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「雪華?」
ずっと窓の外を見ていたまま動かない彼女の背後から声を掛ける。
シャワーを浴び、部屋着に着替えた深陽の髪はある程度タオルドライしてしまえば、自然と乾いてしまう。
この部屋の中には娯楽がない……と思う。
それは、この部屋の家主が必要としてなかったからに他ならないのだが。
部屋を占拠するのは、紙と鉛筆とキャンバスと、深陽の描き殴ったたくさんの絵。
そんな中、雪華が来てから彼女の絵が増えた。
無断でスケッチされることを嫌がるかと思ったが、むしろその逆で、描かれることを自らが望んだ。
雪華が芸能人だと知ってから、彼女を知る事務所に連絡した方がいいのでは、と考えなくもなかったが、頑なに拒まれてしまえば、何もできない。
ここで一月も一緒に暮らしていれば、あの時、記憶喪失だと言っていたのが嘘だと分かる。「雪華」を知らないと言った人間なら、自分を悪い様には扱わないと考えたのだろうか。
世間を知らない深陽はまんまと引っかかってしまった。
「鞄の中身、濡れてなかった?」
「え?……あぁ」
どこか寂しそうに外を見ていた彼女の横顔は、呼ばれた瞬間に表情を明るく変える。
一体、何があって、こんな面白味もない男と一緒にいるのか。
深陽も学校とバイトがあるため、四六時中一緒にいるわけではないのだが、彼女は外に出ることを頑なに拒んでいた。立場故に、人目につきたくないということだろうか。
ふと、毎日何しているのか聞いてみたら、「深陽くんの描いた絵みてるよ」とあのキラキラで見つめられてしまえば、恥ずかしさに顔が赤くなる。
「じゃあ、外行こう?」
「え?」
「荷物も大丈夫なこと確認したし、まだ雨止まなそうだし、行こ?」
「え?」
さっき深陽にとっては突然の雨に降られ、帰宅したばかり。
一体何を言っているのだ、と、ため息を吐く。
「だって、雨の日じゃないと外行けないもん」
「……」
確かにここに暮らす人間は、雨の中、好き好んで外出することもないので人目に触れる確率は減る。だから、雪華は雨の日に深陽を誘って外に出るのが最近の息抜きになっている、と嬉しそうに話していた。
「じゃあ、買い物行くか?」
「やだ。買い物は深陽くんが行って?わたし外で待ってるから」
人に見られるのが嫌なのは分かるけれど、もう少し協調性を待とうよ、と思うも、深陽はいつもそのわがままを聞いてしまう。
「……いくか」
「やったー」
照れ隠しの為に頭をかいてみて、深陽はまだ自分の髪が濡れている事に気付く。
こりゃ風邪ひいてもおかしくないわな。
ため息をついて雪華に背を向けると、左腕に彼女が飛びついてくる。
「夕ご飯、何にする?」
「うーん……」
買い物は冷蔵庫の中身が少なくなってくると、深陽が帰宅途中で適当に買ってくる。すると、居候している雪華が食事を作ってくれるという訳だ。
芸能人は忙しいだろうから料理などしてこなかったのでは?と思っていたが、彼女はある物で何でも作ってくれた。
しかも、不思議なことに、深陽の好きな物ばかり食卓に並ぶのだ。
一人暮らししていた彼は、外食で済ましてしまったり、むしろ、描くことに没頭して食事を摂らない事の方が多かった。よくここまで生きてこれたな、と、自分でも感心する。
「ハンバーグ」
「ハンバーグ」
「……」
「……」
食べたい物が揃い、顔を見合わせて笑う。
「冷蔵庫の中に卵はまだあったし……」
腕からするりと離れて行った雪華は、冷蔵庫に食材の確認に行く。
「深陽くん。買う物言うからメモして」
「はいはい」
指示された彼は、スケッチブックの一枚を乱暴に破って、言われた物を書いていく。
「お肉は粗挽きだよー。合い挽きにしてー」
あらびき。
あいびき。
「あと、お麩も」
「……おふ?」
「麩!お味噌汁とかに入ってるの」
ふ。みそ汁に入ってるやつ。
「玉ねぎってまだあったっけ?」
玉ねぎ。
走り書きしたメモを手に、二人は外へ出た。
一本の傘を二人で分け合い、スーパーへ。
本当に雨の日は晴れの日と違って外に出る人が極端に少ない。
それもこれも、この地に降る雨の作用のせいだ。
この地に降る雨は、人間の記憶に何かしらの作用が及ぶ成分が含まれているらしい。
ということが、最近の研究で分かった。
農作物だったり自然には無害で、直接当たる人にのみ影響するらしい。
本当にごくごく最近発表された事実に、世の中は衝撃が走った。まだ不透明な部分も多く、これから研究が進んでいくと言っていた。
故に、ここに住む人たちは雨の日に出歩かなくなった。
「深陽くんは、雨の日大丈夫なの?」
「え?」
雨の日でも平気で濡れて帰ってくる彼は、皆が話す「記憶の雨」が怖くないのだろうか。
雨につられて、雨の日に起きた記憶が呼び覚まされるという。
それは、本人の意思に関係なく。
見たいもの、見えないもの、見たくないもの。
こんな日に、ふらりと外に出る人間は、何かしら過去に心の拠り所を探している者なのだろう。
「雨に濡れて、何か見えたりしないの?」
「……」
その質問に何の意図があるのか。
見えるものがあれば、見たい。
深陽は立ち止まる。
「俺には何も起こらない」
「え?」
「なんかね。雨に当たり過ぎて耐性……?みたいなのがついちゃってるらしいんだよね」
「……」
「大丈夫だから。そんな顔しないでよ」
何か悪いことでも聞いてしまったという顔を見せる雪華に軽く言う。
「ただ、ちょっと見てみたいなぁ、とは思うけどね。記憶を」
「……ごめんね」
雪華が涙を堪えているような声で謝る。
「何で謝るの。雪華には関係ないから」
気にすることじゃないよ。と続けようとしたら、彼女の絞り出すような掠れ声が雨に消えていく。
「関係ない……か。……そうだよね」
「……」
「……」
地面に吸い込まれていく雨の音が、やけに大きく聞こえる。
「行こうか」
「うん」
歩き出す二人に会話はなく、徒歩十分のスーパーに着いた頃には、それぞれの半身がずぶ濡れになっていた。
「買い物。よろしくね」
入口に着くと、雪華は今までのやり取りがなかったかの様に、また明るい声で「ばいばい」と手を振られた。
ここまで来るなら一緒にいればいいのに、と思うが、頑なに手を振る彼女は初めの意思を貫くらしい。
「まってて」
深陽は一つ息を吐くと、傘を預けて店に入っていった。
彼が自分に背を向け、行ってしまうと雪華も肩を落とした。
「……」
預けられた傘は誰も使っていない傘立てに置いて。