第十九話 錦旗
――壱――
こうやって二人で練習将棋を指すのも何回目になるだろう。
最後は私がいつも勝つけれど、彼の序盤の差し回しには目を見張るものがいくつもあった。
その指し手から彼が古今東西の戦法に精通し、最新の棋譜についても把握していることが窺い知れた。
だから、感想戦はいつだって序盤ばかりに集中してしまう。
「この手は?」
「ああ、それは過去に指された手です」
「じゃあ、この手なら?」
「それも実例が三局ほどありますね。すでに対応手が発見されています。これです」
驚いた――
この少年の頭脳には過去のあらゆる棋譜が整理され整然と詰め込まれている。
そして、その棋譜をいつでも棚から取り出すことができるのだ。
「すごいじゃないか」
「単に記憶しているに過ぎません」
「そんなことはない。丸暗記でなく棋譜を深く理解している」
「しかし、私は新手を編み出すわけでもなく、詰め物も不得手です……」
確かに真剣勝負ともなれば、棋譜を覚えているだけで勝つことは難しいだろう。
将棋の可能性は想像もつかないほど無数にあるから、中盤以降はどうしても未知の局面に遭遇するからだ。
結局そこからは自力で知恵を振り絞らなければならない。
だが、これはこれで一種の「棋才」と呼んでも良いのではないだろうか。
膨大な棋譜を緻密に分析し、そこから理論を抽出し体系へと構築する能力――
「分析者」とでも呼ぶべきだろうか。
「私は……名人が残した棋譜を書物にして世に知らしめたいのです。そのためにあらゆる棋譜を検討しその上に父の偉業を後世まで残したい。《《それが名人の子として生まれた私の務めではないかと考えているのです》》」
ずっと俯いていた彼が顔を上げる。
その眼からは強い意志のようなものを感じ取れた。
「立派な夢ではないか。《《宗与殿》》。では私はお主の父殿を打ち負かし、名人を目指すことにしよう」
「貴方様ならきっと果たすでしょう。伊藤宗看様――」
――弐――
俺と菱湖との対局が決着したのをきっかけに玉枝と錦棋ちゃんも座敷へ入ってきた。
どうやら部屋の外で勝負の行方を二人で見守っていたらしい。
玉枝はすぐに菱湖の傍に寄り「大丈夫か」とやさしく気遣った。
錦期ちゃんも姉の様子に不安そうだ。
「菱湖、大丈夫かえ?」
「……うん、大丈夫ちょっと疲れただけだから」
錦旗ちゃんはそれでも心配なのか菱湖の手をぎゅっと握りしめて離そうとしない。
東伯齋が突然立ち上がって、こちらを睨みつけるようにして言い放つ。
「ほな、二人とも五日後の夜に儂と付き合ってもらうで」
「一体どういう用件なんですか」
宗歩がたまらずに聞いた。
「なぁに簡単なことや。天満で月に一度の将棋の催し物があってな、儂はその取りまとめをやっとる。」
「将棋の催し物……」
「大坂の町衆から農家まで大勢の人間が将棋を見物しにくるんや。その催し物にあんたらにも登場してほしい思っとる」
「なんだ。それならそうと初めから言ってくれたら」
俺がほっとため息をつく。
「あんさん、初めにそれ言うたら菱湖と真剣勝負をせえへんと思てな」
あ、なるほどね。確かに。
宗歩に聞いた話では将棋家の面々も全国に出張して在野棋士を相手に指導対局を行うことがあるらしい。
ただし、この普及活動はどちらかというと在野棋士に将棋家の権威を見せ付け畏怖させることと地方の有力者に財政支援を求めるような狙いがあって、宗歩は好きではなかったそうだ。
「それまでは適当にしてもらってもええで」
それだけ言い残すと東伯齋は部屋を出て行ってしまった。
将棋の催し物っていったい何なんだ……
東伯齋と入れ替わりに水無瀬さんが部屋に入ってきた。
「皆さん大変お疲れ様でした。夕餉を作りましたので宜しければ食べてってください」
「それがええわ。そうしいな」
「わっちもうれしい」
「ぼくも…」
そういうことで俺たちは小林家の晩御飯にお邪魔することになってしまった。
なんだか変な展開になってきたな……
―—参――
そして……五日後の夜がやってきた。
俺達は東伯齋の屋敷を再び訪ねてそのまま彼と一緒に天満まで歩く。
1時間ほど歩き続けたら、がやがやと人だかりができている大きな屋敷が見つかった。
「ここは……」
「洗心洞といってな。まぁ私塾や」
東伯齋はさらりとそれだけ言って、すいすいと人混みを切り分けて進んでいく。
武家屋敷を大幅に改築した建物で中に道場のようなものが造作されているらしく、玄関口からそのまま大人数を収容できるようにしてある。
「こっちや」
東伯齋に案内され屋敷の裏口に回ると、この家の者と思わしき下男が待っていた。
「小林先生、毎度おおきに。お待ちしておりました」
その男は流暢な話し方で俺たちをそのまま裏口から屋敷の中へと通す。
そうして道場の裏側にあたる控えの間でそのまま待機するよう言われた俺たちは暫くじっと待っていた。
「ここはな、普段は陽明学っちゅう学問を教える塾なんや」
「その塾でどうして将棋をするのですか」
宗歩がもっともな質問を東伯齋にぶつけた。
こいつは本当に素直でよろしい。
「まぁ、息抜きやな。ここの塾は普段は相当厳しいからな。それだけでは民の心は掴まれへん。たまには娯楽も大事っちゅうことや」
他にも上方落語の寄席なども行われることがあるらしい。
娯楽に厳しい昨今のお上の風潮を考慮すれば、こういった目立たない工夫をすることも必要ということなのだろう。
そんなことを喋っていると、道場のほうがなにやら騒がしくなってきた。
「さてみなさん、大変お待たせしました。毎月恒例の将棋振興会の始まりでございます。なんと本日ははるばる江戸から有名な先生をお招きしております」
先ほどの下男が道場の中で一つ分高くなっている高座の側に立ちながら聴衆に向かって口上を述べ出した。
だれや、だれやと観客からはヤジが飛ぶ。
「かの将棋家で『麒麟児』と謳われた大橋本家の天野宗歩先生と《《その門弟の》》市川太郎松先生です」
俺は勝手に宗歩の弟子にされてしまった。
おお、と観客がどよめきだす。
「では先生方、どうぞ」
パチパチパチ
俺と宗歩が観客の拍手を受けながら高座の真ん中に立つ。
「ど、どうも皆さん、は、はじめまして。天野宗歩です」
宗歩が滅茶苦茶ぎこちない挨拶をする。
そこに大橋本家五段格の威厳は……全くなかった。
緊張しすぎやがな! と誰かがツッコミを入れると、がははと周りも笑いだす。
ま、まずい宗歩がもう泣きそうだ。顔が真っ赤になっている。
こいつはもともとこういった場所に慣れていない。
俺は堪らず救いを求めて東伯齋の方を見る。
東伯齋も腹を抱えて笑っていた——
く、くそぉ……奴は俺たちを笑いものにする気か。
卑怯卑劣なり小林東伯齋!
「さて、まずは天野先生には『大阪名人』であらせられる小林東伯齋先生と一局指していただこうと思ております」
な、なにぃ。公開対局だとぉ。
司会の男がそう言うと数人の下男がやってきて、あっという間に高座に将棋盤と座布団が用意された。
「では天野先生、小林先生、ご準備をお願いします」
突然の対局宣言に動揺しながらも盤の前に座ればさすがは麒麟児、落ち着きを取り戻したようだ。
『よろしくお願いします』
二人が呼吸を合わせて頭を下げる。
さすがにうるさかった観客もこのときばかりは静まり返っている。
△3四歩、▲2六歩、△5四歩、▲2五歩、△3三角、▲4八銀、△5五歩……
小気味よく二人はどんどん指し続ける。
そのとき、
「はい、ではお二人ともそこで止めて!」となぜか司会が対局を止めた。
なんだ、一体何が起きたんだ……。
「では皆さんここで天野宗歩先生の次の一手を予想してみましょう」
はぁ?
よ、予想って……なんじゃそりゃ。
勝手を知っているかのようにわいわいと皆が相談をし始める。
宗歩も相当困惑しているようだ。
「候補手は三つに絞りましょうか。それでは市川先生、候補手を二つお願いします。三つめは『それ以外』としますので」
いきなり振られた俺は、取りあえず俺ならこう指すだろうという手を二つほど告げると、下男たちが大きな紙に筆でそれらを書き出し壁に張りつけた。
「さぁ皆さん、どの手が次の一手かご投票を願います!勝ち残った方だけが次の問いに進めますからね」
どうやら参加者の中には将棋に詳しくない女や子供達も混ざっているようだ。
なるほど、こうすれば棋力に乏しい者であっても十分楽しめるという訳か。
そういやぁ、子供のころ俺が縁台将棋を指してたら、後ろで親父さんたちがああでもない、こうでもないってみんなで楽しそうに話し合ってたなぁ。
この後も何度かそういったことが繰り返され、対局はとうとう終局に近づいた。
宗歩が、▲5八銀と指したところで東伯齋が「ありません」と頭を下げる。
その瞬間、観客が二人を讃えて盛大な拍手をする。
なんだろうこの一体感は。
初めて感じる感覚だ。
「天野先生、小林先生ありがとうございました。さてお次の演目は市川太郎松先生と参加者のどなたかで対局を行いますよ。なお、市川先生の方は『目隠し将棋』でお願いします」
なぬ。
目隠し将棋とは盤面を見ずに符号だけで指す将棋をいう。
俺や宗歩ぐらいになると造作もなくできるのだが……
突然、横にいた東伯齋が小声で俺に囁く。
(ええな、途中で手を抜いて負けるんやで)
な! なんだとぉ。そんないかさまを……
(一晩付き合うっちゅう約束やろ)
ぐぬぬ。
「おっと市川先生、そこに飛車を進めるとタダです!これはあきません。あーっとやっぱり飛車をタダで取られてしまったぁ」
司会の饒舌な解説に、観客が腹を抱えて笑いだす。
自分の将棋は真剣勝負であって殺し合いに等しい。
決して見世物などではない。
そんな抵抗感が最初はあったが俺はふと思い出した。
子供のころ近所の親父たちと将棋を指していたころだ。
彼等は駒の動かし方すら覚えたての俺にわざと手を抜いて勝たせてくれた。
ああ、将棋って楽しいなぁ――
そんな素朴な感情が芽生えたのをはっきりと覚えている。
いつの間にか賭け将棋に揉まれて生活の糧となってしまったが、
あのときのように俺は将棋の本来の楽しさを思い出した気がした。
将棋は勝ち負けを競うものではなく、単純に娯楽として生まれてきたはずだ。
なのに俺たちはいつの間にか必死になって勝ち負けに拘っていたのかもしれない。
そうして会合が終わると観客はそろぞろと帰っていった。
「楽しかったよ。ありがとう。お兄ちゃん」
と嬉しそうに話す幼い男の子の顔が、俺の頭からいつまでたっても消えてくれない。
俺と宗歩が茫然と立っていると、そこに一人の初老の大男がやってきた。
「本日はこのような下々の催し事にご参加いただきありがとうございました。お二人の奮闘ぶりをとくと見させていただきました。」
大男はそう言って、深くお辞儀した。
「初めまして。私は大塩平八郎と申します。この私塾の塾頭を務めております」
――四――
会合が終わって俺たちは大塩平八郎様の部屋に通された。
「宗歩はん、太郎松はん、儂はねこの大塩先生のお話しを聞いて、これまでの将棋家のやり方に疑問を感じているんや」
東伯齋が大塩平八郎の方を見ながら話し出す。
「大塩先生は町奉行所の与力として幕府の腐敗をこれまでぎょうさん正してこられたそらどえらい先生や。今も全国で起きている大飢饉を大層気に病まれて、お奉行様に支援米を配給することを具申されておられるんや」
「小林先生、その件は……」
「ああ、そうですな。すんまへん」
東伯齋がすぐに頭を下げる。
「宗歩はん。儂はね、大橋分家を破門された後、江戸からこの大坂に流れ着いてきて遠縁の商家に拾われたんや。たまたまそこの主人が儂のことをいたく気に入ってくれてな、『娘の婿にならんか』と言ってくれたんや」
東伯齋はこれまで見たことないほど優しい目をして宗歩に話しかける。
「それからや。将棋しか知らへんかった儂は必死に商売の勉強をした。世の中のこともぎょうさん勉強したで。それでな、ますます将棋家がおかしいと思い始めたんや」
「し、しかし将棋家は由緒ある幕府のご意向の元で……」
「その幕府がなくなったら、名人は一体どうなるんや」
ば、幕府がなくなるだと……そんなことこれまで一度も考えもしなかった。
宗歩も同じように衝撃を受けている。
困惑している俺たちに大塩平八郎が語りかけた。
「天野殿、市川殿。今、世の中は激しく動こうとしています。これまでの常識が常識でなくなるような時代がもうじきやってくるでしょう。その時に『将棋』というものが世の民にとって必要とされるものかどうか今一度真剣に考えてみて欲しい」
「世の民のためですか?」
「そうです。公方様のためでも己のためでもない、世の人々のためにです」
「儂はね。威張り通して有難がられる将棋はもうあかんと思うんや。今日の催し事みたいにみんなで笑って面白がって、また明日頑張ろうって元気を与えるために将棋はあるんと違いますか、なぁ宗歩はん!」
東伯齋が宗歩に食い下がる。
「皆さんに元気を与えるような将棋……」
「そうや。技芸ってもんは本来人々に感動を与えるもんちゃいますやろか」
「感動を与えるもの……」
宗歩がうつむいてぶつぶつと何かを呟いている。
「まぁまぁ、小林先生。いきなり捲し立ててても混乱するでしょう。どうですか天野殿、暫くここ大坂に滞在されてみては。小林先生のもとで江戸と違う空気を吸うことであなたも何か感じることがあるでしょう」
「そうや、それがええわ。宿代は気にせんでええで。儂の家におったらええ。丁度男手も欲しかったところやし、店を手伝ってもらうのと、菱湖の指導をしてもろたらそれでええよ。あの子は不憫な子でなぁ。将棋の才能はあるけれど体が弱いから、儂としか将棋を指したことがないんや。お二人に鍛えてもろたらあの子にとっても幸せなことやから」
「わかりました」
「お、おい、宗歩! 将棋家の役目はどうするんだ!」
俺は咄嗟の宗歩の返事に慌てた。
「太郎松。私は今日皆さんと将棋をさせてとても楽しかったんだ。たぶん太郎松もそうだったんじゃないか?」
「……」
「私は小さいころから将棋家に入門して厳しい修行に耐えてきた。すべては名人になるためにだ。でも名人になれないと知ってから自分は一体何のために将棋を指しているのだろうと考えることが多くなってきたんだ」
「宗歩……」
「子供のころ太郎松と一緒に将棋を指したあの頃、二人で近所の親父さん達の目を丸くさせてけらけらと笑い転げてたあの頃。将棋ってたのしいなぁって思っていたあの頃――」
「私は、あんな風にもう一度将棋が指してみたい」
そこにいたのは俺の知らない宗歩だった。
将棋に負けて泣いていた弱々しい少女でもない。
将棋家の言いなりになって人形のように心もなく将棋を指す少女でもない。
自分の意思で歩いていこうとする強い女性がそこにいた。
【宗歩好み!TIPS】『駒書体「錦旗」』
将棋家に残されていた、能書で知られる後水之尾天皇の書体を元に開発された駒書体。
御名を直接駒に用いることが憚れたため、「錦の御旗」という意で名づけられたという。
素朴で飽きがこない書体で、駒字は「錦旗に始まり、錦旗に終わる」とも言われる。