3 現状の把握
突然の麗子の抱擁に、セスの体が固まる。体の横でうろうろとさまよっているセスの手が、視界の端に見え隠れした。
「あ、ああ、あの、イザベラお嬢様? 一体どうされたのですか? ユウスケ、とは誰です?」
よほど焦ったのか、耳元で響く声は上ずり、どもっている。声も記憶より少し高い。
――イザベラお嬢様――。
セスにそう呼ばれたことで意識が切り替わる。
今の麗子はイザベラだ。麗子の記憶を持った悪役令嬢のイザベラ。
そしてこの少年はセス。二人とも性格と行動は似ていたが、裕助とセスは別人だ。混同するなんてどうかしている。
「……どうもしていない。何でもないわ。寝ぼけていただけよ」
本当に何でもないのなら、セスの体を離せばいいのに。離すどころかイザベラの手に力がこもった。
離したくない。
抱きついているセスの肩幅も厚みも、背負われた時より一回りほど狭くて薄い。
そう、逃げるために、背負われた時よりも――。
脳裏に直前の記憶が蘇り、イザベラは震えた。勝手に涙があふれて止まらない。
血の気を失って蒼白くなっていた顔。
ガラス玉のようになっていた瞳。
温かさが残っているのに、動かない体。
――柔らかいのに、濃厚な死の味しかしなかった唇。
ただ事でないイザベラの様子を感じ取ったのだろう。セスが強引にイザベラの手を掴んで引き離した。
少し癖のある柔らかな銀髪の下から青い瞳がこちらを探る。イザベラの涙を確認して、男にしては線の細い顔立ちに心配そうな色が浮かんだ。
「お嬢様、顔色が真っ青です。とにかくお医者様を呼んでまいります」
「あっ」
するりとセスが体を引き、立ち上がった。
引き留めようと思わず伸ばしたイザベラの手は、空を切る。
「大丈夫です。すぐに戻ってまいりますから」
素早く一礼し、扉を開けると出て行ってしまった。
パタン、と軽い音を立てて扉が閉まると、イザベラはあげていた手を力なく下ろした。出ていったばかりなのに、今すぐ戻ってきてはくれないかと、扉を眺める。
セスが側にいない。たったそれだけのことが、なんだか酷く頼りなくて、心細かった。
下ろしていた腕を上げて、上半身を起こした姿勢で自身の体を抱く。自分自身の体の温もりにほっと息を吐いた。
「私……生きてる……? どうして……あれは、夢?」
自分自身の五感がなくなっていく、死の感覚。
決して夢などではない。
「あれが夢なんて、有り得ない。あんな、あんな感覚が夢だなんて、ない。なら、どうして生きているの?」
麗子……いや、イザベラは死んだはず。イザベラだけではない。セスも。
ぶるりと大きく体を震わせ、死の手触りにざらつく気持ちを追い払った。過去に折り合いをつけ、無理矢理に意識を現在に向ける。
あの時の感覚は、ずっと引きずるには恐ろしすぎる。いつまでも向けていられない。
「さっきのセスは、まだ少年だったわ」
ぶつぶつと呟いて現状の整理をする。そうして今の自分の状況を推測していく。でないと、感情の波にさらわれそうだった。
大人に近づきつつも少しの丸みを残した顔と、まだ成長しきっていないしなやかな体。あれは二十歳目前だったセスではなかった。
イザベラは自分のいる部屋を見渡した。
部屋にはちゃんと見覚えがある。カーテンのかかった大きな窓、品のいい調度品。公爵家の自室ほどではないが、一人部屋としては十二分に大きな部屋。
ここは王都にあるクラーク学園の寮。主に貴族の子息子女、中には王族も通う由緒ある学園だ。イザベラも15歳から三年間通い、卒業したはずの学園寮の部屋に今いる。
「これは、時間が巻き戻っている……?」
ずっと寝ていたからか、声が酷くしゃがれていた。
「ゴホッゴホゴホ」
痰の絡む湿った咳が出た。喉も痛い。頭痛はないが、少しクラクラとする。風邪の症状だ。
そういえばイザベラは、学園の寮生活を始めてから半年ほどして、高熱を出して寝込んだことがある。
この風邪は確か学園内でも爆発的に流行り、次々と生徒が体調を崩した。特に酷かった数人の生徒は生死を危ぶまれるほどの高熱で、イザベラもその重症者の一人だった。
寮の自室で目覚めたこと、幼さの残るセスが側にいたこと、微熱の残る気だるい体からして、おそらく今はその時だろうと思う。鏡が手元にないので確かめられないが、今のイザベラは15歳のはずだ。
鏡がなくても視認できる、自身の手を眺めてみる。特に変化は見当たらない。それはそうだろう。15歳なら身長は伸びきっていた。ならばと、胸元へ視線を移す。二つの膨らみはそれなりにあるものの、記憶よりも明らかにボリュームが足りていなかった。
やはり、時間が巻き戻っている。
あの時臥せったイザベラの側には、セスがずっとついていてくれた。イザベラが側にいるよう、命令したからだったけれど。
本来なら異性であるセスがイザベラの身の回りの世話などしない。だが、我儘で気難しかったイザベラの侍女は長続きしなかったし、イザベラ本人が気に入らない人間を側に寄せつけなかった。
だから侍女はいつも別室で待機させ、必要な時だけ呼びつける。
誰も信頼せず、孤独で傍若無人の公爵令嬢。それがイザベラという人間だった。
「頭を打った拍子に、高熱の後に。とにかく何らかのはずみに前世を思い出す。鉄板ものね。でもこれは……」
そこまで言って、また咳き込んだ。治まるのを待ってから、やたらと大きくふかふかした枕を背中に当てて体重を預ける。
麗子だった頃。本は唯一の拠り所だった。本を読んでいるうちは嫌なことも忘れ、麗子は本の世界で主人公になる。
英雄として誰かに必要とされたり、誰かのために一生懸命になったり。ヒロインとして大切にされたり、認めてもらえる。誰かを愛し、愛されることもある。
本を読んでいる間だけは、誰にも必要とされない、愛されない女ではなくなることが出来る。
夢のような世界に浸っていられた。
それなのに、実際に本の世界にきたら、悪役令嬢とは。
神様はよほど麗子のことが嫌いらしい。
――いいえ。貴女は愛されていた――。
声を思い出して、イザベラは顔をしかめた。
――もう一度、やり直すことを望みますか?――。
――愛し子よ。その祈り、必ず――。
最後に聞こえた声。
あれは幻聴だったのか。幻聴でないのなら、あれこそが時間を巻き戻した存在なのではないか。さらには転生をさせた存在かもしれない。
麗子の知識では、人間を小説世界に転生させたり時間を巻き戻したりするような存在といえば、神、またはそれに準じるような何かだと相場が決まっている。
今までいくら祈っても、助けてくれなかったくせに。
欲しいと思っていた時に、くれなかったくせに。
どん底に落ちてからこれ幸いと手を差し伸べてくるなど、たちの悪い新興宗教と同じだ。
幼いあの日、イザベラがセスに手を差し伸べたように。
むかついてきたイザベラは、むっつりと親指の爪を噛んだ。
「ふん。まあいいわ。大事なのは、私もセスも生きているということ。やり直せる可能性があるということよ」
何故かは分からないが、せっかくループしてやり直せる機会を与えられたのだ。今度こそ、違う未来を迎えるために立ち回らなくてはならない。
ヒロインに嫌がらせなどせず、婚約者の王子に嫌われないように?
そうすれば、奴隷落ちは回避できる。そうして無事に王子と結婚すれば、イザベラの将来は安泰だ。セスもイザベラを助けるために危険を冒すことはなく、死ぬこともない。
しかし本当にそれでいいのか。
カリ。
無意識に力の入った歯によって、爪が音を立てた。こんなに強く噛んだら、毎日手入れをしている爪が汚くなってしまう。
歯から爪を離すと、指が唇に触れた。それをきっかけに、セスとのキスを思い出す。
死人とのキスなど普通ならおぞましいはずなのに。セスの感触を刻んだ唇が熱を灯した。
次に思い出されたのは、顔と品だけはいい王子だ。婚約者であった彼とも、キスをしたことがある。無駄に場数を踏んだ、王子の濃密なキス。
途端にごしごしと唇を拭いたくなった。
形だけでもあの王子と結婚する。ずっと望んでいたことのはずなのに、死者とのキスよりもよほど気持ちが悪い。
「なぜ私が嫌な男と結婚しなければいけないの。冗談じゃないわ」
王家に嫁ぎ、ゆるぎない地位を獲得することが幸せなのだと教わって育ってきた。その通りだと信じて疑わなかった。
そんな価値観はあの体験で全てひっくり返ってしまった。
イザベラは今まで、欲しいものは必ず手にしてきた。それは変えない。
今度こそ、この人を幸せにしてみせる。その誓いも変わらない。
ならば取るべき選択肢は決まっている。
「私は悪役令嬢イザベラ。セスの幸せも、自分の幸せも諦めない。両方手に入れてみせるわ。どんな手段を使っても」
悪役令嬢なら悪役令嬢らしく、やってやろうではないか。
扉の向こうから近づく、複数の足音と声が聞こえた。
コンコン。扉がノックされる。
「お嬢様、お医者様をお連れしました」
扉越しにセスの声が響く。イザベラは体重を預けていた枕から背中を離すと、ぴんと伸ばした。
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