威厳の花
「父は香水ブランドの社長で、母はその秘書だった。たくさん愛を受けて育ったよ。みんな、僕の事をカサちゃんって呼ぶんだ。」
家族について話す彼はどこか楽しそうだった。それは無邪気な子供時代を彷彿とさせる笑み。
「初恋の人の名前はアスチルベ。学校終わりには手を繋いでスキップしながら帰ってたっけな。友達はあんまりできなかったけど、それはそんなに苦じゃなかった。文字通り幸せな日々だったよ。」
『だった』。過去形だ。
「でもある日、父の香水会社で社員が不祥事を起こした。結果会社は倒産の危機に追い込まれて僕らは一家心中を図ることになる。」
「一家心中…」
重いワードを何食わぬ顔で彼は呟く。私は既にしんどかった。
「さっき、僕の住んでいた場所を教えてやっただろう?ビルの十二階だ。
あそこから飛び降りた。家族みんなで手を繋いで。」
さっきのビルを想像の中で再現するが、今から数年前、カサブランカがあそこの最上階から飛び降りたことを考えると体が震えた。十二階って…。
「どう…なったの?」
「父は駐車場の鉄格子に頭部を貫通。母は頭からの落下。当然即死だったよ。」
「でもカサブランカは…」
「運よく…いや、悪く?生き延びてしまったよ。お尻から落下したんだ。すぐ救急車で運ばれて手術された結果、綺麗に完治した。跡形もなく…初めから何もなかったように完治したんだ。医者に『奇跡』だと称えられたし、当時の新聞にも載った。」
とはいえ、精神状態は間違いなく正常に働いていなかっただろう。
順当に考えれば私やカリスみたいに孤児精神病院に送り込まれるはずだが…。
「僕は病院を抜け出して、初恋の人の家に行ったんだよ。アスチルベ。彼女に提案したんだ。一緒に脱社会の旅に出よう!って。」
「え?」
「実のところを言うと、アスチルベの両親は殺し屋だったんだ。当時僕は子供だったから未だに詳しくは知らないけど裏社会で結構名を馳せていたらしい。
でもそのせいかアスチルベの家族は多方面から恨まれていてね。相当危険な状況だったんだ。
だから、僕の一緒に社会から隠れる旅をしようっていう無茶苦茶な提案にも、彼女は応えた。」
社会から隠れる旅…。完全に小説やドラマの向こう側の話だ。リアルにこんなロマンな旅が存在していただなんて…不謹慎だけどちょっと感動。
「旅は順調だったの?」
「数日もしない内に僕らの捜索隊が国中に派遣されたよ。でも綺麗に逃げ切って見せた。愛の力で…なんて言えばロマンチックだけど、当時はそれだけ本気で逃げていたんだよ。そんな逃避劇の一幕で、ある事件が起きる。」
気付けば私は彼の話に夢中だった。
それは彼の話し方も影響しているのだろうが、それ以前に話の内容が濃すぎた。
「何が起きたの?」
「二人で手を繋いで下水道を歩いていたんだ。その途中で僕は、小銭袋を陸上に忘れていることに気付いた。すぐ取りに行ってくる、そんなに待たせないよとか言って僕は一人で小銭袋を取りに行ったんだ。」
「…まさかその途中で大人に見つかった?」
「いいや見つからなかったよ。ちゃんと小銭袋を見つけて下水道に戻ったさ。
大人に見つかったのは…アスチルベの方だった。」
不穏な空気が漂う。まさかアスチルベが誘拐された?…と予想したが、現実はその予想をはるかに凌駕するものだった。
「下水道の闇の中。静かに存在するのは彼女の死体だった。
服は破かれ、抉られた目玉は片方潰されていた。血だまりには歯が散在していて…」
カサブランカの息が荒くなる。現場が相当悲惨なものだったことが伝わってきた。
「さっきも言った通り、アスチルベの両親は殺し屋だったから多方面から恨まれていたんだよ。
そしてその憎悪の矛先は、最悪にも無垢な少女に向けられたんだ。壁には血で『運命を恨め』と。
全てを失った僕は、自ら社会に戻った。やがて僕の存在は大々的に報道され、アスチルベを殺害した復讐チームも捕まった。この事件をキッカケに、国王は反社会勢力に対する警戒を強める政策を行ったんだ。」
一件落着のようで、何も解決していなかった。
「対応が遅いのは当然国民から非難されたけど、もっとひどいのは政策の結果だ。」
いつの間にはカサブランカの声に、あの無邪気な少年の魂は込められていなかった。当たり前っちゃ当たり前なんだけど。
「反社会勢力を潰す、とか言っておきながら実際に排除されたのは一グループだけ。裏の社会が国家と複雑に絡み合っている事情は理解できる。でもあまりにひどい結果に国民が異論を唱えたんだ。」
確かにこの国家が反社関係者を排除していたら、きっとこのデスゲーム運営も存在していなかっただろう。そう考えたら政府の無能さが身に染みて分かる。
「正直精神崩壊した僕にとって政策自体は無関心だったんだけどね、アスチルベの件で僕に優しくしてくれた人たちがこの国家に苦しめられている現状を見て怒りが込み上げてきたんだ。
脱社会の旅を終えて僕は成人して、父の遺産で郵便会社を自分で設立した。
でも人は雇わない。自分で会社を管理して、自分で郵便配達を続けて小銭を稼ぐ日々。
酒屋で友人と国王の愚痴を聞いていたら、無意識に革命を匂わせてしまったんだ。きっと酔いのせいでもあるんだけど…友人は大賛成してくれたよ。
他に友達がいたんだけど、その人たちも賛成してくれた。
入念な準備の結果僕らは『常識革命』を起こした。」
そこまで言い切って、彼の話は終わった。
なんだか…感想が出てこない。実際、どう声をかけていいか分からなかった。
沈黙が何十分続いただろう。
ただ二人して、流れる雲を見つめていた。
あの子供の話の続き。
「…アスチルベ?」
薄汚れた小銭袋を握りしめて、下水の匂いをこれでもかと吸い込みながら出た言葉だった。
暗くてよく見えない。目にゴミが入っているだけだと信じたい。
でも何度目をこすっても、こするたびに溢れる涙を拭っても、現実は残酷なものだった。
「アスチルベ…アスチルベ!」
小銭袋を下水に投げ捨て、僕はアスチルベにしがみついた。
四肢が千切れかけ、愛おしかったその顔には杭が何本も打たれている。
服を引っぺがされ、壁には彼女の血で『運命を恨め』と書かれていた。
咄嗟に奴らの仕業だと分かった。
どうして…こんな無垢で罪のない子供をここまで残酷に殺せる?
そして運命の神は、これ以上僕から何を奪おうっていうんだ…!
辛くて、痛くて、苦しくて、ただひたすらに叫び続けた。
泣いていた感覚はない。そういうと矛盾するが、涙を流しながら叫び続けた。
暗くて分からなかったが、もしかすると血の涙を流していたかもしれない。
叫んで叫んで叫び続けた。
まだそう遠くに逃げていないであろう『悪魔』たちと、僕を捨てた不平等な運命の神に対する威嚇だ。
涙と声を枯らして、僕は立ち上がった。
服がもう血塗れだ…。
でも、もう、いいよ。全部、どうでもいい。
人はこうして墜ちてゆく。




