25 二人の男
頬をなぶる夜気と、太ももに伝わる馬の動きを感じながら、セスはイザベラを追っていた。
「そんなに飛ばすなよ。馬が潰れる」
やや斜め後方からの声がセスを責めた。
「申し訳ありません。潰してしまいましたら、弁償いたします」
しかしセスは謝罪を口にしつつも、速度を緩める気などさらさらない。
イザベラ奪還に際して、いかなる費用も惜しまないという公爵からの言質はとってある。たとえ馬が潰れても、馬の価値以上の金品で弁償してくれるだろう。
「おい。謝罪が口先だけだぞ」
もう一度発せられた不機嫌な声は、ジェームス王子のものだ。
セスとジェームス王子の周りには、王子の護衛騎士たちが並走している。
心ここにあらずの詫びだということは、バレバレだったらしい。
セスは舌打ちを抑え込み、角が立たないようにそれらしい理由をつけた。
「失礼いたしました。しかしながら乗馬は初心者にございまして、余裕がないのです」
半分は本当で半分は嘘だ。初心者で、余裕がないというのは本当。しかし本当に余裕がない理由は、乗りこなすことに気を取られているからじゃない。
イザベラお嬢様の無事。
セスの心を占めるのはそれだけだ。
怪我はしていないだろうか。無体な事をされていないだろうか。
不安で泣いてはいないだろうか。
早く。少しでも早くと、気ばかりが焦る。
汚い男どもに触れられたと思うだけで腸が煮えくり返る。
その上もし、かすり傷一つでも加えられていたなら。犯人どもは勿論、マリエッタも許さない。
「まったく。これが本当に馬に乗るのも初めてだった奴か」
速度を上げてセスに並んだジェームス王子が、小さく舌打ちをした。
イザベラ様や令嬢たちの前ではそんな態度を取らないくせに。ただでさえ焦りと心配でささくれ立っているセスは、腹が立って仕方がない。
さらに追い打ちをかけるように、周囲に自分の側近とセスしかいないせいか、堂々とイザベラの悪口を言ってくる。
「よくあんな見た目だけの高慢ちき女の為に必死になれるね。忠義心? それともまさか、あの女が好きだとか? うへぇ。趣味が悪いな」
見た目だけしか見ていないのはお前だ。何も知らない奴がお嬢様を語るな!
心の中だけで悪態をつき、セスは王子の方を見ないようにして、手綱を握る手に力がこもりそうになるのを堪えた。
落ち着け、と自分に言い聞かせる。あまり手綱を引っぱってしまうと、馬にブレーキをかけてしまう。
この男がセスと共に馬を走らせているのは、イザベラを助けるためではない。アメリアのためだという事実もまた、セスを苛立たせた。
あろうことかこの男はアメリアとお忍びでデートをしていだのだ。
花を摘みにと離れただけのアメリアが中々戻ってこないため探しにきて、ならず者どもを尋問中のセスと出会い、今ここに至っている。
「そうだ。そんなに大切なら、外見と公爵令嬢という肩書以外に何の取り柄もない女など、お前にくれてやろう。身分差などどうとでもしてやる。どうだ、悪い話じゃないだろう」
くれてやろうだって? ふざけるな。お嬢様は物じゃない。
見ないようにしているのに、隣を走っている王子が視界に入る。王子のにやついた表情と猫なで声が、ざらざらとセスを逆撫でした。
「ご冗談が過ぎます」
思わず殺気をこめて睨みつけそうになるのを、セスはグッと抑えた。
世界で一番大切なイザベラを、ないがしろにするこの男が憎い。イザベラを侮辱する発言に、ぐつぐつと腹の底が煮える。
駄目だ。挑発に乗るな。頭を冷やせ。
イザベラの婚約者はこの男で、この国の王位継承権第二位の王子であることは、分かっている。この男との婚姻がイザベラの望みで幸せに繋がることも、重々承知している。
家柄、権力、身分、容姿、頭脳、判断力。
全てにおいてセスはこの男に何一つ敵わない。
イザベラたちがさらわれた後、マリエッタを襲った男たちからイザベラたちの行先を聞き出したのはセスだが、公爵家への連絡や迅速な馬の手配はジェームス王子の采配だ。
お忍びといえど王族だ。護衛騎士たちが何人も警護にあたっていたため、彼らを使ってすぐに馬を用意させた。モリス伯爵の屋敷までの二日間に必要な水と食料もだ。
セス一人なら、こうはいかなかった。
ジェームス王子がいなければ、サンチェス公爵に馬を手配してもらはなければならず、どうしても時間がかかっただろう。
だからジェームス王子がアメリアとデート中でラッキーだったと、セスは自分に言い聞かせた。
「私はイザベラ様に忠誠を誓っております。決して恋情ではありません。それにイザベラ様は、外見と同じくらい心の美しい方です」
自分がイザベラに横恋慕をしていることを気取られてはならない。
そんなことをして、イザベラの名誉を傷つけるわけにはいかない。
表情と声から感情を抜く。感情が高ぶった時ほど、自分を遠い場所に置くのがセスの処世術だった。
「なんだ。乗ってこないのか。つまらないな」
ジェームス王子が、面白くなさそうにセスから前方の景色に目を向けた。
「イザベラの心が美しい? お前の目は腐っているんじゃないか。あの女は綺麗で澄ました仮面の下で、僕の事をどう思っているのか分かりやしない」
「イザベラ様は殿下の婚約者です。殿下の事をお慕いしているに決まっておりますでしょう」
「まさか。彼女は僕と同類だよ。本音と建前が別だ。だからパートナーとしては最適なわけだけど」
鼻で笑った後、急に帯びた自虐の響きに、セスは前方から視線を引きはがしてジェームス王子に向けた。
「アメリアは僕やイザベラとは正反対だ。明るくておおらかで、含みがない。彼女といるとほっとする」
先ほどまでの王族特有の傲慢さが鳴りをひそめ、王子の端整で甘い顔立ちに憂いの色が落ちていた。青い瞳だけが優しい光を湛えている。
本音なのか。
イザベラの話題だった先ほどとは違い、アメリアを語る今の言葉は。
ジェームス王子の表情から、セスはそう判断した。
普段からイザベラは勿論、どの令嬢にも歯の浮くような砂糖まみれの言葉を吐いているこの男が、本当にアメリアを想っている。
だったら、イザベラお嬢様は……。
王子の背中を見送っているときの、イザベラの切ない瞳。憂いを帯びた表情を思い出し、セスは唇を噛んだ。
お嬢様にとっては、この男が一番なのに。自分ではなく、この男が。
「王族の婚姻に愛情など必要ない。夫婦になったとしても最低限の義務さえ果たせば、後はお互いに不干渉で過ごせばいい。イザベラを正室に迎え、形だけの夫婦を演じて、アメリアを側室として迎えるのが一番いいだろう。だが僕は……」
そこで言葉を切ったジェームス王子の目が、セスを射抜いた。
「アメリアに対しては誠実でいたい。その意味が分かるか。ウォード伯爵家の非嫡子セス・ウォード」
底冷えするような光にセスはたじろぐ。そこにいたのは、普段の甘い煌びやかな表情を消し、膝を折りたくなるような威圧をにじませる男だった。
この男は、本当に自分と同い年なのだろうか。ただの護衛騎士にすぎないセスが、ウォード伯爵家の非嫡子だということまで知っていた。
「もう一度言おう。お前がその気なら、イザベラをくれてやる。要らないというなら僕はあらゆる手段を取る」
カラカラに乾いた喉を湿らせたくて、セスはごくりと唾を飲んだ。
「……私は……」
喉から手が出るほど欲しいに決まっている。
あの瞳で自分だけを見てくれたなら。
あの声でセスの名だけを呼んでくれたなら、どんなにいいだろう。
でもそれでイザベラは幸せだろうか。
イザベラがセスに向けているのは、家族のような親愛でしかない。
礼儀作法を覚えるのも、美容に気を遣うのも、殿下のため。自分は未来の正妃なのだからと言う時の、うっとりと夢を見るような微笑みをセスは向けてもらったことがない。
「僕もお前もイザベラも嘘ばかりだ。父上や母上、王宮の者たちも、僕に言い寄る令嬢たちも。唯一、アメリアは真実だ。まだアメリアは僕を選んでくれていないが必ず、彼女の心を手に入れる」
ジェームス王子の目が、月明かりに照らされる街道に戻った。
「その時までに選べ」
セスもまたジェームス王子から視線を外し、前方を見つめた。
月の蒼白い明りの下、街道がずっと先まで伸びている。イザベラが乗っている荷馬車は、影も形も見えなかった。
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