35 サンチェス公爵
学生でごった返す食堂は、ガヤガヤと騒がしい。
ここクラーク学園の食堂は二つある。一つは庶民用の普通の食堂。一つは貴族や王族用のものである。
あっちの食堂はスペースもゆったりで食堂というよりは、高級レストランのような作り。流れているのもクラッシック音楽と、上品な談笑のみ。
以前のイザベラは当然、貴族王族用の食堂を利用していたのだが、今は庶民用の食堂の常連だ。もともと庶民であった麗子の感覚からして、騒がしい食堂に抵抗がないこと。こちらの方が落ち着くこと。エミリーと一緒に食べられること。その三つの理由でそうしている。
「今日も美味しいでございますですね、お嬢様。ということで、人参を残しちゃ駄目でございますですよ」
向かいの席のエミリーが幸せそうにシチューを口に運んでから、こちらの皿を見て釘を刺す。しかしもごもごと動くエミリーのほっぺたにはパンくずが一つ。
「そうね。美味しいのは同意だけど、エミリー。ここにパンくずがついているわよ」
「はえっ」
イザベラはしれっと指摘して注意を逸らしておき、その隙に人参をエミリーの皿へ……。
「好き嫌いは駄目ですよ、お嬢様」
入れようとしたところでセスの手が伸びてきた。イザベラの手に触れかける。
「ひゃっ」
小さく悲鳴を上げてイザベラはビクッと手を引っ込めた。ぽとりと人参が落ちてしまった。
「ごめんなさい」
「いえ。申し訳ありません。びっくりさせてしまいましたね」
慌てて拾おうとしたイザベラを、セスが片手を上げて制し、片付ける。
違う。本当は驚いたからじゃない。セスの手が触れそうになったことが怖くて、手をひっこめた。
「残った人参は食べるわ」
「ありがとうございます」
だけどそんなこと言えない。ため息混じりで人参を食べると言ったイザベラに、セスが嬉しそうな顔でにっこり笑った。
優しくて柔らかないつもの笑み。大好きな笑顔なのだが。
その優しい笑みがツキンと胸を刺して、イザベラは皿に目を落とした。大嫌いな人参を睨むふりをして、セスの顔を見ないようにする。
じっと人参を見つめて動かなくなったイザベラに、セスとエミリーが顔を見合わせる。
「そんなに人参が嫌いなんでございますですか」
「あの、お嬢様。どうしても無理でしたら食べなくてもいいですよ」
気づかわしそうに聞いてきた。
そんな二人の優しさで、イザベラの胸がさらに痛んだ。
確かに人参は嫌いで食べたくないけれど、それだけじゃない。
今のイザベラは、セスに触れられるのが怖い。セスが優しくしてくれることが辛い。
「ううん。食べる」
緩みそうになった涙腺を誤魔化すため、イザベラは首を横に振ると意を決して食べ始めた。
どうして、とイザベラは泣きたくなる。
どうして今さら、前世の記憶に振り回されるのだろう。
****
無事にモンスターを倒し、クラーク学園に戻ったイザベラを待っていたのは、思いもよらない人物だった。
冴えた月のようなプラチナブロンド。温度のない青い瞳。神経質そうな細い眉と薄い唇。トレバー・サンチェス公爵その人だった。
「お父様」
自分の目が信じられなくて、イザベラは荷馬車から降りた姿勢のまま固まった。
「なぜこちらに」
「なぜ?」
トレバーの片眉がピクリと上がった。
「娘が誘拐されたのだ。心配して駆けつけるのが当たり前だろう」
低く、感情のこもらない声がごく普通の事実を述べる。それがとてつもない違和感だった。
イザベラにとって父、トレバーは母よりもさらに遠い存在だ。
トレバーにあれを欲しいこれを欲しいと言えばどんなものでも届く。あれを気に入らない、あれが悪いと言えば即座にイザベラの前から消える。イザベラのありとあらゆる我儘を叶えてくれる存在、それがトレバーだ。
しかしそれらは全て手紙でのやり取り。本人に面と向かって言ったのは、いや、それどころか父トレバーに会ったのは12歳のイザベラの人生で、数えるほどしかないのではないか。
「申し訳ありませんでした、旦那様。私がついていながらお嬢様を危険な目に合わせました」
馬から降りたセスが、動けないイザベラの前にひざまずいた。トレバーに頭を垂れる。イザベラの後から降りたエミリーも、わたわたとセスの隣に立って頭を下げた。
「ふん」
それを冷ややかに見下ろした後、トレバーは顎をしゃくった。
「内輪の会話をするには、ここは落ち着かん。来い」
周りでは慌ただしく動く護衛騎士やジェームス王子を迎える侍女、侍従。王子に夢中でこちらに目もくれない彼らの間をすり抜け、イザベラたちはトレバーの背中を追いかけた。
トレバーがあらかじめ借りていた学園の一室に全員が入る。ガチャリと鍵をかけ、セスとエミリーがもう一度トレバーの前で頭を下げた、その途端。
「この、役立たずの駄犬が!」
トレバーの拳が、セスの横面を殴った。
「何のためにお前を飼ってやっていると思っている!」
よろめいたセスをさらに殴り、床に倒すと、足で蹴りつけた。
――やめて、お父様っ、セスは私を助けてくれたのよっ――
イザベラはそう叫ぼうとした。父親を止めようとした。なのに。
声が出ない。
『ッるっせェッ! いいから酒持ってこいやぁッ!』
『うぇぇ……ん。……ええぇ……ん』
安アパートに響く怒声と、自分の泣き声。煙草のやにで黄ばんだ壁。
痛いよ、怖いよ、やめてよ、お父さん。いい子にする。いい子にするから。
違う。お父様はお父さんじゃない。私は麗子じゃない、イザベラよ。お父様は私に怒っているんじゃないんだから、大丈夫。大丈夫なの。
トレバーはイザベラの願いなら何でも叶えてくれる。セスを許してと言えば、許すだろう。イザベラならセスを殴るのを止められる。
分かっているのに足がすくむ。心臓がどくどくと波打って、冷たい汗が噴き出した。
「お許しくださいです、旦那様! セス様はお嬢様を助けて下さいましたです!」
イザベラの代わりに、エミリーが泣きながら額を床にこすりつけて、悲鳴のような懇願をした。
「エミリー。聞けばお前、身を挺してイザベラを庇ったそうじゃないか」
途端にトレバーが猫なで声になった。
「よくやった。メイドの鑑だな、エミリー。忠実な奴隷を持って、私も誇らしい。いいか、セス! お前も見習え!」
もう一度セスの腹を蹴ってから、トレバーがイザベラを見た。目に涙を溜めてカタカタと震える真っ青なイザベラに気付くと謝る。
「ああ怖かったね。悪かった」
気持ち悪い。
そう思ったのを最後に、イザベラは意識を失った。
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