#03 花の香りの女
一体どこをどう走ったのか、よく覚えていない。
気が付いた時には、ラーズは廃屋の中にいた。
町の郊外にある、立派な二階建ての家だった。住人は引っ越したか、それとも戦死でもしたかで家財道具は何もないが、屋敷自体は見事な建築だ。埃や蜘蛛の巣に装飾されてはいるが、もとはそこそこ裕福な者が住んでいたらしい。ひとまず隠れるには最適だった。
ラーズは息をひそめながら二階に上がった。広い階段を上って右に曲がった先、突き当りにあった部屋の扉を開ける。
戸が壊れたクローゼット以外は、何もない部屋だった。奥の窓につけられた木の雨戸がわずかに開いていて、そこから日の光が差し込んでいる。
ラーズは部屋に中に入り、雨戸を少し開けた。木のこすれる音を立てながら、雨戸はそれでもスムーズに開いた。
眼下に広がる庭は荒れ果て、雑草が伸びに伸びている。周囲は木々に囲まれ、人の声も遠くに聞こえるだけだった。ここは既に忘れられた家なのだろう。兵士たちがここに目をつけるまで、ある程度時間は稼げそうだった。
窓の外では太陽の光がうるさいくらいに照りつけている。ラーズは窓から離れて床に座り込んだ。壁に背をもたれ、深くため息をつく。
「くそ、雨でも降ってくれないかな……」
思わずつぶやく。真っ昼間大通りを歩いていては人目につく。暗くなるまでここで隠れておいて、そのまま闇夜に乗じて逃げ出す。今ラーズが考えられる中では、それが一番安全そうだった。
「安全、か……」
頭に浮かんだ言葉を、ラーズは苦笑気味に呟いた。その声には勢いがない。
今日までこの王都は、ラーズの生活圏内では最も安全な場所の一つだった。それがここ半刻の間に突然状況が変わり、あれよあれよというまにお尋ね者だ。兵士たちに追われるなど、人生で初めての経験だった。
「……兵隊さん、大丈夫かな」
竜巻に飲み込まれた瞬間の、兵士たちの姿が頭に浮かんだ。
確かに、ああいった超常的な力を使う者は稀にいる。天地の理を研究し、人ならざる力を使いこなす魔術師達。彼らはガレスではあまり見ないが、確かに実在すると言われている。他にも辺境には様々な力を持った怪物がいると聞くし、大陸にひしめく各国の王族貴族には、神から与えられた秘術を使う者がいるという。そう、ガレス王家が使う、天奏の秘術のように。
「あ……」
完全に忘れていた。先程の継承の儀で、壺から現れた光の龍。天奏の秘術の核とされるあれは、まさにラーズへと飛び込んだのではないか。
「俺が……天奏の秘術を、受け継いだ?」
背中に冷たいものが落ちたのを感じて、ラーズは振り返った。窓の外に広がっている青い空が、いつしか灰色の雲に侵食されていた。
瞬く間に雲は膨れ上がり、空を覆い尽くしていく。次第に雲が濃く、黒くなりながら、やがてしとしとと水滴を落としていく。
ぽつぽつと降り出した雨が、窓のそばにいたラーズを濡らしていく。我に返って部屋の中に後ずさると、それを待っていたかのように、雨が勢いを増した。
天が水桶をひっくり返したような勢いで、雨が降り出した。分厚い雲は空に蓋をして、大地を灰色に染め上げていった。
「どうなってんだよ、これ……」
思わず漏れた声には、恐怖が染み込んでいた。
あまりにも急激な天変だった。ラーズが普段狩りをしている山の中でも、ここまで急に天気が変わる事はない。
まるで雨よ降れ、と自分が望んだ為に、こうなったような。それを認めるのは、ひどく怖いものがあった。
ラーズの気持ちなど知らぬとばかりに、雨は勢いを増していった。
「……落ち着け、とにかく落ち着こう」
自分に言い聞かせるように、声に出して深呼吸する。冷静にならなくてはいけない。これからどうするか、対応を間違えれば死だ。ゆっくりと、そして大きく息を吸い込み、吐くを繰り返す。
不意に、花の匂いがした。
「!?」
ここで嗅ぐはずのない匂いに、ラーズは反射的に、部屋の奥に移動した。
耳を澄ませると下方から、床のきしむ音が規則正しく聞こえてくる。誰かが家の中にいる。
背にかついでいた荷物袋から、弓と矢を取り出す。町中では当然使えない為、矢袋は口をきつく締めていたし弓の弦は外してあった。
いざという時の為に準備をしておかなかった事を、ラーズは後悔していた。下手に準備の為に音を立てれば、相手に見つかる可能性がある。すぐ使える武器は腰にあるナイフだけだ。
足音はゆっくりと二階に上がっていった。少し迷ったように間が開いて、こちらに向かって近づいてくる。
(目的は俺か……?)
来るなら来い。ナイフを手にして、獲物を狙う時のように気配をひそめる。
相手が誰だろうと、最後まで戦ってやる。
次第に足音が近づいてくる。足音はラーズのいる部屋の前まで来て、姿を晒す直前に止まった。
「ねえ、いるんでしょ?」
女の声だった。若く、生命力と自信に溢れた声だった。
「あんたが今不安なのはわかってる。だけど、あたしは敵じゃない。王子の差し向けた刺客なんかじゃないし、あんたを捕まえに来たわけでもない」
「……」
「あたしの声に聞き覚えがない? さっき儀式の時にあったでしょ?」
はっと、ラーズの記憶が蘇った。継承の儀の際に、ラーズの隣で儀式を見ていた女の声と、女が漂わせていた花の匂いだった。