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第弐話 将棋家その2

 ——壱——

 柳雪が振り向くとそこには小柄でずんぐりとした中年の男が立っていた。

 顔色は相当悪く土気色をしている。

 何かにすごく苛立っているご様子だった。


「こ、これは……、お養父上……」


 柳雪は少し極まりが悪そうな顔をする。


 この男の名は大橋分家当主、大橋宗与おおはしそうよという。

 ——柳雪の養父でもあった。


 このとき、江戸期最強と謳われた前名人の第九世名人、大橋宗英おおはしそうえいが亡くなってから、はや十五年が経過していた。

 その間、将棋の名人位は空位のままであり、次の第十世名人位を大橋本家、大橋分家、伊藤家のそれぞれが虎視眈々とその座を狙っていた。


 名人空位の期間が相当長かっただけに、特に最近では幕府高官だけでなく江戸の市中の町民たちの間でもこの噂でもちきりであった。


「お前さん、誰押しだよ?」

「えぇ、私はそうだなぁ、大橋柳雪様かな。だってかっこいいんだもん」


 どこかのアイドルの総選挙のような会話が江戸の至る所で囁かれたらしい。


 それも致し方ない。

 なぜなら、今回の名人候補者は、粒がそろっていたからだ——。


 現時点で次期名人候補者として巷間で名が上がるとすれば、

 ①伊藤家当主「荒差し」伊藤宗看いとうそうかん八段

 ②大橋本家当主「鉄仮面」大橋宗桂おおはしそうけい七段

 ③大橋分家養子の大橋柳雪六段

 の三人だろう。


 おそらくこの中でも、段位、実績そして年齢から順当に行けば、伊藤家の伊藤宗看が筆頭候補になるだろう。

 もちろん本人だけでなく関係者の誰もがそのように考えていた。


 だが——、無理が通れば道理は引っ込むもの。

 柳雪の目の前にいる男、大橋宗与が並々ならぬ執念で抵抗し続けているのだ。


 過去の先例からみても名人位確実と見られた者が他家の調略や抵抗によって結局名人になれなかった例はいくつかある。

 それだけでなく、互いの家が名人候補を出し合い露骨に争った結果、時の将軍がそれに嫌気をさして名人位が約三十年の間空位になったことさえあるのだ。


 最終的に名人位を決めるのは町民たちの選挙投票でもなければ将棋家でもない——江戸幕府の将軍様、「公方くぼう様」なのである。


 醜い骨肉の争いを幕府や世間に晒せば、そのことが将棋家全体に降って帰ってくることも彼らは良く承知していた。

 そこで将棋家の当主は名人候補を将軍に推挙する場合、三家のそれぞれが了承することを不文律としていた。

 そして、あくまで表面上は有効的に交流しながらも、その実情は互いの足を引っ張り合い、おとしめ合うことが横行していたのだ。

 実際に、伊藤宗看が名人候補者だけに許される八段に昇段してから、すでに九年の歳月が経過していた。

 依然として彼はまだ名人についていない。


 前名人の大橋宗英は大橋分家出身の棋士だった。

 歴代名人のなかでも「最強」と評された天才棋士。

 定跡と呼ばれる将棋の常識をいくつも覆した孤高の棋士、人呼んで「鬼宗英おにそうえい」——

 この大橋宗与という男は、この「鬼宗英」の嫡子(長男)であったことから、今回の次期名人推挙にあたって相応の発言力があった。

 大橋本家も伊藤家も前名人の嫡子に配慮して強引に物事を進めることができないのだ。


 もしも、この神経質で嫉妬深いこの男が暴発でもしようものなら——

 名人位はさらに遠のくばかりだ。


 そしてこの男は強欲にも二代続けて大橋分家から名誉ある名人を輩出しようと画策していた。

 その生贄こそがまさに柳雪であった——。

 柳雪はこのままゆけば大橋分家の次期当主となるはずであり、ことによっては名人も狙える立場にある。


 だから宗与は、柳雪が自分の許しを得ずに勝手に他家の門人と対局したこと、そしてその対局がたかが級位者に手こずるような無様な将棋であったことが相当気に食わなかった。

 もしもこのことが周知に晒されれば柳雪の評判は地に落ちて、宗与の計画はとん挫するかもしれない。


「柳雪さん」

「はい……」

「あなた、あたしに無断で他家様の子と勝手に将棋を指すとはどういうことですか?」

「申し訳ございません……」

「困りますよ。しかも将棋の内容もあまりに酷いではございませんか。六段格が一級ごときに角落ちで手こずるなどもってのほかです」

「誠に面目ございません……」

「全く……あなたはいずれ大橋分家の当主となるべき方なのですよ。もう少し自覚を持っていただきたいものです」

「はい……」

「それはそれとして……そこの小童!」


 突然自分が呼ばれて、宗歩はびっくりした。


「は、はい!」

「あなたの評判。最近よぉく耳にしますよ。なんでも『麒麟児』なんて大層な渾名あだなまでもらってからに……ちょっと調子に乗っているのと違いますか」


 これを見ていた周囲の門下生たちが囁きだす。


(ひそひそ……また始まったよ。宗与様の新人いびり……)

(あの人、なんでああなのかねぇ。あれじゃぁ御父上があの世で泣いてるよ)


 わずか八才の子供に対してここまで嫉妬心を露骨に隠さない養父に対して、柳雪はむしろ呆れを通り越してある種の悲しみさえ覚えた。


(この御方は……自分が棋才に恵まれなかったばかりに、将来有望な子供を見るといつも己を見失ってしまう……哀れだ)


 偉大な名人の嫡男に生まれた大橋宗与は、不幸にも将棋の才能に恵まれなかった——。

 これもまた将棋家の家元世襲制が生み出した矛盾のひとつであった。


「あ、あの……」

 

 宗歩がずずいと、大橋宗与の前に食い下がった。


「ちょ、ちょっと……な、なんですか……」

「あの、宗与様。よかったらわたしに将棋をご指導くださいませんでしょうか」


 宗歩の目がキラキラしている。


「……はぁ……? どうしてこのあたくしがあなたと指さないといけないのです。はん! 無礼でございましょう!」


 宗与が手に持っていた扇子を振りかざそうとした。


「ひっ! ご、ごめんなさい。でも分家当主様ならきっと将棋が御強いのだろうと思って……。わたし、少しでも早く将棋が強くなりたいんです! どうかお願いします。わたしにご指導ください!」


 宗歩の目がさらにキラキラしてきた。


(な、なにこの子の瞳は眩しい…眩しすぎる!)


「ッ! ……なんて子なの……もういいわ! さぁ行きますよ! 柳雪さん」

 

 宗与はぷりぷり怒りながらどこかに行ってしまった。

 柳雪も宗歩に優しく微笑みながら、「ありがとう。また将棋指しましょうね」と言って立ち去る。


 この日から、宗歩の桁違いの才能に気づいた柳雪は、折にふれて宗歩と一緒に将棋を指すようになった。

 この秘密の将棋は、いつも大橋本家の屋敷の一室でこっそりと指され続けた。

 宗歩の師匠であった大橋宗桂もこれを見て見ぬ振りをした。


 柳雪もまた将棋家の血を引かぬ天才故に孤独を抱えていたから——。


 宗歩としても柳雪の才能あふれた指し手に惹かれもう一人の師と仰ぎ続けた。

 二十も年が離れた宗歩と柳雪の二人ではあったが、本当の家族以上に絆を深めていくことになる。


 ———だって、将棋は一人ではできないものだから。



 ——弐——

 天野宗歩と大橋柳雪が出会ったその一年後の文政八年(1825年)、とうとう『荒指し』伊藤宗看は第十世名人への就任を決めた。実に十年越しの悲願であった。


 柳雪が宗看に連敗を喫したのである——。


 さすがにこれには大橋宗与もろくな抵抗ができず、そのままの流れで名人推挙が着々と執り行われた。


 そんな新名人誕生の知らせから間もない二年後の文政十年(1827年)五月——

 柳雪は名人候補に許される『八段』への昇段を果たすため、二代目「大橋宗英」を襲名した。

 この襲名披露には、養子の柳雪を大橋分家の正統な跡継ぎとして世に知らしめ、現名人伊藤宗看の次の第十一世名人への布石とする狙いがあった。


 ——「荒指し」の宗看もすでに齢五十七歳、とうに先は知れておるわ。


 宗与はそのように考え、己の計画を修正した。


 ところがその矢先、柳雪が流行り病に罹り、聴力を失ったのだ——。


 将棋を指すのに聴力など要らないと言う柳雪に対し、宗与は冷たくこう言い放った。


「柳雪さん。名人はただ将棋が強いだけではだめなのですよ。数々の御務め、幕府高官との交際、囲碁所との折衝、在野棋士の段位免状など多くの役割を担うのです。だから——」


 耳を失ったあなたは、もはや名人の器ではありません——


 柳雪は、その後大橋分家を廃嫡となり江戸を去ることになった。

 十五歳の宗歩は、このとき初めて将棋家に不審を抱く。


(どうして、柳雪様が廃嫡されないといけないのか。)

(名人とは一体何なのか——)

【宗歩好み!TIP】『初代大橋宗桂』

旧名は宗慶。ライバルは囲碁の初代名人本因坊算砂(当時は将棋と囲碁の両刀使いが多かった)。

算砂VS宗桂戦は全部で八局残っており、宗桂の七勝一敗。

その家紋からバサラ大名の佐々木道誉の子孫とする説がある。

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