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あの大きな画面の向こうに映る美人を知っているといえば、みな、羨ましがるだろうか。
誰もが足を止めて見上げるスクリーンを一瞥し、ズレたリュックを背負い直し足早に家に帰る。
記憶の中は何故かいつも雨。
「……」
この地に暮らす人は、常に天気予報を確認しつつ行動を決めている。
旅行の計画も、仕事の予定もこの土地で暮らす人間は天気のいい晴れの日に。
地面に吸い込まれるように降り始めた雨の中を一人走る青年。
火照った身体を冷やす為に。
***
「おかえりなさい」
「ただいま」
一人暮らしの狭い家の中に、招いてもいない客が来たのは一ヶ月前の雨の中。
こんな日は、店は開いているが出歩いている人が少ないので、あんなにキラキラ輝いているのに、誰にも見つからなかったらしい。
いつも横切る公園のベンチに座る姿に、思わず傘を差し出していた。
「……ん……やくん……?」
「……」
ずぶ濡れに座る姿が眩しくて。
「……」
ドームの向こうから降り注ぐ太陽の光に反射して、たった一人でポツンといたものだから、もしかしたら何かの撮影をしてあるのかもしれない、なんて事は考えもしなかった。
だって、芸能人だなんて思いもしなかったから。
キラキラ宝箱から飛び出してきた宝石が、コロコロ足元に転がってきてしまったのを、つい手に取ってしまったかのように、自然と身体が動いてしまっていた。
彼女は青年を見上げ、目元を拭う。
もしかしたら泣いていたのかもしれない。
「……」
「……」
芝生に吸い込まれる雨の音が二人の間の会話を奪う。
「……わたしのこと」
「……?」
「わたしのこと知ってる?」
その美しい少女は自信なさげに男に尋ねる。
「ごめん」
知らないや。と、続ける前に、その綺麗な顔が苦しそうに歪んでしまうものだから、彼は言葉を続けられなかった。
「……」
「そっか」
喉から搾り出す声につられ、彼まで切なくなる。
何処かで会ったことあったかな。
記憶を過去に巡らせるより先に「わたしね」という言葉が続けられたので、意識はそちらへ。
「記憶喪失みたい」
「……?」
キオクソウシツ。
普通に生活していれば、馴染みのない文字の羅列に素直に「はいそうですか。では病院へ行きましょう」などという機転がきくはずもない。
「だから」
にっこりと笑いながら立ち上がり、傘を差し出す青年を見上げる。
「かくまって?」
「…………。え?」
こうして彼女、雪華は、深陽の家に匿われることになった。
「やっぱり雨なのにこのまま帰ってきた」
部屋の奥からタオルを手にした雪華が迎えにくる。
彼女と暮らす様になって一ヶ月。
絵を描く事にしか興味のなかった深陽の家に花が咲いた。
雑音ばかりの街の喧騒の中。
ただ街の景色としか思っていなかった大きな看板に、雪華の顔が描かれていることに気付いた途端、言葉を失いその場に立ち尽くした深陽。
スクリーンの向こうにいる筈の人間が自分のテリトリー内にいるなんて誰が信じてくれるだろうか。
わたしのこと知ってる?
初対面でかけられた言葉自体も、ただ自分が有名人なのを確認しただけだったのだろうか、と、思っても、もうここに住まわせてしまっているのだから、はぐらかされてしまえばそこで終わり。
「ほら。しっかり拭いて」
雪華はまだ靴を履いたままの深陽の頭にフェイスタオルを掛け、段差があってもまだ少しずつ高い位置にいる彼の頭をカシカシ拭く。
「いつも濡れて帰ってくるんだから」
「ごめん」
文句を言いつつ、いつもこうして面倒をみてくれる。
「風邪引いちゃうから、シャワー浴びて」
傘も挿さずに帰ってきたので、靴の中までびしょ濡れで、玄関で靴と一緒に靴下を脱ぐ。
頭を拭いたタオルで、ひとまず服から露出した部分を拭く。
「……」
身体に纏わりついてくる布が動きに制限をかけ、少しイラッとしてしまう。深陽は玄関でそのまま着ていたTシャツを脱ぎ始めた。
「ちょっとっ」
いきなり目の前で裸体を晒され、雪華が顔を覆った。
初対面で積極的にテリトリーに侵入してきたというのに、そこは恥じるのかと一瞬頭の隅に浮かぶも、その顔を真っ赤にする様子にバツの悪さを覚え、深陽は彼女に背を向ける。
「シャワー浴びてくるわ。……って。うわっ」
「これ……」
自分の行動に顔を背けていたのに、背を向けた途端、その背の部分に手の平の熱が触れたので、思わず声が漏れてしまった。
「えぇ?」
情けないことに驚いた瞬間に出てしまった上擦った声を誤魔化すために、「なに?」とぶっきらぼうに聞いてしまう。
「この傷……」
「え?」
彼女の細い指が深陽の腰辺りに残る傷をなぞる。
「ああ。これ?」
見えない位置にあるので、彼はその存在自体を忘れていた。
「数年前に石膏像作ってて、パテを間違ってグサッとやっちゃって」
油画専攻で、普段はキャンバスに向かう事が多いのだが、造形学部や、彫刻、デザイン科などと多種多様な学部と合同で制作に取り組んだことがあった。一通り学んだ事はあったが、手慣れていない分野に手を出してしまったら、大怪我をしてしまった、という訳だ。
「痛くないの?」
「さすがにもう大丈夫かな」
顔が見えてないのに、痛そうに顔を歪める雪華を想像してしまうと、優しく撫で続けるその手を振り払えないまま。
「……はっっ……くしっ」
むず痒さが鼻を襲い、我慢しようと思うも出来ずに身体が大きく跳ねる。
「ごめん。風邪ひいちゃうね」
我に返った雪華はパッと背中から離れ、鼻を啜りながら風呂場に向かう深陽の後ろ姿を目で追う。
「……」
彼女は目を伏せ、息を大きく吐くとリビングへ向かった。
窓の向こうに降る雨は、いつ止む予定だったろうか。