第二十一話 とある休日(前編)
遡ること約三月前、小林東伯齋の説得もあって宗歩と太郎松は大阪に留まることを決めた。
宿代も馬鹿にならないから、東伯齋の好意に甘えて居候させてもらうことにもした。
二人はこれまで大坂で何をしていたのか?
まず宗歩の方は大坂の在野棋士との交流を深めてきた。
京都の天狗での一件もあってか、大阪での宗歩の前評判は思いのほか高く、将棋好きの商人たちがこぞって指導対局を望んでくるのだ。
その間をぬって宗歩は、三女の菱湖にも熱心に指導を重ねてきた。
日中、小林家の奥座敷で菱湖は将棋盤を前にして何時間も没我する。
彼女の傍にはいつも錦棋ちゃんがいた。
二人の姉が忙しく店を手伝う中、残された二人はこれまでも一緒に時を過ごしてきたからだ。
菱湖の棋力は宗歩の目から見ても日に日に上達していることは明らかだった。
この子に天賦の才があることはもはや間違いないだろう。
だが菱湖は商家の娘だ。
いくら将棋が強くてもどうしようもない現実がそこにある。
太郎松も同じように考えていたのか宗歩に聞いてきたことがあった。
「宗歩」
「どうした、太郎松」
「東伯斎殿は菱湖ちゃんをこれから一体どうするつもりなんだろうな」
「それは……私にはわからないよ。でも将棋家への入門を薦めるのは何か違うような気がするんだ」
「たしかになぁ」
「機会があれば東伯斎殿と相談するよ。ちょっと気になることもあるしね……」
洗心洞での一件以来、大塩平八郎や東伯斎の話を聞き、宗歩にも何か思うところがあるのだろう。
だが太郎松としては、なにより宗歩が楽しく将棋を指していることが一番嬉しかった。
太郎松はと言えば二女の玉枝にしごかれながら商いの手伝いをしていた。
「それはあっちに持っていって」
「あかん、あかんそれはこっちやで」
忙しい店内を取り仕切る玉枝の的確な指示のもと、染料が入った木箱を担ぎながら太郎松は店内を右往左往する。
染物屋での奉公は目が回るくらい忙しかったが、将棋しか知らない太郎松にとっては十分に新鮮だった。
染物屋の職人たちはとても気難しい。
一人前の染物職人になるためには十年以上の修行を必要とする。
そもそも美的感覚など才能も求められる世界だ。
だから彼らは自分たちの仕事に矜持を持っている。
そして何よりも安易な妥協を嫌う者が多い。
まるで将棋の棋士のようだな、と太郎松は思った――
そんな気難しい職人達にこっぴどく叱られながらも太郎松は一つ一つの仕事を確実に覚えていった。
そうして少しずつ仲良くなった職人からこの店のことを聞かされることもあった。
はじめは驚いたが、どうやら東伯斎は染仕事をしないらしい。
彼の役割は染物の商いを取り付けてきて、職人達に仕事を手配することだそうだ。
職人達にもそれぞれ得意分野があるらしく、店で対応が難しいければ他の染物屋に取り次ぐなどしなければならない。
それに代金の集金や新規顧客の開拓など東伯斎はめまぐるしく働いていた。
なるほど、染物職人が技術向上に専念する一方で、東伯斎は商売として儲けるための工夫や仕組みづくりを担っているというわけか。
確かに初めから役割を分けてしまった方が効率がよい。
それに、厳しい将棋の修行を経験してきた東伯斎だからこそ、言葉にできない職人気質を肌で理解できるのだろう。
太郎松はそんなことをぼんやりと考えながら、世の中のことを徐々に掴もうとしていた。
宗歩もまた「江戸の麒麟児」から「京阪の天野宗歩」として次第に棋客としての名声を上げつつあった。
――弐――
夕刻になる前に染物屋の仕事は終わる。
宗歩と太郎松の二人はいつも小林家の面々と広間で一緒に夕餉をとることが多かった。
何よりもそのほうが、東伯斎から世情のことを伺うことができ見聞を広めることができる。
奥州での大飢饉の状況、幕府の対応のまずさ加減、諸外国からの度重なる接触、そして将棋家の行く末を――
そんな矢先。
明日は五十日ということで東伯齋から提案が出されたのだ。
「どうや、あんさんらも一生懸命働いてくれはったし、ご祝儀になんぞうまいもんでも食わしたろかと思ってな。ついでにどっか大坂の観光でもしたいとこあったら言うてみなさい」
ところが二人とも大坂についてあまり詳しくない。
なにせこの三ヶ月間、宗歩も太郎松も遊ぶ余裕なぞなかったからだ。
二人が正直にそれを伝えると、
「なんや、しょうもないなぁ。そしたらうちの娘たちに聞いてみよか」
と東伯齋がぼやく。
東伯齋は水無瀬さんを除く三姉妹のことを「娘」と呼ぶ。
彼女たちは東伯齋の実の娘ではない。
三年前に流行り病でこの世を去ったこの店の先代の主人とその奥方の子供たちだ。
先代の二人の最後はあまりにもあっけないものだったらしく、残された四姉妹は途方に暮れてしまった。
そんな中で水無瀬さんと結婚し婿入りしたばかりの東伯齋が、苦境にあった自分を拾ってくれた先代に強い恩義を感じ、この染物屋を継ぐと同時に玉枝、菱湖、錦旗を養女にしたそうだ。
自分が義父となり彼女たちをきっちり育て上げる、そうした強い信念を持って。
だから彼は三人のことを「娘」と呼ぶ。
「よっしゃぁ。ほなまずは……一番下の錦旗ちゃんからやな」
「はーい」とほっぺたにご飯粒をつけた錦旗が可愛らしい声で返事する。
「おまさんは宗歩はんとどこに行ってみたい?」
錦棋は少し首をかしげながら考えて、
「そうふさま、わっちはまっちゃ町におかしを買いにいきたいでありんす」と答えた。
松屋町は菓子問屋が連なる問屋街のことである。
「錦旗ちゃん、お菓子とは可愛らしいねぇ。」
東伯齋は錦棋にいつも『めろめろ』だ。
「ほな菱湖、あんたはどうや?」
東伯斎が菱湖に水を向ける。
「ぼ、僕は宗歩様と将棋ができるなら……どこでもいい……かな」
菱湖はいつも健気で一途だなと宗歩は感心した。
「あんたはほんまに将棋熱心やねぇ。じゃあ、玉枝はどっかいきたいとこあるか?」
玉枝は腕を組みながら真剣に考えているようだ。
「うーん、そやなぁ。宗歩様、うちは難波の見世物小屋に行きたい。あたし前から猿回しが見たかってん」
「よしよし、では最後は水無瀬やな」
水瀬さんはなんだか艶めかしい様子で宗歩を誘う。
「宗歩様、あたしと四天王寺さんにお参りしてみいへん?なんやったら帰りに出会茶屋で休憩してもええよ」
『え!』
太郎松と東伯齋の裏返った声が同時に重なる。
もちろん宗歩は意味を理解していない。
「じょ、冗談やんか、あんた本気にせんといてや」
水無瀬さんが目をパチクリさせて、東伯齋の肩をバシッと叩く。
「お、おう……。せ、せやな!まぁ、これで全員出揃ったけど、ばらばらやなぁ……宗歩はんどうしましょか」
困った顔をしながら東伯齋が宗歩の方を振り向いた。
さて、どうしたものか……
先ほどから深く思案に暮れていた宗歩が突如はっと顔を上げた。
「わかりました。では松屋町の問屋街でお菓子を見繕いましょう」
錦棋が「やったぁ」と飛び上がって喜ぶ。
ここは一番年少者の意見を尊重するのが無難であろうということか。
「そのあと――」
と、突然宗歩が話しを続け出した。
「松屋町筋を南下し突き当りの四天王寺にお参りいたしましょう。できれば近所のお茶屋で昼餉が取れると良いですね。」
水無瀬さんの顔がぱっと明るくなった。
だが、宗歩の寄せは止めをしらない。
「しかる後には逢坂を下った先の難波新地の見世物小屋に寄ります。」
普段はしっかり者の玉枝が子供のようにはしゃぎながら喜んでいる。
「菱湖さんとは道中、目隠し将棋をいたしましょう」
最後まで心配そうな顔をしてた菱湖の顔がほころんでいる。
太郎松は思った。
(ああ、宗歩よ――)
(お前は彼女達全員との契りを結ぼうとしているのか……)
(なんてやつだ!)




