とある真夏の一コマ
パコン、トン。パコン、トン。小気味よくラリーの音が続く。先輩を目で追う。大きなストライドであっという間にテニスコートを横切って、私の放ったクロスラインの打球に追いつき、パコンとソフトなテニスボールを打ち返す。
先輩から目線を切って打球を追う。足は既に動き始めていて、ストレートコースにやってくる打球を両手のバックハンドで迎え撃つ。バックハンドで、ドライブをかけた、クロス。体を大きく捻り邪魔な胸を押しつぶすようにして打球を返す。精一杯の打球なのに、悠々と追いついて片手のバックハンドで打ち返す先輩がカッコよくて、にくい。
パコン、トン、パコン、トン。ラリーの音以外に雑音が耳に入り始める。最近鳴き始めた蝉の合唱。土を蹴る音。うるさい私の息遣い。
散々ストロークを交わしたというのに、最後は息切れでなんとかラケットを突き出すしかできなくなる。ふわりとコートの中央に上がった絶好のミスボールを、先輩のスマッシュが捉える。まぁ、ヘソチラが見えたから良しとしよう。
「ゲームセット。悠斗センパイの勝ちっす。休んだら、次俺とやりましょ」
「あぁ?まだ連続で行けっぞ」
「ウス。いいんスか?」
「スクール上がりでも一年坊が体力の心配は余計だろ。先輩が良いって言ってんだから良いんだよ」
コートにへたりこんでいる私を片手で引き起こしながら、悠斗先輩はラケットでコートに落ちたボールを掬いあげて空牙くんにパスする。
「立てるか、白崎。おーい、水浜。白崎をベンチで休ませてくれるか」
「はぁーい。もう、夏希も女の子なんだから余裕持ってやりなさいって」
「それはそれ、これはこれでしょ」
「負けて悔しくても相手は悠斗先輩でしょ。そんなことよりはしたないほうが後で後悔するよ?」
「誰がはしたないって?」
「胸チラ。さっき先輩にも見られてたよ、きっと」
「っっ!?」
慌てて襟を正す。見られて困る相手ではないけど、誰よりも見られて恥ずかしい相手だ。裕香の言うとおり、油断大敵、油断大敵。
木陰のベンチに座ってスポーツドリンクを飲みながら、心を落ち着けよう。目をつむって深呼吸。軽く体をほぐして目を開けると、高くボールをトスする空牙くんが、オラッ!と気合いをいれたサーブを放つところだった。
海原空牙くん。後輩の一年生だ。なんでも中学までは硬式テニスのスクールに通っていた有名プレイヤーだったらしい。平凡な我が校に進学して、しかも硬式テニス部ではなく軟式テニスサークルに入ってきた謎の新人である。
「相変わらずすっごいね、クウガは」
「でも、それを打ち返しちゃう先輩もヤバイよ」
「ハイハイ、夏希の悠斗先輩推しはおいといて。しかしほんとに、見応えあるねこの二人は」
同じボールを使っているはずなのに二人のラリーの音はさっきまでとは全然違う。
パンッと音が鳴ってから、ドライブのかかったボールはグーンと伸びてラインの際に落ちる。トン、パンッ、とバウンド直後の低い打点から鋭いショット。グーン、と伸びてトン、パンッの繰り返し。
硬式よりも男女の差がなく楽しめる軟式テニスではあるけれど、それでも全力で男女が同じ土俵に立てるわけじゃない。でも別に、悔しくはないのだ。先輩とラリーをするのは、楽しい。全力でテニスをする先輩を見るのも、楽しい。息を切らした苦しげな顔。打球を打ち返して相手をにらみつける鋭い視線。コートを走り回る力強い脹脛の筋肉。あと、打球を打ち返すときの声がちょっとセクシー……いや、ほんとに。これは私だけじゃなくて裕香を含む女子メンの総意だ。
でも、先輩がそんな苦しい姿を見せているのは、本当に空牙くんが強いからだ。去年までの先輩は、引退してしまったOBの誰とやってもこんな顔をしなかった。
一年坊と先輩は言っていたけれど、それは空牙くんに変な遠慮をさせたくない無理矢理な流れだった。先輩は後輩相手に体育会系な縦社会の圧力をかけたりしないし、人を呼ぶときのルールもしっかりしてる。きっちりと皆を苗字で呼ぶのだ。男女別け隔てなく。最初は私達をちゃんづけで呼んでいた先輩方もいつの間にかそうなっていた。流石、先輩。
「そう言えばね、夏希。やっぱりあたし、夏休みからは塾に行かなきゃならないっぽくて」
「えっ?じゃあ、サークルも」
「うん。退部?退サークル?になるかなー。多分三年生と同じタイミング」
裕香は進学コースだ。今年からはクラスも違うし、前々から塾に通って早く受験勉強を始めろと親にせっつかれていた。
急すぎる。そう思ったけど私のような非進学組と違って、進学組にとっては二年の夏休みから先は別世界らしい。うちにも塾からの広告は来るから、なんとなくわかる。
そして夏休みは目の前だ。来週の半ばから始まるので、その前の土日はあと一回しかない。
「そっか……先輩も、裕香も次の活動日で、最後なんだね」
「あはは、まぁ息抜きに運動させてもらいには来るかも!それに夏希はクウガが構ってもらいたそうにしてるじゃん。夏希もそろそろ先輩らしいことしてあげないとじゃない?」
「……先輩に勝ちそうな空牙くんに、先輩らしいことなんて、何ができるかなぁ」
今まで誰よりも余裕を持ってテニスをしていた先輩。荒北悠斗と言えば中学のソフトテニス大会で全国の一歩前まで進んだひとかどのテニスプレイヤーだ。それでも、みっちりとテニスの練習を積んできたスクール上がりが相手では厳しい。スコアは空牙くんがやや優勢なまま維持され、結局最初のサービスゲームを奪ったリードを守りきって、空牙くんが先輩に勝利していた。
「なんかめっちゃ喜んでんね、クウガのやつ。どしたん?」
裕香が聞いてくる。ラケットをコートに投げ出して全身で喜んでる。まるでウィンブルドンで優勝したみたいな大げさっぷりだけど、さもありなん。
「たぶん、初めてシングルで先輩に勝ったんだと思う」
「なるほどね。確かに勝ってるところ初めて見たかも」
「いやはや、まさか本当に三ヶ月で負けちまうとはなぁ。夏休みまでは逃げ切れると思ったんだけど」
試合形式の練習を終えた先輩が戻ってくる。私はいつものように、先輩のバッグからタオルを取り出して渡してあげる。
「サンキュー、白崎」
「ね、悠斗先輩。ドリンク飲んだら今度はアタシと連戦してください」
「えぇ!?休ませてくれねーの?」
「ヘトヘトだからいい勝負になるんじゃないですか!ほらほら、やりましょーよ!」
裕香、キチクだなぁ……。それでも先輩には勝てないと思うのだけど。
先輩は苦笑しながらもドリンクを飲んで、再びコートに戻る。自分もあと一回しか皆とプレイできないと分かっているから、今日はどの先輩達もコートに入っている時間が長く、下級生たちは入れ替わり立ち替わり相手をしたりさせられたりしている。
「あ、おつかれ、空牙くん」
「ウス。お疲れ様っス」
「初勝利おめでと」
「……っス。いえ、確かに形式上は勝ったんですけど、まだイーブンじゃないっていうか」
空牙くんは裕香と打ち合う先輩の姿を凝視しながら、ブツブツと呟いた。
自分よりも前に試合形式をこなしてたとか。サーブ権を先に譲られたとか。
組み合わせの妙を含めて大会では優勝を喜ぶけど、一人のプレイヤーとしては純粋な勝利とは言えないとかなんとかかんとか。
「真面目だねえ、空牙くんは」
「いえ、自分はこれくらいしか、取り柄もないんで」
「そうなのかな?私はよく分かんないけど、でも、先輩がやめたあとのサークルはきっと、空牙くんにはつまらないと思うよ」
練習相手にすらならないっぽい。まぁ同級生の男子が束になってかかれば疲れさせられるだろうか。一年相手に二年男子がそんな格好悪いことはしないだろうけど、かといってボコボコに負けるのも格好がつかないだろう。
そうなると、誰も彼とはテニスをしたがらないのではないだろーか。
「ね、空牙くんは硬式テニス部には行かないの?」
「はい」
「どして?」
「オレは卒業したら就職するつもりなんで。進学したりプロを目指すつもりはないので、ガチで打ち込むのは、悠斗センパイを最後にしようって」
「へぇ」
意外と言えば意外。純粋なテニスボーイって感じなのに将来のことを考えてるなんて。
「スクールも、高校生になって続けるのはそういうガチ勢が多くて。だから、趣味でラケット振り回せるサークルが、自分はやりたいっス」
「なるほどねえ。趣味にしても、レベルが合わないとつまらないんじゃないかなって、変な心配しちゃった」
「たしかに、変ですね」
空牙くんが、変なふうに笑う。苦笑。だろうか?
「なんで?」
「悠斗センパイも、白崎センパイも、レベルは釣り合ってないけど楽しそうでしたよ」
「えっ。あっ。うーん。そ、そうかも?」
「オ、オレも。試合形式になるとかじゃなくて、先輩とラリーできてるだけで楽しいんで。ダイジョブっス」
「そっかー。それなら夏休みもよろしくね」
「………ッス」
そんなに長いこと喋ってないのに、裕香が先輩に負けていた。全然走ってないのに、強いボールをフォアにバックにと交互に打ち込まれて、物理的に体をひねくり回されて体力負けさせられていた。
「そろそろ時間っす!コート整備しましょー!」
先輩から指名された次のサークル長が声をかけて、全員がテキパキと撤収を始める。私達はサークルで部活じゃないので、学校ではなく市営のコートを借りて練習をしている。
ブラシをかけて砂を慣らし、ネットの張りを緩めて、得点板を片付ける。ゴミのチェックを終えたら集合して、挨拶。解散だ。
「悠斗センパイ。次は、ガチで、やらせてもらっていいすか」
「おう、分かった」
「じゃーね、夏希ー」
「うん、バイバーイ」
「お疲れ様ッス、白崎センパイ」
「おつかれー」
挨拶を交わして、家の方向が同じ者同士が帰っていく。
最後に残ったのは管理室に鍵を返しに行っていた先輩と、帰り道が同じ私だけ。
「お待たせ」
「いいえ。それじゃ、行きましょうか」
先輩の黒い自転車と、私の青い自転車を並べて走らせる。
先輩の自転車は前も、その前も、いつも黒いフレームだ。夏は熱くて触れないと文句を言っているのに、黒は強そうだからと言う理由でテニスのユニフォームとかも黒中心だ。理由を聞いたのは中学の時だったけど、今も理由は変わってないんだろうか。
帰り道。いつものコンビニで、いつものアイスを買って駐車場の日陰で並んで座る。夕方のひぐらしがうるさくて耳に痛い。
「先輩はまだ、強そうだから黒が好きなんですか?」
「ん?いや、今はもう違うかな」
「そうなんですね。中学の時に聞いたときは、すっごく強いのに子供っぽくてかわいいなーって思ってました」
「俺も、今になって中三男子があんなこと言ってたらかわいげあると思うけど、高三でも同じだと思われてたのか……」
「いえいえ。違うと思ったから聞いたんデスヨ」
「噓くさいな」
「……はい。でも、まだ黒を好きな理由は聞いてみたいっス」
海原みたいだな、と苦笑した先輩と目線が合う。
うっ、何か変だろうか。一応先輩を待っている間に女子トイレで軽く身だしなみは整えたけど、なにせ走り回って汗をかいた後だし、帽子をかぶって日射の下にいたわけで、髪もボロボロだ。
先輩の視線が私の目からそれて、なんか左右上下をうろついている。
「な、何か、変なものがついてますか?」
「いや。変、なものは、ついてない」
「さ、さいですか」
視線を下げてうつむいてしまう。だ、だめだ。なんか顔が赤い。変な雰囲気だ。ひぐらしの鳴き声は強くなって、頭の中が圧迫されそうで、考えがまとまらない。
ふと先輩の手が伸びてくる。大きな手の、大きな影。
緊張にガチガチに固まっていると、帽子を取られて髪をぽんぽんとはたかれた。
「な、なにごとでしょうか?」
「いや。特には。あ、ちょっと虫がついてたな」
「ヒェッ」
女子にはあるまじき声が出たが、仕方ないでしょ!
慌てて髪をバタバタと払って、乱れた髪を後ろで一つに束ねる。帽子を被って立ち上がる。
「先輩。夏の虫はやばいです。はやく帰りましょう。早く」
「あぁ、うん。そうだな……」
なぜか、先輩の声は少し残念そうだった。なぜだ。
週末。あけて水曜日。
昨日が終業式だったので今日は夏休み初日だ。
そして引退する先輩がたの最後の参加日でもある。
だからといって特殊なことはあんまりない。事前に用意したメッセージつきの色紙を、先輩方に配る以外はいつもどおりの部活だった。
進学組で退部してしまう同級生と涙ぐみながら暑い昼日中に抱き合い、先輩方と一通りラリーをする。
後輩たちがそれぞれに試合形式を行って先輩と勝ったり負けたりを繰り返し、一部三年生の中で因縁のある人同士が最後の決戦に臨んでいたりなどした。
私が一年のときの送り出しと違ったのは、最後の最後。今日はこれまで軽いラリーで流していた、荒北悠斗と海原空牙の試合を見るために、全員がコートから出て観客席で見守っていたことだ。
私達は楽しくテニスをするサークルなので、いつもは主審しかつけない。なのに、中学時代に部活をやっていたメンバーが名乗りをあげて副審に線審二人までついている。ガチの公式大会と、同じレベルだ。
2人がネットの前に集まる。先輩がラケットを空牙くんの方のコートに立てる。ラケットを回転させて、柄の柄が上向きか下向きかを当てることで、サーブ権を選ぶのだ。先輩がラケットを回転させる。空牙くんは選択をはずしたようだ。
先輩がボールを受け取って、ベースラインまで下がる。全員が固唾をのんで見守る試合が始まった。
結果は、先輩の勝利だった。
夏休み初日のあの練習から、あっという間に夏休みが半分終わってしまった。
週に二回のサークル活動以外はほどほどに宿題をこなし、ほどほどに遊びに行き、お盆の家族旅行は割とちゃんと行った。箱根はいいところだった。
先輩と裕香とは、スマホで連絡を交わしている。裕香とは毎晩やり取りがあるけれど、先輩とはほどほどの連絡も取れてない。塾の講義の間は当然反応がないし、休み時間は移動や復習や準備がある。朝に送ったメッセージが夕方に帰ってきて、私のお風呂や先輩の帰宅で途切れたら、次は翌朝だ。
正直、かなり寂しい。
サークルの帰り道にコンビニで一回話し込んだほうが、夏休みの会話量よりも多かった気がする。
なので、今日は箱根のお土産を持ってきてしまった。秘密箱というやつだ。中にはメッセージの入った紙を隠してあるが、秘密箱を開けるパズルの手順は内緒である。8手順くらいの簡単なやつだから、そんなにかからず開けてくれるだろう。
先輩がこれを見つけてくれたとき、どんな顔で笑ってくれるだろうか。そんなことを思いながら、駅前で先輩を待つ。
「あれ、夏希センパイ?」
「く、空牙くん」
そしてなぜか、後ろから後輩に声をかけられてしまった。
「こんなところで何を?」
「自分はサークルの買い出しっす。体にいい水を作る粉っス」
「スポーツドリンクね。変な言い方」
空牙くんはいつも真面目な後輩って感じだけど、男の子らしいこういう変な言い回しをする時もあるんだな。なんとなく意外で、笑ってしまう。
「ああ、ごめんね、変な意味で笑ったんじゃないんだよ」
「ウス。自分、もっとジョークを磨きます」
やっぱり真面目系か。そう思っていると、彼の後ろからやってきた数人の男子が空牙くんにまとわりついてきた。
な、なに!?なんなの!?
「お、クーガ、かのじょぉ〜?」
「ちげーよ。センパイ!サークルの!」
「ん?おぉ〜!ほんとだ!ミソラ中の女テニの!」
え、なんで出身校を知られ……?
「なんだ、やるじゃねーの」
「クーガにテニス以外の才能があったんだなぁ」
「テニスをやめたら生きていけんと思っちょったわ」
「おまえらやめんけ!」
「え〜と、空牙くん?」
「スクールのダチっす。今日は買い出しついでにこいつらと遊ぶ約束してて」
なるほど。気のしれた仲だから、空牙くんもいつもと違うのか。
男の子のいつもと違う面を知るのも面白いなぁ。面白がるのは本人に悪いけど。先輩にはどんな一面があるんだろう。
そういえばそろそろ待ち合わせの時間だ。そう思って周りを見回して、私は見てしまった。
先輩の首に手を回して、唇にキスをする裕香を。
唇を離して微笑み合う、見たことのない二人の笑顔を。
恥ずかしそうにしながら、裕香の唇にキスを返す先輩を。
「おー、ありゃミソラの男テニで東海で三位行った先輩じゃん、クーガ」
「えっ?あぁっ!?なっ!!」
「ヒューッ!往来でキスとはやりますなぁ」
彼らの先輩を持て囃す言葉が、ザクザクと刺さる。よくわからない感情が胸の中でグツグツと煮え立っているのに、自分の芯がポッカリと、抜け落ちてしまったかのように空っぽで冷たい。
なんで。なんでなの、裕香。
先輩に対しての恨みごとは出ない。先輩を好きだから?違う。私は先輩になにも、あんな、ああいう、恋、びとのようなことはできなかった。あぁ、私が悪かったんだ、と思った。自分に対して出てきた言葉は「ごめんなさい」だ。
そして、なによりも。私の想いを知っていたはずの裕香に。応援してくれていたはずの裕香に。先輩に女として微笑みかけられている裕香に。心の中で何度も何度も問いかけた。
なんで。どうして。なぜ。どうなったの。
裕香と先輩が離れる。誰かを探す先輩の後ろで、私に気づいた裕香と目があった。
笑うでもなく、嘲るでもなく。彼女は困ったような顔をして、去っていった。
「センパイ。白崎センパイ。ダイジョブですか。フラフラしてますけど」
「ごめ、わたし、かえ……」
「送ります!!」
「あー、俺ら、荷物持って壁んなりますわ」
「これからカラオケって雰囲気でもないし」
「すまん。サンキュ、ケン、ユー、ノリくん」
「「「おう」」」
空牙くんに手をひかれながら、先輩から隠れて、私達はその場を離れた。
彼の友達はみんな優しい子ばかりだ。私の様子をみて、面白がってる場合じゃないと気づいてくれたんだろう。木陰のベンチに腰を下ろす。
空牙くんに挨拶をして、彼らが離れていく。彼は、私のそばに残ってくれた。
スマホにメッセージが届いてぶるっと震える。裕香と先輩それぞれから。裕香の方は無視した。今はちょっと冷静に読める気がしない。
先輩のメッセージは「いまどこにいる?」だ。
どんな顔をして私を探してくれているんだろう。
どんな笑顔で私と会話をしてくれるんだろう。
もしその笑顔が、笑い声が、前と同じであったなら。きっと、私は耐えられない。
気分が悪くなってしまったので、帰ってしまいました。
嘘の返信にも、すぐに気遣うようなメッセージが届く。
二人は付き合っているんだろう。いつからかは分からない。けど、彼女がいても、仲が良い後輩のことは気遣えるのだ、この人は。
「ちょ、センパイ!えーとこれ、使ってください!」
眼の前に何かが突き出される。なんだろう。あぁ、よく見えないのは私が泣いているからか。
このままじゃ空牙くんにも迷惑をかけてしまう。大きく息を吸って、吐いて。それでも涙は止まらない。
空牙くんが、自分の帽子をとって私の頭に深く被せた。
「ご、ごめ」
「謝んないでいッス。悠斗センパイのことも、水浜センパイのことも考えないでいッス。自分のことだけ考えてください。落ち着こうとか無理に考えずに、今自分が考えていることを整理しましょう」
「すごいね、空牙くん……」
「プロのスポーツトレーナーが言ってたやつなんで効くはずっス」
それからしばらく、私は泣いた。泣きながら自分の感情が何かを考えて、裕香をうらんでは立ち戻って、先輩の甘い記憶に縋ろうとしてはまた戻ってを繰り返した。
頭の中はまだ嫌な妄想でいっぱいだ。たった二週間の間に何があったのか。でもその二週間の間に裕香は何かをして、それは……実ったのだ。私が先輩と過ごしてきた四年の時間を、二週間で追い抜くほどの。想像がたやすいようで、無限に嫌な想像がでてくる。
でも、涙は引いてきた。
顔をあげると、空牙くんが飲み物を差し出していた。
「ありがと。あ、お金……」
「センパイ、まじで余計なことは考えなくていッスよ」
「いや、でも後輩にとんだ迷惑を……」
「センパイ、周り見る余裕あります?」
周り?
帽子のつばの下から周囲を覗き回してみると、いろんな人が私を……いや、私を泣かせているように見えるであろう空牙くんを指さしてヒソヒソと笑い合っていた。
顔が一瞬で沸騰した。
「あ、落ち着いてください。今更ですし、気にしてないですし、満更でもないですし」
「まんざら?」
「失言っス。ところで白崎センパイ。あれって二股なんスか?」
「えっ。ごめん、なんのこと?」
「悠斗センパイと、水浜センパイのアレっス。白崎センパイと悠斗センパイって、付き合ってんスよね?」
「……あっ。いいえ。全くそういう事実はございません」
なぜ敬語。
そうか。女子の中では私が先輩に恋をしていることは周知だったし、付き合っていないことは誰しも知っていたと思っていたけど、下級生の間ではそういうふうに見えていたのか。
そりゃそうだ。サークルの度に一緒に帰るし、毎回コンビニでだべるし。いっつもラリーしてるし。そういう風にありたくって先輩にタオルを差し出す後輩というポジションを主張していたのだ。
空牙くんは「なるほど」と呟いて何か考え事をしている。
とりあえずもらったペットボトルのお茶を飲む。どんだけ泣いていたんだろう。私の好きなジャスミン茶だ。ラッキー。
熱が冷えてきたので空牙くんを見上げると、テニスをしているときのような真剣な瞳とぶつかった。肉食獣に襲われているような、緊張してしまうほど真剣な瞳。
そんな瞳を持つ彼が言った言葉を、たぶん私は一生忘れないだろう。
「夏希センパイ。オレ、センパイのことが好きです。センパイのこと好きでいて良いッスか?」
「ごめんごめんごめん。もう私、一杯です。ちょっともうよく分からない」
「夏希センパイ。オレのこと好きですか?」
「ごめん、考えたこと無い」
「今、付き合ってくださいってお願いしたらカノジョになってくれます?」
「ごめん、ムリ……」
「いえ、分かってて聞いてるッス。じゃあ俺が夏希センパイのこと好きだと、キモいっすかね」
「それは無いけど」
それどころか、傷ついた心には私を好きだという言葉は麻薬のようによく染みる。
「良かった。嬉しいッス。じゃあいつか、夏希センパイがオレのこと好きになってくれたら告白するんで、それまでセンパイが好きな俺がそばにいても良いッスかね」
「うぅぅ……良いッス……ごめんもうゆるして」
「はい。ありがとうございます。夏希センパイ」
空牙くんが、スマホをいじっている。
何をしているのか覗き込もうとしたら、すっとしまわれてしまった。
「センパイ。人の携帯を覗きこむのは良くないッス」
「はい、ごめんなさい」
「センパイは無防備っすね。そういうところがかわいいと思います」
「……なんかすごいね、空牙くん」
空牙くんはニコリと良い笑顔で笑って言った。
「夏希センパイにはわざとやってますから。安心してくれてダイジョブっス」
何を安心したらいいんでしょうか。
このあと私はよくわからないまま、いつの間にか呼ばれた親の車に乗せられて帰宅していた。
とりあえず、今までの私の人生で一番衝撃的な日は、こうしてあっという間に私の上を通り過ぎていった。
「何もしないまま夏休みが明けたら後輩に彼氏が」
「実は何もしてないのに先輩にも彼女ができて双方向で失恋する」
がお題でした。