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椎名・久谷編

「俺は教師を、やめようと思うよ」

 決意なんてものはするまでが大変で、言ってしまえばこれほどあっけないものもない。

 三年間、迷って躊躇って決めて、決めた矢先から後悔して諦めて——を繰り返してきた。だから、ピリオドを打とう、と思ったのも今回ばかりではない。今だって言った次の瞬間から後悔してしまうかもしれない。あっけない代わりに覆すのも存外簡単なものなのだ。

 目の前にいる生徒は、何も言わない。

 見開いていた目を細める、ただそれだけだった。

 途端、強く、両肩を掴まれた。痛い、と感じる間こそあれ顔をしかめる暇はなく、皮膚に爪を立てるほど強く掴んでいる彼の両手に力がこもる。

 背中から廊下の壁にぶつかった。背広越しに冷たい感触が染みてくる。

「駄目だ、」

 視界を遮るのは俯いて彼の顔を隠す短い黒髪と同色の襟詰の学生服。

「久谷」

「駄目だ。駄目だ。……駄目に決まってる」

 呼ぶ声を拒絶するように、目の前の頭がゆるゆると左右に揺れる。

「貴方が学校を辞めるなんて駄目だ。俺は、貴方から何かを奪い取る気なんてない。奪い取らせる気もないッ、……ずっとずっと、うまくいっていたのに、あと一年じゃないですか。どうしていきなりそんなことを言い出すんですかッ」

 最後に搾り出すように押し出した声の後で振り上げられた顔の中の、すがりつくような目。彼自身が言う言葉の強さよりもなによりも弱い光しか持たない眼差し。

 間近で、そらしようがない距離で見据えられて、今度は椎名が俯く番になった。

 肩に食い込む久谷の爪が痛い。

「うまくなんて最初からいってなかっただろ?」

 問いかけはとても優しく、言ったつもりだったけれど。

 口から出たそれが非難の色を滲ませているのを隠すことは出来なかった。全然穏やかじゃない言葉を、久谷にぶつけている。

 都合のいい非難だと、彼には見えないように唇だけで笑った。

 自嘲げに歪めた椎名の唇こそ彼の本心だったのだが、俯いた教師を見下ろす久谷にその表情が知れるわけもない。だからただ、彼は小さく息を飲み込んで呻いた。呻き声自体が言葉になったような、そんな声で呟いた。

「先生」

 信じられないものを見て聞いてそれでも何かを言わなくちゃいけなくて、渇いた喉を精一杯震わせたような声。聞きなれない久谷の声。

 こんな声を聞きたいわけじゃない。

 眉をひそめて唇を噛み締めて、出来るなら両手で耳をふさいでしまいたかった。そこまですれば完全な拒絶だと理解している腕は、儚いながらも勝手な願望を聞き届けはしないから、遮るものは結局、何もないのだけれど。

 先生、と呼ぶ彼の声に、応える方法がない。

 分からずに黙り込む。重苦しいばかりの感情だけを胸に押し込んで、口を噤む。

 もとより、先生、と呼ばれるのがいけなかったのだと思う。

 年の差の恋だから、でも、男同士の恋だから、でもなくて、——ただ、「先生」と呼ばれることがいけなかったのだと思う。

 たった三年間のはずだった。短い三年間。彼が入学して卒業する、本当に短いその時間の間だけ「先生」でいればいいと思っていた。

 簡単なことだと、確かに合格発表の日に笑っていたはずなのに。

 いまは笑えない。ずしりと心臓を押し潰す感情が、心を揺れ動かすことさえ許してくれない。

「傷つくのは恋でも、傷つけるのは恋じゃない」

 ぽつりと呟く。

「……、野原のことですか?」

 椎名が受け持つ生徒の名前を口にする一瞬だけ、久谷の声が微妙に強張った。

「彼女のことが気になりますか、先生」

「違うんだ、久谷」

「なにが違うんですか。先生」

 否定に覆いかぶさる詰問は、断罪的に突き刺さる。

 気になりますか? 生徒としてではなく人間として、もしくは女性として気になりますか?

 頭を振り、それから顔を上げて久谷を見た。

「俺は、俺が嫌だ」

「先生」

「彼女たちをあんなふうにしたのも、それでも何も言えないのも。言おうとだって、思わないのも」

「先生はそれでいい」

「お前はそういってくれるけど。だからずっと、これでいいと思ってきた、でも」

 涙。涙、涙。

 涙ばかりが付きまとう。

 向ける矛先を間違った、憎しみの目。

 護られているのだと自覚して、自覚しているくせに目をそらしてきた。

 教師は傍にいるけれど、決して自分ではないのだと思い知った。

 優しいなんて嘘だ。本当は全然優しくない。

 本当は、とても酷い大人なのだと知っている。

「俺は最初から、教師じゃないんだよ」


***


 二年生最後の思い出が手酷い失恋、なんていうのは聞くのも忍びなかったが、彼女の記憶にそれが書き加えられるのはおそらく間違いないだろう。

 泣き崩れる学校の女子生徒をなだめて家まで送り届けたあと、すこし歩いたところで椎名は路地に佇む学校の生徒を見つけた。

 まだ空にすこしばかり陽の残骸が残っているにしても、西の空に未練がましい緋色がとどまる程度だ。まだ街灯が灯るには早く、かといって夕暮れよりは薄暗い。眼鏡をかけるほどではないにしても視力の悪い椎名の双眸では、注意しなければ人にぶつかってしまう時間帯である。

 それでも暗がりの中で彼の姿を見つけられたのは、きっと近くにこいつはいるんだろうな、と思っていたからだ。

 勘付いて探せば見つけられなくもない。

「先生、お疲れ様でした」

 なにがお疲れ様でした、だ。

 思い切り眉をひそめたのを向こうは見えたらしい。椎名にはおぼろげな風しか見えないのに、おかしそうに彼は笑う。

 近づいてきて、椎名がはっきりと彼の姿を認められたのはほとんど目の前に来たときだった。

 学校帰りなのだろう、県内では珍しい紺色の詰襟の学生服を着て、食えない顔をして笑っている。人生なんて楽しいことはそんなにない、とたかだか十八歳の癖して悟りを開いているような面倒くさそうでやる気のない眼は相変わらずだ。

 勉強も恋も友情も、全部おんなじぐらいの価値観しか持ってないのを教師として彼の前に立ち始める前から椎名は知っている。

 それなのに、と言うのは偏見かもしれないが彼はいつも誰かと付き合っていた。年齢問わず、女子生徒と幸せそうに寄り添っているのをよく学校で見かける。

 ——といっても、その女子生徒は二ヶ月か三ヶ月する頃には変わっているのだけど。

「森と別れたのか。久谷」

 歩きながら質問した。

 答えは後ろから、一瞬の間もなく返してくる。

「彼女から何も聞かなかったんですか?」

「聞いた。聞いたから、聞いてるんだろ」

「別れましたよ」

「——なんて言ったんだ」

「「もう好きになれない」って」

 脳裏に泣いている女子生徒の姿がよぎる。

 これ以上にないってほどに傷ついて椅子にも座れずに床に蹲って泣いている彼女の、丸まった背中を思い出した。あの細い背に、久谷はいまの言葉を浴びせたのか。おそらくは、鸚鵡返ししたいまの口調のまま、平然と罪悪感もないまま。

 むくり、と自分の心に脇立つ罪悪感を無視できなかった。

「久谷、前にも言ったと思うんだが……」

「別れるときはもう少し穏便に別れろ、ですか?」

「覚えてるならどうしてそうしないんだ?」

「先生は優しく諭されて別れて、その人の事を諦められますか? 酷く言ったほうが諦められると思うんですよ、俺は。俺なりの愛情なんですよ、これでも」

 嘘付け、と思った。思っただけで声にはならなかった。

 後ろからぐっと肩を掴まれて、振りかえさせられる。声をあげる前に半ば開いた唇を塞がれて、数秒、

 息が続かないと思わず目を瞑ったところで、久谷の唇が離れた。思わず解放された口で思い切り息を吸い込んで咽る。背中を丸めて、前かがみで呼吸を整える。

 からり、と笑い声が頭上から。

 まるで冗談めかしの悪ふざけでキスをしたのだと続きそうな、軽すぎる声だった。

 そのくせ長すぎる。

「先生は優しくすれば全部は解決するって思ってるでしょう?」

 涙の浮いた目で久谷を見上げた。

 見下ろしてくる久谷の目は、笑って見せた声の質とはすこしだけ違っていた。軽々しくもなくて、人生を達観した目でもない。慣れきってしまった痛みを堪えているような目だ。時たま彼はそんな目をして、恨めしそうに椎名を見つめてくる。

 最初にこの目を見たのはいつだったか。

 はじめて彼の前に、教師として顔をあわせたときだった。

 思い出す傍で久谷が息を吐く。嘆息そのもののような息で、ひっそりと毒づいた。

「優しすぎますよ。その考え、俺は大嫌いですから」



 久谷雅臣の周囲には、いつも女の涙が付きまとう。

 比喩でもなく事実として、学校中の誰もが認識していることだった。

 はじまりは入学して一ヵ月後。

 相手は三年生の女子生徒。

 彼女からすればかわいい男の子が入学してきたぐらいの、お遊びに近い軽い気持ちだったのだろう。手ひどい仕打ちを受けるなんて思いもしてなくて、むしろ嘘みたいな幸せがずっと続くのだと思っていたはずだ。

 振ったのは、久谷かららしかった。

 職員室で泣きじゃくっている女子生徒がいてその隣に久谷がいて、彼女の担任である戸倉が椅子に座りことさら渋い顔をしてふたりを見上げていた。別れ話がどうので女子生徒が自殺するとわめきだして、慌てた彼女の友達が先生を呼びに来たらしい。ふたりして職員室に呼び出された久谷とその元彼女は対照的だった。泣くのも取り乱すのも全部彼女のほうで、久谷は至って冷静だったのを覚えている。

「お前、大野になんて言ったんだ?」

「「もう好きになれない」って」

 担任の問いかけに躊躇わず答える久谷の傍で、二度目のトドメを遠巻きにさされた彼女がとうとう床にくずおれる。

 堰を切ったように隣で湧き上がる泣き声。嗚咽なんて生易しいものではなくて、号泣。見ているほうが居た堪れなくなるほどに全身を震わせて、彼女は泣き出した。

 けれど当の久谷は一度も彼女を見ようとしなかった。いや、見ようとしない、というよりは見る必要がないと思っている風に眼差しをくれない。罰が悪すぎて目をそらしているわけでもない。罪悪感もなにもなさすぎて、あまりに飄々としすぎていて、逆に本当に付き合っていたんだろうかと疑いたくなるほどだ。

 愛情のかけらもない。

 最初から赤の他人みたいだった。

 さすがに見ていられなくなったのか、遠巻きに眺めていた教師の一人が蹲る彼女を支え起こして職員室を出て行く。

 そうしてから戸倉はこれ見よがしにため息をついて久谷を改めて見上げた。

「お前たち、付き合ってたんだろう?」

「ええ。まあ」

「ならもう少し考えてやれ」

 そこでいままで至って平静だった久谷がはじめて表情を変えた。すこし途方にくれたような顔をする。

「——考えるってなにを?」

「相手が傷つかないように別れ話をしろってことだ」

「先生」

「なんだ?」

「傷つかない恋なんてあるんですか?」

 質問に嫌らしさはなかった。

 難しいと自覚している質問をふっかけて相手がたじろぐのを見てみたい、と思っている様子もなかった。背伸びがしたい年相応の気障な台詞を吐いたようでもない。久谷なりに心底誠実で切実な問いかけなのだろうとおぼろげながらにも分かった。が、八十年代のフォークソングの歌詞にでもなっていそうな質問は担任にしてみれば想像の範疇外だったらしい。自分なりにしたり顔でうまく別れ話を切り出せない若輩者を叱ったつもりだったのだろうが、だから余計に面食らったのだろう。

「は?」

「恋をしているって時点で、傷つくことは覚悟するもんじゃないんですか?」

 真顔。真っ直ぐな目、椎名からは横顔しか見えないけれど——、担任が顔をこわばらせるほどの真摯。

「少なくとも、俺が知っている恋は……そういう恋です」

 傷つくのが恋なのだと、久谷は思っているらしい。

 初めてそのことを知った。

 仕方ないかもしれない。そんな恋を彼に抱かせたのは自分だ。甘くて青臭くてどろどろの食えた代物じゃないゲテモノの恋でも、生身の包丁のような恋でも、するのは自由だと思いこむようにして、傷つく恋を貫いてきた。恋は傷つくものなのだと最初に思ったのは他ならない自分で、久谷がそれに感化されてしまったとも言える。

 ただ、傷つくのならそれは怪我をするということで、人間、自分から好き好んで怪我をしようなんて思わないだろう。

 傷つくのが恋だと久谷もいうなら、無意識にでも恋をしないようにするんじゃないか。——と、思っていた。久谷の真意なんて分からないまま。

 上級生に、あるいは同級生に、どちらにしても彼女たちに微笑んで愛を囁いて恋をして、別れる。

 異常な早さで終結してしまうことだけが、自分が彼に残した傷なのだと思っていた。

 名前よりもずっとずっと遠い、大勢の人間のうちのひとりを都合よくさすだけの代名詞で呼ばれるうちに、なにもかも遠のいてしまったのだと——思っていた。

 誰かを泣かしては別れて、すぐに新しい恋を始める久谷は学校内で次第に有名になっていく。格好よくてでも女遊びの激しい生徒で、全員の心に浸透していく。

 それは一年生の夏休みが始まる頃にはちょっとした伝説になっていて、二年生になる頃にはそれがある種の日常に変わっていた。女子生徒に手当たり次第手を伸ばして付き合って、最後には手酷く振る。

 それが久谷雅臣だといわれるようになっていた。

「好きですよ、先生」

 律儀な敬語と敬う代名詞で、冗談めかして久谷にそんなことを囁かれるようになったのはちょうどその頃。

 学校一のプレイボーイと呼ばれるようになった久谷雅臣の、挨拶のような言葉。

 ようやく自分の頓珍漢な考えに気づいたのも、同じ頃だった。

 ——本当に、傷つくのが恋なのだ。傷つくことを覚悟してするのが恋なのだろう。

 いろんなものを巻き込んで、いろんなものを傷つけていく。

 それでもそんな久谷だからこそ、私だったら落とせるはずだと野心めいた優越感で近づく子もいたけれど、ほぼ例外なく彼女たちでさえ久谷の最終宣告を回避できなかった。純情に一途に思い続けるような可憐な子であってもそれは同じ。

 もう好きになれない、と。

 傷つくことが恋なのだと久谷は言うけれど、今のところ、

 傷ついて涙しているのはいつも決まって少女たちのほうで、久谷ではない。

 振られ、泣き崩れてボロボロに壊れていく彼女たちを椎名が傍観できたのは、最初の女子生徒だけだった。

 勘違いに気づく前は、ただ罪悪感から彼女たちを慰めた。久谷が人を傷つけるような恋しかしないのは俺のせいだと思い、そのせいで傷つく少女たちを救うことでなんとか帳尻をあわせようだなんて思っていた。

 気づいてからは、罪悪感の上に懺悔みたいなものが伴った。ますます罪悪感は酷くなって、どうしようもなくなった。

 本当に、傷つくのが恋なのだ。もしかすれば、傷つけることも。


***


 森と別れ、二週間ばかりの短い春休みの経へ三年生になってすぐに久谷は新しい彼女を作った。

 沢村繭子。

 椎名が受け持った学級の生徒だ。この学校に来てはじめて受け持つ生徒だった。

 始業式の日に久谷から告白したらしい。その日の放課後は二人で仲良く帰るのを見つけた。沢村の幸せしか見当たらないような笑顔と、彼女の眼差しを受け止めて見つめる久谷のやさしげな表情を覚えている。忘れてしまうにはあれから二ヶ月程度しか過ぎていない——、それでも二ヶ月だ。

 そろそろだな、と思ってはいた。

「先生ッ、繭子が大変なんです!」

 と、昼休みが始まってすぐ職員室に駆け込んできた沢村繭子の親友である野原加奈子を見て、椎名は直感的に続きを理解した。

 三年B組の教室に入ると、窓際の後ろの席にうな垂れて座っている沢村を見つけた。

 近づく足音に気づいたのか沢村は顔を上げ、椎名の顔を見るなりくしゃりと顔を歪ませる。

「せんせぇ……」

「久谷に何か言われたか?」

 聞かなくても分かることを問うた。

 それだけでますます顔をしかめて沢村は俯いてしまう。膝の上の両手のひらでスカートを握り締める。

「わ、別れようって……言われました……」

「別れたほうが正解だ」

「で、でもッ、ずっといい感じだったんです! 私たち」

 久谷に別れ話を切り出された彼女たちはいつも同じ事を言う。すごく仲がよかった、すごく幸せだった、だからどうして嫌われたのか分からない。

 どうして、もう好きになれないと言われたのか、分からない。

 きっと、なにかの気のせいだ。きっと、機嫌が悪かったのだ。謝れば許してくれるはずだ。元に戻れるはずだ。

 いままで久谷に傷つけられてきた少女たちと同じ言葉を、奇しくも同じように涙で潤んだ口調で断言する沢村に椎名はゆるりと首を振る。

「他の子もみんなそういって、別れてるんだ。後追いするだけしんどいぞ」

「でも、久谷君、私のこと愛してるって」

「言ったときは本当に好きだったんだろう。でもいまはきっと違う」

「私ッ、信じられません!」

 叫んで、沢村は椎名を睨み据えた。泣いている少女の弱弱しい目ではなく、明らかに敵をとらえるような眼差しだった。自分が思って願うことを言ってくれない事実を、拒絶する目だ。

 盲目な目だ、生徒に睨まれたぐらいで怯みはしないけれど、見返すことはしなかった。罪悪感に自分が打ちのめされてしまう前に眼をそらす。

 代わり、職員室に駆け込んできた野原が口を開いた。

「繭子。先生の言うとおりだよ、久谷君と付き合うのやめたほうがいいよ」

 歳の離れたしかも異性の教師に言われるよりは、同年代の同性の親友に言われるほうが堪えるのだろう。

 厳しくはないけれど、芯の通った口調に沢村の眼差しがか細く揺れた。

「どうして、そんなこと言うの…?」

 それでもなんとか反論する声は、椎名の意見を拒絶したものとはまったく違う。

 辛くて悲しくて、どうしたらいいのか分からなくて途方にくれて、傷ついている声だ。

 その友達をさらに傷つけないように、追い込まないように、野原はゆっくりと口を開く。

「だって、久谷っておかしいよ。一ヶ月や二ヶ月付き合って、すぐに別れるんだよ? もう好きになれない、って、おんなじ台詞いつも言って、なにいっても取り合ってくれないんだよ。なんか変だよ、絶対」

「悪口、言わないでよ」

 だんだん小さく、弱く、消え入ってしまいそうな声になる。

「でも、みんな思ってるよ。本当は」

「……思ってないよ、私は」

「繭子はいまは勘違いしてるんだよ。だって、ずっとずっと、愛してるとか好きだとか言われてたら、好きになっちゃうよ。でも、そんなこと言い続けてたのに久谷君のほうからいきなり嫌いになっちゃうなんておかしいよ。久谷君がおかしいんだよ。変だよ。だからやめたほうがいいって。変になっちゃうよ、繭子も」

 瞬きした沢村の目尻から涙が伝う。途端、泣き腫らして赤い目からとめどめもなく涙が溢れ出した。

 言葉は全部その涙に飲み込まれてしまったようで両手で顔を覆い隠して嗚咽を漏らし始めた沢村を、野原がやさしく抱きしめる。

 辛かったね、大丈夫だよ。大丈夫だからね。と、労わるように沢村の背を撫でる彼女は三年B組のなかでもひときわ際立った才女だった。沢村に劣らぬ整った容貌に化粧気はないが、白い肌に長く伸びた市松人形のような髪がよく映える。怜悧で聡明。制服が襟に白のラインが入った紺色のセーラー服であることもあいまって、一昔前の純愛映画に出てきそうな女優を彷彿させた。

 沢村が落ち着いたのを確認して、後は野原に任せて教室を出た。

 まるで出てくるのを待っていたように教室の窓から見えないところに佇んでいる久谷に気づいて目をやる。

「なにが気に入らなかったんだ?」

 冷静に聞くつもりが、口を開いてみるとつっけんどんなものになってしまった。

「彼女のことですか?」

 言って、久谷は視線をB組の教室の扉に向ける。

 沢村、と久谷は呼ばなかった。それは森のときと同じだ。付き合っているときは苗字ではなく名前で呼びさえするのに、別れたと同時に線を引く。彼女、君、代名詞を多用して名前を呼ぼうとしない。

 それが余計にひたすら、彼女たちを傷つける。

 友人の腕の中で泣いている沢村はもしかしたら今でも勘違いだと思っているかもしれないけれど、久谷はもう彼女のことをなんとも思っていないだろう。本当の意味で。別れた後の気まずささえ、彼は心にひっかけてはいないだろうから。

 すれ違う他人みたいなもの、雑踏のなかで行きかう人の数を数えないのと同じ。

 大勢の中の一人。本当に恋をしていたのかと疑いたくなるぐらい。

「どうして、あんな酷いことを言うんだ」

 久谷は小さく肩をすくめた。

「まるで父親みたいな言い方ですね」

「傷つく生徒を見て嬉しい教師がいると思うか?」

「まるで俺が、最初から彼女を傷つけたくてやっているみたいじゃないですか」

 心外だとばかり嘯いて尖る久谷の唇。

「好きでしたよ。彼女たちのこと。ただ、駄目だって気づくだけです」

 気づいて、一方的に捨てて、新しくまた恋をして。

 だったら何度同じ事に気づいてやり直すんだと言いたかったが、言えずに久谷を睨んだ。教師として生徒を叱責するための表情だ。

「毎回毎回、同じことに気づいて別れるのか?」

「ええ。毎回毎回」

「どうして沢村だったんだ?」

「かわいい子でしたからね。先生みたいに表情がころころ変わる」

 そして笑った久谷の顔には隙がなかった。

 満面の笑顔であるそれはただ楽しいから笑ったわけではなくて、緻密に表情を隠す為だけのようなペンキみたいな笑みだった。塗りたくって下地が見えない、口調にちらつく笑みとは違う別のものに顔をしかめると、久谷がおもむろに手を差し出してきた。

 指先が頬に触れて、輪郭をなぞる。

「昔の先生に似てたからかもしれませんよ」

「嫌いになったのは、」

「先生に似ていないと思ったからかもしれませんね」

 双眸を覗き見ても、あるのは笑みだけ。ペンキのような、平らな微笑だけだ。

 久谷の手を椎名はゆるく払った。乱暴に酷くならないように、力加減に気をつけて。

 それでも、払いのけるときに小さく音が鳴った。腕と腕がぶつかった音、もしかすれば感触をそう勘違いしただけかもしれないけれど。

「教師をからかうな」

「からかってませんよ」

 言いながらも久谷は笑う。冗談だと上辺だらけの言い方でごまかそうとする。

「俺が誰を好きになって、誰と付き合って……誰と別れようと、先生には関係ないでしょう?」

 入り込むな、と言われているような気がした。

 そんな眼には見えない拒絶を受けたような気がして、椎名は久谷を見遣る。

「久谷」

「三年間、そうしようって言ったのは先生ですよ?」

 笑いながら。笑っているくせに、

 向けられる目の真剣なこと。

 けれどその目はふいに和らいだ。目で人を射殺せるのではないかと思うほどの眼差しは、唐突に翳りを帯びて、皮肉げなものにすげ変わる。仮面をかぶったようになんの違和感もなく表情を隠してしまった久谷と椎名の傍を、数人の生徒が通り過ぎた。好奇心に満ちた目が背中にぶつかってくる、彼らから見れば椎名の表情までは知れないだろう。見事なまでに作り上げた「久谷雅臣」の、学園一のプレイボーイと悪名高い少年の顔を崩さず、彼は口を開いた。

「大丈夫。先生のことは好きですよ。本当に、心底」

 本心だろう。自惚れみたいに、そう思った。

 けれどきっと、この言葉がいま通り過ぎた生徒たちに聞こえていても——彼らは何も疑わない。

 完璧なまでの久谷雅臣。学校一番のプレイボーイ。

 それが仮面だなんて、誰が知っているだろう。

 知っているはずがない。知る由もない。分かっているゆえに、痛みを感じる。

「でも、女の子とも付き合ってみたいんですよ。もてるうちに、いろんな恋をしてみたい」

 幼い子供の言い訳みたいに聞こえた。自分に非があることを認めていると、久谷はこんな風に拗ねた子供みたいな口調で言い訳と反論を押し出してくる。穴だらけの、問い詰めることなんてわけもない台詞で言うものだからおかしくて仕方ない。

 そのせいで気持ちがゆるんでしまって、なし崩しに許してしまったことは今まで、いろいろとあった。

 けれど今回のことは、忘れてきた宿題や約束なんていうレベルの問題ではない。苦笑して首を振ってしまえばおしまい、なんて気前よく終わるものでもなかった。

「ワンパターンだろう。告白して付き合って、いつも簡単に振るくせに」

 それがまっとうな恋だといえるだろうか。言ってしまってもいいのだろうか。

 そもそもこれは、恋なのだろうか。

「俺は俺なりに、恋を楽しんでいるんです」

「あのな、」

「雅臣」

 なおも言葉を続けようとした椎名の声を潰すように、久谷は呟く。

 自分の名前を呟くながら伏せ、間をあけて、開いた眼を椎名に据える。

「——そう呼ばない貴方に、俺の恋をいさめる権利はありますか?」


***


 久谷のことを、雅臣と。

 呼んでいたのは、彼がまだ中学生のときだ。こっちは就職活動中。

 馬鹿なことをして、そう呼べなくなってしまったけれど。

 いつも一緒にいられたらいいのに、と。

 純粋な中学生の願いをかなえてやりたいなんて思ってしまって、実際にかなえてしまったからだ。

 だから三年、と決めた。もう二年過ぎて、あとの一年も着実に過ぎていっている。

 久谷に、「先生」と呼ばれる期限。

 久谷を、「久谷」と呼ぶとおす期限。

 久谷のいまのイメージは学校内外に知れ渡ってはいるけれど、それでも久谷のことを慕う女子生徒が減らないのは不思議だった。告白すれば大抵落ちて、そのときは駄目でも粘るうちに付き合いだすようになる。彼自身にそれなりの魅力があるからだろう。強さと虚勢の間にいるような、なんとも不安定で放っておけない危うさが彼女たちからすれば護ってあげたくなるのかもしれない。

 昔、同じ理由で放っておけなくなった。気になりだしたらおしまいだった。——だから、同じように絡みとられる女子生徒もいるのだろう。もちろん、正反対に感じる者もいるのだろうが。

 野原加奈子はその際たるものらしい。

 踊り場から伸びて階段を這い、廊下にまで落ちる長い影がふたつ見えた。

 下校間近の校舎は、校庭をにぎわす運動部の掛け声の余韻が響くばかりで閑散としている。文化部も部活動をしているはずなのだがさっきまで聞こえていた吹奏楽部の軽快な音色は途絶えていて、いまは息をひそめたような静けさだった。

 窓から差し込む夕陽の橙が、目を射抜く。眩しさに目を眇める。

 二階の階段に近づいたとき、久谷の声が聞こえた。

 故意ではなかった。本当に偶然だった。

「君の事が好きなんだ」

「私はあなたのことが嫌いです」

 返答は、野原。

 久谷のプロポーズを一刀両断した野原の口調に聞き耳を立てる。壁に背を貼り付けてすこしだけ顔を動かした。夕間暮れに伸びる長い影がふたつ、向き合っている。

「どうして?」

「一ヶ月しか付き合っていなかったらご存知じゃないかもしれませんが、私は沢村繭子の友人です」

「あぁ、彼女の」

 忘れかけていたことを思い出したような久谷の口調が気に入らなかったのだろう。影の一方——、野原が身を乗り出した。

「繭子、貴方に振られて傷ついて泣いてました。あの子は本当に貴方のことが好きだったんです。なのにろくな理由もないのに振って、それで私のことが好きなんてよく言えますね。最低です」

 最後は言い捨てて、階段を下りる音がした。影が近づいてくる。

 しかし階段を降りきる前に、久谷の声が野原を引き止めた。

「あれ以上一緒にいたら、もっと傷つけると思った。好きじゃないのに好きだと言い続けても、かえって傷つけるだけだろう?」

「あんな別れ方をするほうが傷つきます」

「でも優しく言って、彼女が納得したと思うか? 余計拗れてひどいことになっていたと思わないか?」

「それって結局、久谷君の自己満足じゃないの」

 震える声音は怒りのせいだろう。わずかに掠れた声音を押し出して、野原の影が身じろぎする。

「繭子は傷ついた。それは事実よ。言い訳なんてしないで」

「でも、傷つかない恋なんてあるのか?」

 返答の間など一切なかったふたりの会話に、ふと落ちた沈黙だった。

 見える影だけではふたりがどんな顔をしているかなんて分からない。見つめあっているのか、睨みあっているのか、それとも目をそらしているのかも。ただ、久谷の口から何度も出てくる質問を野原は嫌悪だけで一蹴しようとはしなかった。

 そのための沈黙だった。

「私なら、幸せになるために恋がしたい」

 ひっそりと呟くように。

 野原は告げて階段を下りた。廊下を曲がったところで椎名に気づいて驚いた顔を一瞬覗かせたけれど、立ち止まりはしなかった。ぶつかった視線をすぐさまそらしてそのまま脇を過ぎる。

 凛、と背筋が伸びた背中だった。

 セーラー服の襟で揺れる切りそろえられた漆黒の髪、無粋な真似をした椎名に面食らいはしたけれど詰ることはなかった彼女そのもののような後ろ姿。幸せになるために恋がしたいと告げた声音のように、前を見据えて。

 凛々しくその、遠のいていく背を見送る椎名の耳元で、

「先生、立ち聞きなんて趣味の悪いことをするんですね」

 久谷は囁き、思わず振り返った椎名に意地悪い笑みをむけた。

「生徒の恋沙汰でも気になりますか? 誰と誰が付き合っているとか、把握するのも仕事ですからね」

「お前の場合だけな」

 皮肉の効いた物言いにこちらも相応の嫌味を込めて応えると、久谷は小さく肩をすくめる。目は野原が立ち去った廊下のほうへ、遅れて椎名ももう一度廊下を見たが野原の姿は見つけられなかった。

「嫌いだって率直に言われました」

 久谷に体ごと向き直る。

 嫌いだと言われた割に、久谷の表情は曇っていなかった。むしろ晴れ晴れとした上機嫌である。

「嫌われてると分かっている割には機嫌がいいな」

「気持ちが分からないよりははっきりとしているほうが攻略しがいがあるでしょう?」

 半ばゲームのようにいう久谷にため息をついた。

「お前にしてみれば恋愛なんてそんなものか」

「じゃあ、先生はどんな風に思ってるんですか?」

「少なくとも、野原のような考えがいいと思っている」

 幸せになるための恋がしたい。

 かわいらしくて、純粋できれいな願いだと思った。ゲーム感覚よりはよほどいい。

 しかし、この考えが久谷と相容れないのは百も承知である。案の定、久谷は機嫌のいい表情をすこし濁らせる。

「先生、本気で?」

「ゲーム感覚よりはましだ」

「幸せになるための恋なんて、夢物語もいいところでしょう?」

「どうしてそう思う?」

「恋をしたって、それが絶対に成就されるとは限りませんよ」

 冗談を抜いてえらく真面目に応える久谷の物言いに惹かれて、椎名は首を傾げた。

 言葉を挟まないまま先を促す。

「先生がどう考えるかまではわかりませんけど、俺はありえないものを信じるつもりはありません。幸せになりたいから恋をする、じゃ、割りに合わないですよ。どんな恋でも叶わなければ幸せにはなれないでしょう。偲ぶ恋とか言いますけど、あんなのもでたらめですよ。片思いが幸せだなんて、俺は思わない。両思いになってからも幸せになれる保障なんてないのに、幸せになりたいから恋をするなんて、本当にそんなこと出来るんですか」

「恋は傷つくものだ、っていうお前の持論はそこら辺から出てくるのか?」

「結婚できるのはひとりですよ。なら、結局、幸せにしてくれるひとりを探す間に、どれだけ失恋するんですか」

「小難しいこと考えてるんだな」

 ついていけない、と頭の隅っこで呆れながらも、まるでなぞなぞのようなロジックをぶつけてくる久谷の眼差しには嘘がなくて、ごまかす為の合いの手は入れられなかった。上辺だけで理解しているなんて言ったらその瞬間に見破られそうな、深い底の覗く双眸をしてこっちを見ているから、ひっそりとため息をつくことも出来ない。だから、素直に思っていることを口にした。

 言う傍から大人気ないなと自覚していたから口調は若干投げやりになったけれど。

「たかだか十八の子供が、そんな真剣に恋愛について悩んでたら恋愛恐怖症になるぞ。久谷ぐらいの年齢のときは、好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、でいいじゃないか」

 言ってから、いまも十分そうだよな、と気づいた。好きになったら告白して、嫌いになったらあっさり見限って。その中にもうひとつ、揺らいでいないらしい愛情があって。

 酷くややこしい恋をしている。

 憎いぐらい自分の気持ちの正直に生きている久谷に、これ以上直感的に生きろといっていいものだろうか。いや、まずいだろう。思って眉をひそめる。

「——まあ、それであれこれとっかえひっかえ好きになられるのも迷惑きわまりないけどな」

「そういう優しい考え方をする先生は好きですよ、俺」

「この間は嫌いだって言ってなかったか?」

「俺に優しい先生は好きです」

 見透かすような双眸を和ませて久谷は椎名の背中に腕を廻す。

 腕の中に隠すみたいに抱きよせて、抱きしめる。

 逃げようとは思わなかった。代わりに、またなにかの冗談だとひときわ冷めた頭の一部で呟く。

 野原を好きだと言ったばかりの口で言うにはすこしだけ本心が混ざっていそうな気がして。立ち去ろうとする彼女を引き止めたばかりの言葉を選んだ思考で選別したにしては、なんとも単調でまっすぐで怖い者知らずな言葉だと思って。

 好きだと愛を囁いては幸せそうに笑い合い、最後にはその笑顔を粉々に打ち砕いていくのに。

 彼女たちの笑顔も涙も、椎名は間近で見てきたのに。

 幸せになるための恋をしたいと思いながら、一番近いのは久谷の同じ傷つく恋なのだと分かっている。

 もしくは傷つけていく恋。自分達が幸せならこれでいいだなんて、思わないのに。

「野原は諦めたほうがいいぞ」

 言葉は簡単に嘘をつけるなと自嘲する。

 本当はもっと違うことが言いたいんじゃないかと思った。それが何かは分からずじまいのまま、嘘をついていた。

 俯いて、自分の足元を見下ろす。

 平静を装うのは声だけ、気を配るのも声だけで、嘘をつく自分がどんな顔をしているのか分からなかった。

「沢村のことで怒っていたからな。あいつ。お前になびくとは思えない」

「心配してくれるんですか?」

「まさか」

 笑ってしまえばいいだろうか。

 思って、声を震わせる。笑え、と念じてもう一度喉を振るわせた。喘息みたいな、あまり綺麗じゃない声がでる。

「一度酷い目に合えばいいんだ、って思ってるよ」

 そうでなければ、いっそのこと、簡単な奇跡を乞う。

 記憶喪失のような、劇的な異変が起こって——すべてが変わってしまえばいい。

 自分以外の誰かを本当に、好きになってくれればいい。

 でも、

 そうなればきっと、一番最初に死んでしまうのは——他ならぬ自分なのだろうけど。


***


 野原が放課後の職員室にやってきたのは、それから数日後のことだった。

 いつも一緒にいる沢村繭子は教室に残してきたらしい。それだけで野原がなにを迷って職員室に来たのか検討がついた。あれだけ力強く断言して有言実行で、久谷が野原を口説きまくっているのは間違いなさそうだった。

 職員室の隅にある衝立で遮られた簡易的な応接室のソファに座ってすぐ、野原は椎名を見据えて切り出す。

「久谷君のことで困ってるんです」

 階段での悶着を知っていると分かった上で、前置きもなく野原は言う。

「先生、助けてください」

「助けてください、っていっても……断っただろう? あの時」

 はっきりと久谷に嫌いだと言い切る野原の声を椎名は聞いている。久谷も嫌いと言われたことを自覚していたはずだ、もっともその後で攻略しがいがあるとか笑っていたけれど。

 膝の上に頬杖をついて野原を見つめた。

「無視すればいいんじゃないか」

 野原が首を振る。

「最近、繭子と喧嘩するようになったんです。久谷君のせいで」

「そうか、沢村か」

 久谷と野原の一件で記憶の隅に追いやられていたが、野原の前に沢村と久谷は付き合っていたのだ。いきなり別れ話を持ち出された挙句に親友が恋人の新しい彼女になったら、どんなに親しくても疑心を持つのは当然だろう。原因は久谷の気まぐれ、野原には何の非もないのが明白でもだ。恋は盲目、とはよく言ったもので。

「繭子、私が久谷君を取ったんだって怒ってるんです」

「告白してきたのは久谷のほうだろう?」

「でも繭子はそれを知らないし、私もそんなこと言えなくて」

 傷ついた親友の傷口に塩を塗りこむような真似は出来ない、と野原は首を振る。

「久谷君には散々話したんです。貴方のことは嫌いで、好きになれないって。会うたびに言ってるんです。でも全然聞いてくれない、付き合っているうちに変わるかもしれないって言うんですよ。一ヶ月したら変わってるかもしれない、だから付き合おうって」

「久谷らしいな」

「先生、……笑い事じゃないんです」

 半眼に細められた野原の眼差しをぶつけられて、椎名は唇を引き締めた。気づかないうちに浮かべていた苦笑いをかみ殺して、頬杖を解いて背をソファに預ける。

 野原は小さくため息をついて項垂れる。黒い髪が耳元から流れて俯いた顔を隠してしまう。

「一ヶ月でどうにかなるなんて、思うのもおかしいと思います」

 ちらつく嫌悪は彼女の本心なのだろう。

「人の気持ちなんて、そんなに簡単なものじゃないのに。好きになるってもっと幸せなことだと思うんです」

「久谷は、傷つくのが恋だと思ってるんだ」

「それって、もっとおかしいじゃないですか」

 まるで自分の心奥からきれいに抜き取った言葉を呟くような野原に椎名は問うた。

「傷つくのが恋だっていう割りに、いつも誰かと付き合ってるから?」

 頷く代わりに野原は顔を上げた。

「先生もそう思いませんか?」

「開き直ってるのかもしれないって思ったことならあるな」

 恋をするたびに傷つくことも、傷つけることも。

 最近の子供は傷つくのを極端に恐れるというけれど、久谷は違うのだろうと思う。でなければあんなにむちゃくちゃな恋が出来るだろうか。傷つくことが当たり前だと思っている、涙を流すことを前提とした恋だ。泣くのは久谷ではないけれど。

 それともあれは、もとから恋なんて呼べる代物ではないのだろうか。

 時たまふいに考える。少女たちからすればいつか破綻する代物でも、あれは恋に違いない。けれど久谷からしてみれば?

 恋をしているのだと久谷は言う。だから恋だと思ってきた。でも、

「傷つきたくないんです」

 そう呟く野原のほうが正常だ。

 思って、小さく頷くと、野原の表情がほんのわずかだけ和らいだ。察しなかったけれど、今の今まで緊張したように顔をこわばらせていたらしい。担任とはいえ男の教師に恋の相談をする恥じらいもあったのだろう。

 柔らかくゆるんだ頬の力強い意思をはめ込んだ双眸を伏せて野原は口を開く。

「それに私、好きな人がいるんです」

 カミングアウトなのだろうけど、存外あっさりとしていた。

 惚気とは正反対の、事実確認のようなしっかりとした口調。それでも唐突な告白に唖然としてしまった椎名を見てから自分が何の恥ずかしげもなく言った言葉の意味に気づいたように、野原は調子遅れに頬に朱を浮かせる。

「繭子も知ってます。だからまだ、私のことを信用してくれるんだと思います——。ずっと好きだった人なんです、憧れみたいなものだったけど、でも好きなのは間違いないんです。だから」

 久谷とは付き合えない。

 最後まできちんとした言葉にはならなかったけれど、野原のかすかに動いた唇は告げている。

 好きな人がいるから、久谷君とは付き合えない。

 恥ずかしさに赤く染まった顔をすくめた肩に隠して野原は口を閉じている。言い切るまではよかったけれど、思うことを全部言ってしまった後で急に羞恥心が湧き上がってきたのだろう。

 彼女がふたりの間の沈黙に耐えれたのも数秒だけ、

 突然野原は立ち上がった。

「先生!」

 呼ぶように叫ばれて、もしくは叫ぶように呼ばれて。

 どっちにしても、野原がこんな風に声を荒げるなんて珍しいと思った。

 ただ純粋な驚きも彼女を見上げた瞬間、からめとられる視線に小さな既視感にすり代わり、途端に危機感へと早変わりする。

 噛み締められて引き結ばれた唇とか、何かを我慢するみたいに寄せられた眉とか。

 なによりもまっすぐ、ただひたすらまっすぐに——ひたむきに、

 見覚えがあった。

「先生、私、」

(智一、俺ね、)

 彼女の声と重なり、フラッシュバックする声。耳の奥に残り、くすぶり続けたそれ。椎名のことを先生と呼ばず、呼ぶ必要さえもなくて、ただ切実な気持ちをひそめて「智一」と呼んだ生意気な中学生の声。さん付けなんて一度もしようとしなかった、対等でいたいのだと言いたげに背伸びをし続ける少年の声。

(智一、俺ね——貴方のことが、)

「私、先生のこと、」

 幻聴は消え入る。代わりに、現の声だけが手元に残る。

 目の前には野原がいた。決して、彼ではない。

 その事実にどういうわけか失望して。

 聞きたくないと、耳をふさいでしまおうかと思った矢先だった。

「駄目だ。そんなこと」

 分かりきった続きを無粋な横暴さで遮った声は衝立の傍から。

 ふたりで振り返った先に佇む久谷の目は均等に椎名と野原を見遣ると、最後にすこしだけ長く椎名を見据えてから野原にそえられた。

「野原は俺のことを好きになってくれないと駄目なのに」

 駄目なのに、と嘯く声は断定的で容赦がない。

 年相応の少女らしい優しげな頬の輪郭は瞬く間に音を立ててこわばり、次第に血の気がひいて青褪めた顔で野原は久谷を睨み据えた。

「聞いてたの?」

「途中から」

 ごまかすつもりなど毛頭なかったのかあっさり久谷は白状する。

 野原の手のひらに爪が食い込んだ。強く握り締めて、彼女は呟く。

「……、酷い。最低」

「まさか、こんな事を話しているとは思わなかった」

 言い訳じみた言葉にしては語る口調は白々しく上辺だけを滑っている。

 本心じゃないことは誰にだって分かる。射抜かれるほどに鋭利な野原の眼差しを突き立てられながら、久谷は苦笑した。本心を自分から暴露するような、心底おどけた表情をして両腕を小さく広げた。

「先生に相談事があるみたいだって聞いたから来てみたけど、まさか言い寄られてるのを口実に先生に告白しようとするのは思わなかったんだ」

 遠まわしな罵声。無臭の、悪意なんてひとつもにおわない言葉ばかりで構成された嘲笑。気づかなければ気づかないまま、見過ごしてしまえそうなオブラートなキーワード。

 器用に久谷は笑う。

 唇の片端をひっかけたように吊り上げて笑う。顔の筋肉を動かしただけの、ただそれだけの笑顔だ。それだけだから、目は笑っていない。笑っていない目の下で釣りあがった唇は、それでも微笑んでいるから恐ろしく見える。

「……久谷」

 息を飲み込むようにして呟く。

「教師と生徒の恋なんて、許されると思っているのか?」

 それは全部、野原に向けられたものだろうけれど。

「久谷君には関係ない」

「本気で言ってる?」

「話を盗み聞きしてたならちょうどいいよ。私が誰を好きで、誰が嫌いか分かったでしょう? 久谷君のことは絶対に好きになれないし、ならない。私は先生のことが好きなの、入学してからずっとずっと好きだったの。——だから、だからね、先生」

 同級生を睨み据えていた目が脆い潤みを帯びて椎名を見る。

「先生に気づいてくれなくてもよかったし、見てて喜ぶだけでよかったんです。だって憧れだったから。告白しようとか全然思ってなかったけど、でも」

 でも、こんな形で。

 言ってしまうことになるなんて。

 瞼を伏せればそれだけで目尻から零れてしまいそうな涙が彼女の眼窩のなか、

 頬を伝って顎から滴るそれは、あまりに儚くてきれいで、彼女そのもののようだった。幸せになる為に恋をするという彼女の、心情そのままの。

 だから余計に、息が詰まりそうになった。

 不純物のない思いも涙も、真っ直ぐに気持ちを語る眼差しも。

 そのすべてが何も分かっていなくて、分かっていないからこそ尊いぐらいに真剣で、何も言えなくなる。

 野原の告白を遮ったのはやはり久谷だった。

 衝立の傍らにいた彼は足を踏み出して、いまだ座ったままの椎名の背後に廻った。

「野原、一応聞いておくが」

 振り返ろうとした椎名の両肩に久谷は両手を添える。

 貴方の立ち位置はこっちだ、と言われている気がした。

 先生のことを愛している。と、純粋な思いで囁く野原のそばではなくて、正反対の久谷の傍。

 教師と生徒の恋なんて許されないと断言する、針の筵のようなここ。

「お前のその考え方、先生に一番迷惑が掛かるって分かってるんだよな?」

 たじろいで野原がこちらを見た。

 久谷の質問に、硬く閉じた唇が開くことはない。助けを求めるように眼差しが、椎名にむけられるだけだ。

「久谷、」

「先生は黙ってて」

 たしなめようとした声を体よく遮られる。耳元で囁くような声音だった。

「先生は優しすぎる。俺にも他人にも。そういう貴方の性格、俺は嫌いですよ」

 勝手に嫌いになってくれればいい。

 両手を振り払って、そう言えればよかったのだろう。嫌いだとも好きだとも、なんの躊躇いもなしに使う久谷にいちいち傷ついてなんかやれないと応えるべきだ。けれど顔の見えない久谷がどういうわけか辛そうに顔をしかめている気がして何もいえなくなる。

 いや、多分、本当に辛いのだ。

 彼も、自分も。きっと久谷のほうが、一番。

「野原、生徒と教師が恋をしてどっちが迷惑すると思う? 好きだったらなにしても許されるなんて思ってないよな? 好きだったら自分の周囲も知らない世界も全部、祝福してくれるなんて勘違いしてないよな。この世の中、常識はずれの恋を認めてくれるほど生易しくなんてない」

「貴方になにが分かるの?」

「お前の言ってることが自己満足だってことと、幸せになりたいっていうのに先生が入ってないことぐらいは分かる」

「そんなこと、」

「あるだろう? でなければ、担任の男性教師に好きだなんて言えるわけがない」

 引き攣った野原に、椎名は無理をして後ろを振り返った。

 首を捻って見上げた久谷の顔は、笑っていた。耳元で囁いたときの辛そうな色はどこにもなくて、ただ笑っている。

 さっきまでの筋肉を動かしてわざと作った笑みではなくて、本当に笑っていた。楽しそうに嗜虐的に、人が人を見る笑顔ではないそんな顔をして、野原を見ていた。

 傷つけて楽しんでいるのだ。

 途端に理解できた。

 蔑んで、優しく親切に罵倒して、反応を見て喜んでいる。

 ただ、飼い猫をいたぶるようなものじゃない。全然痛みを感じない方法じゃない。

 むしろ、物凄く痛いだろう。

 自分の腕に包丁をぶっ刺して、止まらない血を見て笑っているような、

 誰かが助けてくれるか、失血死か、そんなどうにも馬鹿馬鹿しくて野蛮で危険なゲームを楽しんでいるような、目。

 止んだ幻聴こそ、その理由だろうか。

 あの日の言葉は忘れたことはないけれど、こんなときに思い出したのは——野原が彼に似ているからだ。

 似ているからこそ、久谷は彼女を許さないのだろう。

「お前と先生の間になにかあったら、世間から迫害されるのは先生だ。どれだけ野原が言い寄っていたって、職を失うのも信頼を失うのも、人から冷たい目で見られるのも——全部、この人だ。それにこの人は優しいときてる。本当は陥れたいんじゃないのか、野原。幸せなんてどうでもよくて、自分のものにしたいだけなんだろう?」

「貴方と一緒にしないで!」

 とうとう声を荒げて、肺の奥から声を突き上げて、野原は叫んだ。

「貴方みたいに、自分のことしか考えていない人間と一緒にしないで! 私は先生が好き! でも先生の迷惑になるのも分かってるわッ、無理やり付き合ってほしいなんて思ってない。貴方みたいに、勝手に人の事を決め付けたりなんてしてない!」

 震えた語尾はただ怒りに任せてのものだったのか、もっと別の意味があったのだろうか。

 思うよりも先に野原は駆け出した。脇目もふらず職員室を飛び出していく。

 思わず追いかけようとして立ち上がりかけ、肩に乗る力に押しとどめられる。

「やめたほうがいいですよ。追いかけるのは」

 上向くと、開け放たれたままの扉に顔をやっていた久谷が言った。一瞥も椎名に投げず、口を開く。

「いま追いかけたら、少なからず、先生は彼女の告白を受け入れたことになる。好きだからって気持ちを認めたことになる、……付き合ってほしくないなんていってますけど、気持ちを受け入れてもらったら次にしたいことなんて限られてるでしょう? その気がないなら優しくしないほうがいい。勘違いをそのまま続ける気なら、そんな茶番劇も見てて楽しそうですけど、」

 ふいに久谷は言葉を切った。

 落下してきた視線を受け止める。

 彼女を痛めつけた壊れていく笑みは眼差しのどこを探しても見つからなかった。

 代わりにあるのは、糾弾。引き結んだ口の下唇を前歯で一度噛んで、久谷は笑う。途方にくれてしまったような、どうしたらいいのか分からなくて自棄を起こしたような、くすんで疲れてしまった笑顔だった。

「先生はそれでもいいって思うかもしれませんけど、」

 肩に乗っていた手がゆるゆると首筋に回る。両腕でもたれかかるように後ろから抱いてくる。

 項にかかる柔らかい毛の感触。背中にしなだれる熱。

「俺は嫌ですよ。そんなのは」

「俺はお前が思うほど、フェミニストじゃない」

「でもさっき、俺が黙っていたらどうしてました?」

 私、先生のこと、

 ——好きです、とあの声は続いただろう。露骨に拒絶する為に耳をふさぐことを考えただけで実行は出来なかったから、聞いただろう。耳に届いて理解してしまったら、分からないふりは出来ないはずで。

 真剣だと分かっていればなおさら、うやむやにすることも出来ないから。

 もしあの時、久谷が割って入らなければ。

「先生は、なんて答えてました?」

 ろくな返事も出来ないまま、ただ黙りこくるか、世間一般的な常識を引っ張り出してきて説得するか。

 おそらくは、野原が納得するようなことは何一つ言えやしないまま。不器用さが誤解を生んで、消せない誤解がまた誤解を生んで、どんどん増殖していく。久谷はそのことを理解して口を挟んだ、——気遣われたのだと思う。泥沼になる前に取り返しがつかなくなる前に、久谷の言葉と態度が、野原の情愛を薄れさせたのだから。

「俺のときみたいに、答えましたか?」

 意地悪く、久谷は聞いてくる。

「愛してる。同じ気持ちだ、って」

 確かに昔、彼に向かって応じた言葉を寸分変わらないそれを囁かれる。

 けれど椎名が答える前にひとしきり小さく身体を彼は振るわせる、背中に触れている久谷の体の一部分がその振動を伝えてくる。

「学校辞めるって騒がれるかもしれませんね、それじゃあ」

「だからあんな八つ当たりをしたのか?」

「自己嫌悪だって分かってますよ」

 振動の余韻は残らなかった。応じた声もさっきまで笑っていたとは思えないほど、生真面目に硬い声だ。

「自己嫌悪以外の何者でもない」

「酷い事を言ったな」

「先生のことを思ってるなら、あのぐらい考えて当然だと思いますよ」

「あんなことを、いつも自分に言ってるのか?」

「安心してください。いつもじゃない」

 指先を撫でるように椎名の首筋に這わせてから、久谷は身体を離した。

 腰から捻って上半身ごと後ろを振り向く。

「ただ、——うらやましいなんて思ったのは本当です。同い年なのに彼女はなんの迷いもなく、貴方のことが好きだと断言できる。ああいう強さに憧れますよ」

 憧れる、と口にしたのは本心だろう。

 皮肉げに笑みの形にゆがめた口で悔しそうに言う。

「俺には出来ない芸当ですね」

 久谷だけじゃない。多分、出来る人間のほうが少ない。

 俺にだって出来ない。出来たらさぞ楽なんだろうけど、と思いながら椎名は久谷から目をそらす。

「野原に謝ったほうがいい」

「謝りませんよ、俺は」

 断言して久谷は椎名の視界に割り込む。

 見えるものをただひとつ、自分だけにするために目の前にかがみこんで椎名の双眸を覗き込んだ。

「——久谷、」

「言ったでしょう、自己嫌悪だって。彼女に謝るのは自分に謝ることだ」

 だから謝罪の言葉を口にするはずもないと言葉の裏に告げて、久谷は首を振る。

「好き勝手に、自分が思うまま、気持ちをいえたらさぞ楽なんでしょうけどね。貴方がどう思うかなんて想像しないで、ただ受け入れられるかもしれないって思い込んで動けたら、幸せなんでしょうけど」

「してるじゃないか、実際」

 恨めしくはなかったし、腹立たしくもないはずだった。言う言葉が久谷を突き放すものであるはずがないし、責める色を持ち合わせるはずもなかった。

 思ってきた限りでは、そのはずだ。

 けれどその実、言ってみるとわずかな剣呑を秘めて久谷の目を射抜いている。

「嫌がらせだろう? 沢村を選んだのは。その次に野原を選んだのは……俺への、」

 浮かべられた苦笑いは肯定でも似ていでも似合いそうだった。どっちもつかずの、中途半端な笑みだ。

 立ち上がる久谷を追いかけて自然と顎をあげて上向く。仰ぎ見る椎名に久谷はその苦笑を深くして目を伏せ、まぶたを上げた。その時にはもうそらされている目は遠くへ放り投げられている、室内も窓から見える空も見ていない、本当に遠い場所を眺めるように眇められる。

「……野原の気持ちは、俺のものになるかな」

「あそこまで散々言い合って、まだそんなことを考えてるのか」

 呆れて聞くと、久谷は顎を引いて低く喉を鳴らした。

「むしろ、俄然本気になりましたよ」

 笑って見下ろしてくる眼差しに冗談はない。

「彼女には俺のことを好きになってもらわないと」

「やめておいたほうがいい。自己嫌悪したなら、分かるだろう」

 野原の口から突いて出た言葉の真剣さは分かっているだろうに。

 報われないからやめておけ、と無難なことを言っているわけじゃない。彼女は俺のことが好きなんだからお前に惚れるとは思わないぞ、と忠告しているつもりもない。恐らく、言いたいのは警告だ。

「だから余計です」

 察して、だからこそ久谷は断言したようだった。

 これだけは許さない、と言われているような気がした。

 好きですよ、と冗談めかしに告げられるよりも熱い温度で、火傷してしまいそうなほど危険なもので。


***


 次の日、野原はいつも通りだった。

 確かに叫んだはずの気持ちも惚けて忘れてしまったような、何も変わらない彼女だった。

 いつも通りじゃないのはむしろ沢村のほうだろう。

 繭子に誤解されていると彼女が言っていた通り、観察して気づいたが沢村は度々野原を覗き込むような仕草をする。真意を確かめるような、思いを確認するような、じっと視線を突きつけて野原を見据えるのだ。そのつどに野原は首を振ったり笑ったりしていた。

 常なら表情を万華鏡のように変えて笑うのは沢村のほうなのに、立場が完全に入れ替わっている。笑わない沢村に代わりに野原が笑っている。それがとても疲れるのか、沢村の視線が外れた途端、野原の笑顔がべろんと剥がれ落ちることがままあった。

 ——野原には俺を好きになってもらわなくちゃ困るんです。

 久谷の宣言を思い出す。

 好きになってもらわなくちゃいけない。だから好きになってもらうまで、どんなことでもする。

 彼が言っていたのはそういうことだろうが、論外に告げていることがもうひとつあった。

 彼女たちの友情なんて、どうでもいい。

 壊れても拗れても、どうでもいい。

 野原が自分を好きになって、夢中になりさえすればいい。

 酷い考え方だ。でも、

「久谷のことで悩んでるんだろう」

 我に返った。

 階段を半ば下りたところだ、上からかけられた声に首を捻って振りむく。上下のジャージを着た浅黒い男が仁王立ちのごとく踊り場から見下ろしていた、顔には軽々とした薄っぺらい笑顔。

「戸倉」

 久谷が最初に振った女子生徒の担任で、いまは久谷本人の担任をやっている男。

 そういう経緯なせいか、自分たちの関係を察している数少ない人物のひとりだ。

「お前がそんなふうにため息をつくときは、大抵久谷のことだからな」

 ふたりの間の数段を降りて横に並び、戸倉は笑った形の唇でくつくつと笑い声をもらす。

 楽しくてしょうがないような、いまどき高校生でもしないような無邪気な表情と声だ。周囲の騒動を他人事であしらえる距離で眺めて喜んでいる、あまりいいものではない。

「また新しい彼女でも作ったのか?」

 久谷の行動そのものがある種学校内の娯楽みたいなもので、放っておいても耳に入ってくる。

 それでなくてもこの同僚は、子供じみているくせに老人並みに狡猾に出来ている部分もあって、結構あざとい。隠し通せる嘘は数少ないだろう。

 どうせすぐに分かる、と思うと自分から進んで隠してしまおうとは思わなかった。前に向き直って階段を下りる。

「正確には作ろうとしている最中だ」

「へぇ——、誰?」

「野原加奈子」

 応えると戸倉は口笛を鳴らした。

 甲高くて軽薄で、なんとなく聞いている側を不愉快にさせる音。下りきって職員室に向かう道すがら、口笛を鳴らした唇を吊り上げて戸倉は言う。

「やっぱり」

 納得したような、理解したような頷きも一緒。

 不可解といえば不可解で。ただなんでもなく視界の端にいた戸倉に視線をやった。視界の中央にひょうきんな彼の横顔を据えて訊ねる。

「なにがやっぱりなんだ?」

「久谷はいつか野原に手を出すと思ってたんだ。賭けに勝ったな」

「……、なんの賭けだ」

「久谷が才女に手を出すかどうかの」

 一体誰と賭けたんだ、とまでは問わなかった。聞いて名前を教えられたらその人間を見る目はきっと変わるだろう。酷い奴だと軽蔑するのも、仕方ないとあきれるのも、いまのところ戸倉ひとりで手一杯だ。だから追求は飲み込んで、面倒くさげに息をつく。

「どうして手を出すと思ったんだ?」

 お前のクラスの生徒だから、という理由だけでは説得力に欠ける。久谷に手を出されていない女子生徒は、むろん野原だけではない。

 美人だから、とか、成績がいいから、とか——高嶺の花だから、というのもおかしい気がした。戸倉の口調はそういうありきたりなところを根拠にしていないようで、真意を問うように彼を見つめる。

「野原はお前のことが好きだから」

 なんの躊躇いもなく戸倉は断言した。

 どんな答えが帰ってきても驚かないつもりだったが、さすがに範疇外だ。思わず瞠目する椎名に戸倉は頷いてみせる。念押しみたいな肯定だった。

「結構分かりやすかったな、野原の気持ちは。お前のほうをちょくちょく盗み見していたし、勉強にかこつけて職員室にもよく来てただろう? 教師に対する憧れみたいなもので、異性に対して抱くものとはすこし違うかもしれないが、恋といえば恋だよ」

「お前、いつからそれに気づいてた?」

「ん? お前が三年B組の担任になるすこし前から」

 担任になる前から。二年生のときから。

 その頃は、椎名は彼女のことを知らなかった。

 野原加奈子という生徒を認識したのは、担任になってからだ。陽気な万華鏡みたいに表情をころころ変える沢村繭子の親友で、クラスでは人一倍おとなしい少女だった。成績は優秀。問題行動なんて何一つない、高校生の肩書きを持つにはあまりに優等生な少女。

 ——視線は、思えば気づかないうちに何度かぶつかったことがあった。

 それを椎名は、自分が見ているからだと思っていた。野原の一定のテーマに沿って演じているような優等生振りが、あの少年を思い起こさせたからだ。

 その日の授業のノートを持ってきては教えてほしいと乞われて、教えているうちに関係のない世間話をして笑っていたこともある。

 教師として生徒に慕われるのは何も困ることじゃない。だから、

「気づいてなかったか?」

 茶化されてはいないけれど、頷くのを躊躇った。

 なかなかの観察眼だと褒めちぎってやったらすこしは黙ってくれるだろうか。胸の奥から湧き上がってくる苛立ちをなだめ透かせずに、手のひらで髪の毛を掻き回した。

「昨日、好きだって言われた」

「教師に告白とは中々やるな、野原も」

 素直に感嘆して笑う戸倉に、

「久谷が傍にいたんだ」

 先を告げると、途端、眉をひそめた。

「——そりゃ、大変なことになるだろうな」

「野原に絶対に好きになってもらうと意気込んでいた」

「それはそれは、久谷らしい」

 らしい、ですむ話でもないだろうが、戸倉の感想はその一言に終始する。ひそめた眉の下で意図的に唇の端を吊り上げて筋肉で笑ってから椎名をつと見てきた。彼が言った事実の先の、椎名自身が起こすリアクションを伺うように眺めて、けれど椎名のうちにその手の考えが何もないのを器用に解すると大仰に肩をすくめて代わりに聞いてみせた。

「いっそのこと、野原にカミングアウトしたらどうだ?」

 主語はないけれどなにが言いたいかは理解できた。

 だから、理解した瞬間に否定の意味も込めてぶつけた視線を、戸倉は意も介す風ではなく受け止めて、受け流す。

 質問に軽々しいのは口調だけだ。目はまったく笑っていない。

 笑っていない双眸こそ、彼の本音だと知れている。人事の状況を根っから楽しみながら、その癖息の根を止めるタイミングには狂いがない。

「久谷のことを愛してる、って」

 言えるはずのない言葉を。

 ここまで平然と言ってのける同僚に椎名はため息をついた。殴り飛ばさなかっただけ上々、と思う。

 今の今までは同僚としての上辺ッ面でいたけれど、言った途端に戸倉はただの同僚以上になっている。警戒して、隙を窺って、あばよくば再起不能に持ち込んでしまいたい男だ。

「——あのな、戸倉」

「野原がお前のこと諦めて、久谷が変なことをしでかすのを止めるにはそれが一番だと思うぞ」

 メリットのみを強調してデメリットを完全黙殺する物言いに首を振る。

「そうしたら変人扱いされて、気味悪がられて、……下手をすれば学校にいられなくなるかもな」

「そのぐらい、久谷は気にしないだろう」

「俺が嫌なんだ」

「むしろ、あいつはそうなるのを期待しているふうにも思えるけどな」

「俺が気にするッ」

 思いのほか、口から飛び出した言葉は険を帯びていた。

 横合いに眼差しをくれる戸倉から視線をはずす。ただ声を発しただけなのに弾んだ息がもどかしかった。動揺してるのだ、と思うと耳たぶが熱を帯びたように熱く感じる。どんな顔をしているかなんて戸倉には見せたくなくて、俯いて目を伏せる。

 どうしてこの男は、こうも腹の立つことを言うんだろう。

 でも戸倉の言い分は、すこしだけ正しい。

 真剣な人を納得させようと思ったら、こっちも同じぐらいに真面目にならないといけないのだ。自分を思ってくれる誰かの気持ちを拒絶しようと思うなら、その思いを打ち砕いてもひび割れひとつ起こさないぐらいの気持ちがいるだろう。

 野原の気持ちが本物なら、こちらも本物の気持ちを用意しなければいけない。

 でないと彼女に久谷は付きまとうだろうし、沢村との友情は崩れてしまう。

 久谷にもちゃんと伝えなければいけない。

 でも、

「口に出したことは、なかったことには出来ないんだ」

 思ったことを否定して、否定したことをまた否定する。

 口をふさいでいればどうにかなるなどとはまったく思ってないけれど、言ってしまえば終わりのような気がして。

「優しいな、椎名は」

 久谷と同じように、この優柔不断さを優しいと評する戸倉がおかしくて苦笑いした。

「俺はお前たちが思うほど優しくなんてない」

「偏った優しさだからな」

「久谷には嫌いだってよく言われるよ」

「そりゃ、自分以外の人間にも優しいんだ。当然だろう?」

「教師だからな」

 言い逃れだという本人も聞く相手も即座に鼻白む表面だけの台詞に、戸倉は案の定鼻を小さく鳴らした。

 顎を突き上げて、半眼に細めた目で聞いてくる。ガンたれる不良少年のような目つきだ。

「生徒にやさしく接するのは当然、って?」

「それが教師だろう?」

「わざわざ久谷が手ひどく振った女子生徒を慰めるのも仕事のうちか?」

「教師、だからな」

 嘘をついていると自覚して声にだす嘘を、戸倉が見破れないはずはない。

 困ったものを見るような目をしてから彼は息をつく。

 騒々しい喧騒が後ろから一塊に追いついてくるのに先に気づいたのは戸倉だった。廊下を駆けるほど軽快ではなくて、その逆で一歩一歩重たい震動が伴っている。震えに振り落とされたみたいな声がばらけて足音と一緒に近づいてきた。叫んでいる声だ、謝っていて切実で泣きそうになっている。戸倉より遅れて気づき椎名が振り返ったときには、その声が誰のものなのかは分かっていた。足音とは別の、親友に引きずられるように引っ張られる野原の声だった。

 戸倉の、小さくひそめたため息がすぐ傍で。

 これみをがしに項垂れて大袈裟につきそうなものを遠慮がちにするものだから、まずいことになったかもしれないと察した。戸倉が気を遣うほどのまずいこと、想像するよりも近づいてくる厄介ごとのほうが現実味を帯びている。

 ——いま、雅臣はどこにいるのだろう。

 遠くにいてほしいと思う。

 青褪めた、なんて表現を通り越した紙みたいな薄っぺらい白さをした沢村の顔を見て思うことがこれなのだから、酷い大人だ。

「繭子ッ、は、離して——ッ!」

「加奈子がいけないんだからね! はっきりしてもらうんだから!」

「わ、私の言うこと、信用できないのッ?」

「出来ないよ。出来るわけないじゃないッ、友達の恋人取っちゃったかもしれない子のいうことなんて、信じられると思うッ?」

 ヒステリックにつりあがった声音は確かに疑問符を用意していたけれど、親友に突き刺す視線はただただ鋭いばかりだった。

 音さえ聞こえそうなほど無遠慮に突き立てられていく視線の悪意に、野原は小さく喘ぎ声のように喉を振るわせる。いまの言葉に本当に殺されてしまったみたいに、呼吸するのを一瞬忘れたような顔をして親友を見据える。

 ふたりの目は完全に正反対だった。疑心暗鬼と悪意と、睨む沢村の目。悲嘆と驚愕と、見開かれている野原の目。唯一微妙に似通っているのは、ふたりとも相手を疑っていることだけだろう。

「先生!」

 野原に突き刺していた視線を研がれた角度で椎名に振りかざして、沢村は叫ぶ。

 その声が耳に飛び込んできた瞬間、椎名はこの世界に放り込まれる。

「加奈子のことどう思ってるんですか。告白されたんですよねッ、返事してないって聞きました! どう思ってるんですか!」

 眼差しと寸分変わらない声音。

 返事に窮する椎名を広げた右手の後ろにやって、戸倉は前に出た。椎名に笑えない冗談を言って笑っていた男の顔はきれいに沈んでいて、代わりに彼は厳格な教師の面持ちをして沢村を見た。

「沢村、すこし落ち着け」

「戸倉先生には関係ありませんッ」

 にべなく言い捨てる沢村に戸倉はあっさりと首を振る。

「関係あるんだよ。これが。俺は、久谷の担任だからな」

 言われて思い出したのだろう、沢村は自分が投げ捨てた言葉を悔いるように一度苦く顔をしかめてからもう一度戸倉を見た。

「久谷君は関係ないですから。これは私と加奈子の問題です」

「その割りには、椎名先生にも関係ありそうじゃないか。沢村と加奈子と久谷と、椎名先生の問題だろう?」

「沢村、野原を疑ってるのか?」

 戸倉の問いかけにはっきりと頷く親友を見て、野原が思い切り首を振る。

「違うの、繭子。私、久谷君のことなんてなんとも思ってないから」

「じゃあどうして私のこと嫌いになってすぐ、加奈子のことが好きになったなんていうのよ。おかしいじゃない」

 加奈子のせいだ。加奈子のせいなんだ。私のせいじゃない、加奈子がきっと久谷君を誘惑したんだ。だって加奈子はかわいいから、私よりかわいいからきっと久谷君も加奈子がいいと思ったんだ。きっとそうだ、そうに決まっている。

 久谷君から私のことを嫌いになるわけがない。

 そんな目、そんな口調、そんな顔。嫉妬しかない少女の顔。親友を射殺す心積もりで悪意を番えて声を発しているのだろう。

「理由を聞いても答えてくれない、好きになれないっていうだけで何にも言ってくれない。悪いところがあったら直すのに、頑張るのに、何も言ってくれないで……いきなり別れようなんて、おかしすぎるじゃない」

「それが久谷だろ?」

 戸倉は問いかけ、汚く歪んでしまっている少女の眼差しを躊躇わず受け止めて首を傾ぐ。

「一年のときからの久谷雅臣だろう? それが。そうだよな? ——……、椎名」

 いきなりだった。

 虚を突かれて見返した戸倉に意味深な表情はない。

 問われた言葉はそれだけの意味しかなく、それでも口を開くまで惑う椎名の答えを待たずに戸倉はひとり芝居のように肩をすくめて先を続けた。

「学校中知ってることじゃないか。いや、もしかしたら外でも噂になってるかもな。久谷雅臣はプレイボーイで、女の子と付き合っても長続きしない。せいぜい二ヶ月か三ヶ月で、絶対に女の子は手酷く振られて終わり。そのときの決め文句は、「もう好きになれない」。これを言われて復縁できた女の子はいない、……いやいままで付き合ってきた全員に同じことを言ってるんだろう? お前の前の森だって、同じことを言われて別れてるんだ。自分も同じ道を辿っただけだと思って、諦められないのか?」

「そんなの理由になってないでしょう!」

「捨てられた本当の理由が知りたいって?」

 ちらりと一瞥してくる目。一瞬ではあったけど、なにを問われているかは分かって、だから頭を振る。

 それは駄目だ。

「……知らなくていいこともあるだろ?」

 言いながら、これは果たして教師の台詞だろうかと思う。

 知りたいなんて思わないでほしい。諦めてほしい。

 心中で祈ってみたけれど、沢村は聞き届けてくれなかった。

 ぶるり、と一回、濡れた犬が身体を振るわせるみたいに沢村は首を振る。

「私、本当に久谷君のことが好きだったんです!」

「言っちゃ悪いが、お前が思うほど向こうはお前のことが好きじゃなかったってこともあるんだぞ」

「いつも好きだって言ってくれて、笑ってくれて……」

 他人が壊そうとしなければ壊れるはずがなかったといいたげに記憶のなかだけとなった幸福な時間を辿る沢村の頬を、刺々しい素肌を晒したままの戸倉の声が平手打つ。

「言葉なんていくらでも、嘘がつけるだろ」

「——やめろ、戸倉」

 もとより白紙のような色だった顔から抜け落ちるものがまだあったとしたなら、それは沢村の気持ちそのものだったのだろう。

 白色さえなくなってしまいそうな危惧に椎名は声をあげた。非難もこもったそれに戸倉はさわやかに、場違いもいいところの暢気な笑みを浮かべて、椎名を射抜く。

「止めてどうする?」

 お前が事実を語るか? 彼女たちに。

 語れるのか? 隠していたことを。

 笑った眼の質問に即答できる覚悟はなかった。ただ沢村が可哀想で、野原が気の毒で、そんな気持ちから突いて出た声は戸倉の注意をほんの少しこっちに向けさせるだけで終わるらしい。語れない。言えるわけもない。それで救えるとしても。

 口をふさいで、耳をふさぐほうを選ぶ。

 戸倉の求める覚悟とは違う覚悟で。

「無理なら、優しくなるのはもうやめとけ」

「……でも、だ」

 拒絶して、でもその先に言う言葉があるわけでもなくて。

 唇を噛み締める他はなくて、でもこの噛み締める理由も沢村が知れば自己満足もいいところだと憤慨するのだろう。親友の息の根を止めるための仮想の凶器のような目で、本当に殺されるかもしれない。

 戸倉は沢村と野原に近寄ると、野原の手首をきつく掴んでいる沢村の手を剥がした。女の子らしい沢村の細い手は薄い皮膚の下から骨の輪郭を浮かび上がらせるけれど指に込められている力はか弱かった。ただ強張ってしまっているだけだった。

「久谷の言葉を借りるなら、」

 自由になった野原の手首から手を離して、戸倉は言う。

「傷つくのが恋なんだろう?」

 ここにいる全員に言っているのだろう。誰も、この言葉から逃げられない。

 おそらくは嘘をつく側もつかれる側も。

 傷つくのが、恋なのだ。


   *


「先生」

 久谷の声。遠くから。

「先生ッ」

 すこし近づいてもう一度、足音が同じ速度で後ろに迫る。

「先生ッ!」

 ほとんど近く。すぐ後ろ。

 けれど振り返らない。振り返れない。ぐるぐると廻っている思考が邪魔をする。無視して歩き続けると後ろに足音はぴたりとやんだ。

 代わりに、背中にぶつけられるものがある。

「——、智一」

 先生と呼ばない声。

 この声まで無視することは出来ないで、椎名は立ち止まり振り返る。当たり前のように佇む久谷がこっちを見ていた。怒るよりも先にいつになく真剣な色を帯びた眼差しは、椎名に様々なことを納得させるのに十分だ。漠然と久谷の用件を察する一方で、冷静な頭がどうやったら誤魔化せるかと考えを巡らしはじめていた。

 きっと、沢村と野原の事を聞きにきたのだ。

 でも言いたくはなかった。彼女たちをあんなふうにしてしまった原因が、語ることではなかった。

 だから咄嗟に思いついたのは冗談でもなんでもなくて、

「……名前を呼ぶのは、」

「三年間禁止、でしたよね?」

 嘘っぱちの怒りを混ぜて文句をいいかけたが、台詞の半分はいとも簡単に久谷に奪われる。

 あっさりと訊ね返されて、言葉に窮した。分かっているなら呼ぶなと嫌悪でありありと顔をしかめて文句を言えばいいのだろうけど、口に出る前の喉で詰まっている文句に椎名は彼から目をそらす。眉根をよせて目を細める。

「——久谷、」

 久谷が高校に入学してから呼び続けている苗字を呟いて、けれどこの呼び名で言うことじゃないと思って頭を振った。

「雅臣」

 二年間使わないぐらいで錆び付くはずがないほど、その名前は口に馴染んでいる。

 いままでの人生のなかで一番、呼び続けてきた名前だ。

 唇が覚えている名前だろう。

 一番の尊い隠し事である少年が目を見開く。

 その姿を見据え、椎名は言った。

「……雅臣。俺は教師を、やめようと思うよ」



<終>





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