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「雪華?」


 買い物を終えて出てきたら、別れた場所に彼女の姿はなかった。

 辺りを見回してもそれらしき姿はなく、代わりに残されていたのは、二人で入っていた一本の傘。

 家の鍵を持っているのは深陽だけ。


 まだ雨の中。

 

 一緒に暮らしている内に、記憶がないという彼女の言葉は偽りだというのは、分かった。

 おそらく近付く為の口実。

 自分には縁遠い、彼女が身を置いている世界。

 逃げてきたのだろうか。

 今まで何を見て歩いていたのかと自分を問いたくなる程に、町中には彼女、雪華の姿で溢れている。

 そんな彼女が何故、まだ学生をしている自分の元へ来たのか。

 深陽は自分が濡れるのを厭わずに、屋根の下から走り出す。

 どこを見回しても人影はない。

 この雨を避けて内へ籠ってしまう程、人は記憶を恐れるのか。

 見たい記憶より見たくない記憶を避けるのか。

 深陽にはその感覚が分からなかった。


 何故なら、記憶がないのは彼自身だから。


 思い出そうとしても、頭が割れそうに痛くなるだけ。「記憶の雨」に当たり、その作用で眠っている記憶が見えるなら好都合なのに、藁にも縋れない。


「雪華」


 だから、あの時公園で雨に当たっている彼女を見た時に、自分と同じなのだと思った。


 けれど、彼女は違うらしかった。


 彼女は雨に当たりながら、自身の記憶を見ていたのだ。


 深陽は走って走って、濡れて重くなる身体を必死に動かした。

 君は俺のことを知っている。

 そして、俺もきっと彼女の事を知っている。


 手が覚えている。

 頭を撫でる手の角度だったり、その頬に触れようと伸ばしてしまう壊れ物を扱うような力加減だったり。

 姿を見なくても描ける、雪華をなぞる自分の右手だったり。


 なのに、どうして忘れてしまっているのだ。

 雪華の部分だけを。


 一緒に生活してまだ一月。だというのに、すとんと自分の隣にいる居心地の良さにすぐに気付き、甘えた。

 その一方で、彼女の時折見せる苦虫を噛み潰したような表情は、深陽の心に爪痕を残す。

 雪華と会うまでは、絵を描いても描いても何かを切望する衝動は消えなかった。

 けれど、出会って、彼女をモチーフに描くようになって、欠けていた何かが自分に戻ってきたような気がした。


「雪華っ」

 心臓が悲鳴を上げるほど走り続け、渾身の力を込めてその名を呼ぶ。

「しんやくん?」

 出会った頃と同じベンチに座り、彼女は自分の名を呼んだ人物の方に顔を向ける。

 お酒に酔っているかのような、ぽんやりとした表情の彼女は深陽の姿の向こうに誰をみているのか。

「……」

 その綺麗な瞳に映っているのは、彼であって彼でない。


「ねぇ。俺たち、前にどこかで会ったことある?」

「……」

 その沈黙が答えを物語っているのだろうか。

「どうだろうね」

 雨に濡れていても分かる。

 雪華の瞳から涙が溢れ続けているということ。

 泣かせているのは、多分深陽で。

 上辺だけの言葉で簡単に泣き止ませることは、出来るのだろうけど、多分それはしてはいけないことで。

「ごめんね」

 彼女を抱き締めたい両手は、動かせず身体の横に縛り付けられたまま。

「もうゲームオーバーみたい」

 蕾の様な小さな口から悔しそうに漏れ出た言葉。

「え?」

「お迎え、きちゃった」

 雪華が立ち上がり、深陽の方に歩を進める。

「迷惑かけちゃってごめんね」

 自分の前で立ち止まると勝手に思っていた深陽の側を横切り、彼女はこの雨の中、自分たちの他に唯一立つ人影の元へ駆けて行った。


「雪華?」

 深陽は振り向けないまま立ちつくす。


 心の中に音もなく降り積もり、そして溶ける事なく舞う事をやめた雪の華。

 しかし、彼女の笑顔はそんな目の前の大きな看板に冬にイメージするクールなそれではなく、春の様に柔らかな、春の様な笑顔。


「はる……か?」


 そうだ。


 深陽がひたすらに描いていたのは……狭い部屋の中に散らばるのは、春の芽吹きに喜び舞う彼女の姿。


 あんな澄ました写真の彼女などではない。


「春華」


 振り向きその名を呼ぶと、後ろ姿の彼女の足が止まる。


「春華」


「思い出したの?」


 後ろ向きのまま言い放たれた言葉に、深陽の言葉が喉でつかえる。

 

「思い……。思い出せない」


 彼女に届くくらいの声量で、真剣に答える。

 今のこの関係は、彼女の嘘から始まった関係かもしれない。多分、そんなすぐにバレる嘘をつかないといけないくらい切羽詰まっていて、そうでもしないと深陽たちは近付けなかったのかもしれない。

 けれど。

 思い出せないけれど、本来の自分たちが出会った時には、おそらくそんなもの必要なくて。


 新たに春華と呼ばれ振り向いた彼女の頬には、雨とも涙ともつかない幾重にも重なった跡が。


「けどさ。……思い出したいんだ」

「……」

 雨の音に掻き消されぬよう、声を張って伝える。

「一か月かかったけど、君の名前を思い出したみたいに」

 反応が返ってこないのが怖い。

 相手はそこに立ち尽くしたまま。

 どう言えばいい。

 まだ「好き」と伝えるには未だ感情がたぎらず、記憶の一部を取り戻したいと言えば、そうではあるが、利用したいと言っている様にも聞こえる。


「君のことを……思い出したい」


「……」


「君がいてくれたら、俺は思い出せるかな。春華のこと。思い出すのが辛くて忘れているのだとしても、君といたら……乗り越えられるかな」


 全ての記憶がない訳でない。

 日常生活に苦を感じている訳でもない。

 ただ、何か一部が抜けている。

 ぽっかりと。

 今までそんなものなくても困らなかった。

 けれど、彼女と一緒にいると、自分を見る……自分を通して知らない自分を見る、わたしを思い出してと縋る様な瞳に、真っ直ぐ自分自身を捉えてもらいたいという欲望が湧いた。


「今までみたいにはいかないけど」


 春華が言う。

 そう。

 彼女はスクリーンの向こうの人間。

 一緒に暮らしていたという方が奇跡に近いのだ。

 あまりにも接点のなさすぎるこの二人は、どちらかが強い意志で近付こうとしない限り、あっけなく関係は途切れてしまう。

 今、プツプツと……今にも切れてしまいそうな細い糸を手繰り寄せておかないと、終わってしまう。


「わたしも……いろいろあるから」

「うん」


 深陽はゆっくりゆっくり、春華に歩み寄る。


「雨の日でいいなら」

「うん」


 二人の距離は互いの一歩分にまで近付く。

 自分を見上げるその瞳が映すのは、深陽か……それとも春華の記憶の中にある深陽か。


 抱き締めたくても抱き締められないこの曖昧な関係がもどかしい。


「じゃあ」


『また雨の日に』

 


ここまで読んで頂きありがとうございます。

ひとまず完結ということにしてありますが、また二人の物語を綴りたいと考えております。

またその際には目を通して頂けると嬉しいです。


ありがとうございました。

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