呪われた家4
翌朝、私は、また、鹿に顔をなめられて、目を覚ました。
「まったく、わけがわからん」という隆さんの声が聞こえた。
まだ、数頭の鹿が、私の顔をなめているところだ。
「また、時計が戻っている」と隆さんが言った。
雪が降り始めている。
「まだ、20世紀だ」
またか……
私達は、また、船に乗ることになった。
どうやら、また、あの島にいたらしい。
そして、船の中で、四度目の「21世紀おめでとう」「ハッピ、ニュー・イヤー!」の声を聞いた。
私も、もう、いい加減、イヤです。
船を降りた時、多分、私と隆さんは、同じことを考えていたと思う。
「飛行機があれば、すぐにも家に戻る」と隆さんは、言った。
ずっと、イヤーな性格のヤツ、と思ってきたけれど、こういう時の考えは同じだ。
もっとも、よく考えたら、私の家なんか、どこにもないんだけどね。
その瞬間、私は、ビクッとした。
あの男の子と手をつないでいるのが、わかったからだ。
まだ最終電車に乗っていないのに、どこからともなく現れた。
「何が欲しい」と隆さんが言った。
それは、私も言いたかった。
雪は、降り積もり、全ての世界を白く塗り込めていた。
「来て」と男の子は言い、「行くな」と隆さんは言った。
男の子は、そのつぶらな瞳で、私をジッと見つめた。
私は、その瞳に負けた。
隆さんも悔しかったら、同じような瞳で、私を見つめてごらん。
できないでしょ。
雪は、どんどん降り積もっている。
雪のせいで、何か別の世界に行くような気がした。
ここは、これまで男の子が現れたのとは、別の町なのに、じきに見慣れた、明かりのついた門の前に辿り着いた。
これまでと違って、誰も出迎えていなかった。
「ここ」と男の子は言ったけれど、門を開ける気配はなかった。
雪が吹雪いている。
「ウオッホッホ」という奇妙な声が聞こえてきた。
この声は、と思って見ると、これまでなら、男の子より先に現れる、外国人バカ集団だった。
「サムーイですね」とバカ集団の一人が言った。
また、抱きつかれるのではないか、と身構えたが、今回は、そういうこともなく、バカ軍団は、そのまま通り過ぎて行った。
その後には、男の子の姿も門もなく、雪が吹雪いているだけだった。
「一体、何が欲しい」と隆さんがつぶやいた。
それ以後は、通常の人間世界通り、時間が戻ることもなく、私達は、駅前にあったコンビニで時間をせいぜい潰して、始発電車に乗って、来た時と同じ方向に戻って行った。
夢であって欲しいと思ったのは、あのバカ外人集団が、帰りも同じ列車だったことだ。
もう、あんたら、雪の中、徹夜で疲れてないの、と思うほど元気いっぱい。
信じられないほどの大声で、騒ぐ、騒ぐ。はしゃぐ、はしゃぐ。
しかし、私が、ウトウトしている間に、いなくなってしまっていた。
私は、ウトウトしている間に、あの男の子が隣の席に座る夢を見たけれど、ハッと気がつくと、隣の席には、知らないおじさんが、競馬新聞広げて、難しい顔をしていた。
「春子ちゃん、怒ったらアカン、春子ちゃん」とお爺さんは、私をなだめている。
私は、別に、何も怒ってないんやけど。
「けど、隆さん、やりましたよ」と別の座席に座っていた息子が言っている。
「おお」と隆さん。
もう、あんたらは、勝手にやって。
大阪に着いた私は、ようやく帰れた嬉しさよりも、これから先どうしよう、という気分の方が濃厚だった。
今ようやく住んでいる家は、8日までには出なくてはならない。
元雇い主の不動産屋に言われたバイトも、正味は二日分の2万円。
何度も何度も、大晦日と元旦を繰り返しました、と言っても、増額は望めまい。
それで増額してもらえる方が、もっと怖い。
「春子」と隆さんが言った。
「当分、春行は、うちに来てもらうつもりだが、お前はどうする」
「ああ、それは、ありがとうございます」と反射的に答えている。
息子は、ともかく、私は、あんたの世話には、なりたくないわ。
期限は、8日。
厳密に言えば、7日。
まあ、何とかなるやろ。
と思いたい。
「範子のところにでも行ったらどうだ」
「そうですね」
それは、ありがとう。
そら、あんたらは、生まれてから今まで、住むところとか、収入とか、全然苦労したことのない、貴族階級。
けど、私は、今までずっと、自分と子供の食う分を稼いできた、庶民。
残念やけど、庶民が、貴族の世話になるわけにはいかない。
ま、今まで同様、何とかします。
「春子、あの家を見ていかないか。
今、建て替えているところだ」
あんまり興味がない、と思おうとしたが、やはり、見ておきたかった。
始発からずっと電車を乗り継いで、まだ昼前だ。
「始発で出たら、一日で往復できますよ」と息子が隆さんに言っている。
「よし、次は、始発で出発だ」
「おー」と二人で勝手に盛り上がってちょうだい。
駅からブラブラと歩いていくと、急に大きな家ばかりが並んでいる一角に出る。
その時、奇妙な感じがした。
あの遠く離れた土地で、同じような路地を曲がったような気がする。
ゴホッ、という咳が聞こえ、その方角を見ると、隆さんだった。
「風邪ですかあ?」と私は、意地悪い気持ちで尋ねた。
「いや、ちょっとむせただけだ」という声も、何となく鼻声になっている。
ありゃ、これはインフルエンザだ、と私は思った。
普通の風邪なら、ウイルスの潜伏期間は2日から3日。
24時間以内に発病するのは、インフルエンザだ。
あの綺麗な女の人にうつされてしまったに違いない。
雪も降ってたし。
隆さんの目が心持ち潤んでいる。
「ちょっと」と私は、反射的に、隆さんの額に手を当てた。
熱い。
この熱さは、38度以上。
長年子供の熱を手で計ってきたから、よく当たる。
この男は爺さんと同じで、常に薄着だ。
普段の恰好に軽くジャケットを羽織っているだけで、当然、マフラーも手袋もしていない。
私は、マフラーを外すと、隆さんの首に巻きつけた。
「暑苦しい、何をする」
「ウダウダ言わずに、家に帰るまで、巻いてなさい」と、つい母親口調になってしまった。
「わかった、わかった」
そうか。
門だけは残ったんだ、と私は、建てかけの家の前で思った。
家が焼けてから、数えてみれば、半月ばかり。
まあ、範子さんの旦那さんが不動産会社だから、仕事は早いんだろう。
「同じ間取りで建てさせている」と隆さんが言った。
「同じ間取りで?」と私は驚いた。
「稽古場が必要だからな」
へえ。
また、気功の道場として使う気なんだ。
私が家を管理していた間、月水金が気功の稽古の日だった。
その日は、家の中でも一番広い大広間が道場として使われ、私は、教室代まで、隆さんからいただいていた。
息子は、手伝いとして、何がしかの俸給をもらっていた模様。
よく考えてみれば、ありがたい話だったのだ。
家賃がいらない上に、家の管理人として給料をもらい、その上での教室収入だった。
「この家は、春子ちゃんと春行のもんや」と爺さんが言った。
え!
「また、家の管理をしてくれ」と隆さんは言い、ゴホゴホと咳き込んだ。
「春樹」と私は、息子を呼んだ。
『春行』というのは、前世での名前。
息子にも、きちんとした戸籍名がある。
「今日から、隆さんの家に泊まりこみなさい」と隆さんに聞こえないように、小声で言った。
「インフルエンザにやられてる」
「え!」と息子も小声で驚いていた。
「霊障かもしれへんな」
「え!」と私も小声で驚いた。
「どういうこと?」
「そやかて、隆さん、霊に接触したやろう」
「え? どういうこと?」
「あの女の人、実体が無かったやろ」
「え! 嘘」と言ってはみたが、全然何のことかわかっていなかった。
「お母さんは、大丈夫やねんなあ」
そう言われて、何となくゾッとした。
ええ!
あの可愛い男の子も霊?
嘘ー!
そやかって、そやかって、ミカンもスルメも柿ピーもお弁当も食べていたのに……
そろそろ、隆さんの様子がおかしくなってきた。
変にフラフラしている。
「春子は、家ができるまで、範子のところに泊めてもらえ」とうわごとのように言っている。
「はい、はい」と答えるしかない。
「さ、もう、家に帰りましょうか」
霊障だか何だか知らないけれど、インフルエンザは安静が一番。
「さ、春樹」と私は息子に目で合図して、両脇から隆さんを支えた。
いつも偉そうにいばっている隆さんが、インフルエンザ。
いや、喜んではいけない。
そんな、人の不幸を喜んでは。
でも、何となく、口許に笑みが浮かんでしまう。
『人間というのは、元々、風邪なんかひかない存在なのだ』
はい、はい。
ウックック。
インフルエンザ。
確かに、ただの風邪ではない。
しかし、本気で心配になったのは、自分の家の門の鍵を開けようとする隆さんの手が、細かく震えているのを見た時だった。
「ちょっと貸して」と私は、隆さんから鍵を奪うと、門を開けた。
お邪魔します。
隆さんの家に入るのは、初めてだ。
範子さんの家と同じドア。
何となく隆さんは、あの焼けた家みたいなガラガラと扉を開けるような家に住んでいる気がしていた。
「ちょっと貸して」とまたも鍵を奪うと、ドアを開けた。
何か文句を言うかな、と思ったけれど、よほど弱っているのか、何も言わない。
ハアハアと熱のある時特有の息づかいになっている。
家の造りは、範子さんの家を小型にしたような感じだ。
以前、息子が、人形のいっぱいある部屋があった、と言っていたが、あの人形達も、火事騒ぎで焼けてしまったはずだ。
隆さんの『家族』というのは、人形達だったのか、とその時に知った。