#37 龍人対魔獣
ラーズは不意に、妙な音を聞いた気がした。
ちょうどドーマント山の八合目あたりまで到着し、小休止をとっている時だった。皆は手頃な石に腰掛けて、持ってきた水筒から水を飲んだり、携帯食としてドライフルーツをかじったりしている。
あたりには岩以外に何もないし、聞こえてくるのは談笑だけ。そんな時、岩と岩が勢いよくぶつかるような音がした。
「……?」
はじめは空耳かと思った。そうでなければどこか近くで獣か何かが岩を押し、転がったか。山には多くの生き物が存在し、様々に動いているものだとラーズは知っている。
しかしドーマント山にはほとんど獣は来ないと、アーレンから説明を受けていたのを思い出した。やはりただの気のせいか、と思った時、アーレンとリンカが立ち上がった。
「おや、リンカ様。あなたも気付きましたか」
「ソーンの角は他の人の五感より優れてるの。下から誰かが来てるのを感じる。すごい速さだね」
「どういう事だ? 確かに、さっき変な音が聞こえた気がしたけど」
ラーズが口を挟む。
「どうやら、我々を追ってきている者がいるようです」
「他の巡礼者って事はないの?」
「基本的に、教団は塔への巡礼を一日に一組しか認めていません。私は他の巡礼者について連絡を受けていませんので、これはよほどの事態が起きて我々に連絡する為に登ってきているのか、あるいは」
「誰かが俺を狙って追ってきている、ってことか……」
ラーズは苦々しく言った。
「おい、あれ見ろよ!」
レオの声に従い、ラーズ達は顔を向けた。
レオの指さした先に、青い人影が見えた。ラーズ達のいる場所から数百メートルは下方の山道を、一人の男がまるで飛ぶように駆け抜けてきていた。
信じられなかった。先程ラーズ達が歩いてきた道は、長年多くの巡礼者に使われた事で、だいぶ歩きやすくなっている。しかし今男が通ってきているのは、崖や岩が立ち並ぶ地帯だ。そこを男は岩から岩へ飛び移り、崖を飛び越え、全身を使った移動で驚異的な速度を出している。
常人ならば即高山病にかかりそうな高度でこれほどの動きをできるのは、驚異的な身体能力といえた。
男──ダゴナスも、ラーズ達の視線に気付いたようだった。一旦立ち止まり、近くにあった岩を両手でつかむ。
次の瞬間、ダゴナスは上半身を振り回すようにして、ラーズ目掛けて岩を放り投げた。
成人男性が両手で抱えるような大きさの岩が、弓矢か何かのような勢いで飛ぶ。かわそうと考えた時には、既にラーズ達の目の前に岩が迫っていた。
ぶつかる衝撃を予想して思わず全身をこわばらせるラーズの前に、巨大な影が立ちはだかった。
影と岩がぶつかり、激しい音を立てる。常人ならば逆に潰されるような衝撃を、影はわずかに揺れただけで完璧に吸収した。
赤い鱗に身を包み、見上げる程の巨体へと変身したアーレンがやれやれといった風に息を吐いた。
「まったく、なんとも恐ろしい事をする人ですね」
「アーレンさん!」
龍人となったアーレンは手に持った岩を放り投げた。岩は地面に落ちると、身震いするような音を立てた。ラーズならば持ち上げて運ぶ事すら怪しい重量感があった。これを放り投げるダゴナスもダゴナスだが、受け止めたアーレンの怪力も半端ではなかった。
「あれが、あなたを狙う追手というわけですね。なるほど、確かに人間離れしている」
見るとダゴナスは、すっかりその姿を変えていた。
全身の筋肉は膨らみ、丸太のようだった手足はさらに太くなっている。紫色をした剛毛が全身を包み、爪は太く鋭い。顔は猫科の猛獣を思わせるような凶悪な相へと変わり、頭部からは山羊のようなねじくれた角が生えていた。
「龍相の秘術みたいに、体を変化させる蛮魔もいるのか……」
ラーズはうめくように言った。まるでおとぎ話に出てくる悪鬼の姿だ。燐光のように妖しく光る瞳がラーズ達を睨みつけると、ダゴナスは再び歩を進めだした。
「なんとも恐ろしい姿です。このような者が聖地に足を踏み入れるなど、腹立たしいですね」
「それどころじゃないですよ。あんなの相手に、一体どうするんですか!」
アーシェラが悲鳴混じりの声を上げた。ラーズ達から蛮魔の話は聞いていたが、実際にその怪物性を見たら、そういう反応を示すのは当然と言えた。
「……ラーズさん、それに皆さん、ひとまず山を登ってください」
アーレンは言った。
「既に塔まではかなり近づいています。塔は秘術を授かった者だけが門を開けます。塔の中には奴も簡単には入れません」
「でもあいつが追ってきますよ」
「私が時間を稼ぎます。あなた達が帰って来なければ、ガニエル様も兵を出すでしょう。それまで待っていてください」
「アーレンさん……」
「ご安心ください。仕事を果たすだけ果たしたら、殺される前に逃げますので。それに、私の長所は顔だけではありませんよ」
龍の顔でニヒルに笑うアーレンに、ラーズはそれ以上言わなかった。
「行こう」
ラーズの言葉に、誰も反論しなかった。振り返らず、急ぎ足で歩を進める。
怒り狂った熊に背を向ける以上の恐怖を感じながら、ラーズはアーレンを信じて前に進んだ。
ラーズ達の姿が岩陰に隠れたところで、ちょうどダゴナスが跳躍して姿を現した。猿か何かかと思うような身の軽さで、近くの岩の上に着地する。
身を低くしてかがんだ姿勢で、ダゴナスは捕食者が獲物を選ぶような目でアーレンを見下ろした。距離にして五メートルほど、ダゴナスが跳びかかってきてもアーレンならばかわせる距離だ。
ダゴナスが動くより早く、アーレンは制止させるように手を突き出した。
「そこで止まっていただけますか」
眉を寄せるダゴナスを尻目に、アーレンは鮮やかな礼をしてみせた。
「カルマット族の兵にしてエルゼフ寺院の衛兵、アーレン・アーゼルと申します。そちらは?」
「……面白い奴だな。既にお前たちに牙を向けた相手に、名前を尋ねるのか」
低く太い声が、意外そうな口調で応えた。
「正直なところ、答えていただけるとは思っていません。ただ、あなたをずっと化け物と呼ぶのも失礼でしょう?」
「お前も大して変わらん化け物の姿ではないか」
「我々のこの龍の姿は、大神より授かった力によるもの。故にこの姿は、大神への信仰の証です」
「面白い。文化の違いというやつかな」
ダゴナスの凶悪な面が、少しだけ笑みを作った。
「ダゴナス。身内ではそれで通っている」
「ありがとうございます。ではダゴナス殿、ここから一刻も早く立ち去っていただけますか? ここは大神アクローの聖地。入山を許可されるのは秘術を授かった者と、その関係者のみです」
「それは山々だが、こちらも仕事でな。天奏の秘術の継承者をやらねばならん」
「おやおや。あなたも一応暗殺者の類でしょう? そんなにべらべらと話してよろしいので?」
「正直に言えば、俺は隠す必要のない荒事専門でな。それに、ここに俺がいる時点で、俺の狙いなど分かりきった事だろう」
「まあ、確かに」
ダゴナスの口調には気負ったところがまるでなかった。そっけない口調ではあるが、まるで昼食をとりながら雑談するような気楽さで、物騒な話をしてくる。そこに自身の実力に対する絶大な信頼を感じて、アーレンは内心寒気を覚えた。
「どちらにしても、お前では俺を止められん!」
不意に、ダゴナスは跳んだ。猫科の獣が獲物を襲うような姿勢をとり、アーレン目掛けて飛びかかる。
体ごとぶつかってくるのを、アーレンはかわした。鮮やかに着地したダゴナスは振り返りざまに爪を振り上げる。
鉄杭のような爪を、アーレンは上体を後方に反ってかわした。更に振り回してくる右腕を左手で掴み、右の貫手で喉笛を狙う。
ダゴナスもそれをあっさりと掴んだ。両手四つの形に移行し、お互いに全身の力をこめて押し合う。
龍人と魔獣、この世のものと思えない異形同士の闘いが始まった。




