呪われた家9
「……それでは、オレを連れて行け……」
隆さんは、それまで振り絞っていた力を全て失ったように、女の膝元にくずおれた。
アッハッハッハ、と女が笑っていた。
「待って、待って、待った」と女は言った。
「千年も万年も待った」
あちゃー、このしつこさは、息子の前世の父親の比ではないな、と私は内心思った。
「お母さん」と足をガクガク震わせながら、少年が、私の横から立ち上がった。
私の心は揺れた。
もう黙って座っておきなさい、と思う心と、言うてやれ、何か言うてやれ、という心が、せめぎあっている。
少年は何も言わずに、女の方を見つめている。
何か言うてやれ、と思ったけれど、多分、ことばでは言えないことなのかもしれない。
「バカ。お前は、勝手に生まれたらいいの」と女が言った。
「けど……」と少年は言ってから、しばらく黙った後、両方の目から涙を流していた。
「お母さんが、淋しい……」
女は、突然、両目を吊り上げて、唇の両脇が裂けた、恐ろしい鬼婆のような顔になった。
「ほら、怖いだろう。これが、私の本当の顔だよ」
ギャア!
私は、ひるみました。
ああ、怖い。
全身の毛穴が開き、髪の毛が逆立ち、この世で一番恐ろしいものを見た気がした。
「何で、お母さんが怖い」と少年は言った。
何で怖くないんや、嘘やろう、と思いながら、私は、その鬼婆に向かって、走っていく少年の後ろ姿を見送っていた。
「どんな姿でも、お母さんは、ボクのお母さんだ」
私は、自分の正面で、非常にショックを受けた鬼婆の顔を見ていた。
その顔は、徐々に歪んでいき、本来なら醜く変わるはずが、逆に若くて美しい顔に変わっていった。
「バカ。お前は、本当にバカだ」
「ボクはバカでいい。
ずっとお母さんと一緒にいる」
女の顔が歪み、ハラハラと涙が流れ落ちていた。
「私は、こんなに幸せな女だった……
ずっと、気がつかなかったけれど」
少年の頭をなでている、女の周囲を明るい黄金色の光が取り囲み始めている。
うそー、と私は、思った。
部屋中が、金色の光に満たされている。
「ワオ」
「アンビリーバボー」という声が聞こえていた。
「プリンセス・カグヤ」という声も聞こえる。
ゲエ。外国人集団が起きてきていた。
『行こう』という春子ちゃんの姿が金色の光の中で微かに見えた。
あの男の子が、あの可愛らしい少年が、春子ちゃんと一緒に空中に浮かんでいた。
ウワアッと思うような、眩しい光が周囲を満たし、私は、目を覆った。
再び目を開けた時には、黄金色の光もなければ、女の人と少年の姿もなかった。
プーンと、新しい畳の匂いがする。
私達は、ただの蛍光灯の光の下に取り残されていた。
「オー、マイ、ガッ」と外国人集団の誰かが言った。
「ミラクル」という声も聞こえる。
私は、ただ、茫然としたままだった。
ああ、これは、きっと夢、起きたら覚める夢だと思った。
「アリゲト」
「サンキュー」
「ドモ、ドモ」という外国人集団は、去って行った。
もう、電車の走っている時間だ。
私は、まだ、茫然としていた。
「お母さん、よかったなあ」と言うと、息子も、バタッと倒れた。
あ、そう。
今まで、倒れてなかったんか、と思った。
隆さんと息子の額に手を当ててみたが、平熱だった。
ま、どちらも死んではいない。
朝の光で見ると、囲炉裏もなく、その上にかかっていたはずの大鍋もなかった。
ま新しい家の中で、倒れている男が二人と、私一人。
ええい、酒の残りはないか、と探したが、どこにもなかった。
外国人集団の泊まっていた部屋から布団を出して……
と思ったが、どこにも、布団なんかはなく、真新しい畳の部屋があるだけだった。
そうだった。
元もと、建て替えた家を見に来ただけだったんだ、と私は思い出していた。
ピンポンピンポンパーン、というインタフォンの間抜けな音がした。
その瞬間、クソ、また前と同じインタフォンをつけたのか、と思った。
「はい」
「ああ、よかった」という範子さんの声が聞こえた。
「もう、帰って来ないから、心配したのよー」と範子さんは会ったとたんに言ったが、その顔は、心配しているというより、好奇心満々の表情だ。
「どう? 新居は?」と言ったが、違うことを考えているのは、表情からわかる。
あんたのお兄さんは、もう少しで霊に連れて行かれるとこやったんよ、と言っても、この朝の光の中では、どうにも嘘っぽい。
「春行さん、あ、ごめん、春樹さんは、うちに置いていけばよかったのに」
その方が、よっぽど怖いわい。
「あ、やだ。お兄さんたら」
そういうことで疲れて寝てるんやなくて、倒れてるのよ。
「また、明子さん、看病しなくちゃ」
ウフ、と範子さんは笑った。
まあ、平和や、と私は思った。
翌日には、すぐ元気回復する、と思った、隆さんと息子は、今回は、かなりのダメージを受けたのか、そのまま、三日三晩起き上がってこなかった。
範子さんの言った通り、私は、かなり不安な気持ちを抱きながら、三日三晩を看病に費やした。
「もう、明子さんて、かなり過激なんと違うん?」と布団を運んで来た、範子さんに言われ、アホか、お前が私の代わりに、あの場に立ち会え、と思ったが、言えなかった。
四日目、看病疲れで、ウトウトしていた私の頭を誰かが蹴った。
もう、そんな無礼な仕打ちをする人間は、この世に一人しかいない。
「本当に、よく寝るヤツだ」
その声を聞いて、なぜか、ホッとした。
超人復活だ……
しかし、私は、疲れがドッと出て、眠い。
「よく寝るブタは、育つ」
もう、何でも言うてんか。
息子の方は、隆さんほどの超人ではないので、その後、一週間は寝たり起きたりの生活を送った。
もう、こんな生活やめましょうよ、と思う。
命がいくつあっても、足りないでしょうが。
新しい畳の匂いをかぎながら、徐々に、以前の生活に戻っていった。
家具も布団も何にもなかったのが、範子さん宅から運ばれてきたものやら、隆さんが気まぐれで買うもので、徐々に、生活が整っていくのが不思議だ。
隆さんの気功教室も、無事に再開した。
ハッと気がつくと、4月になっていて、その間、一度だけ、範子さんの娘さんと、例の『華さん』の生まれ替わりだとかいう、綺麗なお嬢さんが通り過ぎるのを見かけた。
まあ、人生、なるようにしかならん。
あの男の子は、もしかすると、将来の息子の子供かもしれないし、他の誰かの子供かもしれない。
新居は、賑やかだ。
まず、月水金には、隆さんの気功教室がある。
それに、心配していたように、トイレはボットンではなく、水洗だった。
『まあ、よかった、よかった』と言うのは、肝心な時に消えた私の母。
『家も綺麗になったし、よかったなあ、明子』
それから、元悪霊の息子の前世の父。
いつの間にか、母と友達になってしまったようで、グオオ、グオオ、と言いながら、家に遊びに来る、というより居ついている。
パタパタパタという足音は、二倍に増えた。
春子ちゃんが、弟を連れて遊びに来る、というより、これも常時、家にいる。
それに、『ハロー、アロハ』という声も、時々聞こえる。
あの女の人も成仏した後、あの世で出会った恋人のハワイ人を連れて、遊びに来る、というより、やはり常駐している……
「春子らしい」
「お母さんは、霊になつかれるからなあ」
と息子と隆さんは、他人事みたいに笑っている。
ガア。元々、お前らが原因やろ。
ま、鹿がいないだけ、マシか……
そんなある日、新聞の片隅に、『アメリカ人旅行団、日本で集団幻覚か』という記事が載っていた。
『プリンセス・カグヤ』ま、つまり日本流に言うたら『かぐや姫』が天に昇るのを見たという、日本に旅行した一団がいたらしい。
『ニュー・イヤーを何度も経験』
『20世紀と21世紀を五回も往復』
『豚ミソ・スープ』
『落ちるトイレ』
『黄金色に輝く昇天場面』
『本物の美女、プリンセス・カグヤ』
ワハハハ、と笑いたかったが、笑えなかった。
もし、機会があれば、あんた達の見たのは、夢幻ではない、と言ってやりたかった。
が、私だって、どこまでが現実で、どこからが夢や幻だとわかっているわけではない。
わかっているのは、危機一発のところで、全員無事だった、ということだ。
新聞の囲み記事が、『アメリカ人旅行団、日本で集団蒸発、神隠しか』となっていても、不思議ではない状況だったのだ。
春が過ぎようとしているある日、ピンポンピンポンパーン、という例のインタフォンが鳴った。
出てみると、以前『華さん』と呼ばれていた綺麗な女の子が、日本人形を抱いて、我が家の門の前に立っていた。
女の子は、口をパクパクさせて、この人形が帰りたい、と言った、と何とか伝えようとしていた。
「ああ」と言って、私は、人形を受け取った。
「お前、無事やったんや」と私は、嬉しかった。
火事で焼けたとばかり思っていたからだ。
『私は、帰ってきた』と人形が言った。
奥から出てきた息子は、ああ、と声にならない声をあげると、人形を抱いた。
そして、すがるような目をしている女の子には、目もくれずに、何やらブツブツと人形と話しながら、奥に行ってしまった。
人形と再会して嬉しいのはわかるが……
人間の女の子にも興味を持って欲しい、と母は思う。
あの隆さんは……と私は思った。
あの年になるまで人形にしか興味がなかったらしいからなあ。
その二代目になったらどうしよう……
「また、いらっしゃい。
私達は、ずっとここにいるから」と私は、女の子に言った。
「は、はい」と女の子は、身の置き所のないような様子だった。
「私、お母さんのファンです」と女の子は言うと、逃げるように去って行った。
うーん。どういう意味やろう?
隆さんや息子と変人度では、いい勝負してるかもしれない、と私は思った。
「生きてたのか、バカ人形」と隆さんは、稽古の日に人形を見て言った。
『あ、死に損ないの隆ウンコだ』と人形も負けてはいない。
以前から、隆さんと人形は、出会うごとに悪態をつきあっていた。
よく言う犬猿の仲だ。
「バカ人形、よく無事だった」
『隆ウンコ……』
人形が隆さんの胸に飛び込み、隆さんはそれを抱き締めていた。
あちゃー。
息子が、嫉妬の目をして、それを見ている。
この二人が、人形愛を卒業するのは、一体いつの日のことやら。
春子ちゃんと、生まれなかった弟。
あの子達は、いずれ、生まれる準備をしている。
そして、きっと、生む側も、知らずに準備しているのだろう。
老いた人間は、死に、そして、新しい生命の誕生を迎える。
多分、人類というのは、そうやって、今まで生きてきたのだろう。
了