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なろう公式企画

ある夏の終わらない一日

作者: 烏屋マイニ

 戸を開けたとたん、四年二組の教室に、きゃっと短い悲鳴がひびいた。笹姫(さき)は後ろ手で戸を閉めながら、そろって怯えた顔をするクラスメートを、いぶかしく思ってぐるりと見回す。

「なんだ、木津(きづ)か」一番前の席に座っていた男子が、大きなため息をつく。「ミサキさんかと思った」

「ミサキさん?」

「知らないのか?」

 笹姫はうなずいた。もちろん、初めて聞く名前だ。

「本当は七人ミサキって言うらしい。事故とか災害なんかで、いっぺんに七人の人間が死ぬと生まれる幽霊なんだ」

 笹姫は男子をじっと見つめてから、口を開いた。「八人なら、どうなるの?」

「は?」男子はぽかんと口を開けた。

 特に答えを聞くつもりもなかったので、笹姫は彼をほったらかしにして自分の席へ向かった。机の中に教科書やら筆箱やらを放り込んでから、空っぽになったランドセルを教室の一番後ろにある棚に押し込む。そして、それにポツポツ水玉が付いていることに気付いて、窓の外に目をやった。外はどんより曇り空だが、雨なんて降っていただろうか?

 席へ戻って椅子に座り、教室の前方を見れば、先ほどの男子が席を立ち、つかつかと歩み寄って来るのが見えた。笹姫は彼をじゃまっ気に思い、身体をかしげて黒板の横に貼られた時間割に目を向ける。一時間目は国語だ。

「おい、まだ話は終わってないぞ」笹姫の机のそばに立って、男子は言った。笹姫は筆箱、国語の教科書、ノート、下敷きを机に並べ、準備万端整えてから、ようやく男子に目を向ける。「十人ササキの?」

「いや、七人ミサキだって。ってか、増えてるし」

「ああ、そんな名前……だった?」

 男子はしかめっ面をした。「ついさっき聞いて忘れるくらい興味がないってことか」

 笹姫はうなずいた。

「まさか、俺の名前も忘れてるんじゃないよな?」男子は冗談めかして言うが、その口元は引きつっていた。少し間をおいて、笹姫は答えた。「矢神(やがみ)颯太(そうた)

「今、ちらっと名札見ただろ?」颯太は泣きそうな顔になった。

「見てない。ちゃんと、おぼえてる」

「そっか、それならいいや」颯太はほっとしている。ちょろい男子だ。

 そして笹姫はふと思い付き、息を飲んだ。「バーニング木崎」

「誰だよそれ」

「知らない。でも、七人ミサキに、似てる」

「ってか、ぜんぜん似てねえし」

 隣の席の女子が、いきなりふき出した。

「バーニング……」女子は机に突っ伏して震えている。

 さすがの笹姫も、隣の席のクラスメートの名前くらいはおぼえている。何より十人前の見た目の颯太と違い、来山百合(くやまゆり)は美人だから忘れようがない。くせのない黒髪は長く、肌は真っ白で、少しつり目なところは、まるで博多人形のようだ。

 百合はひとしきり笑ってから顔を上げ、細い指で目じりを拭ってからこう言った。「笹姫ちゃん、サンシャイン沼崎を忘れてるよ」

 笹姫は、まるで天からのお告げでも聞いたかのような気持ちになって、百合に人差し指を向けた。

「それな、じゃないだろ」颯太はため息をついた。「学校中がミサキさんの話で盛り上がってるのに、なんでお前たちは知らんぷりなんだ。気にならないのか?」

「そんなことない」百合は眉をぎゅっと寄せて、小さく首を振った。「すごく怖いお話だもの。私は気になるよ」

 笹姫が、ふと辺りに聞き耳を立てれば、確かに誰もがその話題を口にしている。昨日までは、ミサキさんのミの字さえ出ていなかったのに、だ。ひょっとして、自分だけが丸ごと一日を、すっ飛ばして今日に来てしまったのだろうか。

 ふいに教室の前の戸が開かれ、またもや悲鳴が上がる。そこから顔を見せた若い女教諭は、ぎょっとした様子で「なに?」と聞いた。

「先生、早く戸を閉めて!」

 誰かが言って、担任は言われるまま戸を閉めてから教壇へ向かい、いぶかしげに生徒たちを見回す。「一体、どうしたって言うの?」

「ミサキさんが入ってきたのかと思った」男子の誰かが言った。

「ミサキさん?」担任はきょとんとしてたずねた。

「うん、七人ミサキ。事故で死んだ人が七人集まった幽霊で、怖い神様の手先になって人間を呪い殺して回ってるんだって」

「呪い殺された人は、先にいたミサキさんと入れ替わりで、新しいミサキさんにされるの」

「隣の市の小学校で、呪われた子がいたらしいよ。四年生って言ってた」

「ちゃんと閉まってない扉があると、隙間から中をのぞいてくるんだ。それで目が合うと部屋に入って来て、呪いを掛けられる」

「俺は、時速一〇〇キロで追いかけてきて、捕まると七人で取り囲んで呪いのお経を唱えるって聞いたけど?」

「一〇〇メートルを三秒で走るんじゃなかった?」

「それ、絶対に捕まるだろ」

「親指を握って隠せば、ミサキさんからは見えなくなるらしいわ」

「ねえ。時速一〇〇キロと一〇〇メートル三秒って、どっちが早いの?」

 担任は、わいわいと勝手にしゃべりまくる生徒たちを、あきれた様子でしばらく眺めていたが、学活の開始を知らせるチャイムが鳴るなり、両手をぱんぱんと打ち鳴らした。「はーい、そこまで。まず、みんな席に着いて。それから、挨拶!」

 子供たちは自分の席に着いて、日直がいつもの号令を掛けた。「起立、礼、おはようございます」

「はい、おはようございます」担任はにっこり笑顔で応じた。

「着席」

 がたがたと椅子を鳴らして全員が着席すると、担任は出席を取り始め、それが終わると教室はすっかり落ち着きを取り戻していた。

「さて」担任は言って、少し間を置いてから続ける。「みなさんの言う七人ミサキのお話は、実は昔からいろいろな形で日本各地に伝えられて来たものです。中でもよくあるのは水の事故で亡くなった人の怨霊で、さっきもみなさんが言ったように、一人を祟り殺すことで一人が成仏し、殺された人は新しいミサキになって、永遠に七人の亡霊としてさまよい続けると言われています。とても怖いお話ですが、それは昔の人たちが、危険な水辺に子供たちが近寄らないように、わざと怖いお話にして聞かせたものだと先生は考えます。なぜかと言うと、七人ミサキは海や川など、水辺によく現れると言われているからです。最近は暑い日も続き、川辺で水遊びをする子も増えていますから、ひょっとすると誰かのおじいさんやおばあさん、あるいはお父さんやお母さんが、昔の人が子供たちを心配したのと同じ気持ちで、七人ミサキの話をしたのかも知れません。たぶん、みなさんの言うミサキさんの噂は、それが元になって広まったものなのでしょう」

 まあ、そんなものだろうと笹姫は納得するが、他の子供たちは、ムスッと不機嫌な顔をしている。自分たちを怖がらせた話が、まったくのでたらめだと分かったのだから、むしろ先生に感謝してもよさそうに思うのだが。

「もし、そうだとしたら、ミサキさんをやみくもに怖がったり、面白半分で話に尾ひれをくっ付けて話すのは、あまりよいことではありません。どうしてミサキさんの噂が広まることになったのか、みなさんがそれぞれに、よく考えてみてください」

 一時間目のチャイムが鳴った。担任はちらりと時計を見てから教科書を教壇に置いて続けた。「図書室には、そう言った怪談を集めた本もあります。興味のある人は、七人ミサキについて調べてみてはどうでしょう。それでは、授業を始めます」

 先生に釘を刺されたのだから、おかしな騒ぎもおさまるに違いない――と笹姫は考えるが、子供たちはそれほど甘くはなかった。一時間目と二時間目が終わり、中休み時間になって担任が職員室へ戻ると、教室の中は再びミサキさんの話題でもちきりになった。ふと隣を見れば、百合も他の女子と何やら話し込んでおり、やはり会話の中には「ミサキさん」と言う言葉が聞こえてくる。

 百合と目があった。彼女は相手の女子に、「ごめんね」と言って席を立つ。「笹姫ちゃん、トイレ行かない?」

 笹姫はうなずき、百合と連れ立って教室を出た。すると、百合はほっとため息をつく。「みんな、怖い話好きだよね」

「来山さんは、違うの?」

「怪談は苦手かなあ」百合は苦笑いを浮かべて首を振った。「でも、みんなが夢中になってることを無視するのって、ちょっと難しいの。笹姫ちゃんは?」

 笹姫は首を傾げた。ミサキさんの話題を笹姫にふってきたのは、今のところ男子の颯太だけで、彼女が持ち合わせているミサキさんに関する知識は、ほんとうにわずかしかなかったし、そもそも興味もない。怖いか怖くないかを問われても、答えようがなかった。それで結局、彼女はこう言った。「よく、わからない」

「そっか」

 ところが、二人がいざトイレに着いてみると、そこでも子供たちは――と言っても女子だけだが、ミサキさんの話題に夢中だった。しかも、洗い場の前で「怖いねー」と言い合っているのは三年生で、どうやらミサキさんブームは四年二組に限ったものではないようだ。

 トイレを済ませて教室へ戻ると、またもや悲鳴が響く。クラス中の目が一斉に笹姫たちへ向けられるが、彼女たちがミサキさんではないと分かると、クラスメートたちは興味を失った様子でそれぞれの会話に戻った。最前列にある颯太の机は空っぽだった。それもそのはずで、彼は笹姫の机の脇に立っている。颯太は笹姫が席に着くなり口を開いた。「ミサキさんの話について、ちょっと気付いたことがあるんだ」

 笹姫は彼を完全に無視して、机の中から自由帳を取り出し落書きを始めた。それは、彼女が中休みを過す際の、定番の遊びだった。

「なあ、無視するなよー。みんな、俺が言うことにピンと来ないみたいでさ」颯太はしつこく言った。笹姫がなおも落書きを続けていると、彼は首を傾げて自由帳をのぞき込んだ。「チャティちゃん?」

 それは、有名な白い猫のキャラクターの名前だ。女子に人気があり、もれなく笹姫も好きだが、休み時間に落書きするほど夢中ではない。

「違う」笹姫は短く答えた。

「えー」颯太は戸惑った様子で首をかしげた。「それじゃあ、なに?」

「クズリ」

 颯太は目をぱちくりさせた。「なんだ、それ?」

「クズリ……なんで、クズリ」隣の席で、百合がおなかを押さえながら、くっくと笑った。

「すごく強いの」笹姫は説明した。「シロクマも倒す」

「え、こんなに可愛いのに。ひょっとして体長五メートルくらいある?」颯太はぎょっとしてたずねた。

 笹姫は首を振った。「大きくても一メートルくらい」

「そんなので、どうやってシロクマを倒すんだ?」

「木の上から奇襲して、急所を一撃でかみ砕く」

「すげえ。なんか、忍者みたいだな」颯太は感心した様子で言った。

 百合が机を離れて、自由帳をのぞき込む。とたんに彼女はふき出し、その場にくずおれて笹姫の机をどんどん叩き大笑いする。「どうみても、チャティちゃん……なのに、爪だけ、ウルヴァリン!」

「来山さん」笹姫は、さすがにムッとしてクラスメートをとがめた。

「ごめんね、ごめんね」百合は笑いながら謝った。

 笹姫は、ため息をついて颯太に目を向けた。「それで?」

「聞いてくれるのか?」颯太は、お散歩を告げられた雑種犬のような顔をする。

 笹姫はうなずいた。「みんなが夢中になっていることを無視するのは難しい」と言う百合の気持ちが、今さらになって、よくわかった。しかし、颯太が口にしたのは、他のクラスメートたちが口にする、でたらめなミサキさん情報ではなかった。

「ミサキさんの噂が、いつ始まったかわかるか?」

 笹姫は首を傾げた。「今朝、かな?」

「やっぱり、木津もそう思うか」颯太は腕を組んで、うーんとうなった。「俺は、グループ登校の時に上級生がしゃべってるのを聞いたのが初めてなんだ。お前は?」

「私は、矢神から聞いたのが、初めて」

「私は今朝、家を出る前にお姉ちゃんから聞いたの」と、百合。「たぶん、お姉ちゃんはSNSで友達から聞いたんだと思う。朝ご飯中に、お姉ちゃんのスマホがキンコーンって鳴ってたから」

「他の子も、かな」と、笹姫。

「俺も、それが気になって、お前たちがおしっこに行ってる間に、何人かに聞いてみたんだ」

 百合が颯太の頭をばしんとはたいた。

「なんだよ?」颯太は頭をさすりながら抗議する。

 百合はぷいとそっぽを向いた。颯太は首をひねりながら続けた。「とにかく、みんなもミサキさんの話を聞いたのは、今朝になって初めてらしい」

「それって、変」笹姫は颯太の鼻先に指を突きつけた。「矢神も、みんなも、知ってて、あたりまえの顔してる」

「そうなんだよ」颯太はしかめっ面をしてうなずいた。「なんだか、ずっと前から知ってる気がしてさ」

「私もだわ」百合は目をぱちくりさせた。「ひょっとして、集団催眠とか、そう言うの?」

「それはわかんねーけど、俺はミサキさんの話を知らない木津を見て、何かおかしいってことに気付いたんだ。けど、そのことを他のやつらに話しても、ぜんぜんわかってくれなくて」

 ふと窓の方が騒がしくなり、颯太は言葉を切った。そちらへ目を向けると、窓際の席の子供たちが、きゃあきゃあ叫びながら慌てた様子で窓を閉めている。外はいつの間にか雨になっていた。微かに雷鳴も聞こえ、笹姫は傘を持っていないことを、ぼんやりと思い出した。

 チャイムが鳴る。三時間目の開始五分前だ。

「続きは昼休みな」颯太は勝手に約束して自分の席へ戻って行った。


 昼休み。給食を食べ終えた笹姫のそばに、颯太がやって来て言った。「図書室へ行って、ミサキさんについて調べてみよう」

 笹姫は、颯太の顔をまじまじと見つめてから、こうたずねた。「なんで?」

「先生も調べてみろって言っただろ?」

「違う」笹姫は首を振った。「なんで、私」

「いや、それは、なんて言うか」颯太はしどろもどろに言った。

「笹姫ちゃん」百合が見かねて立ち上がり、笹姫の肩に手を置いた。「それはね、あれこれ理由をこじつけて、気になる女子とお近付きになりたいって言う、男子のすけべ心よ」

「ちょっと待て、来山。それは誤解だ」颯太は顔を真っ赤にして言った。そして、笹姫を見て泣きそうな顔になる。「木津も、そこまで嫌そうな顔しなくてもいいだろ?」

「じゃあ、なに?」

「ええと」颯太は少しためらってから白状した。「なんか、怖いんだよ」

 思い掛けない答えに、笹姫は目をぱちくりさせた。百合に目を向けると、彼女もまん丸に見開いた目で笹姫を見つめ返して来る。

「中休みの後で、また何人かに話を聞いてみたけど、やっぱりみんな、今朝になって初めてミサキさんの話を聞いたって言うんだ。それなのに、これがただの噂話じゃなく、本当のことだって信じ切ってる。ひょっとしたら、来山が言ったみたいに、みんな集団催眠に掛かってるのかも知れないし、そうだとしたらまともなのは、学校中で俺たち三人だけってことになるだろ。それって、なんか怖くねーか?」

「わかるけど、それで私たちにどうしろって言うの?」百合はたずねた。

 颯太はうなずいた。「この、ミサキさんについて、みんなが話してる噂話じゃなく、本当のことを調べてみた方がいいと思うんだ。ひょっとしたら、これは七人ミサキなんかじゃなくて、もっと別のなにかなのかも知れない」

 結局、颯太に押し切られ、笹姫は図書室にいた。彼女の目の前の本棚には、UFOだのUMAだのオカルトを扱う本がずらりと並んでいる。こんなあやしげな本、学校の図書室に置いてよいのだろうか? 笹姫は背伸びをして一冊を手にとり、本棚に背をもたれて体操座りでそれを読み始める。

「木津」四、五冊の本を抱えた颯太が笹姫の前に立って言った。「パンツ、見えてるぞ」

 笹姫は颯太をまじまじと見てから、読んでいた本でパンツを隠した。「エッチ」

「だったら椅子に座れよ。ってか、その本、『チュパカブラの秘密』ってミサキさんとぜんぜん関係ねーじゃん」

 おかしな音がして、そちらへ目を向けると、百合が床にへたり込んで肩を震わせていた。「チュパ……!」

 どうやら、彼女が盛大にふき出した音だったようだ。

 笹姫は立ち上がり、言われた通り机に向かってチュパカブラの秘密を読み始めた。

「だから」颯太は笹姫の横に、どしんと本を置いて言った。「ミサキさんについて調べに来たんだぞ、俺たち?」

「でも、気になる」と、笹姫。

「なにが?」

「クズリと、どっちが強いか」笹姫は大真面目で答えた。それを聞いた百合が、声を殺してヒイヒイと笑い出す。「クズリ対……チュパカブラっ!」

「お前ら、真面目にやれよ」颯太はあきれ顔で言った。

 笹姫はチュパカブラの秘密をわきに押しやり、颯太が持って来た本を一冊手に取った。どれも古い怪談を収めた本で、目次を開けばちゃんと七人ミサキの項目がある。しかし、そのページに書かれていることは、教室でみんなが話した内容と少しばかり違っていて、少なくとも七人ミサキに、時速一〇〇キロで走ると言う能力は無いことが明らかになった。

「ねえ、これって」百合が肩越しにのぞき込んで言った。長い髪が笹姫の頬をくすぐり、なにやらいい匂いがした。「吉良親実(きらちかざね)ってお侍さんが、七人の家来と一緒に切腹して七人ミサキになったってあるけど、そうだとしたら八人ミサキじゃないかしら?」

「ああ、それなら」颯太が違う本を開いて指差した。「これに書いてある。偉い神様の先に立って道を開く、手下の神様をていねいに呼ぶと、御先(みさき)ってなるらしいんだ。つまり、キラなんとかさんを、その偉い神様に見立てて、家来の七人がミサキさんになったってことじゃねーかな」

「それじゃあ、みんなが話してるミサキさんの他に、もっと怖い幽霊がいる?」

「たぶん、そうだと思う」颯太は言って、笹姫に目を向けた。「木津は、どう思う?」

 笹姫は首を振った。「わからない」

 耳元に、百合のため息がふと聞こえた。

 突然、校内放送のスピーカーが、がさがさと音を立てた。次いで、男性教諭の声が響く。「児童のみなさんにお知らせします。これから、大雨が予想されています。午後の授業は中止としますので、速やかに下校の準備を始めてください。繰り返します――」

 図書室にいた子供たちは、わっと歓声を上げた。学校が嫌と言うわけではないのだろうが、それでも授業の中止は嬉しいものだ。

 颯太がため息をついた。「ちゃんと調べられなかった」

「また、明日でもいいでしょ」と、百合。「急がないと、置き傘が無くなっちゃうわよ」

 三人が教室へ駆け戻ると担任がいて、下校の準備をする子供たちにあれこれ注意をくれていた。笹姫もランドセルに学用品を詰め込み、教室の戸口に立って担任にさようならを告げる。ランドセルを背負った颯太と百合が駆け寄って来る。

「じゃあな、木津」と、颯太。

「また明日ね、笹姫ちゃん」百合が手をふる。笹姫はうなずき、手をふり返してから二人に背を向け、玄関へと向かった。しかし、廊下を歩きながら、彼女はふと首をひねる。今まで、颯太や百合と、親しくしていたおぼえがまったくないことに気付いたのだ。百合はともかく、颯太など名前すら忘れていたほどだ。

 もし今日の一日で、彼らと友だちになれたのだとしたら、それはまぎれもなくミサキさんのおかげだった。案外、彼らは怖いお化けなどではなく、縁結びの良い神さまなのかもしれない。

 玄関へたどり着くと、そこは下校する子供たちでごった返していた。外では雨の中、傘をさした上級生が手を挙げて自分たちのグループの名前を叫んでいる。学校に備え置かれた傘は当然足りず、玄関口では教頭先生が簡易カッパを子供たちに配っていた。笹姫も靴を履いてから半透明のそれをはおり、登下校グループのリーダーの元へ駆け寄る。

「木津さんは、副リーダーを頼む」リーダーの六年生の男子が、傘を叩く雨音に負けないよう大声で言った。「五年生の子が熱を出して、先生の車で帰ることになったんだ」

 笹姫はうなずいた。副リーダーはグループの一番後ろを歩き、下級生たちが遅れたり列を外れたりしないか見守らなければならない。いつもは五年生の女子がそれを担当しているが、彼女がいないとなれば、次の年長である笹姫がつとめるしかなかった。

 まもなく笹姫と同じグループの一、二年生が集まって来て、いよいよ出発となった。学校は高台にあったから、彼らは長い坂を下って国道へ出た。道路はすでに水浸しで、車は水をかき分けながらのろのろ運転で進んでいる。歩道も水たまりだらけで、笹姫の靴下とスニーカーはあっという間にずぶ濡れになって、ぐちゃぐちゃと嫌な音を立てた。

 歩道橋を渡って国道を離れると、下校する子供たちの姿は笹姫たちだけになった。一行は細い市道を抜け、ほどなく川沿いの道へ出る。国道は川のようだったのに、本物の川はいつもと変わりなかった。

 誰もが一言も口を開かず、お行儀よく一列になって歩いている。その様子を、笹姫はいぶかしく思った。いつもなら、ふざけたりおしゃべりに夢中になって、列がばらけてしまうものだ。なによりも、今日は学校中がミサキさんの話題でもちきりだった。今、誰もそのことに触れないのは、どう言うことだろう。

 笹姫はふいに思い立って、自分の前を歩く子供たちの数を数え始めた。一、二、三……リーダーのランドセルに目が止まった所で、その数は七人になった。

 一行が向かう川の上流の方から、ふと冷たい風が吹いて来た。どぶのような、泥のような、いやな匂いのする風だ。いよいよ不気味に思って、笹姫は足を止めた。声を上げて呼び止めたら、前を行くみんなはどうするだろう。もし彼らがふり返り、それが見知らぬ顔だったら、自分はどうすればいい?

 行く手から地鳴りのような音が響いた。リーダーが足を止め、ふり返って笹姫に無言で問いかけて来る。この音はなんだ、と。しかし、笹姫にわかるはずもなく、彼女は首を振った。下級生たちも互いに不安げな顔を見合わせる。このおかしな状況にあって、笹姫は目の前にいる子供たちが、怨霊でもなんでもないことに気付き、ほっと胸をなで下ろした。しかし、ごろごろばきばきと言う、不気味な音が聞こえて来て、彼女はぎょっとしながら川に目を向ける。水かさがずいぶんと増えており、流れの中には大量の葉っぱや枝が見えた。水は見る間に護岸を駆け上がり、川べりを越えて笹姫たちの足首を飲む。二年生の女の子が流れに足を取られ、転んで水しぶきをあげる。流される女の子を捕まえようと笹姫は手を伸ばすが、その時にはもう水は膝丈を越えていて、笹姫も強い流れに足をすくわれた。白っぽい細かい泡を立てて流れる泥水の中に倒れ込みながら、笹姫は自分の胴回りほどもある木に、列の先頭にいたリーダーがなぎ倒されるのを見た。

 濁流(だくりゅう)の中で、笹姫のすぐ横を、黄色い帽子を被った男の子のおびえた顔が流れて行った。彼を助けようだとか、そんなことを考える間もなく、何かが頭に当たって鈍い音を立てた。次いで暗くなる目の前を木の幹のがさがさした表面がおおって、笹姫の意識はぷつりと消え失せた。


 笹姫は公園に立っていた。リーダーの六年生が、黄色い帽子をかぶった一年生の男の子が乗るブランコを、笑いながら揺らしている。副リーダーの女子がやって来て、「おはよう」とみんなに笑いかける。笹姫は、どんより曇った空を見て、一度傘を取りにもどろうかと考えるが、すぐに二年生の女の子がランドセルを重そうに揺らしながらやって来て、登校グループが全員揃い、リーダーが出発を告げた。一行は通学路を進み、学校へたどり着く。それぞれ自分の下駄箱へ向かい、上履きに履き替えて教室へ向かう。

 四年二組の戸を開けたとたん、教室に、きゃっと短い悲鳴がひびいた。笹姫は後ろ手で戸を閉めながら、そろって怯えた顔をするクラスメートを、いぶかしく思ってぐるりと見回す。

「なんだ、木津か」一番前の席に座る颯太が、大きなため息をつく。「ミサキさんかと思った」

「違う」と、笹姫は答える。

「そうね。笹姫ちゃんは、ミサキさんじゃないわ」百合がやって来て、颯太の席の隣に立った。そして、百合はたずねた。「思い出した?」

「何が?」笹姫がたずねると、百合は小さくため息をついてから、ぱちんと指を鳴らした。そのとたんに教室の子供たちは煙のように消え、笹姫たち三人だけが残った。ずらりと並んだ机には、うっすらとほこりがかぶっている。

「あの後、さ」颯太が言った。「洪水で、町の半分くらいが水浸しになったんだ。家も人もたくさん流されて、ほとんどの人は避難したり引っ越したりしたから、学校もしばらく閉校することになった。今は、みんな別の小学校に通ってる」

「ここに残っているのは、笹姫ちゃんたちだけなの」百合が言った。「もう、みんなを自由にしてあげよう?」

 笹姫は首をふった。「なに、言ってるのか、わからない」

「ほんとに?」百合は首を傾げた。

「図書室で調べたこと、覚えてるか」颯太は席を立って言った。笹姫は首をふるが、颯太は構わずに続けた。「七人ミサキが、ほんとは八人だってことを?」

 笹姫は首をふった。何度も首をふりながら後ずさりして、教室を飛び出した。そうして、廊下を駆けながら、ちらりとのぞいた他の教室もまったく空っぽであることに気付いた。残されているのは、そこにいた子供たちの作品である絵や書写、それと机のわきに掛けられた体操服袋が一つ。きっと、その机の子は、家に帰ってからこっぴどく叱られたに違いない。

 玄関から外へ飛び出したところで、笹姫はやみくもに走り回るのをやめた。そこから見える景色に、彼女は小さく「ああ」と声を漏らした。

 空は真っ青だった。まぶしく光る入道雲も見える。玄関前は、シャワシャワ、ジリジリとセミの大合唱に包まれ、その中に混じるツクツクボウシが、今はもう夏の終わりが近いのだと笹姫に教えた。そして見下ろす先にあるはずの町並みは、あの時の空をおおっていた灰色の雲と一緒に、今はもうすっかり消え失せていた。あるのは泥と流木と、そこかしこに広がる茶色の大きな水たまりだけだ。それは、まったくばかげていて、笹姫は思わずくすくすと笑い出した。一体、自分は何をしているのだろう。いや、何をしていたのだろう。

「もう、わかったでしょ?」背後から声があり、振り向くといつの間にか、百合が立っていた。その隣には颯太もいる。

「あなたたち」笹姫は言葉を切った。『誰』と聞くつもりだったが、二人の表情のない顔を見て思い直した。「何?」

 颯太と百合は顔を見合わせた。

「なんだろうな?」颯太は問いかけた。

「さあ」百合は苦笑を浮かべた。「考えたこともなかったわ」

 颯太はため息をつき、笹姫に向き直った。「俺たちは、木津みたいに迷ってる子供を見つけて、連れて行く仕事をしているんだ」

「どこへ?」

 颯太は首を振った。教えられないとでも言うのか。それとも、彼らも知らないのか。

「さあ、もう行こう」颯太が言って、手をさしのべた。すると百合は、そうするのがルールであるかのように颯太から何歩かはなれ、彼と同じように手を差し出す。笹姫はどちらの手を取ろうかと少し迷って、颯太に向かい一歩ふみ出した。

 すると、辺りはにわかに土砂降りとなり、玄関口から子供たちがぞろぞろと出て来る。それは、あの時、笹姫と一緒に、濁流(だくりゅう)に飲み込まれた登下校グループの面々だった。七人の子供たちは、颯太と百合の間を抜け、笹姫のわきを通り過ぎた。みんな黙りこくり、一列になって長い坂をくだり始める。

 笹姫はくるりと踵を返し、子供たちを追った。「待って」

「木津、行くな!」颯太の声が背中にぶつかってくる。しかし、笹姫は振り返らなかった。彼女は、ようやくぜんぶを思い出したのだ。あれから何日、何ヶ月たったか知れないが、彼女はこれを、ずっと繰り返して来た。みんなを止めるために。みんなが、もうあんなおそろしい目にあわないように。今度こそ、今度こそ――

 子供たちの列に、笹姫は追い付いた。いつもの副リーダーがいない今、このグループを守るのは笹姫のつとめなのだ。その彼女が遅れたのでは、まったく意味が無いではないか。そうして、笹姫を加えた子供たちは、土砂降りの雨の中、お行儀よく一列になって、また長い坂道をくだり続けるのだった。


「あーあ」百合が言った。彼女は颯太に目をやった。「泣いてるの?」

「うるせー」颯太は袖口で目元をぐいと拭い、鼻をすすった。「お前だって泣いてるだろ」

「悪い?」そう言った百合のきれいな顔は、涙と鼻水で台無しになっていた。「私だって、笹姫ちゃんのことが大好きだったのよ」

 颯太はひとつ深呼吸をして、空を見上げた。ばかみたいに白い入道雲があって、辺りはセミの声に包まれている。「次は、ちゃんと連れて行ってやれるかな」

「わからない」百合はポケットからポケットティッシュを出して、ちんと鼻をかんだ。「けど、そうじゃないと悲しすぎるわ」

「そうだな」颯太は両手で自分の(ほほ)をぱちんと叩いてから、玄関へと向かった。すると百合が追い掛けて来て、彼に肩をならべてたずねた。「ねえ」

「なんだ?」

「ずっと、こんな悲しいことを繰り返してる私たちって、あの子たちとなにが違うのかしら?」

「さあな」颯太はまっすぐ前を見つめながら言った。「でも、もしお前があいつらと同じなら、いつか俺が連れて行ってやるよ」

「自分はどうするの?」

 颯太は足を止め、百合を見てにっと笑った。「いい考えがあるんだ」

 百合は首を傾げた。颯太は百合の手を取り、それを顔の前にあげて見せた。「こうしたら、おたがいに相手を連れて行けるんじゃないか?」

 百合は、何度か目をぱちくりさせ、それから笑い出した。彼女はひとしきり笑ってから、一つ頷き言った。「そうね。とても素敵だと思うわ」

「だろ?」

 二人は、手を繋いだまま歩き出した。もちろん、その約束が果たされるのは、まだずっと先だとわかっている。だから今は、自分たちのつとめを果たすしかなかった。この、悲しい夏の日を、終わらせるために。

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