#26 魔獣の襲撃
先にそれを聞きつけたのは、リンカの方だった。眉をひそめ、緊張した面持ちで腰の手斧に手を伸ばす。
「どうした?」
「何か聞こえなかった? 悲鳴みたいな」
ソーン人の感覚はガレス人より優れている。リンカの言葉を信じてラーズも耳を澄ませた。
その時、不意に叫び声が聞こえた。夜空を切り裂く苦悶と恐怖の声に、ラーズは聞き覚えがあった。
「まさか、シンバさん?」
驚きだった。あの勇猛なシンバがこんな声を出すなど、よほどの事が起きなければならないはずだ。
何か危険が迫っている。
どう行動すべきか、ラーズには考えるまでもなかった。
「戻ろう。皆を助けなきゃ」
「もちろん!」
リンカと共に夜の林の中を走る。やがて木々を抜け、家が見えてきた。家の扉は開け放たれ、屋内の灯りが外に漏れている。
その扉の近くに、人影が一つ、ふらつきながら歩いているのが見えた。
「メントさん!」
ラーズは叫んだ。
メントは体中に傷を負い、服も真っ赤に染まっていた。頭からは血を流し、足をもつれさせながらも、家から離れてこちらに向かっていた。
ラーズの声にメントは顔を上げた。ラーズ達の姿に気づくと、驚いたように手を伸ばし、
「来るなっ! 逃げろ!」
残っている力を振り絞るような声で叫んだ。そのまま振り向き、剣を構える。
「メントさん、その怪我は一体」
「化物だ! お前を狙ってる! 馬に乗って逃げるんだよ!」
肩で息をしながらも、メントは家から出てくる何かに向かって構えを崩さない。
「あれー? ひょっとして、お目当ての相手がもう帰って来ちゃった?」
家の中から、場違いな女の声がした。扉の前に巨大な影が立ち、部屋の明かりを遮る。
影は扉をくぐり、外に出た。背を伸ばすと扉どころか、家の屋根に頭がつくほどの巨体だ。魔獣の赤黒い肌と白い牙、そして全身を濡らす血が、僅かな灯りと星の光で見て取れた。
「な、何、あれ……?」
リンカが震える声で言った。人とも獣ともとれない姿を前にして、顔がひきつっていた。
あの気の強いリンカがそんな姿を見せるのを、ラーズは今夜初めて見た。
魔獣に遅れるようにして、家から別の影が姿を現した。褐色の肌をした肉感的な美女が、頬を上気させて切れるような笑みを浮かべている。
クトラはラーズを見つけると、興奮をそのままに口を開いた。
「あぁ、あなたひょっとして噂のガレス人、でしょう? 会いたかったんだ、あなたに!」
クトラの声に、魔獣は不機嫌そうに唸った。クトラは魔獣を無視して、言葉を続けた。
「予想よりずっとかわいい顔してるじゃない。できれば二人きりで会いたかったな。ねえ?」
「何を、言ってるんだ……? お前、一体何者だ」
何とか気を保ち、ラーズは言った。
「あたし? あたしはクトラ。ちょっとお仕事でここまで来ててね。あたし、あなたを殺さないといけないんだ」
「俺を?」
「そう。それ以上は聞かないでね? 答えられないし。あたしもやりたくないけど、お仕事って大切じゃない? やらないとあたしも食べていけないんだ」
血の匂いに似合わない、和やかな言葉だった。
「気をつけろ、ラーズ。この女はあの化物の飼い主だ」
メントが
「隊長もソトも、みんなこいつにやられた!」
「みんなが?」
信じられない思いで、ラーズは聞き返していた。いかに不意をつかれたとしても、彼らは皆年季を積んだ兵士たちだ。その彼らが、この獣には何もできずにやられたとは、ラーズには到底信じられなかった。
「化物って、ひどい。ヴィジャもあたしもこんなにかわいいのに。ねえ?」
クトラは顔の横まで右手を上げ、人差し指を天に向かって伸ばす。魔獣──ヴィジャはそれに応えるように、牙をむき出しにして唸った。
「やっちゃって、ヴィジャ。皆殺しにして」
右手を振り下ろすと、怒号を上げてヴィジャが駆けた。
「逃げろォ!」
メントの声に、ラーズは我に返った。リンカの手を握り、家とは反対の方向に走る。
それと同時に、メントは構えた剣をヴィジャに向かって横薙ぎに振った。
人間が相手ならば脇腹を左から右へ切り裂く鮮やかな一撃だ。刃が腹にめり込む直前、剣は動きをびたりと止めていた。
ヴィジャの節くれだった左手が高速で動く剣先を掴んだのだ。ヴィジャが剣を握りしめると、メントがどう力を入れても微動だにしなかった。鋭い刃は押す事も引くこともできず、その機能を果たせない。
「くっ!」
メントが次の動きを行うより早く、ヴィジャの拳が打ち込まれた。
全身の体重を乗せた一撃が胸にめり込み、剣を離したメントの体は宙を舞った。
メントの体が抵抗を見せず、林の中に音を立て転がっていく様を、ラーズは視界の端で捉えた。
「メント!」
リンカが悲痛な叫びを上げた。
「ラーズ! メントを助けなきゃ!」
「その前に馬に乗るんだ! 時間を稼がなきゃ!」
昼間に乗ってきた馬は、家から少し離れた馬小屋に停めていた。馬小屋と言っても、雨を避ける屋根と壁が残っている程度の小さなものだ。
ラーズは扉を開け、馬達に駆け寄った。馬を柱に繋いでいた綱を、それぞれナイフで急ぎ切る。
馬は皆不安がっていた。外にいる邪悪な獣の存在を、皆が感じ取っているようだった。
「まずここから離れて、作戦を考えるんだ!」
「メント達をどうするんだよ!」
「奴の狙いは俺なんだろ。俺が逃げれば奴だってこっちを優先するさ!」
果たして本当にそうかと問われたら、ラーズはわからないと答えていただろう。結局死にたくない一心で逃げているだけではないのか。そういう気持ちもある。
しかしこのままここに留まっていれば、皆が魔獣によって死を迎える。リンカも死ぬ。
その選択肢は選べなかった。
それ以上リンカは何も言わず、ラーズに従い馬に乗った。ラーズも自分の馬に乗り、一気に走らせる。
「よし、行こう!」
先頭の馬が外に出た瞬間、黒い影が飛びかかった。ヴィジャの巨体が馬に絡みつき、馬は衝撃に耐えきれず横倒しに転がった。
爪が胸を突き刺し、馬が悲鳴を上げる。その隣を、ラーズ達の馬が走り抜けた。更に乗り手のいない裸馬が、好き勝手に駆け抜ける。
「危ないな、もう!」
ラーズは思わず悪態をついていた。先に裸馬を行かせていなかったら、ヴィジャの突撃が二人のどちらかを襲っていたことだろう。
背筋に冷たいものを感じながら、闇夜の街道を走らせる。月明かりが照らしてくれるおかげでなんとか見えるが、前方に障害物でもあったらおしまいだ。
夜空を引き裂く咆哮が、背後で轟いた。更に馬とは違う激しい足音がラーズ達を追いかけてくる。
馬にしがみつきながら、ラーズは振り向いた。ヴィジャが四足獣のように手足を荒々しく使い、ラーズ達めがけて走ってきていた。
「嘘だろ、こっちは馬に乗ってるんだぞ?」
驚愕の表情を見せるラーズの隣で、リンカが片手をふりかぶった。
「この!」
鞭のようにしなったリンカの手から、背後に手斧が放たれた。馬を走らせたままとは思えない速度と正確さで、斧は縦に回転してヴィジャの頭を狙う。
斧が突き刺さると思われた寸前、ヴィジャの左手が斧を掴んでいた。速度をほとんど緩めずに行った動きを見て、リンカが舌打ちする。
「あいつ、素早い! どうすんの、ラーズ!」
「今考えてるところ!」
目の前の街道はまっすぐ伸び、左右には草原が広がっている。障害物が何もない草原では、身体能力に劣るラーズ達に勝ち目はない。だがこのまま馬を走らせて、逃げられるとも思えなかった。
「ラーズ、あれだよ! 雷を落とすの! あいつを黒焦げにしちゃえ!」
「無茶言うな、この状況じゃ集中できない! いつも雨を降らせるのにどのくらい時間がかかってるか、見てて知ってるだろ?」
秘術を使う為には、どうしても落ち着いた状態での精神統一と、力を溜める時間が必要だった。規模が大きければ大きい程、集中と溜めもまた大きくなる。
雷を落とすのに限らず、空の天候を改変する程の力となれば、馬上で使う事など今のラーズにはできなかった。
ああもう、とリンカが腹立たしげに悪態をつく。
「空の天気なんて変えなくていいよ! なんかできるでしょ、手から稲妻とか、風で吹き飛ばすとか!」
「そんな無茶な」
「無茶じゃないって! 今この場で、あいつを吹き飛ばすだけ天気を変えればいいんだよ! やって! 早く!」
リンカに急かされ、ラーズは唸りながらも頭を必死に回転させた。
確かに獣一頭を倒すために、空全体の天気を変える必要はない。今はヴィジャを倒すことだけを考えればいいのだ。
(何かいい方法は……)
考えを巡らせていた時、ラーズの乗る馬が突然跳ねた。
馬は何かに引っかかったように突如バランスを崩し、前のめりに跳ぶように転がった。
「!」
予想していなかった事態に、ラーズの反応が遅れる。ラーズの体は宙を舞い、馬の勢いそのままに前方に放り出された。
「ラーズ!」
リンカの悲鳴が聞こえたと思った瞬間、ラーズの体が地面と激突する。ぶつかり転がる雑音で、リンカの声がかき消された。
草むらの中を何度も転がり、ラーズの体を痛みが襲う。涙が出そうな激痛に、思わず何度もむせた。
隣から悲しげな鳴き声がした。ラーズの乗っていた馬が同じように倒れ、涙を流して苦悶の声を上げていた。その左後ろ足が膝あたりから失われ、黒っぽい液体が月夜の光を鈍く跳ね返していた。
その近くに馬の血をどっぷりと浴びた手斧が転がっているのを見て、ラーズは何が起きたのかを理解した。リンカが投げた手斧を、ヴィジャがそのまま走りながら投げつけたのだ。斧は馬の足を切り裂き、馬はバランスを崩し倒れた。
恐ろしい正確さとパワーだった。もし落ちた場所が長く柔らかい草に覆われた草原ではなく、轍によって地肌が見えた街道だったならば、ラーズも生きてはいなかったかもしれない。
「ラーズ! 大丈夫?」
馬から降りて、リンカが駆け寄った。ラーズは声を出そうとしたが、痛みが骨を貫き、苦鳴しか出てこなかった。
リンカの手を借り、何とか体を持ち上げて立ち上がった時、それは目の前にいた。
赤黒い肌、鋭い牙と爪を月の光で輝かせながら、ヴィジャの刃物で切ったような細く鋭い目が、爛々と輝いて二人を見下ろしていた。
「この化け物ッ!」
リンカが落ちていた手斧を掴み、投げつける。馬上の時よりも速い投擲をあっさりと掴み、ヴィジャは喉奥を鳴らした。
勝利を確信した魔獣が見せた、獲物の無意味な抵抗に対する嘲笑だった。
「無駄な事はやめろ、って?」
笑い返すラーズに、ヴィジャの笑みが消えた。始末をつけようと身構えたヴィジャの背後で、何かが弾けるような音がした瞬間、周囲が光に照らされた。
周囲が昼間のように照らされて、何事かとヴィジャが振り向く。
そこにはまるで小さな太陽のように輝く、白い光の球が現れていた。
光球からは幾重にも、雷のような光の軌跡が現れて消える。その度に、空気が爆ぜて音を立てた。
ラーズが作りだした、即席にして必殺の武器だった。
「行け!」
ラーズが叫ぶと同時に、光球は動きだした。
危険を感じ、ヴィジャが跳ぶように走る。しかし光球は加速度的に動きを速め、ヴィジャに吸い寄せられるように飛び、衝突した。
球の中に溜め込まれていた熱量が、すべてヴィジャに注がれる。断末魔の叫び声と共にヴィジャの体は閃光と共に吹き飛び、巨大な炸裂音が辺りを引き裂いた。
目を閉じても光が瞼を越えて突き刺さる。轟音に耳が痺れ、空気が肌をちりちりと焼くようだった。
やがて光が消えて夜が勝利し、耳が機能を取り戻した時、ヴィジャの姿はどこにもなかった。
唖然とした顔で、リンカが目を何度も瞬いた。
「……何だったの、今の」
「球電だよ」
荒い息を吐きながら、ラーズがつぶやくように言った。
「昔、母さんから聞いた事があったんだ。雷はいつも空から降ってくるんじゃなくて、球のような形で姿を見せる事があるって」
空気中に光の球が生じる、球電現象は現実に存在が確認されている。周囲で雷雨が起きている時などによく見られるが、詳細な原理は分かっていない。
実際の原理はともかく、ラーズとしては敵の近くに雷を起こす手段として想像しやすかったのだ。秘術を使い、近くの小さな範囲の大気を操作して雷の球を作る。今までやった事のない技が土壇場で上手く使えたのは、まさに幸運と言ってよかった。
痛む体を我慢しながら、ラーズは立ち上がった。坂を登って街道に出ると、ちょうどヴィジャが立っていた辺りの地面は球電に焼かれ、真っ黒に染まっていた。
「さすがに、これなら生きちゃいないだろ……」
ほっとして、ラーズは大きく安堵の息を吐いた。




