49 不意打ち
「おはようございます」
「おはよう、ジェイダ」
昨日言っていた通り、イザベラの朝の支度にやってきたのは、エミリーではなくジェイダだった。
「エミリーの様子は?」
「問題ないようです。あれから吐き気、めまいの症状もなく、いたって普通でございました」
「はー、良かった」
大丈夫だろうとは思っていたが、それでも胸を撫で下ろした。ジェイダが引いた椅子に腰かけると、髪にくしを入れ始める。
エミリーとは違うキビキビとした動きを、イザベラは鏡越しになんとなく目で追った。
優しい手つきで、無駄なスキンシップ混じりのエミリーの身支度と違い、ジェイダは手早く美しくイザベラの髪を整えていく。
「大事を取って今日は宣言通り、一日部屋で安静にさせておきます。授業も休ませますので、イザベラ様のお世話は全て私がさせていただきます」
「分かったわ。でも体は元気なのでしょう? エミリーのことだから、退屈してバタバタ動かないかしら」
エミリーはドジだけど働き者だ。無駄な動きが多いのもあるけれど、あまり座ってじっとしていない。
「問題ございません。エミリーには退屈しないよう、多めに宿題を置いておきましたので」
「……ああ。退屈する暇がないやつね」
可哀想に。イザベラはジェイダが家庭教師だった頃の宿題の量を思い出し、同情した。
「話してみればあの娘は馬鹿ではありません。ただ知らないことが多いこと。慌てて動く癖があるだけです。あのおかしな敬語もそのせいでしょう。みっちり勉強すれば、それなりにいい侍女に仕上がるはずです」
「ふうん」
どうやらジェイダは、エミリーのことを予想よりもきちんと見ているらしい。
ジェイダの教えは厳しいし、宿題の量は多い。しかし教え方は的確で分かりやすい。褒めるという行為がなく、問題を解こうがいい点数を取ろうが、淡々としていて表情の動かないのが玉に瑕ではあるが、家庭教師としては優秀だったと思う。
「まだ授業まで時間がありますね。お茶の用意をしてまいります」
エミリーの何倍も早く整え終えたジェイダが、給湯室に消える。それを待ち構えたように、ノックの音が響いた。セスだ。
「入りなさい」
いつも通りに入室を許可すると、給湯室からジェイダの声が飛んできた。
「なりません、イザベラ様。彼は護衛騎士。扉の前で待たせておけば良いのです」
給湯室から顔を覗かせるジェイダに、イザベラはにっこりと笑顔を見せた。
「あら。今日一日、注意も指摘もしないのではなかったのかしら」
「……」
眼鏡の奥で、目尻を小さく痙攣させたジェイダが、無言で給湯室に戻る。イザベラはくすりと笑うと、扉の向こうのセスに声をかけた。
「入ってきて大丈夫よ、セス」
「失礼します」
扉が開き、セスが顔を覗かせた。いつものように部屋の中に足を踏み入れず、ジェイダの姿を探す。しかし見当たらなくて、イザベラに困ったような視線を送ってくる。
「俺は外で待っていても構いませんよ」
「私が嫌だからダーメ」
軽く頬を膨らませて、つんと横を向く。
エミリーが来るまでは毎日セスが髪をすいてくれて、お茶を淹れてくれていた。なのにセスが部屋に入ってきてもくれなくなるなんて寂しい。
すると、ぼそっと小さな声が耳に入った。
「……可愛い」
「えっ?」
驚いて声の方を見ると、セスがきょとんとしてから、パッと片手で口を押さえた。
「俺、何か言いました?」
「多分。……可愛いって言ってくれた……ような……」
もしかして、単なる空耳かな。ううん、幻聴かも。
ついに願望が幻聴として聞こえてしまうなんて。なんて恥ずかしい。
「うわぁ……つい、思っていることが」
「えええええっ」
赤くなるセスと一緒にイザベラの頬にも熱が上った。心臓がトクトクと脈を打ち始める。
「そんなこと、思ってくれていたの?」
どきどきしながら聞いてみれば、セスが少し視線を泳がせてから、イザベラに合わせた。
「はい。いつも思っていました」
可愛い。いつも思ってました。
イザベラの思考が一旦停止した。代わりに可愛い、いつも思っていました、が何度も頭の中を回る。数えていないから分からないが、何度かぐるぐる回ってから、思考が動き始めた。
……可愛い……いつも。いつも!?
うそ。そんなこと言われたことなかったのに。
混乱しているイザベラに、部屋に足を踏み入れたセスが近付いてくる。目の前まで来て立ち止まった。
イザベラは自然と目の前のセスを見上げて、あれ、と思った。
セスの方が背が高いのは知っていたけれど、こんなに高かっただろうか。柔らかい銀髪、優しい色の青い瞳は変わらないが、いつのまにか肩幅も広くなっているし、頬の輪郭の丸みが少しなくなっていた。
「お嬢様は誰よりも可愛いです」
少し恥ずかしそうに告げられる。途端に元々上がっていた熱が、かああーっとさらに上がった。
嬉しいけれど、恥ずかしくてセスの顔を見ていられない。イザベラは熱くなった頬を両手で冷やしながら、うつむいた。
「ありがとう」
やっとのことで小さく礼を言う。セスに可愛いと言ってもらえるなんて夢みたいだ。
「コホン!」
「ひゃあっ」
「わっ」
突然の咳払いに二人して飛び上がった。
「ジェ、ジェイダ」
「お茶が入りました。お飲みになって少し落ち着きなさいませ」
ジェイダのほっそりとした手が、テーブルを指し示す。そこにはティーカップが二つ置かれていた。
「セスも。飲んで気持ちを冷やしなさい」
「え? 俺もいいんですか」
「よくはありません、と言いたいところですが。今日一日は、小言も苦言も、言わない日です。それに、そんな浮ついた顔でいられるよりましです。席に着きなさい」
抑揚のない淡々とした声。眼鏡の奥の瞳がすっと細められ、手だけがカップの一つに向いた。そこに座れということらしい。
「ジェイダ。もう一つ、ティーカップを用意して」
緊張した様子のセスの対面に腰かけたイザベラは、ジェイダに命じた。
「なぜです。二杯目でしたらお注ぎしますよ」
「二杯も飲まないわ。ジェイダの分よ」
ジェイダが数回、瞬きをした。
「何よ。今は私の侍女でしょう。お茶くらい、付き合いなさい」
「……分かりました」
言われた通りに持ってきたカップにお茶を注ぐ。
「美味しい」
「本当だ。美味しいです」
ジェイダの淹れたお茶は、深みのある落ち着いた味だ。
イザベラとセスの褒め言葉に、無言でカップを口に運ぶジェイダの頬は少し赤かった。
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