閑話 閉じ込める気持ち
セスの視点です。
窓から入る月光が室内を照らす夜更け。セスはじっと自分の主の寝顔を見つめていた。
熱のせいか夜中にうなされていたイザベラお嬢様だったが、今はすうすうと寝息を立てている。普段はつんと近寄りがたい方だけれど、眠っているとつり目は隠れ、きりっとした眉も落ちていて可愛らしい。
セスの髪の色と同じ、冷たく冴えた月光がお嬢様の金髪に当たって黄色く色づいた。しんと肌を刺激する空気が柔らかくなってセスを包みこむ。
綺麗だと、セスは素直に思った。
セスはあまり景色や装飾品などを綺麗だと思ったことがない。美しい顔立ちだと言われている人を、綺麗だと思ったことも。だけどお嬢様だけは、いつも綺麗だと思う。
光だって何だってそうだ。お嬢様が笑えば全てが美しく見える。どんなに寒くてもほかほかと温まる。どんな出来事もきらきらと輝く。
お嬢様に出会うまで、セスは酷い地獄にいた。周りの人間は皆冷たく、残酷で。世界は飢えと恐怖しかなくて、母親だけが細く頼りない命綱だった。
セスの父親は、由緒正しい伯爵とやらだったらしい。母親は父親のことを話したがらなかったから、詳しいことはよく知らない。ただ、セスと母親を殴る祖父母や近所の大人が、そのようなことを言っていただけだ。
あの頃は十二歳の今よりももっと幼くて、「売女」だの「忌み子」だのの意味なんて分からなかったけれど。セスたちをなじる祖父母や大人たちの形相と態度、怒鳴られ殴られる度に母親が泣きながら謝り続けていたことから、母親と自分は罪人であり、殴られても蹴られても仕方のない存在で。生きていく価値もないのだということだけは分かっていた。
誰も彼もが、セスと母親を嫌っていた。誰も彼もが敵だった。
世界はぐちゃぐちゃな灰色で、汚いものだった。
『お前、綺麗ね』
だから信じられなかった。白い手が、地べたに這いつくばるセスの手を拾ったことが。価値のないセスを綺麗だと言ったことが。
『気に入ったわ。ねえ、お前。今からお前は私のものよ』
あの瞬間。灰色の世界に光が差した。柔らかな色がついた。母親以外の温もりを感じた。汚いものだらけの世界の中で、綺麗なものを知った。
白い月光の下で、美しい人がすうすうと寝息を立てている。セスの手を握ったまま。
あの時とは反対の光景だ。
イザベラお嬢様に拾われたセスと母親は、手厚い看護を受けた。だがもう遅かった。衰弱しきった母親は治療の甲斐もなく死んだ。そのことを高熱にうなされながら聞いた時。セスは泣いた。
唯一の味方であった母親さえ、消えてしまった。
独りぼっちは、心細くて、怖くて、怖くて。たまらなかった。
このまま自分も死んでしまえばいい。そうすればもう怖くない。もう苦しくない。そう言って泣いた。
『しっかりしなさい。馬鹿。貴方は私のものなんだから。勝手に死ぬなんて許さないわ。私のために早く元気になりなさい』
あの時イザベラお嬢様が、セスの手をずっと握っていてくれたから。少し怒った顔で、側についていてくれたから。
セスは生きて、ここにいる。
皆、イザベラお嬢様を我儘で、傲慢で、高慢ちきで、どうしようもない方だと言うが。そんなことはない。
お嬢様の手の温もりを。
言葉の裏にある、優しさをセスは知っている。
寝顔から繋いだ手に視線を移した。
「?」
セスは違和感に眉を寄せた。よくよく見ると、いつも綺麗に整っている爪が欠けていた。親指の爪がギザギザになっている。噛み跡だろうか。
お嬢様が爪を噛むなんて、今まで一度もなかったのに。
今日のお嬢様は、様子がおかしかった。
今年流行った風邪は質が悪かった。そのせいなのだろうか。目覚めたばかりのお嬢様があんな……あんな風に抱きついてくるなんて。
――セスッ……ゆ、うすけっ――
必死にセスに向かって手を伸ばして、抱きついてきたお嬢様。柔らかな体と、甘い匂い。耳に流し込まれる声と吐息。
思い出すだけで、頬に血が上ってくる。
駄目だ、駄目だ、駄目だ。セスは首を振って、邪念を追い払った。
お嬢様は寝ぼけていただけだ。きっと高熱のせいで、悪い夢でも見たんだ。だから心細くなって、近くにいたセスに抱きついた。それだけ。頼ってくれたとか、すがってくれたとかじゃない。喜ぶな。あと、変なこと考えるな。忘れろ。体の感触とか思い出すな、馬鹿。違うことを考えろって。様子がおかしかったことを心配する方が大事だろう。
あの時のお嬢様は、セスの名と一緒に『ユウスケ』という知らない名前を呼んでいた。
『ユウスケ』とは誰だろう。聞きなれない響きだったが、男の名のように思える。お嬢様は寝ぼけていただけだと言う。けれど『ユウスケ』という名を呼んだ時、セスの名を呼んだ時と同じくらい、親愛の気持ちが滲んでいるように思えた。
自分と同じくらい、お嬢様に思われる、男。そんな奴がいると思うと、もやもやする。
そこまで考えて、セスはゆっくりと頭を振った。
いけない。こんな気持ちを抱いては。
イザベラお嬢様には、あらかじめ決められた婚約者がいる。この国の王子で将来は王になる可能性が一番高い方だ。
いずれお嬢様はあの方と結婚する。お嬢様の特別に自分はなれないし、なってはいけない。
こんな風に無防備なお嬢様の側にいるから、変なことを考えてしまうのだ。よく眠っているようだし、もう大丈夫だろう。それにこのままだと手が冷えてしまう。せっかく熱が下がっているのに、それは駄目だ。
セスは握った手を布団の中に戻して、自分の手だけ抜こうとした。
「んん」
お嬢様の眉間にしわが寄る。力を抜いたセスとは反対に、お嬢様の手にぎゅっと力がこもった。
少し待ってからもう一度挑戦してみる。ゆっくりと抜いていくと、お嬢様の手が追いかけてきた。しっかりと握り直されてしまう。
無理に手を離そうとすると起こしてしまうだろう。離すのを諦めて自分の手と一緒に布団の中へ入れると、セスはさらに椅子をベッドに引き寄せた。
「……セス」
セスが離れる気配がないと分かったのか。ふわり。眠ったままのお嬢様が笑って、セスの名を呼んだ。
それだけで胸の中が温かくなる。嬉しさと幸せでいっぱいになる。
必要としてくれていると、勘違いしそうになる。
お嬢様は自分の主人で、自分は臣下だ。自分の分はわきまえている。
わきまえている、から。
今くらい。今だけは。
自分の手の中にある、自分よりも柔らかくて小さな手。力いっぱい握ってしまったら、壊してしまいそうなくらいに頼りない、お嬢様の手。
壊さないように、そうっと力を入れる。
布団の上からお嬢さまの手に口づけた。そのままベッドに突っ伏して、お嬢様の手がある場所に頬を寄せた。
お嬢様は自分のものではないが、セスはお嬢様のものだ。悪夢だろうと何だろうと、お嬢様を脅かすモノは斬りはらってみせる。どんなものからも守ってみせる。
セスはお嬢様だけの護衛騎士なのだから。
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