第二十四話 異邦人
―—壱――
暗闇の中で異人が独り佇んでいた。
黒い装束に身を包むことで目立たないようにしているが、首より上が異彩を放っていた。
髪は金髪、肌は雪のように白く、鼻が天狗のように高い。
さらに両目が青色であることが違和感を増幅させる。
「紅毛碧眼」
宗歩も太郎松も噂には聞いていたが、異人を見たのはこれが初めてだった。
太郎松は警戒心をあらわにしながら間合いを図ろうとする。
「コンバンワ。天野宗歩サマハ、いらっしゃいマスカ?」
異人がいきなり話しかけながらこちらへ近づこうとしてきた。
「動くな。一体何の用だ?」
太郎松は咄嗟に宗歩の前に立ちはばかり、厳しい目つきで警告を放つ。
すると、異人の背後から背の低い中年の武士がぬっと現れた。
暗くて良く分からなかったが、初めから二人で待ち伏せをしていたらしい。
「待て待て。我らは怪しい者ではない。」
中年の武士が両の手のひらを左右に大きく振りながら慌てて、
「某は中山作三郎と申す。天領長崎の阿蘭陀通詞(通訳)をしておる者だ。」
「幕府の通詞様が一介の将棋指しに何の用だ?」
縄張りを守る獣が威嚇をするように太郎松は同じ質問を投げかけた。
すると、
「Aangenaam kennis te maken!」
異人がいきなり右手を差し出し、宗歩の手をぎゅっと握って激しく上下させた。
白い頬が紅潮している。
「はじめまして、と申しておる。こら、寅吉。天野殿にも分かるようきちんと話さぬか」
「ハイスミマセン。私の名前ハ、平居寅吉デス。宗歩サン、あなたとショウギしに江戸からはるばるやって来まシタ」
くらり――
太郎松が立ち眩みを起こしてふらついた。
(……はぁ?)
(これはだめだ、今回ばかりはぜんぜん話が見えねぇ)
ところが宗歩は朗らかな顔をして、
「私と将棋をですか? 江戸からはるばる? ……それはそれは大変でしたねぇ」
と、何事もなかったかのように感心している。
(おいぃぃ。お前はそれでいいのか!)
「ハイ、そーデス。私、Doeff-Halmaをちゃんと作りまシタ。だからお奉行サマ、約束通り私のこと『自由』にしてくれまシタ」
異人は今までずっと体に溜め込んできた何かを一気に吐き出すようにまくし立てた。
発音の抑揚が少しおかしいのか聞きとりにくい。
「とーふ・はるま? なんだそりゃ聞いたことがねぇ。南蛮の豆腐か?」
「や、その件については少々複雑ゆえ拙者から説明致そう。と、その前に……済まぬが屋敷の中に入れては貰えぬだろうか。なに、決して怪しいものではない」
太郎松が「どうする?」と、東伯齋の方を振り向く。
東伯齋は「まぁしゃあないやろ」と肩を落としながらゆっくり頷いた。
菱湖や錦旗も疲れ果てて眠っている。
このまま道端でやかましくすれば隣近所に騒がれてしまう恐れもあるだろう。
(やれやれ、今日はほんとうにいろんなことが起きやがる)
――弐――
屋敷に戻ってきた一行はそれぞれ支度に取り掛かった。
水無瀬は旦那衆の話に女子供がいては邪魔になると考え、そのまま奥座敷に入っていった。妹たちの寝床を準備し、自分はそこに控えるつもりなのだろう。
東伯齋も菱湖の手を引きながら錦旗を抱き抱え、奥座敷へと入っていく。
玉枝が客人を中の間に通すために行燈に灯をつけた。
宗歩と太郎松は部屋の準備が整ったのをみて、侍と異人を中の間に通して襖をきっちり閉めた。
その後、土間で東伯齋が戻ってくるのを待つことにする。
「よっしゃ、もうええで。話はじめよか」
「役割はどうする?」
「宗歩はんに用があるから。わては横で聞かしてもらうだけにするわ」
宗歩と太郎松が黙ってうなずく。
「またせたな」
宗歩と太郎松が襖を開けて中の間へと入り、客人の正面に座った。
続けて東伯斎が後ろから後を追い、部屋の隅に胡坐をかく。
「いや、こちらこそ夜分遅くにすまなかった。夕刻から待っておったのだが、なかなか帰ってこられぬのでな」
「それはすまねぇことをした。だが、いきなり押しかけてくるたぁ物騒じゃねぇか」
こういうやり取りは太郎松のほうが宗歩よりも手馴れていると東伯齋は変なところに感心する。
「それは重々承知しておる。奥方やお子達にも要らぬ心配を掛けさせてしまったようだ。誠に申し訳ない」
中山作三郎が膝に手を付き慇懃に頭を下げた。
太郎松は、この二人が悪いやつではないらしいと思いはじめ、
「まぁ、とりあえず話を聞こうか」
中山作三郎は「それでは」と言って、自分たちのことを話し出した。
二人は、長崎奉行に仕える通訳人であった。
江戸の将軍家に一冊の書物を届ける役目を終え、帰路の途中に大坂に寄ったそうだ。
その書物の名が、「Doeff-Halma」というらしい。
幕府は南蛮交易を円滑にすべく、数年前からオランダ語辞書の編纂事業を進めていた。
この事業は、オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが私用に作成した簡易辞書をオランダ本国に帰国する際に幕府に進呈したことを契機としていたのだが……。
日本人だけでオランダ語辞書を作ることは至難の業で、その作業は困難を極め、とうとう頓挫してしまったそうだ。
五年前のある夏の日、この異人が九州の漁村に遭難してきたらしい。
鎖国の世であるが、異人が日本に漂着することが全くなかったわけではない。
運が良ければ、長崎にある幕府唯一の海外交易拠点「出島」に送られ、帰国を果たす者もいたそうだ。
この男もすぐさま役人に捕縛され、長崎奉行に通報、出島へ送還されるに至った。
長崎奉行の大草高好は、はじめこの男が密通者ではないかと疑った。
だが、不幸にもこの男、遭難する前の記憶を失っており、名前や出自など全く覚えていなかったそうだ。
不思議となぜかオランダ語を操ることができたので、オランダ商館から本国に問い合わせたものの結局分からなかった。
出自も分からぬ正体不明の人間をオランダ商館もさすがに引き取ることを渋った結果、この異人は長崎奉行のお預りとなってしまったそうだ。
再び海へ放逐することや斬首することも容易にできたが、幸運にもこの時の長崎奉行は機転が効く有能な男だった。
長らく頓挫していた「ドゥーフ・ハルマ」の編纂作業にこの男を従事させてはどうかと画策したのである。
そして五年後……天保四年(1833年)、長崎で日蘭辞書「ドゥーフ・ハルマ」編纂作業が完成する。
約五万語を収録した全五十八巻の大著であった。
「……というわけでござる。なみだなみだの一大事業でござった」
当時の数々の苦難を思い出しているのか、中山作三郎は感慨深く何度も頷いている。
「いやいやいや、だからどうしてその《《異人》》が将棋を指しにわざわざ大阪くんだりまでやって来るんだよ! そこを聞きたいんだよ。俺は!」
「うむ、実はなこの男、オランダ語を話す以外にもう一つ特技があってな」
「特技?」
太郎松は嫌な予感がした。
「将棋が——」
(ああ、やっぱり――)
恐ろしく強いのだ、と通詞は言った。
「……はぁ? なんで、異人さんが将棋なんか指すんや?」
たまらず東伯斎が後ろから突っ込みを入れる。
「我らは同じ釜の飯を食った仲間だ。髪や目の色は違えども心を通わせ、編纂作業に日夜当たっておった。」
中山作三郎は、「今となっては辛いことも思い出」と言わんばかりに微笑みながら寅吉と呼ばれた異人を見ている。
「ある日某が同僚と気分転換に将棋を指すことがあってな。戯れにこ奴にも教えてみると、あれま不可思議なこと、誰も勝てんほど強いのだ」
寅吉が大げさな身振り手振りで、
「私のたった一つの記憶がアリマス。どこか広い場所でたくさんの人に囲まれながら、ショウギを指していました。でも駒の形はちょっと違ってまシタ……」
「なるほど、寅吉さんの記憶を取り戻す唯一の手がかりが「将棋」なんですね」
宗歩が同情をするような目で寅吉の方を見ている。
「そうなのだ。『ドゥーフ・ハルマ』は仏経典に匹敵するほどの価値ある書物だ。いずれ日の本を導く聖書となろう。公方様もいたく評価されておってな。記憶を取り戻すために寅吉がこの国で暮らすことを特別に許された。」
「私、お役目終わったらショウギ三昧すると決めてマシタ。余生デス」
「こ奴はな。将棋のカンピウンになりたいそうだ。そうすれば自分の記憶が戻るのではないかと言っておる」
「か、かんぴうん?」
太郎松がたまらず変な声を出す。
「オランダ語で『王者』を意味する。何故か分らぬが、こ奴は将棋の王者になることを当然至極のごとく考えておる。けったいなものよ」
「王者って……名人のことか」
「左様。ところが江戸の将棋家は異人の入門など前代未聞、決して認めぬと一点張りじゃ」
中山作三郎が悔しそうにどんと畳に拳をつく。
「伊藤メイジン、私の入門ダメといいまシタ。ケチなお人デス」
(当り前じゃねぇか……)
「仕方なく長崎へ戻る途中、せめて寅吉に真剣勝負をさせてやりたいと考えた某は、各地の強豪棋士を訪ね歩いた。そんな矢先、京の在野棋士から興味深い噂を聞きつけたのだ」
――大坂の天野宗歩は名人よりも強い。一度お会いされてはいかがですか。
座敷に再び沈黙が訪れる。
すでに夜深くあと少しで明け方になるだろう。
「あのさ、聞いていいか」
さっきから気になってしょうがなかった太郎松が口火を切って尋ねる。
「なんだ」
「こいつはどうやってここまで歩いてきたんだ?」
この時代、異人が街道を闊歩すれば混乱は避けられないだろう。
江戸からあちこち寄りながらここまでやって来られた理由が判らなかった。
「この者の見た目はちと目立つゆえ、普段は虚無僧の恰好をして世を忍んでおるのだ」
「な、なるほどな……。で、なんで寅吉って名前なんだ?」
「私の髪の毛、タイガーと同じ金色してるからデス。お奉行様が名付けてくれまシタ」
(なんと安直な……それでいいのかお前は)