22 絶望的な状況
重いまぶたを開けると、心配そうなエミリーの顔が間近にあった。
「大丈夫でございますですか、お嬢様。ご気分は?」
「あまりよくないわ」
直前に見ていた夢のせいだろうか。
布団もかけずに寝ていたせいだろうか。
それとも、揺れのせいだろうか。
頭が痛み、胸がむかむかする。
ガタゴトと、体の下の床が揺れる。
明かりの類いのない、とても狭い場所だった。しかも荷物らしきものがたくさん置いてあって、イザベラは背中にある荷物にもたれかかるようにして寝ていた。そのことに微かな違和感を感じたが、はっきりと形にならなかった。
そもそも、直前に見ていた夢って、何だったんだろう。
もやもやと嫌な気持ちが残っているので、あまりいい夢ではなかったのは分かるが、内容は思い出せない。
寝起きのせいか体調が悪いせいか、霞がかかったようにぼうっとしていて、上手く働いてくれなかった。
それにしても、どうして床が揺れるのか。
とりあえず起きよう。そうすれば意識がはっきりする。
イザベラは床に手をついて体を起こそうとして……出来ないことに気付いた。
両手が後ろ手に縛られている。
それを確認した途端、一気に目が覚めた。
はっとなってエミリーを見れば、彼女もまた同じように縛られていた。さらには、まだ起きていないアメリアもいる。
「エミリー、これは一体」
肩と自由な足を使って半身を起こし、床に座った。
所せましと積まれた荷物の隙間に、イザベラたちはいる。暗いから分かりにくいが、天井は幌のようだ。
幌で囲まれた狭い空間に荷物、ゴトゴトという揺れからして馬車らしい。
「わ、私にも何がなんだか、分かりませんですぅ」
エミリーの目にじわりと涙がたまる。今にも泣き出しそうな表情に、自分がしっかりしなくてはと、イザベラの気持ちが引き締まった。
目を瞑り、大きく深呼吸する。
こういう時こそ、落ち着け。こうなったのはどうしてかを思い出して、今の状況を把握しなくては。
確か、古びた倉庫の外でマリエッタを助けるため、立ち回っているセスをハラハラと見守っていたら、急に口に布らしきものを当てられた。そうしたら意識が遠のいて、今ここに縛られている。
つまり、何者かにさらわれたのだ。そして馬車でどこかへ連れていかれようとしている。
「そろそろ薬の切れる頃だな」
背後から声がして、イザベラは振り向いた。幌をまくって、男がこちらを覗いている。
「よお、目が覚めたか」
イザベラと目が合うと、ニヤニヤとした笑みを浮かべた。
男はイザベラたちをさらった犯人の一人だろう。
三人もの人間を同時にさらったのだ。犯人は複数のはず。少なくとも三人はいる。
イザベラはじっと男を観察した。シャツとズボンというごく普通の格好で、一見すると商人のよう。
まくった幌の向こう側は御者台のようで、幌の隙間からだとよく見えないが、男の隣にはもう一人いるようだ。
「貴方は誰。なんの目的で私たちをさらったの。どうするつもり?」
正直に答えて貰えるかは分からないが、聞かない手はない。
「質問の多いお嬢さんだな」
答える代わりに、はははと笑い声を立ててから男が幌の向こうに戻った。
「頭ぁ、二人起きたぜぇ。一人はまだだ」
幌の外で男が声を張り上げる。幌がまた上がって、違う男が顔を出した。
男はちらっとイザベラたちを眺めると、すぐにひっこもうとする。
「待って! なんの目的で私たちを拐ったの。どうするつもり!」
少しでも情報が欲しい。イザベラは男を引き留め、もう一度質問をした。
「目的なんざ金しかねぇよ。どうするつもり、か」
男は面倒臭そうに顔をしかめてから、顎に手を当てる。
「サンチェス公爵家に身代金をふんだくるのもいいけどよぉ。金も取れずに掴まるのがオチだからな。もっと安全に確実な方法をとるのさ」
サンチェス公爵家の名が出て、イザベラは顔を強張らせた。彼らはイザベラの素性を知っていてさらったのだ。
そんなイザベラの態度に男がニヤリと笑う。
「ははっ、あの高飛車な貴族の嬢ちゃんが依頼してきた時はよぉ。面倒臭ぇと思ってたが、ラッキーだったぜ」
「高飛車な貴族の嬢ちゃん……というのは、マリエッタのこと?」
「何だ、分かってたのかよ」
やはり。
イザベラは唇を噛んだ。
『令嬢は、令嬢でも、私じゃありませんわ! さっさとお放しなさいっ』
あの時のマリエッタの言葉。あれに引っ掛かっていた。
令嬢は令嬢でもマリエッタじゃない。マリエッタ以外の令嬢……ということはあの男たちはイザベラを狙った犯行で、マリエッタはそれをあらかじめ知っていたことになる。
だったらなぜマリエッタが知っていたのか。それはあの男たちを動かしていたのがマリエッタだから。
そんなに自分はマリエッタに嫌われていたのかと、気分が沈んだ。
「まあそんなに気落ちすんなよぉ。あの嬢ちゃんからの依頼は『軽く脅して痛い目をみせてやったらお駄賃をあげる』、だ。お駄賃だぜ、お駄賃! けっ、馬鹿にしやがって。ガキの使いかよ」
口を大きく曲げて、呆れたように男が手を振った。
「まぁ、世間知らずの嬢ちゃんのお陰でよ、簡単に公爵令嬢がさらえるんだ。俺らはせっかくだからよぉ、もっと儲かる商売やろうと思ったわけよお」
男の言葉にイザベラは顔を上げた。
もっと儲かる商売。その言葉に嫌な響きを感じる。
「モリス伯爵って知ってるか? 俺らの界隈じゃ有名な、いい趣味をもった貴族でよぉ。そのモリス伯爵がよ、あんたのことを持ちかけたら大金用意してくれてなぁ」
ひゅっ、と小さく喉が鳴った。手足の先が冷たくなる。体が小刻みに震え始めた。
モリス伯爵。それは奴隷落ちしたイザベラを買った貴族の名だった。
「喜べよ、嬢ちゃん。モリス伯爵は前々からあんたのことを欲しかったんだとよ」
男がぐい、と身を乗り出して震えるイザベラの顎を掴んだ。
「可哀想になぁあ? あんた、死ぬよりも酷ぇ目に合わされるぜ」
ぐい、と上に引かれ、真正面から目を覗かれる。
「そんな」
目の前の男の楽しそうな顔を、イザベラは絶望的な気持ちで眺めた。
このままではあの男に買われる。またあの地下牢に戻る。せっかくやり直したというのに、またあの破滅ルートを辿る。
「お願い。お金なら払うわ。いくらもらう予定だったの? その倍額出すから!」
「倍額ぅ?」
男の目が細くなった。
「そうよ。倍額、いえ、三倍でもいいわ! うちは公爵家よ。お金ならいくらでも……」
「そりゃぁ、魅力的だがよぉ。どうやって払う? ああ? モリス伯爵がつけたあんたの値段は、二億セーント。その三倍っつったら六億セーントだ。そんな大金、今持ってねえだろ。言っとくけどな。貴族の後から払うって口約束は信用しねえぞ」
小馬鹿にしたように見下ろされる。
「へっ、家に戻ったら告げ口すんだろが。しなくてもよぉ、その金はどうせ親の金だろ。どう言い訳してパパに金を用意してもらう気だ? ああん?」
「そ、それは」
イザベラは言葉に詰まった。男の言う通りだ。
六億セーント。日本円に換算すると一億円強のはず。そんな大金、いくら公爵家とはいえ簡単には出せない。もし用意できても、理由を問われる。
「娘をさらった盗賊に誰がホイホイと金を払う? 娘の命と引き換えなら払うだろうけどよ、その娘はもう家に戻ってるのに? あいつらが薄汚い平民の俺らに? 払うわけねぇだろが」
「だったら公爵家に連絡して、身代金を要求すれば……」
「おお、それなら払うかもしれねえなぁ。で、のこのこ金を取りにいったら取っ捕まって死刑ってわけだ」
イザベラを見下ろしたまま、男が大げさに肩をすくめる。それからぐっと顔を近づけた。
「いいか。公爵家の娘に手を出したのがバレたら、俺らも終わりなんだよ。そんな危険は冒さねえ」
息のかかる距離で噛んで含めるようにゆっくりと言うと、顎から手を離す。
「その点、モリス伯爵に買われちまったら、死体になるまで出られねえ。叩けば埃の出まくる伯爵は絶対に秘密を洩らさねえ。モリス伯爵はよぉ、俺ら界隈じゃあ信用のある貴族なんだよ」
イザベラは、押されたわけでもないのに後ろによろめいた。イザベラの背中に、柔らかい温もりがあたる。エミリーだ。
足先にも、同じような感触がした。床にはまだ意識のないアメリアがいる。
「諦めるんだなぁ。恨むなら、あのマリエッタとかいう貴族の嬢ちゃんを恨みな」
ははは、と笑い声を上げると、幌の向こうに戻っていった。
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