4 変わるための一歩
この世界が作り物の小説の世界だからといって、今生きてここにいることは偽りかと問えば、それは否だろうと答える。
イザベラとしての人生は、全て仔細に感覚を伴って思い出せるのだから。
それにたとえ偽りだとしても、この世界に生きている人間にとって現実。
そもそも前世の世界でも、世界は神の見ている夢だという宗教さえあったくらいだ。世界の成り立ちなんて誰も証明できない。だったら考えるだけ無駄だと思う。
無駄なことに労力を割くくらいならもっと建設的なことをした方がいい。
そう。例えばとりあえず周りの人間の好感度を上げる、とか。
「微熱まで下がっていますし、肺の音も綺麗です。首の腫れも引いていますね。喉の腫れはまだありますので薬を出しておきます」
そんなことをつらつらと考えている内に、診察が終わった。
イザベラの喉、目を確認し、聴診器で心音を聴いた医者がセスに向かって小さく頷いた。
「良かった。ありがとうございました」
ほっとした顔のセスが医者に頭を下げる。
今、今よ、イザベラ。
イザベラは大きく深呼吸をしてから、口を開いた。
「……ありがとう」
セスと同じように頭を下げる。その途端に、医者と、一歩引いた場所に控えていた侍女がぎょっとした顔を向け、セスもまた目を見開く。
どの顔にも驚きの感情がべったりと貼りついていて、ムッとした。
「何か?」
一様に驚きを隠せない面々へ、イザベラは眼光を強めた。
「いえ、何でもございません」
医者と侍女が慌てたように頭を下げ、そそくさと部屋を後にする。
イザベラは内心でしまったと頭を抱えた。
前回のような最悪な終わりを回避するには、周りの人間を味方につける必要がある。
せっかく印象をよくしようと礼を言ったというのに、つい腹が立って圧をかけてしまった。
ぱたんと軽い音を立てて扉が閉まると、部屋にはベッド脇で嬉しそうに笑うセスだけになる。
「……別に。医者に礼を言うくらい、普通じゃない」
普通のことをしただけなのに、あの態度。
面白くないイザベラは、ぷうっと頬を膨らませて恨みがましくセスを睨んだ。
「申し訳ございません。皆は慣れていないのですよ」
慌てて真面目な表情に戻したセスだが、目が笑っているし声にも笑いを含んでいる。口元も笑うまいと震えていた。
その態度にかちんときた。
「何よっ、馬鹿。そんなにおかしいんならもうやらない!」
枕を掴むと、セスに向かって投げつけた。ボスっと軽い音を立てて枕がセスの顔面にヒットする。
「気分が悪いわ。出て行って!」
セスの顔を見たくなくて、イザベラは顔をうつむけた。長い金髪がカーテンのように視界を覆う。
分かっている。
今までのイザベラなら医者が自分を診るのは当たり前、礼を言うどころか用が終わればさっさと出ていけという態度しかとらなかった。
それは前世の麗子も同じ。
生い立ちや境遇が違うから理由はべつだが、麗子もイザベラも、人を思いやるということをしなかったし、出来ない人間だった。
人を信用するということも。
人を愛するということも。
イザベラは公爵令嬢。使用人たちは勿論、王族でもない限り自分より上の者はいない。下の者は従って当然、思い通りに動くのが普通。感謝することでもないし、する必要もない。
でも、きっとそれでは駄目なのだ。駄目だったから、イザベラは断罪された。同じようにしていれば、きっとまた酷い断罪ルートを体験することになる。
麗子が読んでいた小説は、乙女ゲーム『ローズコネクト』の世界に転生してしまった主人公のアメリアが、紆余曲折の末に王子と結婚して幸せになる物語だ。
ちなみにその紆余曲折というのが、悪役令嬢イザベラの嫌がらせや謀略である。
作中に出てくる、スマホ配信の乙女ゲーム『ローズコネクト』には、イザベラはヒロインを陥れたことがばれ、激怒したヒーローによって死刑、奴隷落ち、地下牢投獄、自殺などのルートを辿ると書かれていた。
イザベラはぎゅっと布団を握りしめた。
小説の中ではさらっと書かれていた記述に過ぎないが、自分が体験するとなると話は別だ。
奴隷としての日々はもう二度と経験したくない。他の断罪ルートも回避したい。
だったら変わらなければ。
だから、手始めに礼を言ってみた。たったそれだけのことだけれど、ずっとしていなかったことをするというのは、少し勇気のいることだった。
なのにその結果が、医者と侍女の驚いた顔だ。苛々する。
ポスポスと、床に落ちた枕を叩く音がしてイザベラの後ろに柔らかいものが置かれる。セスが枕を戻したらしい。
「お嬢様」
うつむいたままのイザベラにセスの表情は見えない。だが、心配そうな声音だった。
「いいから下がりなさい!」
それがまた癇に障って、イザベラはヒステリックな声を上げた。
「……はい。隣の部屋におりますから、何かありましたら何時でもお呼び下さい」
足音と動く気配。しかし、足音が止まる。セスの気配が扉の前くらいで動かなくなった。
「あの、お嬢様……」
おずおずと躊躇いがちなセスの声に思わず顔を上げると、こちらを真っ直ぐに見つめ、微笑むセスと目が合った。
「礼を言うくらい、お嬢様のおっしゃる通り普通のことですが……俺は嬉しかったです」
「……なんで、セスが嬉しがるの?」
セスの意図が掴めなくて、イザベラはぽかんと口を開いた。
「皆誤解していますが、お嬢様は優しい方です。今みたいに少しだけ声をかけるようにしたら、本当のお嬢様を見せたら、きっと皆お嬢様の素晴らしさに気付きますよ。俺はそれが嬉しいんです」
それでは、と一礼し、セスが部屋を出ていく。それをイザベラは唖然と見送った。
扉が閉まり、足音が遠のき、部屋の中がしんと静まり返る。それでも、しばらくイザベラは動けなかった。
どれくらい時が経ったのだろう。
「……敵わないわ」
ようやく、ぽつりと呟いた。
自分の呟きを呼び水として、やっとセスの言葉の意味が、じわじわとイザベラに浸透してくる。同じように熱くなっていく頬を冷まそうと、両手を当てた。
「信じられない。どうして他人の、私の事で喜べるの? どうして私が素晴らしいなんて思えるの」
誤解が解けてイザベラが素晴らしい人間だと周りが気付くことが、嬉しいのだとセスは言ったのだ。
敵わない。敵いっこない。あのイザベラを信頼しきった笑顔は反則だ。
前回、どんなに冷たくしようと酷い言葉を投げつけようとも、セスはイザベラの元を去らなかった。裏切らなかった。
――お嬢様は優しい方です――。
そんなことを言うのはセスだけ……。
イザベラが優しいだなんて、それはセスの思い込みだ。そう思い込ませたのは、イザベラだ。
セスは王族の血を引く伯爵家の子で、本来なら公爵令嬢の護衛騎士になるはずがない。
しかしセスの母親は農家の娘で、たまたま伯爵が視察に出た際に戯れに手折った花だった。平民と成した子を伯爵家は認めなかったため、未婚の母として周りから、両親からさえも白い目で見られ、母子は虐げられていた。それを気紛れに拾ったのが、イザベラだった。
別に大した理由はなかった。
強いて言えば、なんとなくセスの容姿が気に入った。その程度の軽いもの。
酷く衰弱していたセスの母親は、拾って一週間ほどで死んでしまった。セスもまた、飢餓と周りから受けた暴力で衰弱していて生死をさまよったが、なんとか持ち直した。天涯孤独となった彼は、イザベラに固い忠誠を誓い、イザベラの側にいるために護衛騎士を目指した。
そんな経緯があるから、セスのイザベラへの忠誠は揺るぎない。
それだけ、なのかもしれない。
イザベラはチクチクと痛む胸を押さえた。
セスの忠誠が嬉しい。
けれど、嬉しさと同じくらいの不安が胸を刺す。
セスがイザベラに向けてくれる好意は、助けてもらった故の忠誠心なだけ。イザベラの事を女として好きだと思ってくれてはいないのでは。
はぁ、と大きく息を吐くと喉がごろごろと鳴り、咳がこみ上げてきた。
「ゲホッゲホ、ゴホゴホゴホッ」
今日は疲れた。下がっていた熱もまた上がり始めているのか、体がだるく頭痛が復活してきている。
イザベラはもぞもぞとベッドに潜り込むと、頭から布団をかぶった。
お読み下さりありがとうございます。
本日は4話更新。
次話は明日の20時前後の予定です。
11月5日までは毎日20時前後に更新。
その後、毎週水曜日の更新になります。
本作があなたの心に響きましたら、幸いです。