5 一致しない心と体
翌朝。イザベラはすっきりした気分で目が覚めた。
頭も痛くないし、体もだるくない。
そのことに気をよくして上半身を起こし、うーんと大きく伸びをした。片手は塞がっているから、もう片方の手だけを思い切り伸ばす。すると、しっとりと湿った寝間着が背中に貼りついた。
長い金髪も同じく汗でべたついている。
「お風呂に入りたい」
元気になれば今まで気にならなかったことが気になるもので。イザベラは汗を流してさっぱりしたくなった。
「駄目ですよ」
イザベラの言葉に即座に返ってくる声がある。セスだ。
椅子に座ったまま上半身だけベッドに突っ伏して眠っていたセスが、目を開き、唇をぐっと結んでイザベラを見ている。
塞がっていたイザベラの片手が自由になった。セスが握っていた手を離したのだ。
「どうして駄目なの」
起きてすぐ手を離されてしまったのが少し寂しい。けれど、それを言うのはなんだか負けた気がして、イザベラは不機嫌に唸った。
また少し上がった熱のせいか、黒い影の恐怖、死という強烈な体験のせいか。前世を思い出して悪夢にうなされた。声を聞きつけてやってきたセスが額に置いた布を取り換え、水を飲ませてくれた。それからイザベラが寝入るまで手を握ってくれていたのだが、どうやら一晩中ついていたらしい。
「まだ熱が下がったばかりです。入浴は様子を見てからにしましょう。お体を清めさせますので侍女を呼んでまいります」
いつもより硬い声できっぱりとセスが言う。
「熱がなければお風呂に入っても大丈夫よ」
麗子の知識として、風邪を引いていても熱がなければ入浴して問題ない。学園寮では部屋の一つ一つに風呂はついていないが、王族やイザベラのように身分の高い令嬢たちが利用する浴場は一般の生徒とは別にある。
そんなに遠い場所ではないし、同じフロアだ。このフロアは一年中魔具で適温に保たれているから、湯冷めの心配もないだろう。
「いけません」
取り付く島もないセスの態度に、カチンとくる。
「何でお前の許可を取らなきゃいけないの。私はお風呂に入りたいの! 私の命令は絶対でしょう?」
「いくらお嬢様のご命令でも、聞けません。お体の方が大事です」
「うーっ」
思い通りにならないのは嫌いだ。しかしここで怒ろうが喚こうが命令しようが、こういう時のセスは全く引かないことも知っていた。
普段は物腰も柔らかくイザベラに絶対服従のセスだが、過保護なのだ。
言うことを聞いてくれないセスはキライ。
だけど。
少しだけ鋭さを増した青い眼光。どちらかというと優しい顔立ちが大人びて、悔しいけれど格好いい。
「……分かったわ。侍女を呼んで」
「はい、仰せのままに」
唇を尖らせて承諾すると、セスがにっこりと嬉しそうに笑った。銀髪が朝の光を受けて輝き、青い瞳の色合いがふわりと優しくなった。
さっきまで険しい表情だったのに。
こんな顔して笑ってくれるんだ。
そう思ったら、イザベラの頬に熱が上った。
「ほらやっぱり。まだ熱があるじゃないですか」
「ち、ちちち、違う! これはそうじゃなくて。ほ、ほら。冷たいでしょう? 熱なんてないわ」
こんな小さなことで赤くなるなんて。
慌てたイザベラは、セスの手をとって額に当てた。熱が下がってひんやりとしていた額に、セスの大きくて温かい手が当たる。
あ、とイザベラは思う。
額に当たるセスの手。予想よりも大きくて骨ばっていて。男の手だ。
どうしよう。セスの手が熱く感じる。額の手の感触に神経が集中してしまう。
「確かに、額は冷たいですが……お顔がどんどん赤くなってますよ」
セスの眉根が寄った。熱を確認するためだろう。セスが額から手を離し、首筋に持ってこようとする。
待って。額でこんなにうろたえているのに、首筋になんて無理だ。顔から火でも出そう。涙まで滲んでくる。
イザベラはセスの手を必死に押し返し、叫んだ。
「い、いいから早く侍女を呼んできて!」
「はいっ?」
涙目で睨むと、怯んだのか裏返った声で返事をする。セスの青い瞳がうろうろと揺れ、熱いものにでも触ったような勢いで手を引っ込めた。
「行ってまいります」
心なしか頬を染め、くるりと背中を向けると足早に出て行った。
「何なの、私」
セスが出ていくと、イザベラはへなへなとベッドに倒れ伏す。
麗子であった頃も、イザベラであった頃も、男性経験は豊富だ。そもそも死ぬ前にキスだってしたではないか。
なのに今さら、たかが笑いかけられて額に手を当てられたくらいでこんなになるなんて、生娘じゃあるまいし。
そこまで思ってからイザベラは、はっと顔だけ上げた。
「あ、そういえば今の私には経験ない……ええっ、そのせい?」
15歳のイザベラは流石に男性経験がない。これが俗にいう、肉体の年齢に比例して勝手に反応してしまう、精神は肉体に引きずられるというやつなのだろうか。
「嘘でしょぉ」
小さくうめいてイザベラは頭を抱えた。
もしかしてこれからずっとこうなのだろうか。
困る。
ベッドの上で一人じたばたしていると、控えめなノックの音が響く。
「お待たせいたしましたですっ、イザベラお嬢様。侍女のエミリーです」
これまた小さくて遠慮がちな少女の声がかけられたのだが、敬語がおかしい。
「入りなさい」
ぎこちなく扉が開くと、湯の入った桶とタオルなどが入ったバスケットを持って、そろそろと侍女のエミリーとやらが入ってきた。
年齢はイザベラより2、3歳ほど上だろうか。亜麻色の髪に青い瞳。鼻の頭には軽くそばかすが浮いている。
「はいぃっ、失礼しますです」
ぎゅっと唇を結び、緊張した面持ちで小走りにイザベラの側にやってくる。それはいいのだが、歩き方に違和感がある。なんというか、膝がまったく曲がっておらず、ロボットのようにぎくしゃくとした歩き方だ。
彼女はイザベラの前まで来ると、不自然にかくっと急停止した。すると当然。
ぴちゃん。桶の中の湯が跳ねた。
散った水滴がイザベラの顔や寝間着にかかる。別にびしょびしょになるような量ではない。しかしイザベラのこめかみがひくひくと動き、エミリーの顔色がさあっと変わった。
「も、ももも、申し訳ございませんですっ!」
真っ青になったエミリーが持っていた桶とバスケットを置くと床に伏した。ガツンと床にたたきつけるような勢いで置かれた桶は辛うじて倒れなかったが、バスケットは床を飛び跳ね、ごろりと横倒しになって中身が出てしまった。
「あわわっ、すみませんですっ、すぐ片付けますですっ」
ばたばたと絨毯の上に広がったタオルと着替えをかき集め、バスケットの中へ戻すとまた床に額を擦りつけた。
ごすん。鈍い音が響く。どうやら勢い余って額を床にぶつけたらしい。
このおっちょこちょいぶり……思い出した。
いちいち侍女の名前も顔も覚えていないイザベラだが、あまりのダメダメっぷりを発揮したこの侍女のことは、はっきりと記憶に刻んでいる。なにせイザベラでさえ、怒りを通り越して呆れたくらいだったのだ。
正直、今すぐクビにしてやりたい。
しかし。
大きく深呼吸して気持ちを落ち着け、麗子であった頃の経験を思い起こした。
麗子は自分を好きにならせるために男たちの顔と名前、性格や趣味など、全て把握していた。彼らの望む女を演じてやって虜にしては貢がせ、絞れるだけ搾り取ってからどん底に突き落としてやったものだ。それが麗子の復讐だったから。
おっちょこちょいなのも好都合だ。欠陥のある人間ほど、肯定されることに飢えている。だから麗子はいつもそういった男を選んで、甘い毒を飲ませてやった。
男も女も、同じようなものよね。
心の中でひとりごち、這いつくばるエミリーの後頭部を見下ろした。
確か侍女になったばかりでイザベラと接するのは実質、今が最初。白いキャンバスには絵を描きやすいもの。噂や前任の侍女からイザベラの性格の悪さは知っているだろうが、これからいい顔を見せていれば簡単に落とせる。
「いいから顔を上げなさい、エミリー」
「えっ」
土下座状態のまま驚いて顔を上げるエミリーに、にっこりと笑いかける。声をワントーン上げて、目を細め、柔らかく口角を上げた。
「湯が少しかかったくらい構わないわ」
容姿が美しいのは武器だ。普段冷たく見えるほど整っているからこそ、微笑んで優しい顔を見せると皆がころりと騙される。
ところが。額を赤くしたエミリーが、ぽかんと間抜けに口を開けたまま動かない。
失敗すれば滴を跳ねさせた程度でも許さないのが、今までのイザベラだ。
流石に無理があっただろうか。
笑顔のままこっそりと冷や汗をかいていると、エミリーが瞳を潤ませてから、もう一度頭を下げた。
「ありがとうございますですぅ、イザベラ様」
ほら、チョロい。
イザベラはエミリーが下を向いている間に、小さく舌を出した。
「ふふ。これくらいで感謝しないで。さ、お湯が冷めてしまうわ。早く拭いてちょうだい」
嘘だ。しっかり感謝してほしい。そんな内心をおくびにも出さずイザベラは笑顔でエミリーを促した。
「これからよろしくね、エミリー」
「はいぃ! よろしくお願いしますです」
にっこりとした笑みの下にあるイザベラの打算など知らず、エミリーが深く頭を下げた。
お読み下さりありがとうございます。
おかげさまで少しの間ですが、異世界転生/転移の日間14位になりました。
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