8 外情と内情
周りの状況からして、授業はとっくに終わっていたようだ。ジェームスは隣のクラスだから、イザベラが物思いに沈んでいた間にこちらにきていたのだろう。
王子に場所を譲るため、セスが一歩身を引いた。
「殿下」
こちらに近付いてくるジェームス王子を眺め、イザベラは呟いた。
愛しのイザベラ……なんて白々しい言葉だろう。
婚約破棄をした時の冷たく蔑んだ目。躊躇いなく変態貴族にイザベラを引き渡したあの仕打ち。それらを思い出すと蹴飛ばしてやりたくなる。
そもそも本当にイザベラのことを愛しいと思っているなら、真っ先にこっちにくるはず。なのに愛しい婚約者をほったらかして、アメリアと楽しくしゃべっていたわけだ。
まあ、何人もの妻を持つのが当たり前の王族であるから、八方美人は普通のことだし、早くアメリアと仲良くなってくれた方がイザベラとしては都合がいいのだけれど。
「ご心配いただきありがとうございます」
そんな本心をおくびにも出さず、イザベラは椅子から腰を上げて片足を引き、反対の足を曲げながら制服のスカートを摘まんで軽く上げた。月光のようなプラチナブロンドの髪がさらりと滑り落ちる。
「元気になって良かったよ。美しい君の光が病気でかげっている間、僕の世界は闇に覆われてしまっていたよ」
その髪を王子の手が掬いとり、少しかがんで口づけた。
ぞわぁっとイザベラの全身に鳥肌がたつ。
美しい君の光……? 僕の世界……?
歯が浮く。胸やけする。キモイ。
前のイザベラはこの王子のどこが好きだったんだろう……と疑問に思いかけて。
違った。別に王子のことなんて好きじゃなかったと、即座に否定した。
「まあ、詩人でいらっしゃいますわね」
ぞわぞわと立つ鳥肌を、イザベラは笑顔で抑えつけた。ひきつりそうな口元に手を当てて隠す。
イザベラが好きだったのは、王族という肩書きとステータス。イザベラを褒める甘すぎる言葉の数々。周りの羨ましそうな顔。優越感。それだけで、王子本人に興味なんてなかったのだ。
それは王子としても同じだっただろう。
物心つく前から決められていた婚約者との結婚に、お互いが何の疑問を持っていなかった。敷かれたレールの上でふんぞり返って踊らされていた。
だが、この王子はこれからレールを降り、アメリアを選ぶ。一夫多妻が普通の王太子なのに、他の婚約を全て破棄し、アメリアだけと婚約した。
破天荒な振る舞いだったが、結果的にアメリアとの婚約は功を奏した。魔王が復活したからだ。
キャンベル王家の始祖は勇者であったという。聖女として覚醒したアメリアと勇者の系譜であるジェームス王子は、人々の希望の象徴として歓迎されたのだ。
レールの上に取り残されたイザベラは、許せなかった。同じだと思っていた王子が、自分とは違う道を選んだこと。違う道を選ばせた、アメリアを憎んだ。
本当に馬鹿な、前の自分……。
やり直す前の自分を憐れんでいると、背後できゃあ、と黄色い声が上がった。マリエッタたちだ。
「流石はイザベラ様」
「絵になるお二人ですわね」
見た目は麗しい王子が、これまた見た目としては美しい部類に入る令嬢の髪に口づけている。はた目から見れば絵になる光景だし、彼女らは一応イザベラの信奉者だ。マリエッタたちは、きゃらきゃらとかしましく二人をほめそやした。
今までのイザベラなら、鼻高々で有頂天の扱いだ。おべっかでしかない彼女たちの賞賛にだって、気をよくしていたけれど。
とんだ茶番だ。マリエッタたちもまた、レールの上で踊っている。第二夫人以降は夫だけでなく、正妃も選ぶ。正妃候補のイザベラに取り入ることで、第二、第三の側室に選んでもらおうとしているのだ。
ちらり、とイザベラは自分の側に控えるセスを見上げた。
彼は黙ってイザベラの髪に口づけている王子を見ている。いつもの柔らかいセスの表情が消えていて、青い目が冷たく冴えていた。
こういう時には何の感情も見せてくれない。今も、昔も。
嫉妬くらいしてくれてもいいのに、と拗ねた気分になる。けれどそれは筋違いなことも知っていた。
前回もそうだった。常に側にいて、忠義を尽くしてくれたセス。彼はイザベラに危害が及ぶような事などには身を挺して守ってくれたが、王子や他の子息たちとどんな関係になっても、決して邪魔をするようなことはなかった。
セスとイザベラは恋人同士でもなんでもない。
セスはイザベラのことを命の恩人。忠義を尽くすべき主人としてしか見てくれていないのだ。
イザベラはきゅうっと痛む胸に手を当てた。
「ではまたね、可愛い僕の小鳥」
王子がイザベラの髪から手を離し、優雅に手を振った。途中でアメリアと二言三言、言葉を交わしてから教室の外へと向かう。
隣の教室へと消えていく王子の背中を見送ってから、ふう、と息を吐いた。
結婚はしたくないが、相手は王位継承権を持つ王子。邪険にするわけにはいかない。こちらから破婚の打診もできない。かといって前のように断罪されるのはご免だ。イザベラの非ではなく、王子から婚約破棄をしてもらうのが望ましい。
幸い王子もイザベラも、婚約はしているものの、付き合いは表面上のものだけ。互いに大して執着もない。
正規ヒロインのアメリアには、イザベラが何もしなくても王子が勝手に惹かれるだろう。魔王復活のイベントが始まれば、世論もアメリアと王子の結婚を望む。それまで適当にあしらっておこう。もう少しの辛抱だ。
「遠慮なさらずに、殿下をお引止めしてもう少しお話すれば良かったのでは?」
王子の消えた教室の方を見つめたまま、そんなことを考えていると、斜め上から声が降ってきた。
「遠慮?」
見上げれば、セスの冷ややかな視線にぶつかる。いつもは温かく緩んでいる青が、冴えた光を放ってイザベラに向けられている。
セスからこういう目で見られたことのないイザベラは、戸惑った。
「遠慮なんて、していないわ」
今のやり取りの中で、何かセスに嫌われるようなことをしてしまっただろうか。
急に心細くなって、どくどくと心臓が波打つ。
「切なそうに胸を押さえて、無理をして微笑んで。今も名残惜しそうに殿下の後ろ姿を見つめていらっしゃったではありませんか」
……切なそうに? 無理をして? 名残惜しそうに?
意味を飲み込めず、もう一度脳内で繰り返す。暫くしてから、やっと言われたことが浸透してきた。
「……ふぇっ?」
驚きすぎて変な声が出る。
「ち、ちょっと待って」
待って、待って。そんな風に見えたの? いや、見えたかもしれない。
でも違う。逆。逆だ。
切なそうに胸を押さえて……って、あれはセスのことを考えていたからで。無理して微笑んだのは、王子がキモかったから。名残惜しそうに見つめていたのではなく、これからの算段をつけていただけで。
まったく正反対なんだから!
「違うのよ、セス。あの、あれはね……」
猛烈に否定しようとして、マリエッタたちの目があることに気付く。イザベラは慌てて口をつぐんだ。
「ご自分に正直になられたらいいじゃないですか。殿下はお嬢様の婚約者なのです。甘えても構わないと思いますよ」
「~っ」
イザベラは地団太を踏みそうになった。
違う。違ーう!と叫びたい。王子なんてどうでもいい。自分に正直になるのなら、セスに甘えたいのに。
しかし王子を差し置いて護衛騎士に懸想しているなんて、マリエッタたちにバレるとまずい。そんなことが知れたら、腹黒な令嬢たちはこれ幸いとイザベラを蹴落としにかかるだろう。
特にマリエッタは辺境伯令嬢。位としては公爵より下だが、権力としては拮抗する。今は大人しくしているが、イザベラが弱みを見せたらあっという間に立場が逆になる。
別にそれで王子の婚約者から外れるのは構わない。けれどセスと恋仲になったと両親に知れたら、どんな手を使っても引き離されてしまう。まだセスに好きになってもらってもいないのに離されてしまったら、嫌だ。
しかしセスには誤解されたくない。
どうしよう。
ぱくぱくと口を開きかけては閉じるイザベラから、セスがふい、と視線を逸らす。
「さ。そろそろ授業が始まりますよ」
ぴしゃりと扉をとざしたような横顔と声に、泣きたくなった。しおしおと椅子に腰を下ろす。
セスのことになると、どうもうまくいかない。
目下、本当に大変なのは王子との綱渡りな関係よりも、セスを振り向かせることかもしれない。
大きく肩を落としてイザベラは溜め息を吐いた。
お読み下さりありがとうございます。
毎週水曜日の更新。
本作があなたの心に響きましたら、幸いです。
注)
3月14日に下記の文を追記しております。
『 結果的には、アメリアとの婚約は功を奏した。
キャンベル王家の始祖は勇者であったという。聖女として覚醒したアメリアと勇者の系譜であるジェームス王子は、人々の希望の象徴として歓迎されたのだから。』
大変申し訳ありませんでした。