じゃがいも
南アメリカの旅から戻って以来、久人は強風の日が気がかりになったと言った。意外と繊細なやつだ。
外で風の音しか聞こえなくなると、久人はアンデス山脈の山小屋に閉じ込められていたときのことを思い出すらしい。やつはバスがいつくるかわからないまま、一日中耳を澄ませながらコーヒーすすっていた。でもどんなに待っても耳に入ってくるのは山のあいだで反響する唸るような風の音だけだった。結局その日はバスが来なかったから、久人は管理人が着ていたポンチョに包まって本当は閉めないといけない小屋のテーブル席で眠ったらしい。迷惑すぎる……。
一年のうち半分は霧に包まれているような高地にも人が住んでいるのが久人には不思議だった。一帯に他の家はなく、一番近い町でも車で3時間以上かかる。最初にそこに人が住むようなったのは1000年や2000年どころではない昔で、その古い習慣が形を変えて今も残っているんだろう。そして風はその「最初の人」が現れるよりはるか昔から吹いているのだ。
「他の話はないの?」
「そういえばリマで肉まん売ってたな。1ソルで40円くらい。メデジンだと高級そうなピザが20000ペソで700円もしなかったから毎日通ってた。やっぱり物価が安いのは正義だよな、他はまあ……ちょっといろいろアレだけど」
「ほー安いね。遺跡とかは?」
「ちょっと待て……名前が出てこない」
「記憶力偏りすぎだろ……」
久人の3週間の旅の話はいつもこんな調子だった。どうやらやつの心に残った南米は風とピザと肉まんの土地柄らしい。それ南米じゃなくていいよな。
実際風が吹いているときに考えるのは、例の山奥の小屋と今自分がいる部屋が地続きだという事実だと久人は言った。たしかにその通りだ。同じ理由でやつはピラミッドが建てられた時代と現代も地続きだと言った。そうか? まあそういうことにしておこう。しまいにはエスカレートして「だからパチャクテクは全世界でつまりパチャクテクはおれだ。崇めろ」とほざき出したので無視した。集合の概念バグらせすぎだろ。だいたいその理屈ならおれもパチャクテクじゃねえか。
じゃあわざわざ旅に出る必要はないだろと言うと、久人は帰っては来たが旅はまだ終わっていないと言った。品川区の六畳間のアパートで寝起きしていても現在進行形で旅は続いているらしい。言っている意味がよくわからないというのが正直なところだ。
3月5日は風の強い日で、電車は運転を見合わせていた。おれは近くの喫茶店に入ってジャガイモのアイスクリームを頼み時間を潰していた。スマホで本を読んでいるうちに久人が話していた旅のことが頭に浮かんだ。電話をかけるとやつも足止めをされていたのかすぐに出た。だが耳に入ってきたのは久人の声ではなく風の音だった。「もしもし」と呼びかけると、その声は濁流に落ちた葉のように電話の向こうの轟音に飲み込まれていった。「そこにいるのか?」返事はない。おれはドアの向こうと電話の向こうの風の音にしばらく耳を澄ませた。
電話を切ったあと、ふと頭に見慣れない光景が浮かんだ。捕らえられた若い男女が王らしい格好をした男の命令で生き埋めにされるところだった。女の身なりは男とは不釣り合いに豪奢で、どうやら王の身内の者らしい。たぶんそれから何年か経ち、2人が埋められた場所を村人たちが掘り起こすと、土からは人の頭に似た形の茶色いかたまりがいくつも出てきた。それはジャガイモだった。
これはなんだ? 今まで読んだ本にこんな内容のものはなかったはずだ。それとも忘れていただけなんだろうか。おれはそのままぼうっとしながらイメージを反すうした。外ではまだ風がごうごうと吹きつけている。
しばらく経って今度は久人の方から電話がかかってきた。「もしもし」電話を取ると、また互いの声をかき消す風の音が聞こえた。しばらく待ったが、結局久人の声は聞こえないまま電話が切れた。
するとまた頭に謎の光景が浮かんだ。結婚相手を探すため村を出たジャガイモの精霊がさまよっている。精霊が海岸に出るとキャラック船の船団がやってきた。黒いひげを生やした男が船から降りてきて、部下に合図をして精霊を捕まえさせた。「おまえにふさわしい婿はわしが与えてやる」とひげの男は言った。精霊は震え上がった。
アイスクリームを食べ終えると、いつの間にか風は止んでいた。店を出る前におれはもう一度久人に電話をかけることにした。電話はすぐ繋がった。
「さっき声が聞こえなかったけどなんだったの?」
「何も言ってないよ」
「ええ……超迷惑。なんでかけてきたんだよ」
「わかっただろ。地続きだって」
「なにが?」
「風が吹いてるあいだはそうなるんだよ。おまえジャガイモ食べてただろ? うまかったよな。言わなくてもわかるよ」
ジャガイモのアイスクリームだと訂正するか迷っているうちに電話は切れた。