#22 妖女
「……ねえ、それでどうなったの?」
夜の酒場によく似合う、男の背筋までしびれるような女の声だった。
「どうもこうも、そのガレス人がお祈りを捧げたら、空からどばーっと雨が降ってきたのさ。いや、驚いたねあんときは」
男は自分がやった事のようににやりと笑うと、手に持っていたカップの酒を飲み干した。普段仕事仲間の男たちとばかり飲んでいるが、相手が女だとこれほど酒が旨くなるとは。なんともいい気分だった。
男は数日に一回、酒場に向かうのを日課としていた。仕事が辛かった時にはそれを忘れる為、いい事があった時にはもっと喜ぶ為。友人と飲みに行く事もあれば、日が悪くて一人で行く時もある。
今日は一人で行く日だった。友人達は家族との付き合いを優先させたり、前日に飲んでいたので金がなかったりして、ついてきてくれる人がいなかったのである。
一人でのんびり呑むのもいいさ、と思って行きつけの酒場に行くと、入ってすぐその女が目に付いた。
外から来た女だ。ソーンでは珍しい褐色の肌に、真っ赤な口紅が印象的な女だった。ソーン人に負けない背丈を包んでいるのは、動きやすいシャツに丈夫なズボンのシンプルな旅装姿だが、シャツの胸元を大きく開けているのが男の目を惹いた。
男が席について酒を注文すると、女は寄ってきた。軽い挨拶から始まり、どんどん話が弾んでいった。
女は仕事の都合で、ソーンに人を探しに来たそうだった。とは言ってもソーンは広大だ。仕事も急ぎではないし、半分旅行気分で見聞を広めようと、いろいろ見て回っているのだという。
「だから、こうやってあなたとお近づきになったのも、その一環ってわけなの」
「女一人で旅行かい? 危険じゃないのか?」
「大丈夫。あたし専用のしもべもついてるし、あたしもこう見えて、結構強いんだから」
そう言って、女は自信ありげに笑った。
酒が進み、話を深めていく中で、女は男が話した『天候を変えるガレス人』に興味を惹かれたようだった。
数週間前、町に一人とガレス人と、数人のソーン人兵士が団体でやってきた。彼らは町長に話をしにいくと、すぐに町の中央にある広場で何か儀式のようなものを始めた。
ガレス人の少年が祈りを捧げ、天に両手を掲げると、あっさりと空は鳴動を始め、ここのところろくに降っていなかった雨が、滝のような降り出したのだ。
男はその時ほど、ガレス人に感謝し、感動した事はなかった。
「それ以来気候も正常になったみたいでな。だいぶ雨も降るようになってきたし、ガレス人様様だな」
「すごいわ。そんな天気を変えるなんて、まるで大神のお力でも借りたみたい」
両手を組み、女の声が弾んだ。まるで少女のように純粋な反応と、妖艶なその姿と声はあまりに不釣り合いだ。だがそれが女に奇妙な魅力を与えていた。
「あたしも会ってみたいなあ、その人。どっちに行ったの?」
「確か、次は西に行くとか言ってたな。多分途中の村に寄りながら、ケイガを回ってジュガンに戻るんじゃないか?」
「ケイガかぁ。行ったことないし、次はそこに行ってみようかな」
酒を口に運びながら、女が考え込むように机に体重をかけた。重量感のある胸が机に乗り、柔らかに歪んだ。
男の喉仏が鳴った。店員や周囲の客も、羨ましそうにちらちらと女と男を見ていた。
厚みのある赤い唇が軽く開き、女が微笑みの形を作った。
「ありがとう。次の目的地が決まったわ。あなたのおかげね」
「ああ、気にすんなよ。君のおかげで、こっちも楽しく酒が飲めてるんだ」
普通に話しているだけなのに、男を惹きつけ、釘付けにする磁力のようなものを、女は発していた。
この後二人でどうしようか。そんな考えが男の頭をよぎった時だった。
「それじゃ、ごめんなさい。あたし、そろそろ宿に戻らないと」
あっさりと女は立ち上がった。懐から財布を取り出し、銀貨を何枚か取り出して机に置く。
「なんだよ、もう行っちまうのか?」
拍子抜けして、男は未練がましく口を開いた。
「あんまり長居してると、うちのしもべがうるさいの。今日はありがとう。楽しかったわ。これはそのお礼」
そう言うと、女は男の顎に触れて軽く持ち上げると、唇を交わした。
外野がざわつき、中には下品に囃し立てるものもいた。目を白黒させる男に、女は笑顔を見せて軽く手を振った。
「おやすみなさい。いい夜をね」
去っていく女の後ろ姿を、男はとろけたにやけ顔で見送った。
本当にいい夜だ。そう思いながら男はさらに酒を頼み、一気に飲み干した。
喉を何か、粘っこい塊のようなものが通った気がした。
空に薄雲がかかり、月光が頼りなく大地を照らす中で、女は宿への道を歩いていた。
通りに建てられた家々の多くから、明かりが消えていた。一歩先に足を踏み出すのも不安になるような、黒に支配された世界だ。しかし女は明かりも持たず、昼の大通りを歩いているように歩を進めていた。
よほど夜目が効くのだろう。単に闇夜に目が慣れただけではこうはいかない。
まっすぐ道を進み、宿へと続く曲がり角に来たところで、女は足を止めた。
家と家の間にある小さな路地に、小柄な影が立っていた。
「クトラ。退屈しているかね?」
ぼそり、と影が声を上げた。気の弱い者なら卒倒しそうな状況に、クトラと呼ばれた女は明るく笑った。
「ヨグ! あなたいつ来てたの?」
クトラが路地に入った。周囲には人の気配もなく、周囲の建物の明かりも路地の奥まで届かない。遠目に見ても、路地に黒い置物が二つあるようにしか見えないだろう。
「つい先程だよ。三日前までガレスにおってな」
「あら、強行軍ね。お体は大丈夫ですか、おじいちゃん?」
「よせよせ」
クトラのからかいに、ヨグもにこにこと笑みを浮かべている。状況が状況ならば、孫娘を迎える祖父のようだ。
「それで、ついにお仕事の新情報が来たの?」
「ああ、正式に依頼が降りた。天奏の秘術を得たガレス人を捕らえよ、無理なら殺して遺体を送れ、とさ」
「やった! 運がいいわ、あたし! さっきそのガレス人の話を聞いたばかりなの!」
両手を合わせて、クトラが歓喜の声を上げた。クトラの話を聞き、ヨグがほうほうとうなずく。
「標的がマロウ領にいるという、王子の予想は正しかったようだな。今やつに一番近いのはお前さんだ。やってくれるかね、クトラ?」
「もちろん。一応聞いておくけど、標的に護衛とかついてたらどうしたらいい?」
「そっちはお前の好きにしなさい。ほうっておくもよし、お前の護衛に食わせるもよし。例えキギルの領主が我らの存在に気付いても手出しなどできんさ」
「ありがとう、ヨグ! あなたの事大好き!」
嬉しそうなクトラに抱きしめられて、ヨグも楽しげに笑った。
凶悪な会話の内容からはあまりにもかけ離れた、異形の心を持つ者達にとって心温まる光景だった。
翌日の昼過ぎ、村の郊外で一人の男の死体が発見された。
犯行の現場を見た者は誰もいなかった。男は腹を引き裂かれた無残な姿で見つかり、村の屈強な男達も眉をひそめる程のものだった。
遺体の奇妙な点は、腹の傷だった。外からつけられた傷ではなく、まるで内側から何かが膨れ上がり、弾けたように見えた。しかし誰も上手い説明をつける事ができず、獣に襲われたのだと結論づけられた。
男の死と、その男が死ぬ前日に会った女との関連を考える者は、誰もいなかった。




