6 おっちょこちょいの侍女
慣れた手つきでエミリーに体を拭かれる。湯で湿らせたタオルの温かさと、強くもなく弱くもない力加減がほどよくて、イザベラは目を細めた。
「はあ、気持ちいい。上手ね、エミリー」
ドジで使えない侍女だと記憶していたエミリーだが、意外と手つきが堂に入っている。
「えへへ。慣れていますですからぁ」
イザベラの褒め言葉に、エミリーの顔がだらしなく崩れた。
「? 私、貴女に拭いてもらうのは初めてよね?」
「はいぃ。イザベラ様のお体を拭くのは初めてですけど、弟たちの面倒をよく見ていたので」
聞けば、小さな弟や妹たちの入浴の世話をよくしていたのだという。
ああ、と得心がいった。
「ふうん。弟たちがいるのね。何人家族?」
「両親と私を入れて八人ですぅ。私が一番上、弟が三人、妹が二人いますです」
八人家族。麗子の常識では大家族だが、イザベラの世界では家族八人も珍しくない。身分の高いものは正妻や妾との間に何人も子をもうけるし、貧しい平民の子供は全員が大人になるまで育つとは限らないから、多くの子供を産むと聞いた。
「家族の為に奴隷になったの?」
おかしな敬語といい立ち居振る舞いといい、彼女は平民だろう。ならば侍女ではなくメイドとして雇われたはず。
侍女とは、建前上はメイドなど他の使用人と同格とはいえ、実質的には優位にある存在だ。王族やイザベラのような公爵家の場合、ある程度の教育が成された子女――商家の娘や位の低い貴族令嬢が就くことが多い。
しかし気難しいイザベラは、そういった侍女たちをことごとくクビにしてしまったため、平民出身のメイドを昇格させて侍女にしていた。
それもいったい何人目なのか分からないし、数えてもいなかった。
「はいです。精一杯頑張りますですから、よろしくお願いしますですっ」
がばり、という音がするくらいの勢いでエミリーが頭を下げる。結果。
「ちょっ!?」
体を拭いてもらうため、はだけていたイザベラの胸へエミリーが顔を突っ込んだ。死ぬ前の豊かさほどではないものの、それなりに発達した双丘にエミリーの顔がめり込む。
「あわわわっ。す、すすすす、すみませんですっ。離れますですぅっ」
ぎゅっと目を瞑って顔を赤くしたエミリーが、手を前に出した。突っ張ったエミリーの手が、二つの膨らみに、むにゅう、と沈む。
「ひゃあっ!?」
これにはさすがのイザベラも変な声が出た。
これ以上何かされてはたまらないと、自分の胸を腕で抱き、エミリーから距離を取った。
そこへ。
バンッ。
「悲鳴が聞こえましたが、どうなさいました! イザベラお嬢様……」
扉をけ破る勢いで入ってきたセスが、裸の胸を押さえるイザベラを見て動きを止めた。
「……」
「……」
呆けたようにそのままの姿勢で数秒。青い瞳が大きく見開かれると、首から上が一気に赤くなった。
「うわあああっ!!」
「きゃあああっ」
遅れて悲鳴を上げたイザベラは放り上げるように布団をめくると、中に潜った。
「申し訳ありませんっ」
バタン! 入ってきたよりも大きな音で扉が閉まる。
「すみません、すみません。すみませんですぅぅ」
布団の外からは泣きそうなエミリーの声。
「い、いいのよ」
いけない。これくらいでキレては駄目だ。
だけど。
やっぱりこの子を取り込んだのは失敗だったわ!
布団を頭からかぶったイザベラは、強く思った。
****
熱が下がってから二日後、主治医とセスの許しを得たイザベラはようやく自室を出た。
当のセスは、イザベラの斜め後ろを黙って歩いているのだが、距離が少し遠い。先日不可抗力でイザベラの胸を見てしまってからよそよそしい。少しでも体のどこかが触れそうになれば距離を置かれ、目が合えば逸らされてしまう。
代わりにエミリーが、甲斐甲斐しくイザベラの世話を焼いた。
この間の失敗で責任を感じたのか、イザベラが怒らなかったせいなのか。他の侍女はずっとイザベラを恐れてあまり関わってこなかったものだが、この侍女は積極的にイザベラの側にいる。
今も彼女はセスの反対側で、ぴったりとイザベラについてきていた。
学園寮の廊下を歩き、校内へ向かう。
廊下には先客がいた。黒を基調とした制服姿の少女たちが、廊下を我が物顔で占拠している。イザベラと同じ学園に通う令嬢たちだ。
「まあ。もうお加減はよろしいのですか、イザベラ様」
令嬢の一人から、大げさな身振りと手ぶりと共に心配を装った声がかけられる。
「ええ、マリエッタ。心配をかけたわね」
不信感や警戒心をおくびにも出さず、イザベラは優雅に微笑んだ。
彼女はマリエッタ。辺境伯令嬢で、イザベラの取り巻きだ。イザベラが王子に婚約解消された途端に、手の平を返した人物でもある。
「ああ、本当に良かったですわ」
ころころと笑い声を立てて、マリエッタが両手を顔の前で合わせた。マリエッタの後ろには同じように微笑む令嬢たちがいる。
彼女らも辺境伯や侯爵、伯爵の令嬢たちだ。化粧とつけまつげで大きく見せた目をこちらに向けて、手入れの行き届いた髪をリボンやアクセサリーで飾り立て、苦労と無縁の指を上品に口元へ当てている。
前回も分かってはいたけれど。嘘臭い。
正規ヒロインのアメリアに寝返った彼女たちを知っているイザベラは、美しい外見の中に詰まった醜悪さを思ってうんざりとした。
だからといって、彼女たちを敵に回すのは得策ではない。今の彼女たちはまだ、敵でも味方でもないのだから。
「ところでイザベラ様。その娘が新しい侍女ですの?」
マリエッタたちの視線がイザベラの斜め後ろに注がれる。
「ええ、そうよ」
ちらりとエミリーを流し見ながら、イザベラは答えた。
「はいぃっ、エミリーと申しますです」
ぴょこんとエミリーが頭を下げる。
「まあ。何ですの、その言葉遣い。さては平民あがりね」
クスクスクス。美しく化粧を施した彼女らの顔には、わかりやすく嘲笑が浮かんでいた。
「平民の娘を侍女にされるなんて、本当にイザベラ様はお優しいわ」
「流石はサンチェス公爵家ですわね。平民の娘にまで慈悲をかけて召し抱えてらっしゃるんですもの。貴族の鑑ですわ」
口元に手を当てて上品にイザベラをほめそやすが、彼女たちの目線はエミリーに向いていた。彼女たちの目に浮かぶのは、侮蔑と優越感。一番大きく占めるのは、嗜虐の色。
「イザベラ様の心根は素晴らしいですけれど、平民の娘など至らなくて大変でございましょう?」
「一から教育し直さないといけませんものね」
マリエッタが、イザベラに向かって意味ありげに目くばせをしてくる。
「……」
――平民の娘を教育し直す。
それを大儀名分として掲げ、平民出身の侍女をいたぶるのが、学園の令嬢たちの陰険な遊びだった。
そういえば前回もこうやって、マリエッタに誘われたのだった。ヒロインのことでそれどころではなくなったのだけれど。
「教育でしたら、私たちもお手伝いいたしますわ。さあ、お前。こっちに来なさい」
にっこりと笑顔をイザベラに向けてから、マリエッタがエミリーに手を伸ばす。エミリーの体が小さく縮こまるのが傍目にも分かった。
平民のメイドや侍女が身分の高い者や裕福な者たちに酷い扱いを受けるのは珍しくない。そうした扱いを不当だと訴えたとしても、通りはしない。『教育』として、何をされるか分からないのだ。
ああ、面倒臭い。
イザベラはこっそりとため息を吐いた。
平民いじめなど心底面倒くさい。これは前々から変わらい本音だ。
確かに平民は教養がなく、作法もなっていなかったが、教えさえすればそこそこ出来る者もいた。イザベラにとって平民も貴族も関係ない。だから侍女たちをことごとく解雇して、平民を召し上げていたのだ。その平民たちでさえ、気に入らなければ遠慮なく解雇していた。気に入る者は気に入るし、気に入らない者は気に入らない。それだけだ。
「ありがとうマリエッタ。そう言ってくれるのは嬉しいのだけれど、大丈夫。必要ないわ」
「イザベラ様?」
エミリーに伸ばすマリエッタの手にそっと指先を添える。驚いたマリエッタが動きを止めている間に、エミリーの前へ身を滑り込ませた。
「忘れてはいけないわ。私たち貴族や国の安定を支えているのは平民なのよ? 召し抱えた平民を大切にするのも私たち貴族の務め。そうでしょう? 皆さん」
甘ったるい猫なで声を出し、イザベラは口角を上げた。
「ま、まあ。イザベラ様。なんてご立派なお考えなのでしょう」
「流石は公爵家令嬢ですわ。貴族の鑑ですわね」
同意を求められた令嬢たちが、困惑しつつもイザベラの意見に追随する。サンチェス公爵家は貴族の中でも権力が大きい。彼女たちはイザベラの機嫌を損ねたくないのだ。
「残念ながら、彼らの人権をないがしろにする行為が横行しているとか。嘆かわしいわ」
これみよがしに憂い顔を作ったイザベラは、ほぅ、と大げさに溜め息を吐いてみせた。
「ここにいる皆さんのようなレディなら、そんなことなさらないわよね?」
それから、落としていた目線をマリエッタたちに戻し、一人一人に向けて圧をかけていく。
マリエッタたちを敵に回すのは得策ではない。けれど、味方に引き入れる予定のエミリーをいびる方がもっと悪手だ。
平民いじめは面倒臭い。だがそれを普通と思っているマリエッタたちを諫めるのもまた、面倒臭かった。平民いじめが自分に害を及ぼすわけでもないのだから、わざわざ平民たちのために労力を割いてやる義理などない。
しかし、マリエッタたちがエミリーに悪意を向けるのは、なんだかムカついた。
ヒロインが平民であったこともあり、前回のイザベラはマリエッタたちを利用してヒロインに嫌がらせをした。
けれど今のイザベラは、ヒロインと王子のことなどどうでもいい。むしろ彼らに断罪されないためには、平民の味方を演じるほうが利になる。
「勿論ですわ。ねぇ?」
「ええ、そうですわ」
「ありがとう。やはり皆さんは私の思った通りの方たちね」
軽く首を傾げたイザベラは、きつく見えがちな吊り目をなるべく柔らかく和ませて、にっこりと笑った。
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