2 終わりと更なる始まり
開け放たれたままの扉から外に出ると、少し離れたところ護衛がいた。今駆けつけたばかりのようで、こちらを見ると表情を険しくした。
「大きな音がしたが、やはり賊か! おい、いたぞー!」
剣を抜きながら、護衛が声を張り上げる。屋敷の中、外、四方から護衛がこちらにやってくるのが見えた。
「お嬢様、しっかり掴まっていてください!」
セスが麗子を背負う手を片方だけにして、剣を抜いた。
護衛の振り下ろす剣をセスの剣が跳ね上げ、右に払いのける。相手の攻撃より早く肩へと剣を到達させ、一息に切り裂いた。
倒れる護衛を軽やかなステップで避けて抜ける。進行方向には四人。
横合いからの攻撃を弾き、腹を薙ぐ。残り三人。
瞬時に距離を詰め、先手の逆袈裟。残り二人。
後ろに回り込まれる。麗子が悲鳴を上げるより早く、セスが体を回転させた。振るったのは同時。だが、剣速はセスの方が上だった。危なげなく斬り捨て、残るは一人。
「逃がすなぁっ! 殺せぇ、女もろとも殺しても構わんッ!」
後ろから、絡みつくようなノイズ混じりの怒声。貴族の男が地下から上がってきたらしい。
我知らず、セスに掴まる手に力が入る。おぞましさに震えが走った。
ガキン。残る一人の剣とセスの剣が噛み合う。つばぜり合いによる停滞。
そこへ、銃声が響いた。
銃声と同時にセスの体が硬直し、傾ぐ。が、踏みとどまると剣を一閃した。
「くぅっ、ぉおおおおおおおっ!」
最後の一人を斬り裂き、セスが倒れる。麗子は背中から放り出された。石で頬や手足に擦り傷が出来、口の中に砂利が入る。
「セス……!」
地面に転がった麗子は必死に顔を上げ、セスを探す。
目と鼻の先の距離にセスが転がっている。霞む麗子の目にも、セスの服が赤く染まる様子が見て取れた。
あの時と同じだ。訳もなく、麗子は思った。
あの時がどんな時だったのか。分からない。麗子には、ふいに結びついてしまった記憶を、変に感じる余裕がなかった。
「ゆ、う、すけ」
口をついて出たのは、前世で貢がせていた男の一人の名。
神宮司 祐助。
麗子に言い寄る男の中で、唯一、肉体関係を持たなかった男。金はあまり持っていなかったから、手酷くふってやった。それでも、麗子を好きだとほざいた、馬鹿な男。
体どころかキスの一つも許さなくても、夜中に呼びつけようが八つ当たりして喚き散らそうが、離れなかった。刺されるなら、この男だと思っていたのに。麗子を刺したのは別の男だった。
それどころか、麗子が男に刺されるあの時。あの男は麗子を庇おうとして、自分も刺されたのだ。
麗子の中で、助けに来て撃たれたセスと、刺された裕助の姿がだぶって見えた。
麗子の声が届いたのか、ぴくり、とセスの指先が動いた。ぐぐっとぎこちなく体を起こす。
「逃げ……て、下さい、お嬢様」
撃たれたのに。死が迫っているのに。セスはそう言って、微笑んだ。
いつものように、優しい顔で。
――こんな時でも、麗子を気遣って。
突然、セスが飛びあがるように立ち上がった。麗子の目が自分の前に割り込むセスを追いかける。大きく手を広げて立つセスの背中。その向こうには銃を構える貴族の男。
ガウン。二度目の銃声が鳴った。セスの体が大きく跳ねて、どさりと倒れる。
「あ……あ、ああ、ああああああああっ」
麗子の中の何かが切れた。
「いやぁぁあああっ、セス、祐助っ、セスッセスッ、ゆうすけぇぇっ」
狂ったように名を呼び、ずりずりと這って近付く。もはやセスなのか祐助なのかも、混ざってしまっている。目の前に倒れているのは、麗子の為に命を賭けてくれた男。麗子を愛してくれた男。
唯一の、人。
「返事、しなさいよ。してよ、馬鹿。お願いよぉ」
麗子の懇願に男は答えない。顔色は蒼白く、瞳は虚ろだ。ガラスのような男の瞳に、地面を這いながら顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる女が映りこんでいた。
どうして自分は、今になって。
もっと優しくすれば良かった。信じれば良かった。どんなに我儘を言っても、冷たい言葉を吐きかけても、裏切らなかったのに。
馬鹿だ。本当に馬鹿だ。失ってから気づくなんて。貴方がこんなにもかけがえのない人だったって、大切な人だったって。
這いずっていた麗子の手が男に届く。自分の体を男に寄せながら、麗子は男の体を宝物のように抱いた。
「本当に馬鹿なのは、私、ね」
震える両手で男の頭を持ち上げて、膝に乗せる。
光のない虚ろな瞳に映りこむ、麗子の顔。それを見ているうちに顔はどんどん大きくなっていき、はっと気が付いたときには、近づきすぎた彼の頬に涙が一滴落ちた。
それがどうしようもなく悲しくて、愛しくて。
麗子はそっと涙を拭うと、まだ温かい唇に自分の唇を重ねる。
彼と初めてするキスは、涙と血と死の味だった。
「この、雌犬めが。薄汚い犬をたぶらかしおって、来い!」
ぐいっと乱暴に腕を掴まれ、引っ張り上げられた。
「薄汚いのは、お前だ! よくもっ」
愛しい人を殺したこの男を、許さない。
愛しい人以外が自分に触れるのを許さない。
膝に乗せていた男の体をしっかりと掴んで放さず、麗子は貴族の男の腕に思い切り噛みついた。
「がぁっ」
たまらず貴族の男が麗子を突き飛ばす。
貴族の男にまとわりつく影が濃くなった。ザザザザッというノイズも大きくなる。
「このっ、クソ女がぁ、死ねェッ」
貴族の男が唾を飛ばして叫び、麗子に銃口を向ける。
ダガン。
銃声が響き血飛沫が散った。胸に灼熱が走る。
「ああ……」
赤く染まりゆく思考が勝手にぐるぐると回る。
こんな筈ではなかったのに。自分と違い、貴方はもっと幸せになるべき人だったのに。
神様、仏様。なんでもいい。どんな存在でもいいから、この人だけは助けてやって。自分の命ならくれてやるから。お願い。
麗子は死んだ愛しい男の上に突っ伏した。男が流した血と、麗子から流れた血が混ざっていく。
祈っても奇跡は起きない。
男はもう死んでいる。死を覆すなど、神でも出来ないだろう。してはいけないだろう。
こんな自分の祈りなんて神に届かない。届いたことなんてない。
麗子は神に愛されるような人間じゃなかった。悪役令嬢のイザベラも同じ。
――いいえ。貴女は愛されていた――。
聞こえたのは都合のいい幻聴か。
なんておかしな幻聴だろう。愛されていたなら、こんなことにならなかった。
なによりも。彼をこんな形で死なせなかった。
――愛されてなどいるものか。祈りなど無意味。救いもなく、救えもせず、死ね――
ノイズが呪詛の形になって麗子の心に語りかける。貴族の男に重なる影はもはや完全に男を覆い隠し、それだけでは飽き足らないとばかりに広がり、麗子をも覆い尽くそうと迫った。
「死ね。絶望にまみれて。死ね。死ね、死ね、死ね、死ね!」
男の叫びは、ノイズが酷くて聞こえない。昔のテレビの砂嵐のような音が鳴り響き、黒い影が麗子の思考を侵していく。
――魔……呪……断ち切……ば……――
手足に感覚がなくなり、視界も暗い。ノイズが酷い。ノイズ、ノイズ、ノイズ、ノイズ。頬に当たる男の胸の感触もゆっくりと消えていく。赤が、黒に沈んでいく。
死は覆らない。
ふいに、ノイズが止んだ。
――もう一度、やり直すことを望みますか?――
刹那の間隙。
やり直す? やり直せるなら。次があるなら。次こそ。
麗子は祈った。
次こそ、あなたが幸せになりますように、と。
――愛し子よ。その祈り、必ず――。
それを最後に、麗子の何もかもが黒に没した。
※※※※
胸の真ん中で鼓動が波打っている。胸が上下している。手足があると認識し、体が温かいとぼんやりと感じる。
「……嬢様……イザベラお嬢様……」
誰かに呼ばれて、意識がすうっと上がっていく。心地よい、聞き覚えのある声だ。けれど、泣きたくなる。
黒に白が混ざり、少しずつ白が勝っていく。黒が極限まで薄まり、白銀に輝く。この色は、大切な人の色。
ああ、早く。目を覚まさなくては。
「お嬢様。良かった。目が覚めたのですね」
目を開けた麗子の視界に、ほっとしたように微笑む顔が飛び込んできた。血色のいい、直前の記憶よりも幼いセスの顔が。
「セスッ……ゆ、うすけっ」
ベッド脇にかがむ彼に手を伸ばした。彼の首に手を回し、ぎゅうっと抱きしめる。
温かい。……温かい。
溢れて止まらなくなった自分の涙も、温かかった。
「ど、どうなさいました、お嬢様」
おろおろとうろたえる彼の首元に顔を押し付けて、麗子は誓った。
今度こそ、この人を幸せにしてみせる、と。
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本日は4話更新します。
後は12時、20時前後の投稿予定です。
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