77 親子喧嘩
バシッ。
乾いた音を立てて、トレバーの手がセスに阻まれた。横に払い、左手首を掴んで後ろに回る。
「邪魔をするな……痛っ」
わめくトレバーの手首を後ろに捻り、うつ伏せで床に押さえつけた。
「離せ、この駄犬! この俺にこんなことをして、ぐぅっああああ!」
「俺を。拾って救ってくれたのはお嬢様だ! 旦那様じゃない」
左ひざに体重を乗せたセスが、背中に回したトレバーの腕を引く。トレバーの顔が苦悶に歪んだ。
「離しなさいっ、セス!」
「危のうございます、奥様」
駆け寄ろうとしたダイアナを、ジェイダが静かに止めた。
「衣食住を提供してくれた旦那様には感謝している。でも俺をここまで生かしてくれたのは、お嬢様だ! お嬢様の敵になるのなら、魔王も魔王の眷属も。世界とだって戦ってやる。お嬢様に手を上げてみろ。旦那様でも容赦しない!」
「わ、分かった。分かったから、離してくれ! 頼む」
トレバーを抑え込んだままセスが、イザベラを振り仰いだ。
「お嬢様」
青い目が、どうしますかと言っている。
イザベラは迷った。
先ほどの三人でくっついていた時間。両親の温もりとくすぐったさが、心の底に残っている。
あの時のトレバーは、ただ妻と娘の無事を喜んでいた。
「イザベラ! 離すように命じろ」
立ち尽くすイザベラに、しびれを切らしたトレバーが怒鳴った。びくっとイザベラの肩が震える。
「イザベラ。お前は俺の娘だ。公爵令嬢だ。上に立つ人間だ。自分の飼い犬をしつけなさい。さあ」
怯えさせたと感じたのか、トレバーがまた猫なで声を出した。
飼い犬をしつけなさい。トレバー自身、こうやってしつけてきたのだろう。使用人たちを。そして、イザベラを。
「お父様」
「いいかい、イザベラ。お前のために言っているんだよ。誰もが平等など綺麗ごとだ。公爵令嬢でなければ、いいや、貴族でなければどうやって生きていくつもりだ。肩書がなければ誰もかしずかない。犬どもと同じ、見下される立場になるんだぞ」
「そうですよ。悪いことは言わないから、お父様の言うことを聞きなさい。それが貴女のためなのよ」
イザベラの体が震えた。
言いたいことは山ほどあった。セスは犬などではないこと。大切なひとであること。肩書なんてなくっても、人は立派で、トレバーよりも温かいこと。エミリーのように。
そして。
お前のために言っていると言うが、ちっともイザベラのためではないこと。
それらが腹の中でぐるぐるととぐろを巻いている。巻いているだけで言葉にならない。
どうして言えないんだろう。怖いんだろう。暴力を振るわれるからだろうか。
チガウ。
キラワレルノガ、コワイ。
ごめんなさい。ごめんなさい。ゆるして。いい子にするから。もうしないから。いうこと聞くから。
ステナイデ。
幼い泣き声がする。散々殴った後の父親の謝罪。母親が出ていく時の抱擁。ほんの少しだけ見せた数少ない両親の優しさが、麗子を縛っていた。
「イザベラ」
柔らかな声が、恐怖を和らげた。温かな手が、イザベラの手に添えられる。
「たとえ世界を敵に回しても、俺だけは貴女の側にいます。味方でいると誓います。絶対に見捨てない。嫌わないから」
セスの手の温もりが泣きたいくらいに熱く、縛っていた糸を熔かした。見捨てない、嫌わないという言葉が、ぐらぐらと覚束ない足元を支えた。
そうか。
トレバーの望む娘になれなかったら、言う通りにしてなかったら。
嫌われる。捨てられる。それが怖い。怖かったんだ。
「ふん。いい忠犬っぷりじゃないか。さあ、イザベラ。いい加減、退けと命じなさい」
イザベラはセスに押さえつけられたトレバーの前に行くと、床にぺたりと尻を着けた。
「まあ、なんてはしたない」
ダイアナの抗議は無視する。はしたないのは承知だ。わざとやっているのだから。
パン!
そしてトレバーの頬を張った。
「セスは犬じゃない! 対等な人間よ。エミリーだって、ジェイダだって、皆皆、同じ人間じゃない!」
「な……」
信じられないとばかりに、トレバーの瞳が見開かれた。
「公爵の何が偉いの。金持ちでいい家柄だから偉いの。だったら公爵令嬢なんて肩書要らない。聖女や王妃になんてならない。セスを見下さないで!」
セスを犬と馬鹿にしないで。自分の思い通りにしないで。
「ああ、イザベラ。お父様になんてことを……!」
「奥様。気をしっかり」
よろめいたダイアナを支えたジェイダが、頭を下げた。
「従順な妻は奥様の鑑ではございましたが、母親としては落第でした。そのことに気づかなかったのは、私の落ち度です」
下げた頭を上げ、背筋を伸ばしたジェイダが、ダイアナを促す。
「さあ、イザベラ様の言葉をよくお聞き下さいませ。奥様がずっと目を逸らしていらした、娘の本音でございますよ」
ダイアナがのろのろと娘を見つめる中、イザベラは口を開いた。
「ねえ、お父様。お父様が見下す、犬ども。もしもその犬と同じ立場になったら、私なんて必要ない?」
吐息のような声が、空気を震わせた。なんて弱弱しいんだろう。勇気をもらいたくて、セスの手をぎゅっと握る。
「犬どもと同じ、見下される立場になるんだぞって言ったわよね。違うわよね。見下される立場になるんじゃなくて、お父様が私を見下すだけよ。お父様は従順で可愛い聖女や王妃っていう血統書付きの犬の娘を持ちたいだけだわ! だったらもっと高貴でお上品な犬を探してきて飼ったらいいのよ!」
セスに優しく握り返してもらえて、段々と声に力がこもった。
「何を馬鹿なことを! 俺の娘はお前だ。犬ごときに代わりが務まるわけないだろう」
あっけに取られた顔をしたトレバーだったが、即座に言い返してきた。負けないよう、声を張る。
「だから! 私はこれからお父様が馬鹿にしている駄犬のセスと一緒になるの! ほら! 犬の私なんかがお父様の娘をやれないじゃない」
「この馬鹿娘! そこらの血統書付きの令嬢など代わりにならんと言っているんだ! 俺はペットがほしいんじゃない! そもそもお前の代わりなど誰もできんわ、馬鹿者!」
怒りに染まったトレバーがまくし立てる。
「いいか! 俺の娘はイザベラ、お前だけだ! ああ、くそ! お前が犬になろうが変わらんわ、この阿呆が!」
そこまで言ってから、床に顔を伏せると、消え入りそうな声で呟いた。
「ちくしょう……すまん……阿呆はこの俺か……」
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