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水色の絵の具

フローライト百八話

大晦日の日、美園は休みだったので朝いつまでもベッドでうだうだとしていた。昨日は仕事納めで帰りに内輪だけの飲み会をしてから帰宅したので、だいぶ遅かったのだ。


「美園」と朔が寝室に入って来てベッドにどかっと座った。


「ん?」と美園は目を閉じたまま答えた。


「まだ起きないの?もうお昼だよ」


「起きる・・・もう少ししたら」


「ご飯、買って来る?」


「んー・・・朔だけ食べてていいよ」


「美園も食べようよ」


「んー・・・何か二日酔いなんだよ」


「そんなに飲んだの?」


「んー・・・アルコール強いやつ飲んじゃったから」


「どんなやつ?」


「カクテルとか・・・」


「そうなんだ、でも起きようよ」


「朔、絵描くんでしょ?やっててよ」


「描くけど・・・全然描けないんだ・・・天国なんて描けない・・・」


朔がそういうので美園は目を開けた。


「天国と地獄だよ。両方」


「・・・描けない・・・」


「じゃあ、どうする?年明けからは利成さんとの合作の方やらなきゃならないよ」


「うん・・・」


「テーマ、変えてもらう?」


「んー・・・」


朔が考えている。美園は起き上がって朔の顔を見つめた。


「黎花さんに相談しに行っていい?」


朔が美園の顔を恐る恐るといった風に見た。


「相談?テーマを変えてって?」


「いや・・・色々」


「色々って?」


「色々は色々・・・」


朔の言葉に美園はベッドの上に完全に起き上がって布団をめくった。


「黎花さんのところに帰りたいの?」


「違うよ」


「でも色々って・・・そういうことじゃないの?」


「違う・・・」


「じゃあ、私に相談してよ」


「・・・絵のことだから・・・」


「朔?私も絵を描くって忘れてる?同じ絵画部だったでしょ?」


「そうだけど・・・」


「じゃあ、色々って何か言ってよ」


朔がうつむいて少し黙っていた後、「・・・やっぱいい・・・黎花さんのところは行かない」と言った。


「行きたいなら行けば?」


美園はそう言ってまた布団に入った。これだけやってもまだ尚、”黎花”を求めるなら行けばいいと思う。


「美園・・・行かないから・・・」


「行けばいいでしょ?車で送ろうか?」


美園は布団に潜ったまま言った。


「・・・・・・」


「私じゃ朔の絵に関してはアドバイスできないもんね。黎花さんなら色々相談できるし・・・一緒にお風呂も入ってくれるだろうしね」


(あーこれはどうしたことか・・・)と思う。まったく自分らしくないのだ。こんなあからさまな嫉妬心が出るなんて・・・。


(サイアク・・・)と咲良の口真似を心でした。


「美園・・・ごめん、行かないよ」


「行ってよ。もう朔の面倒なんてみない」


「面倒なの?俺・・・」と朔が言う。けれどかなり嫉妬心でいっぱいだった美園は「そうだよ」と言ってはいけないことをつい口走ってしまった。


「そう・・・なんだ・・・」と朔が急に部屋から出て行った。そしてその後隣の部屋からすごい音がし始めた。


(え?)と美園はハッとして起き上がった。まずい・・・二日酔いではっきりしてない頭で、また朔に言ってはいけないことを言ったかもしれない。


美園はあせって起き上がって隣の部屋の朔のアトリエのドアを開けた。すると朔が今まで描いた絵を破っては投げつけている。


「朔!」と美園は慌てて朔を後ろから押さえた。


「邪魔でしょ?こんなもの」と朔がまた絵にカッターナイフを突き立ててから投げつけている。見ると次の絵は今回のために時間をかけて描いた抽象画だった。


「朔、これはやめて!」と美園は絵の前に立ちふさがった。


「どいて!それも要らない」と朔が美園の身体を押してきた。


「ダメ!これは。時間かけて完成したものでしょ?天国と地獄・・・描けないかもしれないけど、この絵はちゃんと描けてる」


美園は言った。必死だった。


「描けてない!絵があるから・・・だからお母さんは死んだんだ・・・」


朔が言った。


「どういうこと?」


美園は朔の顔を見つめた。でも朔は美園の腕をつかんですごい力で引っ張って、その絵の前から突き飛ばした。


朔がその絵にカッターナイフを突きつけようとした瞬間、美園は自分でも思いもよらないことをした。そのキャバスの前に手を出して絵を守ろうとしたのだ。次の瞬間、美園の手の甲に痛みが走った。


(痛っ・・・)


美園が手の甲を押さえると、朔がものすごく驚いた顔をして美園を見つめていた。それから「美園・・・大丈夫?」と我に返ったように朔が言った。


美園の手の甲からはドクドクと血が流れ出ていた。


「朔・・・大丈夫だから・・・ごめん、何か血を押さえるもの・・・持ってきて」


「どうしよう・・・何?」


「何でもいい・・・タオルでも・・・」


「わかった・・・」と朔が部屋を出て行ってからタオルを手に戻って来た。そのタオルで手の甲を押さえたけれど血がまだどんどんあふれ出て来る。


「美園・・・ごめん・・・どうしよう・・・」と朔が涙を浮かべている。


(朔・・・安心させないと・・・)


パニックを起こさせないようにしなければと、何故かそんなことばかり思っていた。


「朔、大丈夫だから・・・ごめん、咲良に連絡してくれる?」


美園がそう言うと「わかった」と朔がスマホを手にして更に電話をかけた。咲良はすぐに電話に出たようだった。朔が美園のことを伝えている。それから朔がスマホをスピーカーにした。


「美園?ちょっとあんた大丈夫?今、行くから。病院今日やってないから、どこか探しながら行くよ」


「大丈夫・・・そんな大袈裟なことじゃないから」


「いいから、待ってて」


 


咲良が来るまで朔が美園の手の甲のタオルを押さえていた。


「朔、大丈夫、もう止まってきた」


美園がそう言っても朔は離そうとしなかった。


咲良が到着すると、朔がホッとしたような顔をした。タオルを外してみるともう血はだいぶ止まっていた。


「指、動く?」と咲良が聞いてくる。


美園は少し指先を動かしてみた。その途端傷口に痛みが走ったが、指はちゃんと動いた。


「しびれてない?」と咲良が美園の様子を見てまた聞く。


「大丈夫・・・」


咲良が消毒薬と絆創膏や包帯を持ってきていた。傷口を消毒して血を拭うと、傷口はそんなに大きくはなかった。


「ま、このくらいなら大丈夫かな・・・でも、指がしびれたりなんかしたらすぐ病院行かないと・・・」と咲良が言った。


「ごめん・・・俺のせい・・・」と朔が涙を溜めながら言った。


「朔のせいじゃないよ。私が朔にひどいこと言っちゃったんだよ」


「そうそう、朔君は悪くないよ。この子が悪い」と咲良が明るい声を出した。それから部屋に散らばっているキャンバスや、朔の絵を見て「あーあ、こんなになっちゃって。美園のせいだ」と咲良が笑って立ち上がった。それからそのキャンバスやなんかを咲良が片付けだした。


「朔、ごめん・・・」と美園は謝った。


「美園は悪くない・・・」と朔が涙を流している。美園は「私が悪い」と朔の頭を胸に抱きしめた。そしてやっぱり黎花のところに一緒に行こう・・・と思っていた。それは持て余して朔を返すのではない。ここは素直になって黎花に相談するしかないと思ったのだ。


「あんたたち、今日はうちにおいで。ご飯いっぱい作ってあるから」


咲良が笑顔で言った。


(ああ、こういう時、咲良の明るさが救われるのかもね・・・)


 


大晦日は、美園と朔と咲良の三人でテレビを見ながらご飯を食べた。奏空たちのグループはいつも年明けのカウントダウン参加しているのだ。


「思えば、奏空と一緒に年明けしたことって遠い昔だな・・・」と咲良がテレビを見ながら言っている。そして「あんたたち、今日は泊まっていきなよ」と言う。


「何にも用意してきてない」と美園が言うと、「美園のものならちゃんと残ってるよ。下着も着替えもまだあるし、朔君のは奏空の新しい下着もあるし・・・あんたたち、ずっと二人っきりで部屋にこもってるから煮詰まってくるんだよ。たまにはハメ外さないと」と言った。


(あーそうなのかな・・・)


確かに黎花に負けたくないとそればかりで意地を張っていた。


── 美園がいかに自分の物語の中から出られるか・・・。


(あー奏空の言う通りだ・・・)


 


その夜は元美園の部屋のシングルベッドで朔と一緒に寝た。


「・・・美園・・・ごめんね」と朔が美園の方を見る。


「気にしないで。私の方こそごめん」


「・・・まだ痛い?」と朔が美園の包帯が巻かれた手に少し触れた。


「大丈夫・・・でも、朔、絵を破るのはやめて」


「・・・うん・・・」


「・・・私、朔の絵が好きなんだから」と朔の方に身体を向けた。


「うん・・・」


「・・・あのね・・・」と美園が朔の頬に触れると朔が口づけてきた。それはいつもの舐めるようなキスではなく、そっと唇を包むような優しいキスだった。


「美園が・・・好きだから・・・誰より・・・」と朔が言う。


「ん・・・私も朔が好きだよ・・・それで黎花さんのことだけど・・・やっぱり一緒に行こう」


「・・・どうして?俺はもういいよ。行かなくて」


「違うの。私がまた会いたいのよ」


「・・・何で?」


「話してみたいの・・・朔は黎花さんに助けられたんでしょ?」


「・・・そうだけど・・・」


「だから話してみたい・・・」


「・・・助けられたけど・・・ほんとにそれだけだよ」


「うん、わかってる」


「・・・・・・」


「ね?いいよね?」


「・・・うん・・・」


「ありがと」と美園は朔にキスをした。


朔が美園の背中に手を回してから目を閉じた。


「俺・・・美園がいればいいんだ・・・」と朔が目を閉じたまま言う。


「うん・・・」と美園も目を閉じた。


 


次の日起きるとリビングのソファに座っていた奏空が「あけましておめでとう、美園」と笑顔で言った。


「おめでとう・・・奏空、起きるの早いね」


「そう?もう十時だよ・・・あ、朔君、あけましておめでとう」と奏空が美園の後ろからリビングに入って来た朔に言う。


「あけましておめでとうございます」と朔が言った。


「あ、美園、朔君も。お雑煮食べるよね?」と咲良がキッチンから出てきて言った。


「うん」と美園は返事をしてからダイニングテーブルの椅子に座った。


「美園、たまには料理してあげなよ。食べ物って重要だよ」


咲良が言う。


「してるよ」と美園はスマホを開いた。色んな人からあけましておめでとうのラインが入っていた。


「どうだか?朔君、美園の料理、何か食べた?」


「・・・目玉焼き・・・食べたかも」


「目玉焼き?それ、料理じゃないでしょ」


咲良が呆れたように言ってから「朔君、たまにうちにおいで。ご飯食べさせてあげるから」と続けた。


「はい・・・」と朔が返事をしている。


お雑煮を食べてからみんなで利成と明希のところに行った。明希が朔を見て嬉しそうに「あけましておめでとう」と言っている。


「朔君、またお店に絵をおろしてくれるんだってね」とみんなが座ると明希が言った。


「はい・・・」


「またよろしくね」と明希が言うと、「はい、よろしくお願いします」と朔が言った。


「あ、利成呼んでくるね」と明希がリビングから出て行った。


「利成さん、最近はずっとアトリエにいるみたいだよ」と奏空が言った。


「そうなの?」


美園が言うと朔がうつむいていた。やはりまだ自信がわかないのかもしれない。


「あけましておめでとう」とリビングに入って来た利成が言う。


皆がそれぞれ「おめでとう、今年もよろしく」と挨拶が終ると、利成がソファに座ってから言った。


「朔君、絵の方はどう?順調?」


「・・・その・・・あまり・・・」と朔が困ったような顔をした。


「そうか、題材がちょっと難しかった?」


「・・・まあ・・・」


「そうだね、俺も迷ってるよ」


利成がそう言うと、朔が驚いて「天城さんも?」と言った。


「そう、久しぶりだしね」


「ほんとそうだよね、利成が絵を描くのって・・・いつぶりだろうね?」と明希がお茶をいれながら言った。


「かなり昔だね」と利成が答える。


「天城さんは・・・自分の絵、好きですか?」


朔が聞いたので、皆が利成の方に注目した。


「そうだね・・・好きか嫌いか・・・難しいね。十代の時は、気に入らなくてしょっちゅう絵を破いたり、キャンバスを破壊したり、絵の具をぶちまけたりで、たまりかねた親が出て行ったくらいだからね」


利成がそう言って笑った。


「えっ?天城さんがですか?」と朔が驚いている。


「芸術家、あるあるだね」と咲良が言う。


「でも、私と会った頃はそんなことなかったよ」明希が言った。


「明希と出会ったころはだいぶ落ち着いてたからね」


「そうなんだ」と明希がお茶に口をつけた。


「俺は落ち着けないです・・・」


朔が言ったので、今度はみんなが朔に注目した。


「そう?それはそれでいいんじゃない?」と利成が言う。


朔が利成の方を見て、あまり納得できないといった表情をした。


「絵も、歌も、創作も・・・俺の場合、何かを吐き出す媒体みたいな・・・そんな感じだったからね。常に落ち着かなかったよ。それこそ、天国にも地獄にもなってね・・・朔君がもしなかなか描けないんだとしたら、朔君が今、天国にも地獄にもいないからじゃない?」


「天国にも地獄にもいない?」と朔が聞き返している。


「そう・・・空っぽなんだよ」


「空っぽ・・・」と朔が考えている。


「意味がわかんないんだけど・・・みなさん、わかって聞いてる?」と咲良が言って皆が笑った。


 


夕飯を断って奏空と咲良より先に利成と明希の家を後にした。帰り際、利成が「合作のタイミングは朔君のタイミングでいいよ」と言った。


車の中は冷えていた。「寒いっ」と美園はエンジンをかけた。車を発進させてハンドルを回すと傷が痛んだが、朔が気にしないようにと痛いような顔はしないようにした。


自宅マンションの駐車場に車を入れている時、朔が「あ、血が出てる・・・」と言った。見ると包帯が巻かれた左手の手の甲に血が滲んでいた。車の運転で動かしているうちに傷口が開いてしまったらしい。


「あ、大丈夫だよ」と美園は車をバッグさせた。


部屋に入ると、朔が咲良の置いていった包帯と消毒液や塗り薬の入った袋を持って来た。


「取り替えてあげる」


「大丈夫だよ」と美園が言うと、「いいから座って」と真剣な顔で朔が言うので、美園はソファに座って手を差し出した。


朔が包帯をほどいていくと、やはり傷口が開いていた。手を握りその傷口を朔がじっと見つめている。


「朔?」


「・・・ごめん・・・」と朔が言う。


「いいよ。気にしないで」


「ん・・・」


朔が傷口を消毒して薬を塗った。


「もう絆創膏でいいよ。包帯は大袈裟」


「でも・・・」


「大丈夫だよ」


朔が袋の中に入っていた絆創膏を取り出して傷口に貼ってくれた。


「ありがとう」と美園が言うと、「痛くない?」と朔が聞いてくる。


「痛くないよ」


「・・・ほんとに?」


「うん、ほんと」


それから美園が「シャワー入るね」と言うと朔が「入ったらまた傷口開いちゃうよ」と言う。


「大丈夫」


「大丈夫じゃない・・・手、濡らさないようにしないと」


「んー・・・片手だとやりにくいからいいよ」


「俺が洗ってあげるよ」と朔が少し張り切った声を出した。


「いいよ、大丈夫だから」


「俺がやるんじゃダメ?」


「いや、そうじゃないけど・・・」


「じゃあ、やってあげる」と朔が浴室の方に行く。


(あー・・・断るとまたいじけちゃうかな・・・)


そう思っていると朔が戻ってきて、「何か袋かなんか手につけよう」とキッチンに入っていった。


結局、ビニール袋を巻かれて手首のところを輪ゴムで止めることになる。そして浴室に入ると朔がシャワーを出した。


「美園、しゃがんで」と朔が言う。


仕方なく美園はしゃがんで頭を下に向けた。


「美園の髪・・・綺麗だね・・・」と朔が言う。


「そう?だいぶ傷んでると思うけど・・・」


「そんなことないよ」


朔がシャンプーを出して美園の髪につけて泡立てる。そして髪を洗い終わると、シャワーを美園の身体にかけてきた。


「もう後いいよ。朔が使いなよ。寒いでしょ?」


朔もずっと裸だったので美園は朔にシャワーを渡した。


「寒くないよ」と朔が言う。


「私、もう出るから。後、使って」と美園は浴室を出た。


(これ、傷治るまでやられたらどうしよう・・)とちょっと思う。


でも今の朔は、ちょっとのことでもまるで神経がむき出しであるかのようにひどく傷つくのだ。



正月明けの仕事の初日、美園の手の甲の大きめの絆創膏を見てマネージャーさんが「どうしたの?」と言った。今日は歌の収録があるのだ。その時、美園はギターを弾く予定だった。


「ちょっと、ヘマしちゃって・・・」と美園が言うと、「今日、ギター大丈夫なの?」と聞かれる。


「大丈夫です」


実際のところはだいぶきつかった。でもなるべく目立たない絆創膏をつけて美園はギターを弾いた。


(・・・っ)


弾き終わると傷がジンジン痛み始めた。マネージャーさんが新しい絆創膏と薬を持ってきてくれた。


「どんなヘマやったの?」と少し呆れ顔だ。


仕事を終えてマンションに戻ると朔がいなかった。


(どこ行ったんだろう・・・)


朔の分もお弁当を買ってきていたが、時刻はもう夜の八時を過ぎている。


(先、食べよう)


スマホを何回がチェックしたが、連絡のラインも電話も入らなかった。


(まさか黎花さんのところじゃないよね?)


黎花のところへは一緒に行こうと約束してある。朔もそれでいいと頷いてくれたはず。


(どこか行くときは連絡入れてって言ってあるのに)


お弁当を食べ終わった頃に美園の電話が鳴った。美園がスマホを見ると、表示は黎花からだった。


「はい?」と美園が出ると「あ、美園ちゃん?」と黎花の元気な声が聞こえてきた。


「はい」


「朔、こっちにいるから心配しないでね」


(は?)


「朔、そっちにいるんですか?」


「うん、何かだいぶ煮詰まってるみたいでね。急に来たのよ」


(は?)


「朔から行ったんですか?」


「そうだよ。美園ちゃんに何にも言ってないって言うから、心配してるかなと思って」


「・・・・・・」


「美園ちゃん?」


「はい・・・」


「今日、こっちに泊めていいかな?」


「どうぞ」


「そう?あ、あっちの方は心配しないで。もちろんそれはないから」


「・・・あの!」と美園は言った。もう限界だと思った。


「ん?」


「もう無理です。申し訳ないですけど・・・」


そう言ったら黎花が一瞬沈黙した後に言った。


「・・・そう?じゃあ、朔返してもらっていいの?」


「はい」


「じゃあ、朔に伝えておくよ?」


「どうぞ」


「ちょっと残念だな・・・もう少し頑張ってくれると思ったのに」


「・・・・・・」


「でも、美園ちゃんの負担になってもね・・・じゃあ、とりあえずそう言っておくから」


「はい」とすぐに美園は通話を切った。もう本気で限界だと思った。どんなに朔に思いを注いでも、こうやって簡単に裏切られるのだ。そんなに黎花がいいならそっちに行けばいい。本気でそう思った。


シャワーに入る時、手の甲の絆創膏がはがれかけたけれど構わず髪を洗った。


(こんな怪我までして・・・バカみたい)


シャワーを浴びて浴室から出ると、美園のスマホがまた鳴っていた。画面は朔の名前を表示している。美園はスマホの電源を切った。


(もう朔のことなんて忘れよう)


急に美園の頬に涙が伝った。その涙を手で拭いながら美園は冷蔵庫からビールを出して缶のまま飲んだ。


部屋の電気を消してベッドに潜った。なんだかみじめだった。三年も朔からの連絡を待ち続けた。そしてこうやってまた会うことができたのに、朔はもう昔の朔じゃない。自分よりも黎花に頼っているのだ。


うとうとしかけた時、急に玄関のドアがガタンと大きな音をたてた。美園がビクッとして目を開けると、次の瞬間、朔が抱き着いてきた。


「美園、別れるって・・・何で?!」と朔に思いっきり身体を揺さぶられた。


「・・・私、黎花さんのところ、一緒に行こうって言ったよね?でも、朔は私に連絡もしないで勝手に一人で行っちゃったんだよ。もう、私には無理」


「ごめん・・・一人になったら急に怖くなって・・・」


「何が?怖いの?」


「・・・・・・」


朔が黙っているので、美園は「もういいよ。黎花さんのところに帰って」と言った。


「美園ちゃん」と急に黎花の声がしたので、美園はびっくりして起き上がった。いつのまにか黎花が部屋の入り口に立っていた。


「ごめんなさいね。勝手に入って来ちゃって・・・。朔が帰るって言うから送ってきたの」


黎花が言った。美園はただ黙ったまま、こないだとは違って長い髪を垂らして淡いピンクのセーターにパンツスタイルの黎花を見つめた。


「朔がどうしても帰るっていうから・・・美園ちゃんのところに」


「・・・・・・」


「朔はね、時々過去がフラッシュバックして、パニック障害みたくなるのよ。今の季節に出やすいの」


「・・・・・・」


「お母さんのこと聞いてると思うけど・・・今頃だったのよ、亡くなったのが」


「・・・・・・」


美園は朔の方を見た。朔はただ涙を溜めて美園を見ていた。


「怖くなって・・・ごめん・・・」と朔が言う。


「朔、少し美園ちゃんと二人で話していい?」と黎花が言った。


「・・・いいよ」と朔が寝室を出て行く。黎花が美園のそばまで来て床に座った。


「朔のお母さん・・・自殺だったって聞いてるよね?」


「はい・・・」


「首を吊ったのよ・・・家で。朔が第一発見者だったの」


それを聞いて美園は驚いて黎花の顔を見つめた。


「・・・どれだけ心に傷を負ったか美園ちゃんならわかるかな?朔は元々人の何倍も繊細で、心がいつもむき出しのような状態なのね・・・だからお母さんが死んだのは自分のせいだと思ってるの」


「・・・首を?自宅で?」


「そうよ、前日に朔のことで夫婦が揉めたらしいの。朔はあまり詳しくは言わないんだけど・・・多分なんだけどそれも、辛すぎて記憶がなくなってるみたいなのよ」


「・・・・・・」


「私が朔の作品を見つけたのはね、ある知り合いの女性が朔の作品を持っていたのがきっかけなの」


「え?ネットで知り合ったって・・・」


「朔が言ってた?」


「はい・・・」


「そうか、じゃあ、その頃の記憶は朔の中ではバラバラなのかもしれないね。ほんとは私が朔のことを探したの。だってあの絵は、天城利成の絵と同じだったのよ。私、天城利成の絵がすごく好きでね・・・」


「はい・・・」


「それで天城さんの奥さんの店から購入したものだって聞いて・・・ちょうどあの年のお正月明けに朔に会ったの。そして話しをして名刺を渡してね。いつでも連絡してって・・・」


「・・・・・・」


「その後、すぐだったらしいのよ。お母さんがなくなったのが・・・」


それはちょうど朔からの連絡が途絶えた時だ。


「今回、利成さんが”天国と地獄”を合作でって言ったでしょ?」


「はい・・・」


「人はまだ地獄の方がマシなのよ」


「どういうことですか?」


「地獄なら這いつくばってでも天国を求めるって・・・わかるかな?本当は天国と地獄も人の作り出した幻想なのよ」


「はい・・・」


「そんな地獄から外れてしまった人たちがいる・・・朔はそんな誰も届かないところにずっといたの・・・美園ちゃんに再会するまで」


「・・・・・・」


「誰も届かない、どんな声も朔には聞こえなかったのに、美園ちゃんの声だけは聞こえたのよ。あの美園ちゃんがネットに出してくれた朔のスケッチブックのおかげで」


「あのスケッチブックが?」


「そうなの。あれ見た時、朔が興奮してね・・・俺のことまだ思っててくれてるのかな?そうならほんとに嬉しいってね」


「・・・・・・」


「わかる?やっと欲が出たの。人が生きてく上で一番必要なものが色んな”欲”なのよ」


「・・・・・・」


「ちょうど朔が一人でやってみるって決意した時でね・・・私も嬉しかったな・・・朔が美園ちゃんに執着してるってことは、今の朔には必要なことなのね」


「執着が必要なんですか?」


「そうだよ。私たちだって”生”に執着してるでしょ?そうじゃなきゃ今の世の中、どんどんみんな自殺してくよね?現にそう言う人がいっぱいいる・・・・・・でも、朔は死んだらダメなのよ。朔の絵は人の本質を引き出すの」


「本質・・・」


美園はいつか朔の絵を見た時の涙を思い出す。


「それと同じように、美園ちゃんも朔の本質を見てほしい・・・目に見えることばかりにフォーカスしていると、朔の姿は見えなくなるんだよ?朔は壊れやすいけど、壊れ物を扱うようにおっかなびっくり接するのはやめて、本質をいつでも見てほしい・・・」


「・・・・・・」


「美園ちゃんもきっと朔の本質を知ってるから、こうやってまた朔と会えたんじゃないかな?」


そこで寝室のドアが開いて朔が顔を出した。


「まだ?黎花さん」


「あ、ごめんごめん。待たせちゃったね。それじゃあ、美園ちゃん、今が一番踏ん張りどころだと思って、美園ちゃん自身もパワーアップしよ?そして朔の素晴らしい絵を世の中に広めようよ。そのお手伝いをしてくれるでしょ?」


「はい・・・」


「よし!と、じゃあ、朔、私は帰るよ。美園ちゃん許してくれたけど、今度からはちゃんと美園ちゃんに連絡してから来てよ」


「うん・・・ほんとに許してくれたの?」と朔が恐る恐ると言った風に美園の顔を見た。


「大丈夫だよ」と黎花は朔に言ってから美園に微笑んだ。


それから「美園ちゃん、またゆっくり話そう」と黎花が笑顔で言う。


「はい・・・」


「じゃあ、お邪魔しました」と黎花が部屋から出ていこうとしたので、美園も立ち上がった。


「あ、送らなくていいからね」と黎花は言い、部屋から出て行った。


(黎花さん・・・勝つとか負けるとか・・・私ってバカだ・・・黎花さんは私に一緒にやろうと言ってるのに・・・)


「美園・・・」と朔の声が聞こえて、美園は朔の顔を見た。


「ほんと・・・ごめん・・・」


「いいよ。こっちこそごめん」


そう言ったら朔が嬉しそうな顔をして「美園は悪くないよ」と言った。


「朔、ここに来て」と美園は朔をベッドの上に座っている自分の横に座らせた。それから朔を引き寄せて抱きしめる。


(本質・・・あの朔の絵を見た時の感覚・・・)


あれを他の人からも引き出せるのだろうか?自分自身の本当の本質に触れることができるのだろうか?


「美園・・・俺、美園がいないと生きていけない・・・」


朔が美園の背中に回した手に力をこめた。


(朔は今、こっちに来ようともがいている・・・)


──  美園ちゃん自身もパワーアップしよ?そして朔の素晴らしい絵を世の中に広めようよ。そのお手伝いをしてくれるでしょ?」


(私のパワーアップ・・・)


──  逆に言えば「死」を信じてるから人は生きようと必死なんだよ。でも、朔君はそこから外れてしまった・・・。


──  今はね、美園がいかに自分の物語の中から出れるかにかかってるよ。それはある意味、苦しいこともあるよ?自分が小さくなっていくような気がするからね・・・。


奏空の言葉だ。


(物語・・・)


そうだ、人は一人一人自分の物語の中にいる・・・というより、その物語の中に閉じ込められている・・・。それはきっと天国だったり地獄だったりするのだ・・・本当はそんなものは何もないというのに・・・。


「美園・・・何か言って」と朔が美園の顔を見つめてきた。その目はとても澄んでいた。


(私が朔を好きだと嫌いだとか・・・朔が自分を必要だとか必要じゃないとか・・・面倒見るとかみないとか・・・黎花さんに負けたくないとか・・・ああ、なんて傲慢でちっぽけな自分だったんだろう・・・)


黎花はとっくに朔の本質に気づいていて、朔の絵を世の中に広めようとしている。


「朔・・・私も朔と一緒にずっといたいよ」


そう言ったら美園を見つめている朔の目に涙が浮かんできた。


「うん・・・」


美園は自分から朔に口づけた。それを受けて朔が深く口づけてくる。


「私が」とか「私の使命」だとか人は皆「私」を語りたがるけれど、朔はそんなところには元々いない・・・。朔の絵が人の本質を引き出すのなら、それは光・・・けして個人的なものではないのだ。


「美園・・・」と朔が名前を呼びながら美園の膝を触り、何度も口づけてくる。


(朔・・・)


美園は朔を受け止めながら、今までの嫉妬心が解けて、サラサラと透き通った水色の絵の具になって自分を朔を染めていくような気がした・・・・・・。

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