呪われた家7
そうだ。
息子は、退院したてで無謀な旅に出て、まだ身体が元通り回復していなかったのかもしれない。
汗が、ほとんど出ていない。
まさか……と思ったとたん、私の右手に少年の手の感触が蘇った。
「ボクは、お兄ちゃんでもいい」と言う男の子の声が聞こえた。
「私達は、相談しました」と、今度は、息子の枕元に、あの綺麗な女の人の姿が現れた。
「お父さんとおばさんがダメなんだったら、お兄さんでもいいね、と」
「いい加減にして」と私は、男の子の手を振り払った。
そして、正面から、男の子の目を見た。
その目は、驚きのためか、大きく見開かれている。
「あんたは、まだ生まれていない子なんだったら、こんな女と一緒にいたらダメ」
「お母さんのことを、こんな女なんて言うな」
「いい?
あんた達が、どうやって出会ったかなんか知らないけれど、この女は、この世に未練を残している霊なの。
小さいあんたには、理解できないかもしれないけど、この女は、自分の淋しい世界に、あんたを巻き込んでいるだけなんよ。
絶対に、あんたのお母さんなんかじゃないの」
「嘘だ」
「嘘でない証拠を言ってあげようか。
あんたは、何で、私の隣に座ったの。
あんたは、何で、いつも私の手を握るの?」
「それは……」
「あんたは、これから生まれる人間だから、生きている人間に触れていたいのよ」
「そんなことはない」
「じゃあ、どうして、お母さんと一緒にいて、あんたは淋しいの?
あんたのお母さんは、どうして、あんたがいるのに、まだ淋しいの?
私も息子と二人きりだけど、淋しくなんかない。
だって、息子がいるんだもの。
息子だって、私と二人きりでも、全然淋しくなんかない。
だって、お母さんといるんだから」
「嘘だ。お父さんとかお兄さんがいなくて、淋しいはずだ」
「淋しい人はね」と私は、相手が子供だということを忘れて言った。
「誰といても淋しいの。
お兄さんやお姉さんや、お父さんやお母さん、お祖父さんやお祖母さんがいても、淋しいの」
「どうして?」と男の子は、真剣な目をして、私を見つめていた。
「自分が淋しいということしか考えられない、淋しい人やからよ。それに……」と私は、言った。
「人間というのは、元々一人で生まれてくるんだから、淋しいのは、当たり前なのよ」
「ボクは、もうじき生まれるはずだった」
「そう?」
「けど、ボクが生まれる前に、お母さんが死んでしまった」
「かわいそうに……」
私は、男の子を胸に抱き締めた。
何てこと。
何てかわいそうなこと。
もし、自分の息子が、こんな目に会ったら、と思うとたまらなかった。
「おばさんは、温かい」と少年が言った。
「おばさんは、まだ、生きてるからね」
少年を胸に抱きながら、私は、息子の枕元に座っている女の目が段々と釣り上がっていくのを見ていた。
「私は、お前のような女に、全てを奪われた。
その子は、返せ。
その子だけは、私のものだ」
「返さない」と私は、言った。
「この子は、これから生まれてくる子だから」
フッフッフッフ、という笑い声が聞こえていた。
女の形相が一層凄まじくなっている。
「じゃあ、かわりに、この子を連れて行こう」
女が、私の息子に手を触れると、息子の顔から、血の気が引いていった。
息子の全身が細かく震え始めている。
「やめろ」と私は叫んだ。
「お母さん、やめて」と私の胸から離れた少年が言った。
「ボクは、お母さんのものだ。
ずっと、いつまでも。
一緒に帰ろう」
「お前は、お兄さんが欲しいと言った」と女は、私の息子から手を離した。
そのとたん、息子の顔に血の色が戻った。
「もういらない。
お母さんがいればいい」と少年は言った。
「帰ろう」
「けど……」と女は、まだ躊躇している。
「帰ろう」と少年の声は強かった。
その瞬間、二人の姿が消えた。
私は、ガックリと、肩を落とした。
一体どうすればよかったのか、わからなかった。
あの子は、これから先も、ずっとあの霊に連れられたまま、淋しい毎日を送るんだろうか。
『ああ、怖かった』という声が聞こえた。
この声は、息子の前世での父親の声だ。
お前の方が、よっぽど怖かったって。
『どうなることかと思ったわ』と言う声は、母のものだ。
春子ちゃんは、どこかに行ってしまったのか、何の気配もない。
しかしねえ、と私は、溜め息をつきながら思った。
あんたら、同じ霊仲間でしょ。
霊やったら、霊の気持ちもわかるはずやねんから、もっと説得するとか、成仏させるとか、何とかやることがあるでしょうが!
『そんなこと言うたかて、成仏してない霊は、怖いって。
何考えてるかわからんし』と息子の前世の父は言った。
あ、そう。
霊の世界も、そんなものなのね。
『なあ』
『ねえ』と母と顔を見合わせている様子。
肝心な時に、役に立たないこと、はなはだしい。
ああ、しかし、完璧に疲れた。
隆さんの家には、もう予備の布団はなかったので、二人の着替えをすると、濡れたパジャマを干して、私は、バスタオルやら、タオルケットにくるまって寝た。
寝る前に、時計を見ると……
時計はあるんだ……
午前4時だった……
ガンという頭への衝撃を感じて、私は、目を覚ました。
「本当に、よく寝るヤツだなあ」
まだ眠気の覚めていない目で見ると、服を着替えた隆さんの姿が目に入った。
ゲッ。
嘘。
あんた、つい昨日、インフルエンザで倒れていた人間でしょうが。
インフルエンザは、長引くものなんよ。
そ、そんな一日で治るもんじゃ……
そ、それに、あんた、もしかすると、私の頭を足蹴にしたのでは……
一応、私は、看病した恩人。
その恩人の頭を蹴って起こすとは……
「ああ、よく寝た」と三十代にしか見えない元気そうな顔で、隆さんは、何やら体操のようなものをしている。
時計を見ると、まだ8時……
悪いけど、もう少し寝かせてください。
「お前みたいに、食って寝てばっかりだと、完全にブタになるぞ」
もう、何でも言うていいから、もう少し寝かせて。
ピンポーン、とインタフォンの音。
「そら、ブタ、餌が来たぞ」
やっぱり、あんたは、ほんまに、イヤーな性格の人間。
ああ、何で、こんなヤツのために、看病なんかする気になったんや!
霊が連れて行きたいんやったら、連れて行ってもらったらよかった。
ああ、私のバカ、バカ、バカ!
「お母さん、ごはん食べてから、また寝たら」と言って、私を揺り起こしているのは、昨日、霊に連れて行かれそうになった息子。
ゲッ。息子もすこぶる元気そうな顔をして、一緒に体操している模様。
お前らは、ほんま、超人か。
何か、私一人だけが、超怠け者のグウタラ人間に見えている。
「明子さん! どうだった?」と興味深々な顔をしているのは、隆さんの妹の範子さん。
あんたね、実際、この場にいたら、そんなこと言うてられへんよ。
「何で、そんなに疲れたのかなあ」
もう、言いたいだけ言うとけ。
私は、ノロノロと起き上がって、元気なく、けど、食欲はあり、恥ずかしいぐらいに、モリモリ食べてしまった。
「春子、お前、何か運動でもしたのか」と隆さん。
あんたは、嫌いです。
「もう、いややわあ、お兄さん」と範子さん。
あんた達兄妹、今日は、嫌い。
「明子さんたら、お兄さんの看病するなんて言って」
「こいつは、最初から、オレにホの字だからなあ」
アハハ、ワハハ、と勝手に笑ってちょうだい。
私がバカでした。
こんな強靱な体力を持った化け物を、病人なんて思った私が愚かでした。
放っておいたって、一日経ったら、治っていたに違いない。
私は、超人じゃない、ただのおばさんですから、疲れています。
「ゆっくり寝ておけ」と隆さんが言った。
「ちょっと春行と二人で、調べに行くところがある」
はい、はい。
どこにでも行って、何でも調べてください。
しかし、「ゆっくり寝ておけ」ということばは、ちょっと嬉しかった。
「けど、今年になってから、家に帰ってないんで、家に帰ります」と私は言った。
仮り住まいでも、我が家は、我が家。
「好きにしろ」と隆さんは言い、息子と一緒に出掛けて行った。
「いいの? 明子さん」と範子さんが心配そうに言った。
「もう一晩ぐらい、試してみないで」
「やっぱり、家が気になるから」
「そう……」
あの、その誤解、いい加減にやめて欲しい。
「私ね、本当は、嬉しかったのよ。
兄は、あの通りの変人でしょ」
あのね、あんたの兄さんは、変人なんか、とっくに通り越してるって。
化け物や、化け物。
「兄は、あの美形だから、小さい時からもてたんだけど、どうしても、『華さん』が忘れられなくて、あんな年になるまで独身。
でも、明子さんとは、最初から気が合ってたようだし。
私も、何か、明子さんなら、とどこかで思ってたんやけど」
どういう贔屓目で見たら、私と隆さんが気が合ってたと思えるのか、私にはわからないが、妹としての範子さんの気持ちもよくわかった。
「だって、『華さん』と人形にしか興味がなかった兄が、『春子が』と話す時の顔が、凄く嬉しそうで。
元々、婚約者だったんだし」
そうだった。七才で亡くなった春子ちゃんと隆さんは、親同士が冗談みたいに決めた婚約者だったらしい。
「けど、別に私は、春子ちゃんじゃないし」
「けど、兄にとっては、明子さんは、『春子ちゃん』なのよ」
そう言ってから、範子さんは、心配そうな顔をして、私を見た。
「兄のこと、気にいらなかった?」
もう、その何かを前提にした話し方はやめなさい。
「今朝は元気そうやけど、ずっとインフルエンザで大変やったから」と私。
「……できなかったのね……」
違うって!
「そやから、隆さんは、いい人やと思うけど」ほんまは、思ってないけど。
「そっかー」と範子さんは、宙を眺めた。
もうやめてんか、その雰囲気作り。
それにやね、隆さんぐらい、いい顔、いい身体してたら、別に私みたいな超おばさんを相手にせんでも、いくらでも、若くて綺麗ないい女がいてるでしょうが。
「お兄ちゃんには、どう言うたらいい?」
「はあ?」
「お兄ちゃん、明子さんが自分に惚れてると思い込んでると思うんやけど」
ゲエ。
それは、霊の世界と同じ。
思い込みの世界。
そやから、霊に惚れられたりするんや、と私は確信した。
「隆さんがずっと好きやったていう、『華さん』いう人の生まれ替わりやていう、超可愛い女の子がいてるやんか」と私は、誤魔化した。
「あれは、ダメ!」と範子さんは、即座に否定した。
「あれは、ほんまの性悪女。
そやかって、春行さんに、あ、ごめん、春樹さんに、ちょっかい出そうとしてたもん」
はい、はい。
範子さんが前世で大好きだった『春行さん』つまりは、私の息子をたぶらかす悪い女の子なわけね、と私は、ここ二ヵ月ばかりで、華麗な変身をとげた、範子さんを見て思った。
まず、最初見た時より、少なくとも、十才は若返った。
化粧をするようになり、髪の毛にパーマをあてるようになり、非常に色っぽくなった。
隆さんも化け物なら、範子さんにも化け物の素質があったということだ。
ただの中年のおばさんである私は、ちょっと淋しい気分だ。
「じゃ、私は、ちょっと、家に帰って」と私は、フラフラと立ち上がった。
寝たい、家で、グッスリ寝たい。
霊やら、隆さんやら、生まれていない少年なんかのことを忘れて眠りたい。
「じゃあ、明子さん。決心は変わらないわけね」と言われても、今は何のことやら。
「でも、兄には、当分、内緒にしておく」
もう、好きにして。
私は、車で送るという範子さんのことばに甘えて、車で、駅の反対側にある、マンショ
ンまで送ってもらった。
「ありがとう」とかろうじて、挨拶すると、私は、自分の万年床に潜りこんだ。
隆さんは、きちんと布団を畳んでいた、と眠る寸前に思った。
けど、そんなことはどうでもいい……