同級生がいたんですよ。やりたい事も似てたし、気兼ねする必要もなかった。でもね、そいつが付き合っていた彼女と別れた時に、その彼女に言われたんです。ふたりは本当に友達同士なの? みたいなことを。気が合っていたわけじゃなくて、そりゃ楽しんでいたとは思いますけど、親友がいつも俺のすることややりたいことを優先させていたんだって、この時に彼女に教えられて知ったんですよ」
「それって、」久谷が顔をしかめた。同性である椎名智一を愛している彼からすれば答えはおのずとひとつしかないのだろう。
中島は首を横に振る。今の自分が認めている感情ではない、当時の自分が思っていたままに否定した。「不可解には思いましたけど、恋だとか愛だとかは思いませんでした。ふざけ半分に親友が、じゃあ恋人同士になろうかみたいなことを言ってきた時もありましたけど。――俺には、俺の事を優先させて行動する彼が俺を、異性を見るように好きだとはどうして思えなかった。恋人だって後回しにして俺に付き合ってくれているのを考えれば、もしかすれば、ぐらいは感じてたのかもしれませんけど、理解はできなかったんです。でも、高三の夏休みに入ってすぐ、登校日の時に、同じクラスの子に好きだといわれて気づきました」
――だって深井君は、中島君に付き合ってる人はいないって言ってたよ。
きっかけは些細な言葉だった。告白されて断って、その理由を問いただされて言い逃れるように告げた、「好きな人がいるから」という言葉に刺々しくつき返された、彼女の言葉からだった。
何故深井が話にのぼるのか、訳も分からないままに彼女を見遣っていた。眼差しに居心地の悪さを感じた様子で身を捩じらせながら、彼女は「だって」と呟く。「だって、中島君と深井君は仲がいいから、深井君なら中島君の好みとか知っていると思って相談したの。そしたら深井君、君みたいな感じの女の子はキヨイの好みだと思うって言ってくれたから、」だからきっと付き合ってくれるものだと思っていた、と言葉は続いたのかもしれない。最後まで聞かなかったから結局、どんな締めくくりになっていたのかまでは分からなかったけれど。
駆け出して、教室に駆け込んで大声を張り上げた。「浩二ッ!」と、がむしゃらに叫んでいた。
彼女は確かに、中島の好みに当てはまっていた。小柄で華奢な体格だとか、小さい顔に不釣合いな大きい目だとか。コンビニでぱらぱらとめくっていた雑誌の一ページに載っていたグラビアアイドルに似ていなくもなかった。「キヨイってどんな女の子が好みなんだ?」と世間話のように訊ねられて、眺めていた雑誌のページを差し出した。垢抜け切れない、どこかまだ自分が可愛いのかどうか自信がもてないようなぎこちない笑みを浮かべたアイドルを見下ろして、「へぇ」と意外そうな声をあげていた深井を思い出す。「もうちょっと年上系だと思ってた」という深井に、「綺麗よりはかわいいほうが好きだ」と返事をしたのも覚えている。
クラスメイトは可愛かった。頭ひとつ高い中島を見上げるために精一杯顔を上げてくる様子も、はにかんだ笑顔も、可愛いと素直に思う。そして自分がそういうふうに他人から評価されているような人間だ、と気づいていないからこその愛らしさみたいなものがなによりも彼女の魅力だとも思った。――本当に、浩二は俺のことをよく知っている。君みたいな感じの女の子はキヨイの好みだと思う。その通りだ、と半ば見透かされているような腹立たしさで舌打ちして、拳を握り締めていた。
珍しい怒声にきょとんと目を丸くして深井が近づいてくる。「どうした、キヨイ」と、今すぐに殴りかかれる距離で首を傾げて立ち止まる。
自分はキヨイの怒りを買うようなことを何もしていない。まるでそう公言するかのような、あまりに短い距離だ。胸に充満した何かを全部言葉にして吐き出す努力をするよりも先に、何かは簡単に違うものへすりかわっていた。なんら当たり前にふたりで共有してきたはずの距離が瞬間、言葉で詰ることを忘れさせた。言葉にして伝えるよりも早く、互いに顔を見合わせては笑ったり目を丸くしたり――嬉しいとか悲しいとか、悔しいとか、手を伸ばせば互いに触れられる距離で同じように触れてきたどの感情よりも強く、激しく、怒りは暴力になった。
――右手が、ぴくり、と動いた。あの日以前にも以降にも、あそこまで我を忘れるぐらいに激昂したことはない。
「俺はどうやら、好きな相手には束縛されたいって思う人間みたいなんです」最初の行き違いはそこ。だから深井の気持ちが理解できなかった、どんなことがあっても深井は中島を優先させる。優先させる、という事は同時に、我侭を許す、という事でもあった。我侭だけではない、本当なら許してはいけない事まで深井は許そうとしていた。認めようとしていた。中島にはそれが許せなかった、だから、腹立たしくて殴りつけた。そうして思い知らされたのだ。「でもあいつは、好きな相手の事は何よりも優先させようとする人間みたいで。普通、自分が好きな相手に告白しようっていう女の子がいたら、止めようとは思いませんか?」
「思いますね」久谷はしっかりと頷いてから苦笑いした。「というより、わざと自分から告白して、自分の物にしようとするかも。自分の恋人にすればとりあえずその期間は、相手に手を出したりはしないだろうし」まるで以前にそんな事をしていたかのような言い方だ。
「俺とそいつは、好きな相手に向けている気持ちの方向性みたいなものが物凄くずれてたんです。束縛されたい俺に、意思を尊重したいあいつじゃ、恋愛したってまともなものになる気がしなかった。そもそも大事にされているのを親友だからって無理やりこじつけて納得していたのは俺で、好きだって自分で気づくまであいつの気持ちも察してやれなかったのも俺なんですよ」
「それで、どうなったんですか?」
「目をそむける事にしました」一番正しい選択だと思った。気づいた気持ちをなかったことにさえすれば、今までだって普通に親友でいられたじゃないかと納得させて、つとめて今まで通りにしてきた。つもりだった、となってしまうのは結局自分の弱さのせいなのだ。「やっぱり意思を尊重してくるんで、普通に友人をやれてると思ってました」
「やれてなかったんですか?」
「束縛されたいだけじゃなくて、したくもあるんですよね。俺って」久谷の依頼で椎名智一を探して、彼が深井浩二の家に寝泊りしていると分かった瞬間に味わった気持ちを反芻しようとしてやめる。どす黒いもやもやとした気持ち悪いもの、とでも表現できればまだ可愛げがあるだろう。感じたのは、原色の赤色に似た感情だった気がする。仕事をしているのだから、と口実を糸の形にして感情を縛り上げて身動きが取れないようにしたけれど、彼らが従兄弟ではなかったとしたらどうなっていただろうか、とふと思ったりもする。
諦められますか? と中島は久谷に問うた。椎名智一と深井浩二の関係が望んでいるものでなかったなら、貴方は諦められますか? 質問がそのままの原形をとどめたまま自分に跳ね返ってくる事を、中島はちゃんと心得ていた。そうして、仕方ない。と微笑んだ久谷のようにはなれないのも知っている。
「自己嫌悪ですよ、だから。好意を持たれてるって分かってても気持ちを受け止められない、かといって相手がそっぽを向いたら腹が立つ。ずっと好きでいてほしいって、馬鹿みたいな事」
話の筋が徐々にずれていっているのはなんとなく気づいていた。この喫茶店で久谷と顔を合わせている理由は、中島の後悔や懺悔をくどくどと話し続けるためではない。
何を言ってるんだろうか、と今更ながらに呆れて口を噤み珈琲の残り全部を飲み干した。ほとんど手をつけていなかったそれは中途半端に冷めていておいしくもなければまずくもなかったけれど、言わなくてもいいような事ばかりを長々と喋り続けた後の喉にはちょうどいい水分であったようで、カップをソーサーに戻して一息ついた時にはだいぶ、とりあえずは普段の自分を省みて似たように取り繕えるぐらいまでには落ち着いていた。
「すいません。どうでもいい話をして、――依頼のほうは今回の報告で終わり、という事でいいですか?」
つとめて事務的に口を切ったのがさっきまでの口調とは打って変わった感じだったからだろうか、少し驚いたように目を丸くした久谷だったが、しばらくしてゆっくりと頷いた。「はい。後は自分で、先生に会いに行きますから大丈夫です」
「なら、毎度有難うございました」
「探偵事務所でも、毎度有難うございました、とかいうんですね」と、久谷が笑う。
「多分、うちだけだと思いますけど」つられるようにしてどうにか、微笑んだ。
伝票を持って立ち上がると、まだ座ったままの久谷に、「中島さん」と呼び止められた。視線をやると、「俺と先生も、恋愛の価値観は随分と違ってましたよ。先生は誰かを傷つける恋は恋じゃないって思ってましたけど、俺は今でも傷つくのが恋だと思ってますから」久谷は言いながら伝票へ手を伸ばす。「中島さんの話を聞いて思ったんですけど、世の中じゃむしろ、同じ恋愛の価値観の人間と出会って恋に落ちるほうが稀なんじゃないですかね。価値観が違うからって好きだと思わないようにして、でも相手にはずっと好きでいてほしいってやっぱり卑怯ですよ。教師と生徒のうちは恋人同士でいるのはやめようって言っていた先生と同じぐらいに、貴方は酷い人だと思う」
中島の手からするりと伝票を引き抜いて久谷は苦笑いした。「相手が絶対に言い返さないってわかってやってるなら余計、最低です」
「はっきり言いますね」最低、とはさすがに言われたことがなかったのでこっちも苦笑いするしかない。
「だって、貴方がもし俺の先生だったら、そんなのは絶対に許せないと思いますから」久谷も立ち上がる。「ずっと好きでいろって言うのはいいですけどね、ずっと好きでいますから。でも、価値観が違うからって試して見ることもないまま自分の気持ちを封じ込めるなんて酷い話ですよ。価値観なんていうのは、合わせられるほうが合わせればいい話だと思うんですけど」
彼の言う事は真理だ。だからこそひとつだけ、譲れないものもある。
伝票を持ってレジへ向かう久谷に珈琲代を渡そうとジャンバーのポケットから財布を抜き出しながら、中島は思った。価値観が合わなければ恋愛できないのか、そんな事は決してない。そもそもこんなに人間がいっぱいいる世の中で自分と同じ価値観の人間だけに恋をするなんて不可能だし、そんな都合よく恋が出来るとも思わない。性格の不一致が離婚原因の一位だとしても、どうにか克服して暮らしている夫婦はたくさんいるのだろうし。――価値観が噛み合っていない深井とだって、どうにかすれば恋愛できるんじゃないかと思ったときも、なくはなかった。
でも。
怖いのだ、きっと。
ただただ親友だと、思っていた頃の深井浩二はとても最高の人間であったから。
「あの、珈琲代」レジの鳴る音で我に返ると、さっさと会計を済ませたらしい久谷が喫茶店の扉を開けながら首を横に振った。
「いいですよこのぐらい、奢らせてください。中島さんも案外大変そうみたいだから」
理由になってない。と思いつつも無理強いしても珈琲代を受け取ってくれなさそうな予感があったので中島は財布をジャンバーのポケットに戻した。
久谷とは喫茶店の前で別れた。帰り際に調査結果を後日郵送する話をして踵を翻す。
結果から言えば久谷と椎名はなんだかんだでよりを戻すような気がした。椎名は教師ではなく久谷も生徒ではない。互いに相手のことを考えて出し続けてきた答えがこんがらがってしまった末に椎名は久谷の前から姿を消してしまったのだろうけれど、もうふたりが縛られなければならないような世間体や体裁は何もないだろう。久谷は椎名に会いに行く、よければその結果だけは聞いてみたい気がした。
繁華街を抜けたところで携帯電話が鳴った。取り出して液晶場面を見る、思わず顔をしかめた。
深井浩二。久し振りに携帯電話の液晶場面で見たような気がする。出ようか放っておこうかつかの間迷った、電子音のメロディを流しながら震える携帯電話の振動を手のひらで確かめながらじっと待つ。後一回、メロディが一周したら電話を取ろう。どうして電話をかけてきたのか、久し振りだね、とか言えるように頭の中で言葉を巡らせながら見下ろす。メロディが不自然な間を空けて、また最初から流れ出す。
雑踏の中でひときわ大きく、靴音が真後ろで鳴ったような気がした。
■
がつん、と頭を硬く平べったいもので殴られたような衝撃がしたかと思うと、その後の記憶がすとんと抜け落ちている。殴られて意識を失ったんだな、と理解したのは後頭部で一箇所痛みを訴え続ける場所があったからというよりは、目蓋を押し上げて最初に見た光景がいかにも胡散臭い場所だったからだろう。これが清潔な病室の真っ白いベットの上とかだったなら、おそらくは誰かに殴られたんだと直感的にも思いやしない。さほど広くもない物置といった様子の部屋で、壁際いっぱいにうずたかくダンボールが積まれていた。
殴られて運び込まれたなら、いかがわしい事におあつらえ向きだとでもいうように空気は埃っぽい。映画館と似たようなものだ、と思いながら床に寝転がっていた上半身を起こすとちょうど、視界の先にあった扉が蝶番を軋ませながら開いた。
入ってきた男に中島は見覚えがあった。が同時に、こんな目に合わなければならない理由までは思い至らない。
男は中島に目をやると、大袈裟に一回目蓋を上下させた。不慣れな演技を見ているような、驚いているように見せて本当のところはなんとも思っていなさそうな寒々しい眼差しを向けてくる。「目が覚めたのか。頭を殴っても案外早く意識が戻るもんなんだな」言って、つかつかと近づいてきた。
「いきなり見知らぬ他人に殴られるような生き方をしてるつもりはないんだけどな」目の前で立ち止まった男を仰ぎながら、中島は首を傾げる。
男の顔に見覚えがあるといっても、見た事があるのは一度だけだった。しかも言葉を交わしたわけでもなければ、互いに印象に残るような事をしたとも思えない。――中島に関してだけ言えば、いきなり目の前で閉まりかけの電車の扉に体を滑り込まれて乗車した、というのがあるけれど、記憶に残っていたとしてもそれは、この埃臭い部屋とイコールで繋がるような出来事ではないだろう。駅のホームで視線を合わせただけの男なのだ。さっさと理由探しを放棄する意味合いで中島は肩を竦める。「一体、こんな事をした理由はなんですか?」
「あんたが久谷の恋人なんだろう?」と、唐突に見下ろしたまま男が言う。
久谷、と殴られる間際まで一緒にいた依頼人の名前が出てきた事に驚いてから、続いて、半ば断定口調に言われた恋人という単語に顔をしかめる。
「何の冗談ですか?」この空間にいること自体、冗談、で済ませてしまいたくも思う。
男は喉を鳴らすようにして笑った。埃まみれの床に座ったまま男を見上げているせいだとも割り切れない、見下した色の強い嘲笑である。癇に障る笑みなのには違いなかった。
「俺が久谷さんの恋人って、悪い冗談のようにしか聞こえないんですけどね」
「知ってるんだよ、あいつがホモだって事は。クラブでどれだけ女に言い寄られてもなびこうともしないから、調べてみたら高校時代の教師と出来てたんだって?」
言葉は一つの可能性を示唆していた、椎名が言っていたつけてくる人物の事だ。
この男のことだったんだな、と目を眇めるようにして見遣る。きっと久谷が中島に依頼したように、男もどこかの探偵か興信所に調査を依頼したのだろう。――ひなびた駅にいたのは偶然かもしれないが、自分が椎名智一にばれてしまうような下手な尾行をしていたわけではないとはっきりしたのは、多少喜ばしい事だった。
男は浪々と言葉を続ける。「でも今はあっちとは全然あってない。あんたと会ってる、さっきも喫茶店で話をしていたよな?」それは俺が探偵で、久谷が依頼人だったからだ。と、ここで懇切丁寧に話しても聞いてはもらえない気がした。久谷の恋人、というか本命の人物は椎名智一に違いないが、いま現在会っている回数では確かに自分のほうが勝っているだろうし、こんな部屋に人を連れ込む男にわざわざ椎名智一の事を――深井の大事な従兄の存在を教えてやる義理もあるはずがない。
勘違いからはじまって殴られてこんなところにつれてこられて、続きもおそらくは面白おかしい事ではないけれど一応、訊ねてみることにした。
「それで、何の用ですか? 貴方は誰なんですか?」言いながら、もしかすればこの男の名前は藤田というのではないかと想像した。実際に訊ねて当たっていると悪い方向にしか進まない気がしたので訊ねなかったが。
「後で久谷に、前のナンバーワンホストの話でも聞けばいいさ。それと用件は簡単、憂さ晴らしになってもらおうと思って」心底楽しげに男は言った。「安心してくれていいよ。俺って男には興味ないから、とりあえず殴って蹴って満足できればいいんだわ」これでもし中島が女だったとしたら他のもっと最低な方法をとるだろう、と、ほのめかすような薄暗い色が笑みの中にちらつく。久谷の同業者と思うには致命的ではないかと感じるほどに、薄ら寒いものがあった。
「十分安心できません」これはさっさと逃げるべきだ。頭は即座に決断したけれど、かといってすぐさま逃げ出せるような空間でも雰囲気でもない。
部屋の出入り口は見た感じ、男の背後にある扉ひとつだけだった。脇を通り抜けようにも男がいるし、かといって正面突破でどうにかなるような感じでもない。男の眼差しははっきりと危害を加える対象として中島を凝視していて、不審な行動ひとつ起こせばそのまま、あっという間に暴力に連鎖していくのは目に見えてもいた。上半身を起こしただけの中島の腹部なり頭なりを蹴り上げるのはすぐ傍で見下すようにして佇んでいる男には造作もない事だろう。
中島はおもむろに再び口を開いた、無言でいるよりはまし、と思ったからだった。
「どうしていきなり殴られてこんな目に合わないといけないんですか」
「久谷の奴が悪いんだよ。俺を追い落としたから」
いって、男はにこりと笑った。自分がどんな顔をして笑っているのか十分自覚した上での微笑は見栄えはとてもよかったけれど、見惚れる類のものでは到底なかった。
「恋人ならさ、あいつの責任を肩代わりしてやってもいいだろ?」
そんなの横暴です。とでも中島が言うより先に、それは起こった。
さっき男が確かに閉めたと思った扉が音を立てずに静かに開くのと、がつん、と意識を失う前に聞いた気がする音によく似ているそれが聞こえたのと、男が途端床に倒れこんだのはほとんど同時だった。あっさりと全部が重なるようにして聞こえ最後に、半ば埃っぽい部屋にひとり残されたような感じになっていた中島に、「大丈夫か、キヨイ」と、聞き間違えようのない声が聞いてくる。
目を瞬いた。それから見開いて、視線を扉のほうへやる。男が仁王立ちのごとくに佇んでいたせいで見えなかった場所には今、床で気絶している男よりは見慣れている男がひとり、立っていた。同じように佇んでいるけれど、男のように見押してくる眼差しに見下した色があるはずもなく、訊ねて来る言葉どおりの心配げな口調とは裏腹に不恰好な僕当時見た角材が右手にしっかりとおさまっている。――その姿によく似たものをつい最近、別の誰かでイメージしたのを中島はぼんやりと見上げながら思い出していた。角材は金属バットで、血塗れにもなっていたけれど。
設楽じゃなくてこいつが、と思う傍で、「おい。キヨイ?」返事がないのに訝しむ声でもう一度、呼ばれる。
「――なんで、お前が?」さすがにこれは格好よすぎるだろ、と唖然と思いながら訊ねた。かろうじていえたのはそれだけだった。
「携帯電話に久谷が出て、で、お前のことを教えてもらったんだ。なんか色々いってたような気がするけど、後の事はあんまり覚えてない」
そういえば電話に出ようと思ったときに殴られたのだった、と後頭部の痛みに思い出す。久谷に携帯電話が渡っているのはおそらく、さっきの男の言葉が意味していた通りなのだろう。恋人同士だと男は勘違いしていたから、中島の携帯電話を久谷に渡す事で何かしらの意思表示をするつもりだったに違いない。お前の大事な奴はお前のせいで酷い目に合うんだぞ、とか、連絡が取れなくて不安だろう、とかそういう脅しの意味合いで。深井がここにいるのなら場所もしっかりと教えていたという事だから、見るも無残なボロ雑巾にした中島を見せつけてせせら笑う腹積もりだったのかもしれない。
――どちらにしても連れ込む相手を間違えた上に、自分が殴られていては世話はない。
ちらりと埃まみれの床に倒れている男を見遣り、深井の右手に視線を改めて移してから顔をしかめた。
「角材で殴る事はなかったな」下手したら死ぬところだろ、とも思う。
「加減はした」深井はこれが精一杯の譲歩だと言いたげに言い切ってから首を傾げる。「それにこういうのって正当防衛にならないか?」
「下手したら過剰防衛。お前、大学にいられなくなるぞ」殴られはしたけれど、まだ本格な暴行を中島は受けていない。受けそうになっていた、というのもぎりぎりなところだろうから、深井の早とちりだったと判断されればそれまでのような気がした。気絶している男も中島をここに連れ込むために似たような事をしたのだから、お互い様だとも言い切れなくはないけれど。どちらにしても、被害を被りかけた中島ではなくやったのが後から来た深井である、というのが気になるところでもある。「俺一人でもどうにかなったのに、大学やめることになったらどうするんだよ」
ため息をついてから深井を見た。半ば、睨みつけているといってもいい目をする。
「俺は、別にかまわないけど?」と、深井が言った。それがどうして大変なの? と聞き返してきそうな言い方である。
「俺が気にする」もう一度嘆息の末、応えた。
不可解そうに深井は首を傾ぐ。「高校の時からずっと、こんな感じだっただろ?」
まあ、そうだったけど。とはさすがに頷けない。代わりに苦虫を噛み殺すような顔をしてまた、睨みつけた。どんなに詰ろうが呆れようが暖簾に腕押しみたいになってしまうだろう予感に、深井にぶつけようとしていた苛立ちを最小限にして質問の形にする。
「どうして電話かけてきた? 二年ぶりだろ、多分」あれがなければ男に簡単に殴られる事はなかった、とは思わないが不意を疲れたのは確かである。
「なんとなく?」ちょいっと首を傾げてから深井は笑った。見慣れた笑顔で、二年前のそれと変わらない。「冗談だよ。ちゃんと話をしたいなって思っただけで。映画館の中だって外だって、お前つっけんどんで全然話できなかっただろう? 久し振りに会ったのにあんな調子だったからさ」
「それだけ?」質問しながら、もっと他に言うべき言葉があるんじゃないか? と深井に聞き返したくなっていた。かろうじて自尊心のおかげで口から飛び出す事はなかったものの、我侭のように、自分からは決してしようとは思わない事ばかりが、期待感を伴って滑り出てきそうになっているのを自覚する。
首を横に振り、考えを振り落としてから深井を見遣って、後ろの扉に目を向ける。
「さっさといなくなるぞ。ここに長居する理由もない」
「いいのか。この人放置で」自分で殴っておいてなんだけど、と首を傾げて深井は男を指差した。
ちらりと視線をやる。角材で殴られたといっても、男の頭から血が流れている様子はなかったし、ここを離れてから救急車を呼べば十分だろうと思う。正直に言えば、ここに連れ込まれた身としてはわざわざ救急車を呼んでやるだけの良心でも有難く思ってもらいたいものだ、とも傲慢ながらに感じていた。
「死にやしないだろ。それに、こいつよりもお前が大学を辞めるはめになるほうが嫌だ」
それともこんなに鮮やかに殴っておいて良心が痛むとでもいうのか? と深井を見ると、彼はなんでもないことのように肩を竦めてみせる。
椎名智一と久谷雅臣がよりを戻した。という話を深井浩二から聞いたのは、それから二日後の事である。
日がな一日つけっぱなしの事務所のテレビから流れてくるニュースは政治家の汚職事件だとかに終始していて、見飽きたしわだらけの古だぬきの顔の間に若いあの男の顔写真が入り込む事は一度もなかった。救急車と警察に通報したまではよかったがその後に逃げ出したのは中島達なので、到着した警察としては事件なのか事故なのかはもとより、鈍器で頭を殴られた男が被害者であっても加害者には見えなかったのかもしれない。中島達は進んで自分達が被害者であると公言する気はないのだし、本当は加害者である男が被害者面を決め込むのは目に見えた話でもあったので、おそらくあの一件はこのまま放置されていくのだろうと中島は思っていた。
深井からの電話は、二日後のその一本だけだった。
「きっとお前、気にしてると思ったからさ」とこっちの考えを見透かしたような言い方をして用件だけを告げて、さっさと切る。
不愉快なことと言えば、そんな深井の行動にではなく。助けた恩を見せびらかして、やれどこか飯屋につれていけ、とかどこかに付き合え、と強引に取引を持ちかけてないことに内心眉をひそめる自分自身にだった。素直に、回線が用件だけを告げて切れたときの唖然とした気持ちは気色悪かった。抱きしめられると思って抱きしめられないような、キスされると思ってキスされないような、ようするにとんでもなく理不尽な形で肩透かしを食らったような心地になって、回線が切れたことだけを教える受話器を眺める。――深井は全然昔と変わっていない、のをまざまざと実感したのはそんな不条理感からようやく立ち直れた後だった。受話器を下ろして、久谷の依頼書が入っているファイルを整理し始めた途中に、ふと思いつくような感覚で思っていた。
高校生のままだ。クラスメイト全員分のノートを持ってふらつきながら廊下を歩いている中島の背中を見つけて、なんでもないことのように半分以上を引き受けては楽しげに笑うあの時のままだ。優先されているし、譲歩もされている。でも今は、お前のほうから踏み出して来いと、遠くのほうで暢気に佇みながらこっちを眺めているような気もする。
だって、――人を殴る事が、ノートを持つ事と同じぐらいに簡単なはずがない。同じにしていいはずがない。
にもかかわらず、深井は昔と同じような態度をとる。友人の皮を被って、佇んでいる。これは優しさばかりというわけでもないんだな、と二日前に中島は納得した。惜しげもない愛情なのは違いないけれど、押し付ける事で中島が無理やり受け取らされたのだと思い込めるようにはなっていない。二日前の一件のように中島のために振るう暴力があるとしても、彼はそれを一切「お前のためにやったんだ」とはいわない、――言わないで過ごされてる事がこんなにも、居心地が悪いとは思わなかった。
久谷のファイルを片付けて所用を終わらせてベットにはいって一日過ぎても、二日過ぎても、頭にべっとりと貼りついてしまったかのように忘れる事が出来ないのだから。
このまま目をそむけていられるはずがない。と、中島は自覚した。けれど、どうにかなかったことのように振舞う事は出来る。とも、思った。衝動的に深井を殴った高校生の時のように、やろうと思えば出来るだろう。ただ、あの時は逃げたのだと今では、心底理解しているのにまた同じ方法をとるのか? と、冷静な思考の一部分が呆れたようにため息をついているのが分かる。
最低ですね、と久谷に言われたことが脳裏を過ぎった。
価値観が違うといって、逃げている。本当は、価値観が違うどころか想われる事の重たさから逃げていたのだと知っているのに。
二年目にして、深井が犯罪行為そのものな事をして、ようやく思い知る。
束縛されたいのに束縛してくれない。そんなものは本当に些細な事で、本当に怖いのはおそらく、すべてを捧げられることなのだ。
「所長、私帰りますけど」と、奈々が言う。我に返って顔を上げて彼女を見ると、少し困ったような顔をしていた。「じっーっと考え事をするのもいいですけど、そんなに何か気になるんなら自分から電話をかけてみたらどうですか?」
「かけたら終わりのような気がする」少なくとも、自分から動き出す事は。けれど、だからといって深井のほうから動いてくれるだろうかと考えれば、それはそれでないと断言できる自分がいた。優先されているのに? と違うところで首を傾げてもいるけれど、理由も分かっている。
守るために殴った、そういうのならそれに見合うだけのものを求めてくればいい。でも深井はきっと、中島がそう言い出すまで、動こうとはしないのだろう。それが中島キヨイが二年前にむかついて殴り飛ばした深井浩二だから、全然変わってはいないあの男の、人を愛している方法だから。――で、中島が変わらないでほしいと願っている彼自身だからだ。
そう考えるとそれはそれでむかつくが、二年前ほど怒り狂う様子がないのはとりあえず、そこそこ精神的に成長したという事なんだろうか。
で、成長した分だけ、何も求められない事に居た堪れなくなっている自分がさっきから鳴らない電話をじっと眺めているのも滑稽な話だ。
「別に所長の好きにすればいいと思いますけどね」呆れた調子で言って奈々が事務所を出て行く音を聞きながら、中島はまた机の上の電話機を眺めていた。
頭の中で、今の気分とは全然かけ離れている陽気な電子音のメロディが流れるのを想像する。受話器をとって耳に当てて、深井の声が聞こえてくる。やっぱり助けたお礼ぐらいはほしいな、と楽しげに言ってくる声にふてくされた声で返事をする自分を思い描く。――俺の事を何よりも優先させるというんならそういうところまで踏み込んで考えろよ、と内心毒づいてみる。舌打ちして髪の毛をいじって、落ち着きのない子供みたいに、自分から踏み出さなければどうにもなりはしないだろう現実に苛々する。
そうして数分後、ようやく観念して中島は、のろのろと右手を受話器にかけることになった。
まずは挨拶をしてそれから、あいつがもう見に行った映画にでも誘ってみようか。
(終)




